創作大賞2025参加 : 神の器 特別編「幻燈の館」エピローグ 〝The Lonely God〟
「願ったのは愛ではなく、隣にいられる日常だった。」
沈黙は無知を意味しない。それは知りすぎた者の選択だ。
語られないがゆえに、かえって強く、深く、世界を蝕む。
◆
「あのお屋敷、人魚姫がモチーフだったんですよね」
志桜里がカップを傾けながら言うと、「そうだよ」と、春一はふわりと笑った。
窓辺の席には午後の陽光が揺れ、店内は夜空を思わせる淡い青の配色と、静かなクラシック音楽に包まれていた。ふたりの会話は自然と囁き声に近くなった。
「……あれだけのことが起きて」
志桜里は、少しだけ目を伏せた。
「美緒さんが、やったってことに、まだどこかで、実感がないんです」
春一は首を傾げる。
「そうかな。美緒さんは、ちゃんと全部準備してたよ」
「うーん」
春一はスプーンでカップを軽く回した。
「志桜里さんも、視たでしょう。あの洋館の中で」
「幻燈……ですね」
志桜里は、小さく頷いた。
「そう。幻燈……あれは、楓ちゃんが残した真実。ずっと、そこにあったんだよ。なのに、みんな気付かなかった」
楓ちゃんの魂は、あの館にはなかった。
あの館には、15年前に楓ちゃんが遺した、鮮烈な記憶だけが刻まれていた。
楓ちゃんは、極限の痛みの中で強力な異能を発現させたのだ。最期の瞬間に、あの館に全ての真実を鮮明に焼き付けた。記憶や感情を強く感知できるような同士へと届くように。その遺志だけは、少しでも酌んであげたかった。
「でも、美緒さんだけは、忘れなかった。〝自分の中の楓ちゃん〟を。まあそれは記憶っていうより、呪いに近かったかもしれないけど」
志桜里はテーブルの縁を指先でなぞりながら嘆息した。
「……だから、美緒さんは榊原さんを使って殺人を計画した。そして、自らの手で実行した」
志桜里の、美緒への同情の表情を眺めてから、春一は問い掛けた。
「うーん。あのさ、志桜里さん、なにか俺に言いたいこと、あるんじゃないかな」
志桜里は小さく息をのみ、それから少し調子を強くして、春一に尋ねた。
「……春一さん。あなたには、過去も未来も視える。なら、わかっていたはずです、あの館で何が起きるか。……美緒さんを、止められたのではありませんか」
「うん。まあ、そうかもしれないね」
ゆっくりと答え、春一はミルクだけを入れた紅茶を一口すする。
美緒は、既に命と人生をもって、楓ちゃんに応えると決めていたのだ。これを止めるのは不可能に近い。
楓ちゃんに、社会は正義を与えてくれなかった。
だから、美緒はすべての代償を背負うと決めた。
……俺には、極刑だって覚悟していた美緒を止める正当な方法を見つけられなかった。
春一は、志桜里に優しく笑いかけた。
法律と倫理を無視して、手段を一切選ばなければ、勿論可能であっただろう。
「でもそれは違うかなって。俺は、美緒さんを責めることが正しいとは思わなかった。それだけだよ」
予知による未来の殺人を理由に、他者を責めることは不当だ。
未来を知っていても、その人の基本的人権を侵害しない限り、犯罪を〝絶対に〟予防することは神にも出来ないだろう。
未来は、いつだって、その人にしか選べない。
自分のために命と人生を懸けてくれた姉。
加害者が死んだという結果。
それは楓ちゃんだけのヒーローになるための行為だ。
「そうだね。……ねえ、あの子供部屋で、俺、言わなかった?……神の器だったって。……俺は神様じゃないけどね。いまの俺は、故郷で神様って呼ばれていた〝あれ〟と同じことなら、まあ大体は出来るんじゃないかな」
楓ちゃんは、姉を愛していた。
美緒はもう、止まれなかった。
「美緒さんはね、やるべきことをやったんだ。……美緒さんは、楓ちゃんのヒーローだったんだから」
そもそも五歳の少女が暴力に晒されて、ヒーローに悪者をやっつけて欲しいと願うことが、そんなに不自然だろうか?
