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勝った瞬間、仲間割れが始まった――百済と高句麗を滅ぼした唐と新羅は、なぜ戦ったのか

 


白村江の戦いでは、唐と新羅の連合軍が、倭、つまりヤマト王権と百済復興軍を破りました。

百済はすでに660年に滅ぼされていましたが、百済の人々は国を取り戻そうと抵抗を続けていました。倭は、その百済復興を助けるために軍を送り込みますが、663年、倭の水軍は白村江で大敗するのです。

ここからは、マガジン本編では触れなかった朝鮮半島のその後の行方を簡単に見ていきたいと思います。日本史から少し離れて、世界史の話になります。

さて、百済の復興は失敗に終わり、その5年後には、朝鮮半島北部から中国東北部にかけて大きな勢力を持っていた高句麗までも滅びました。

勝者は、唐と新羅です。

強大な唐の軍事力と新羅の協力、いわゆる「羅唐(らとう)同盟」によって、百済と高句麗という二つの国が消えたわけです。

新羅は長年の敵を倒し、唐は朝鮮半島に大きな影響力を持つことになった。

めでたし、めでたし……

とは、なりませんでした。

百済と高句麗を倒したあと、今度は唐と新羅の利害がぶつかります。

昨日まで一緒に戦っていた仲間同士が、共通の敵を倒したとたんに争い始めたのです。


ここからが、歴史の面白いところです。

唐と新羅は、百済と高句麗を倒すという目的では一致していました。しかし、その先に思い描いていた未来は、まったく違いました。

唐は、東アジアに巨大な勢力を広げていた帝国です。唐にとって高句麗は、長年にわたって自国の東北方面に立ちはだかる強敵でした。高句麗は、その前の隋の大軍を何度も退け、唐の遠征にも粘り強く抵抗していました。

唐から見れば、高句麗を倒すことは、東方の安全を確保し、その周辺を自国の影響下に置くうえで重要な目標でした。

しかし、高句麗の攻略は容易ではありません。

一方、新羅は百済と高句麗から圧迫され、唐に救援を求めていました。

そこで唐と新羅は、まず百済を倒し、その後に高句麗を攻める方針を取ります。結果として、百済の滅亡は、高句麗を南側から孤立させることにもなりました。


新羅にとって唐との同盟は、国を生き残らせるための選択でした。

唐の強大な軍事力を借りて、まず百済を倒す。次に高句麗を倒す。そして最後には、新羅が朝鮮半島の中心になる。

つまり、両国の考えはこうです。

唐は、百済や高句麗の旧領を、自らの支配体制に組み込みたい。新羅は、唐の力を借りて敵を倒し、自分が朝鮮半島の中心になりたい。

百済と高句麗が存在している間、この違いは表面化しませんでした。共通の敵がいたからです。

しかし、その敵が消えた瞬間、二つの国が望んでいた未来の違いが、むき出しになりました。


唐は、高句麗を滅ぼしたあと、旧高句麗領を支配するため、平壌に安東都護府(あんとうとごふ)を置きました。さらに旧百済領にも統治機関を置き、朝鮮半島を自らの支配体制に組み込もうとしたのです。

唐から見れば、自分たちの軍隊が大きな犠牲を払って攻略した土地です。巨大帝国の一部として統治しようとするのは、唐にとっては自然な判断だったのでしょう。

しかし、新羅から見れば、話が違います。新羅は唐に協力し、自国の兵士を戦わせ、百済と高句麗を倒しました。それなのに、倒したあとの土地を唐がそのまま支配しようとする。

新羅からすれば、「敵を倒すために唐を呼んだのであって、唐に朝鮮半島を渡すために戦ったのではない」ということになります。

共通の敵を失った同盟は、土地の支配をめぐって一気に崩れました。こうして、唐と新羅の戦争が始まるのです。


ここで、素朴な疑問が浮かびます。

唐は、当時の世界でも最大級の帝国です。その唐を相手に、新羅が勝てるのでしょうか。

そもそも朝鮮半島の軍事大国といえば、高句麗でした。高句麗は広い領土を持ち、山城を利用した強固な防御網を築き、隋や唐の大軍を何度も苦しめています。その高句麗さえ、唐に滅ぼされました。

新羅が高句麗より強い軍事国家だったとは考えにくいでしょう。実際、新羅が国力や軍事力で唐を上回っていたわけではありません。

ただし、新羅には唐より有利な点がありました。まず、戦う場所が自国に近いことです。新羅は、国内から比較的短い距離で兵士や食料を送り込めます。

一方の唐は、中国本土から朝鮮半島まで、兵士、武器、馬、食料を運び続けなければなりません。戦場で一度勝つことと、遠く離れた土地に軍隊を置き続け、支配を維持することは、まったくの別問題です。

戦争が長引くほど、遠征する唐の負担は大きくなります。しかも新羅は、自国の兵士だけで戦ったわけではありません。唐の支配に抵抗する高句麗の復興勢力とも協力しました。かつて敵対していた高句麗系の勢力を、今度は味方に引き入れたのです。

