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《Lounge Noir》Episode 12:『男たちの1日 -太客編-』【1/4】

ーー午前六時。ハセベは毎朝のルーティンである、新聞の詰将棋を解く。

コーヒーと詰将棋。そのどれもがぴたりと揃って、ようやく彼の朝は立ち上がる。

アマチュア五段の棋力を持つ彼にとっては、今日の問題はやけに素直な配置だったが、「実戦でこれが見えるかどうかはまた別」と独り言ちる。

カーテン越しに差し込む朝の光が、切り抜いた古い雑誌の一片を照らしている。
色褪せたそのページには、“詰将棋佳作・ハセベ”という名前が印刷されている。
いまでも財布に入れて持ち歩いている、ささやかな自慢だ。
 

午前中は、自営の物件管理の打ち合わせ。午後は知り合いの店のメニュー改訂の相談に顔を出し、ついでに小学校から帰宅してきたその店の子供と一局手合わせをする。

最近は将棋関連のスマホアプリも充実していて、「羽生世代」の彼にとっては、今の将棋を楽しむ子供たちが羨ましい限りだ。

そして銭湯に寄ってから自宅に戻り、将棋の本を読み耽る。

ハセベは「元証券マン、今地主」という肩書きで生きてはいるが、自分の正体は“将棋好きのおじさん”に過ぎないと思っている。

ハセベの尊敬する棋士は、同世代の藤井猛九段。

大胆で緻密、前例に囚われず、まったく新しい発想で時代を塗り替えた天才。

《藤井矢倉》、《角交換振り飛車》、そして何より──《藤井システム》。どれも彼にしか思いつかない。

――将棋を創造できる人間ってのは、ああいう人のことを言うんだよな。

そういう意味で、藤井猛は唯一無二の存在だと、ハセベは思っている。

ハセベ自身も振り飛車党。

四間飛車が好きで、対抗形が好きだ。

そして急戦より持久戦を好む。

真似をしようとしたところで、《藤井システム》は難しすぎる。

序盤から緻密な構想が求められ、タイミング次第では一手指し間違えただけで即座に形勢が傾く。
美しいが、真似できるものではない。

「……でもな、美月ちゃんの接客は、なんか、あれに似てるんだよな」

初めて美月を呼んだ夜、ハセベは少しばかり驚いた。

物腰の柔らかさ、言葉選びの繊細さ、沈黙の間合いの取り方──
何もかもが“丁度いい”。

これが高級店というものか、とも思ったが、それだけでは説明がつかなかった。

美月の接客は、決して決まりきった「型」で攻めてこない。

こちらの体調、心理、迷いまで見透かしたような対応を、その時々で繰り出してくる。

そう、それはあたかも──

《藤井システム》のようだ。

まずは静かに飛車を振るように、無理なくこちらの空気に寄り添う。
――そして、すでに終盤を見据えた構想が始まっている。

油断させたところで角道がふと開き、気づけば端歩を突かれているような──。
しかも、どの一手も無駄がない。

ただそれらは、きまり一辺倒な定跡通りの手順ではなく、すべて“こちらの指し手”に応じて変化する。

この“対応の柔軟さ”こそが、システムと呼ばれる所以。

「……まるで、リアルタイムで構築される“美月システム”だよな」

しかもそれを、当たり前のように、自然体で指しこなしている。

「俺にはとても真似できん……」

将棋には「好手(こうしゅ)」という言葉がある。

最善手とは限らないが、美しい一手。気が利いた一手。局面を明るくする一手。

ハセベにとって、美月と過ごす時間は、まさにそれだった。

「今日は、なんかいいことありました?」

シャワーを浴びた美月がハセベに問いかける。

「うん? なんで?」

「いや、さっき、鼻歌歌ってたでしょう?」

「えー? 聞こえてた?」

「“王将”のメロディ……。かなりご機嫌と見ましたよ」

「……いやー、実はさっき“筋違い角”でボコボコにされてね」

「ふふふ、また近所の将棋キッズに?」

「そう。しかも2四(にいよん)に打ってきた。……あれはまいった。形が綺麗だったよ」

「悔しいですね。でも、ちゃんと誉めてるところが可愛いです」

「こらこら、“可愛い”なんて言うもんじゃないよ」

ハセベはおどけたように頬を膨らます。

「小学三年生なんだけどさ。将来が楽しみな子だよ。彼の親御さんには奨励会に入れなよって言ってるんだ。……って、なんで僕、将棋の話してんだろ」

「いいじゃないですか。将棋の話、私けっこう好きですよ?」

「お、それはポイント高いな……じゃ、今度“穴熊”って何か、ちゃんと教えてあげるよ」

「それ、ちょっといやらしいやつですか?」

「ちーがーう!穴熊はな、防御力の塊だぞ、囲いの中の最強戦法だ!」

「つまり、鉄壁のガード……ってことですね」

「そうそう、だからって僕が崩すわけじゃ……いや、これはたとえ話で──」

「……ハセベさん、可愛い」

ハセベにとって、美月との時間はどちらかが「詰ませる」ためのものではない。

“詰めろ”──あと一手で詰む。そんなギリギリの“余白”の中に、静かな愉しみがある。

この余韻を毎回作ってくれる彼女のことを──

ハセベは今日も密かに「天才」だと思っている。

「……今日も“好手”でした。……お見事」

「ありがとうございます、“先生”」
 

そして、いつだって“美月システム”に、完封されるのだ。

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