助けてもくれず、報復すらしてくれない。
それは裏切りではないと、言えるのだろうか。
人が人を裁く。それは社会にとって悪だろう。
だから美緒は裁かれる。
けれど、彼女はそれすらも強く覚悟していた。
「……ねえ、人魚姫は幸せなお姫さまだったと思わない?」
春一がふいに話題を変える。
「でも、悲劇の象徴じゃありませんか?」
志桜里が戸惑いながら返すと、春一は肩をすくめた。
「お姫さまにはお姉さんがいたじゃないか。だから彼女は、最期に誰も恨まず死ねたんだ。人魚姫が泡になれたのは、お姉さんが美しい髪と引き換えに契約して、銀のナイフを用意してくれたからだ」
人魚姫の姉は、自らが代償を払うことで、愛する者に、救済か復讐か、二つを選択肢を与えた。
彼女のためにその身を削った姉がいたからこそ、人魚姫には、自らの未来を選ぶ自由があった。
「ねえ、楓ちゃんが復讐なんて望んでなかったなんて、嘘だよ。本当は君もわかってる」
事実だった。だけどあまりにも酷い言葉だ。
けれど、春一の声はどこまでも穏やかだった。
楓ちゃんは人魚姫にはなれなかった。
楓ちゃんの最期には、なんの選択肢もなかった。
楓ちゃんに救済はなかった。
その魂も尊厳も、誰も救ってはくれなかった。
「楓ちゃんは、犯人を最期まで憎んで、恨んだよ。そして美緒さんに望んでた。助けて欲しいって。そして、いつだって美緒さんの〝一番〟になりたかった。あの日だって一緒に出掛けたがってた」
どこか遠いところを見つめるようにして話す。
社会正義は生きている者のためにある。誰にも助けて貰えなかった死者が、社会正義を了する必要はないはずじゃないか。
生者には、法を守る責任がある。
だが死者には、義務も、権利も、存在しない。
死者は生者の都合によって、〝道徳的な偶像〟として利用される。現実に抗う力を持たぬまま、「美談」に封じられる。
「助けて」と叫びながら亡くなった子供が、「痛い」「怖い」「なぜこんな目に」と感じるのは、あまりにも自然だ。
その叫びを〝赦し〟で塗り替えようとする行為は、善ではない。傲慢だ。
何の権利も与えられていない死者には、法や社会を思いやる義務などないのだから。
「封鎖は、必然だった。春一さんが……」
恨む、呪う、憎む。
その感情は、正しくないのだろうか。
死者の最期に、存在してはいけないのだろうか。
「うん。まあ、そうなるね。俺が、天候を。あとは、彼女が望むままに」
あの嵐は、決して意図したものではなかったけれど、俺の異能によって引き起こされたのだ。その責めは負うべきだろう。
「春一さんは、いつから全部知ってたんですか?」
沈黙は嘘じゃない。
春一は、あの日、あの館で、誰にも問われはしなかった。
だから、ただ真実を届けなかっただけ。
……たすけてって、俺が言いたくなった。あの館で、再生される過去のなかにいる間、ずっと。俺も子どもに戻ったみたいだった。
自分の能力で背負った苦痛ならいくらでも耐えられた。
春一が勝手に受け取ったのだから。それを理由にしてはいけない。
けれど、これが現実に楓ちゃんの身に起こったことで、楓ちゃんが受けた苦痛なんだと思うたびに、それだけは耐え難いと感じた。
「最初から。あの館に着く前。車の中でね。十五年前、なにがあったか全部。志桜里さんみたいに、残った感情の一部を受けとるんじゃなくて。全部、わかってしまったから」
春一は明るく言った。なんでもないことのように笑ってみせる。
「そのあと館に着いて、彼らがかつて何をしたのか、美緒さんが何を考えているのかわかった。だから、みんなに館に残った記憶を観せてあげた」
「……それは、死を導くため?」
人は、死者が怒っていないことを願う。
それは、死者のためではない。自分の安寧のためだ。
でも楓ちゃんは、怨みながら死んだ。
愛と呪いは、いつだって両立する。それはどちらも祈りの一つだから。
「違うよ。……結果的にはそうなったかもしれないけど。俺が、館の〝記憶〟を再生させたかったのは、誰かを罰するためじゃない。ただ、真実を浮かび上がらせたかっただけ。楓ちゃんの遺した真実だから」
また、ふわりと笑う。
「うん。そうだね。〝これに関しては〟今でもいいことしたと思ってる。褒めてくれてもいいよ」
志桜里は、少しだけ眉をひそめて、それでも言葉は出なかった。
「〝幻燈〟は楓ちゃんの最期のメッセージだ。そして俺には、それに応えられる力があった。それだけだよ」
春一は軽く肩をすくめた。軽く、何気ない問いかけのように。
「大好きな人が、すべてを忘れて幸せになるなんて望まないよ。誰だってそう、は言い過ぎかな。……でも、少なくとも楓ちゃんは望まなかった。俺も望まない」
だって、……置いて行かれて、忘れられたら。
そこに残された人間はどうすればいいんだ?