百済と高句麗を倒すときには唐と組み、唐と戦うときには高句麗の旧勢力と組む。かなり節操がないようにも見えますが、国の存亡がかかった外交に、昨日の敵も今日の味方もありません。

新羅は戦場でも重要な勝利を収めましたが、正面から巨大帝国に力だけで勝ったわけではありません。地の利、補給の差、旧敵との連携を使い、唐が朝鮮半島南部を支配し続けることを難しくしたのです。


それでも、唐が本気で全軍を投入すれば、新羅を押し切れたのではないか。そう思いたくなりますが、ここで学校の日本史ではほとんど見かけない国が登場します。

吐蕃(とばん)です。

聞いたことがない、教科書のどこに出ていたのか記憶にない、という方も多いかもしれません。しかし、この吐蕃は、当時の唐にとって非常に危険な相手でした。

吐蕃は、現在のチベット高原を中心に勢力を広げた大帝国です。7世紀後半には、青海や中央アジア方面へ進出し、唐が西方に持っていた領土やシルクロードの拠点を脅かしていました。

唐にとって朝鮮半島は、帝国の東の端です。一方、西では吐蕃が勢力を拡大し、唐の西方支配を圧迫していました。

新羅にとって唐との戦争は、国の存亡を懸けた最重要の戦争です。しかし唐にとって新羅との戦争は、巨大帝国が同時に抱えていた複数の戦争の一つでもありました。

朝鮮半島での新羅の抵抗だけでなく、西方で吐蕃との対立が深刻化し、唐が複数の戦線を抱えていたことも大きかったのです。唐は、朝鮮半島だけに軍事力を集中し続けることが難しくなっていきました。

つまり、唐は新羅に完全に打ち負かされ、逃げ帰ったわけではありません。新羅の激しい抵抗に加え、遠征と占領を続ける負担、そして西方で迫る吐蕃の脅威が重なったのです。

新羅は唐そのものを倒したのではありません。唐にとって、朝鮮半島南部を支配し続ける負担を大きくしたのです。


こうして新羅は、旧百済領の大部分と、旧高句麗領の南部から唐の勢力を追い出すことに成功します。そのため、この時代の新羅は一般に「統一新羅」と呼ばれます。

ここまでを聞くと、朝鮮半島全体が新羅の国になったように思えるかもしれませんが、実際にはそうではありません。高句麗は、朝鮮半島北部だけの国ではありませんでした。現在の中国東北部、いわゆる満洲方面にも領域を広げていました。新羅が支配したのは、そのすべてではありません。

一般には、新羅の支配は、おおむね大同江(だいどうこう)以南を中心に広がったと説明されます。旧高句麗の北部や満洲方面は、新羅の領土にはならなかったのです。そして高句麗の滅亡から約30年後の698年、その北方に、また聞き慣れない国が登場します。

渤海(ぼっかい)です。

渤海は、高句麗の遺民や靺鞨(まつかつ)の諸集団を基盤に、大祚栄(だいそえい)という人物が建てた国です。

これによって、東アジアには「南に新羅、北に渤海」という新しい構図が生まれました。

つまり、「統一新羅」とはいっても、旧高句麗の全領域を含む朝鮮半島と満洲をひとつにしたわけではありません。

百済の旧領を獲得し、高句麗領の南部にも支配を広げ、朝鮮半島の南部から中部を広く治めた。それが新羅の「統一」の実態でした。

現代の朝鮮半島全体をきれいに統一したように受け取ると、実態とは少しずれてしまいます。


まとめ

高句麗は、強い軍隊と堅固な城を持つ軍事大国でした。唐は、その高句麗を滅ぼすほどの巨大帝国でした。それでも、最後に朝鮮半島南部の広い土地を手にしたのは、新羅でした。

新羅は、高句麗より軍事的に強かったわけではありません。唐より国力が大きかったわけでもありません。しかし、唐の力を借りて百済と高句麗を倒し、唐が土地を支配しようとすれば、今度はかつての敵だった人々まで味方に引き入れて、唐と戦いました。そして唐が複数の戦線に苦しむ間に、自国に有利な状況を作り上げました。

一番強い国が、必ず最後に最も多くを手にするとは限りません。国家が生き残るために必要なのは、軍隊の強さだけではないのです。

誰と手を組むのか。どこまで戦い、どこで相手に諦めさせるのか。新羅が見せたのは、高句麗とはまったく違う種類の強さでした。

白村江の戦いは、倭が唐・新羅連合軍に敗れて終わった出来事ではありません。百済を滅ぼし、高句麗を滅ぼした勝者たちは、その瞬間から互いに敵となりました。

西では吐蕃が唐を苦しめる。北では、滅びたはずの高句麗の旧領に、聞き慣れない渤海が現れる。

地図を少し広げ、時間を少し先まで延ばすだけで、教科書の一行だった白村江の戦いは、国際政治へと変わるのです。

勝った瞬間、仲間割れが始まりましたが、それは偶然ではありません。唐と新羅は、最初から同じ敵を見ていただけで、同じ未来を見ていたわけではなかったのです。



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