短編小説『沁みついてんじゃねえか』
午前七時のアラームより少し前に目が覚めると、隣に里帆は居なかった。
どうりで今日は冷えると思った。そして何か冷たい……?左腕が少し濡れていた感触があった。それをスウェットの袖でゴシゴシしながらトイレに行くと、洗面台の鏡に、真っ赤な口紅で大きく「バカ」とだけ書かれていたのを見つけた。
「……最後まで面倒くせえ女だったな」
ため息がバスルームのタイルに反響して、妙に大きく聞こえた。
俺は蛇口をひねって濡らした指で、薄いピンクの文字の輪郭をゆっくりとなぞった。薄汚れてぼやけた鏡に映る、寝癖と無精髭男にはピッタリの言葉で、俺は自嘲気味に笑った。
——彼女と初めて会ったのは、雨の降る夕方のコンビニだった。
俺はどんよりとした夕暮れの曇り空を見上げて、買ったばかりのタバコを握りしめて立ち尽くしていると、店から出てきた小さくて若い女が、コンビニ傘を無造作に差し出してきた。
俺が戸惑っていると「これ、あげる。どうせ私、すぐ帰るし」ボブカットを揺らして、ぶっきらぼうに告げた。嗅いだことのない香水の匂いと、女にしては低めの声が妙に印象に残った。
「これ……どういうことだ?」
「いや、別に……」
「別にって何だよ?」
「いいから、黙ってもらってくれない?」
傘を差し出したまま、目も合わせずに女が言う。
「待てよ、初対面でそれはおかしいだろ?」
「もう、だから——」
それから俺たちは名前も知らないまま、コンビニの軒先でニ十分くらい喋った。好きなタバコの銘柄の話、嫌いな上司の話、最近観た映画の結末を友達にネタバレして怒られた話——
「ねえ、また会える?私、里帆」別れ際、唐突に名乗った。
「ああ、俺は和泉。また会えるかどうかは……わかんねえ」
「へええ、乗っかってこないんだ。ウケる。じゃあまたね、和泉」
里帆はそう言って、雨の中を去っていった。
——それから何度か、そこのコンビニで里帆と逢うことが続き、どちらともなく付き合い始めることになった。彼女なんて数年ぶりだった。
ただ、何故か前の女ほど気分は乗らなかった。それがかえってクールだと年下の里帆の目に映ったようだった。
そして付き合ってみると里帆は、予想以上に面倒くさかった。
LINEの既読が三時間つかないと「和泉、死んでる?」とスタンプが送られて鬼電してくるし、いっつもタバコ臭いよねと、俺の服に勝手に強い香水をつけまくる。
部屋に来るようになってからは、ちょうどよく散らかしておいていたリビングを「子供じゃないんだから」と文句を言いながら勝手に片付ける。
ケンカした時は里帆は決まってこう言った。
「もっとマシな彼氏してよ」
俺は冷めた目のまま、黙って煙草をふかすことしかできなかった。
「そんな理想の彼氏みてえな生き方……俺はできねえんだ、悪いな」
「……バカ」
——そんな日々のなか、当然のように別れはやってきた。
里帆が少しずつ荷物をまとめているのには気づいていた。その日は俺の部屋で夕飯を一緒に食べて、特に話すこともなく過ごした。
「……明日、俺早えから」
「あ、そう」
その会話だけして、そのまま一緒に寝た。
お互いの体温を肌で感じてはいたが、どこか冷たさも感じていた。なかなか眠れずにいたが、暗い部屋の中で何も言わなかった。
里帆がぽつりと小さく言った。
「……和泉さ、結局、私のこと好きだった?」
暗い天井を見上げたまま、耳がうるさいほどの長い沈黙が訪れた。
問いかけは聞こえてはいたが、結局、俺は答えられなかった。
里帆は自嘲気味に小さく笑った。
「……いい。まぁ、そういう顔してるからね。わかりやすいのも罪だわ」
それが、俺に聞こえた里帆の最後の言葉だった。
その後も沈黙が続いていたが、しばらくして里帆の寝息が聞こえてくると、俺もその髪の匂いに安心し、いつしか眠ってしまった。
——あ、やっぱり里帆が側にいて、俺は安心していたんだな。
「今さら気づくんじゃねえよ……」
俺は洗面台の前に立ったまま鏡の「バカ」を指でなぞり続けていた。もう半分くらい水で滲んで薄くなってきていた。この文字の跡も、里帆が最後に残した体温も、そのうち全部、消えてしまう。
俺はもう一度、深く息を吐いた。
「最後まで、ほんと面倒くせえ女だったな」
鏡の中の俺は、苦笑いしながらもう一度呟いた。
でもその声は、どこか優しかった。
里帆の残した「バカ」が、今だけは、ちょっとだけ愛おしく見えたから。
俺はひび割れた画面のスマホを手にとり、たどたどしくLINEのメッセージを打ち始めた。
——が、「やっぱ違えか」
メッセージを未送信のままアプリを閉じた。スマホをソファに放り投げて軽く咳ばらいをすると、換気扇の下でタバコに火をつけた。
俺は苦笑いした。
「……んだよ、沁みついてんじゃねえか」
了
今回はこちらの企画に参加させていただきました。
#風まかせ文芸部 #未送信