「いいじゃないか、全てを捨てて戦ってくれる」
楓ちゃんは、愛されていた、それが証明されたんだ。
「俺なら、嬉しいよ?」
本当に嬉しかったから。典彦が迎えに来てくれた。最期にどうしても会いたいと思った。ただ、それだけだったのに。
でも、俺の〝会いたい〟という言葉だけで、何もかも放り投げて駆けつけてくれた。それがどれだけ俺の救いになったのか、きっと誰にも解らない。
「だって最高に愛されてるって感じでしょう?」
やわらかな声で、謡うように告げる。
志桜里はゆっくりとカップを置いた。
「あなたは間違っています。予知していたのに、止めなかった。それは法律が裁けるものではありません。でも生きる者の倫理として」
彼女が口元に浮かべていた、曖昧な微笑みが、ほんの少し揺れる。
……春一は、雪野志桜里に対して、沈黙を選ぶことにした。
彼女の怠惰を責めても、過去は変えられないのだから。
彼女は他者の痛みに共鳴することができる異能の持ち主だ。
彼女は美緒の苦悩を知る手段を有していた。
そして、美緒と同じ『真珠の間』に宿泊していた彼女には、二件目の殺人を止める機会が誰よりもあった。
夜に出掛けようとする美緒に、ただ問いかければ良かった。これは紛れもない真実だ。だが、言うべきではない言葉だった。人を傷つけるためだけの言葉を使うことは、正しくない。
「……美緒さんへの言葉は、嘘だったんですか?」
その声はかすかに震えていた。
あの夜を思い出したのか、それとも目の前の男に裏切られたような気がしたのか。
「まさか」
春一はきっぱりと言う。
「あれは、全部ほんとうだよ」
「大好きな人には、綺麗な思い出だけを想ってほしい。それは、揺るぎない真実だ」
「だって、そうしょう?一番大好きな人に、汚された記憶だけを後生大事にされるなんて悪夢以外のなにものでもない。楓ちゃんもそうだよ。大好きな人には、自分の美しい記憶だけを覚えていて欲しい」
しばし、沈黙が落ちる。
外では子どもが自転車のベルを鳴らして走り過ぎた。店内のピアノの旋律が、少しだけ伸びた。
「死者の尊厳を守るあなたに、わたしは敬意を払います。けれど、それを生きている人の未来を失わせてまで、守るべきだとは、わたしは思いません」
彼女の言葉に、春一は目を細めた。
雪が溶けて、道が開けた。出口の先に待っていたのは、始まりと名付けられた終わりだった。
春一は喫茶店アルバイトで、神でもなければ公的権力でもない。
仮にその能力を行使すれば、それは傲慢な独裁であり、尊厳の侵害になる。
けれど、行使しなければ結果をもって不作為と呼ばれることになる。
彼女は、春一の目をまっすぐに見つめて言った。
「春一さんのヒーローは、来てくれたんでしょう?」
春一は一瞬だけ、目を伏せた。
そして、ほっとしたように息を吐いて、笑った。
「うん、俺には典彦がいた。でも楓ちゃんの最期には誰もいなかった。だから、〝彼女〟の味方でいたかった。ありがとう。ね、やっぱり貴女は、わかってくれると思ってた」
もどかしそうに彼女が言葉を飲み込んだのを見て、春一は紅茶の最後の一口をすっと飲み干した。熱くも冷たくもないその感触を確かめてから、微笑んだ。
「ここのアールグレイ、香りがいいね」
そう言って、空になったティーカップを丁寧にソーサーに戻す。
「お店の雰囲気も好き。カトラリーも綺麗だったし、接客の人も親切だった」
彼女は、小さく「ありがとうございます」と答えた。
声が震えそうになるのを堪えるように。
春一は席を立ちながら、軽く指を振った。
「じゃ、今日はありがとう。こんなに話したの、久しぶりかも」
雪野志桜里にとって、春一は救うべき生者ではない。
だが、それは仕方のないことだ。人の世にあって、春一の異能は強すぎる。
「俺の働いてる店もいいお店だよ。駅から近い、それにチーズケーキがおいしいんだ」
春一は、それでも弟の望む、優しい人間になりたかった。
彼の隣で歩くためなら、すべてを飲み込むと自ら決めた。
「……はい。機会があれば伺わせてください」
「うん。気が向いたらでいいから。さようなら」
カラン、と椅子を戻す音。ドアベルの軽い音。
春一は、それらすべてをまるでBGMのように受け流して、ふわりとした笑みのまま喫茶店を後にした。
振り返らず、背負うものなき背中を見せて去っていった。
彼女は、空のティーカップを見つめながら深く息を吐いた。
テーブルには、誰のものでもない静寂だけが残された。
◆
春一さんは、最初からすべてを知っていた。
あの洋館に足を踏み入れてすぐに感じた違和感。
全員が、〝幻燈〟を見た。
わたしや春一さんだけでなく。霊感なんてないはずの人たち全員が、等しく〝真実の再生〟を目撃した。
それは偶然なんかじゃなかった。
幻燈とは、おそらく本来限られた人間にしか見えない、過去の残滓のはず。でも、あの夜のそれは違った。
〝全員に視せる〟ために用意された舞台だったんだ。
用意したのは……楓ちゃんの意思を酌んだ春一さんだった。
わたしはずっと不思議だった。
あの日の悪天候。急激な天候悪化、土砂崩れによる交通遮断。
どこか不自然だった。
……まるで、まるで誰かが〝封鎖〟を仕組んだかのように思えたのに。
ほんとうは、わたしが気づかなければいけなかった。
あれもまた、あなたの力だって。
あの夜の嵐は、春一さんが意図的に引き起こしたんだって。
だって彼は、〝理を歪める〟力を持っているのだから。
彼は正しく、奇魂(くしみたま)であり、荒魂(あらみたま)の器を持って生まれたひとなのだ。
……神の器。
それは、初めは受け入れる容器でしかなかったのかもしれない。
でもその彼は今、神の如き器量の持ち主へと至ってしまったんだ。
あの日、あなたは過去を知ってしまったから。
館に来る直前。〝楓ちゃん〟が殺された瞬間を、その身に焼きつけるように〝追体験〟してしまった。
暴力、恐怖、絶望、痛み。
あなたは彼女の最期の、唯一の理解者になった。
だからきっと、美緒さんでも、社会でもなく、彼女だけの味方になったんだ。
あなたは手を下さなかった。
それは、復讐を果たすのは、あなたでは意味がないと考えたからなんだと思う。
「復讐は、美緒さんのやるべきこと。罪を背負うかぎり、罰を受けるかぎり、美緒さんは楓ちゃんを忘れない」
そう考えたんだろうと、わたしには思えてならなかった。
梨木美緒。
かつて、楓ちゃんの唯一のヒーローだった少女。
そして彼女は、楓ちゃんを守れなかった。
だからこそ、あなたは彼女にその責任を返したのでしょう。
おそらく、今日わたしに会いに来たのは、これほど親切に説明してくれたのは、訝しんでいた、わたしへの口止めのためだろう。
あなたは探偵の協力者でありながら、犯人の協力者でもあったんだ。
あなたはずっと一人で楓ちゃんを悼んでいたんでしょう。
誰にも知られず、誰にも語らず。
けど、春一さんは、決して嘘はつかなかった。
それが、あなたの矜持で真実だったから。
それでも、わたしは美緒さんを引き止めなかったあなたを、認めることはできそうになかった。
◆
喫茶店を出た春一は、今日の夕飯の献立と、さきほど雪野志桜里と交わした会話を考えながら、地下鉄の駅を目指す。
最後に選択したのは、美緒だ。
殺すしかない、そこに至るまでの理由を問う者が、もっと早く、誰か一人でも美緒のもとにいれば、彼女はそれを選ばなかった。
予知は証拠になり得ない。法のもとで生きる以上、未来の殺人を責めることはできない。神の力は万能ではない。少なくとも人の世では。
過去は変えられない。他人の未来は選べない。人間として少しでも寄り添うこと。それが俺があの日出会った彼女にできる全てだった。美緒におやすみと伝えたとき、未来は確定していなかった。
予知は、万能でも全能でもない。
未来は、その人の意思でのみ動く。
……他人の未来は、きっと本物の神さまにも選べない。
そうだ。ハンバーグはどうだろう。
……二件の計画殺人は、極刑もありうる。美緒はそれを正しく認識していた。榊原が願ったように、美緒の命と未来を護りたかったけれど。全ては遅かった。間に合わなかった。俺も、榊原も。
だから、せめて美緒の味方でいたかった。心的外傷。人間の脳は残酷で、最愛の人の最期だけしか思い出せなくなる。それはよくあることなのだ。
楓ちゃんの最期に囚われ続ける美緒に、十二歳の美緒が、大好きだった楓ちゃんと過ごした真実の時間を届けること。
たったそれだけのことにしか、俺の持つ神の力は、役に立たなかった。
牛乳も卵もパン粉もある。
挽肉を買って帰らねばならない。
自分に失うものはなにもない。
そう思ったから、彼女は水底の記憶にあった慈しみを、毒へと変えたのだ。
◆
愛の証明は沈黙。
愛の代償は永劫の孤独。
No one spoke the truth. Not the living. Not the dead.
And yet, the lantern never lied.
“There was no great detective. Not this time.”
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