夜に灯る 〜幻燈の館〜 【創作大賞2026】
創作大賞2026、ミステリー小説部門に応募。
総文字数、約11万字。
【あらすじ】
「場所に刻まれる過去そのものを再生する」幻燈現象が起こる、ジョージアン様式の事故物件洋館・旧梨木邸。
オカルト案件の調査に訪れた探偵たちは成り行きで、館で始まったクローズドサークルの解決を目指すことになる。
遺体発見、通信不能、車両通行不能、封鎖工作の痕跡発見、救助も通報も望めないまま夜を迎え、翌朝、第2の遺体を発見する。積み上げられる状況証拠と綻び。犯人は15年前、梨木邸で起きた『檜森町令嬢殺人事件』による被害者遺族だった。
「探偵諸君。殺すしかない、そこに至るまでを問え」
幻燈が示す最期の真実。超常現象×密室推理、過去と現在が交錯する現代本格ミステリ。
There was no great detective. Not this time.
Note: This story is translated by AI. It captures the unique aesthetic and cultural background of a Japanese detective story. I hope you enjoy this slightly exotic atmosphere.
【第一章】旧梨木邸連続殺人事件(神依典彦視点)
「調査とは、他人の地獄を覗き込むことだ」
この翌日、俺たちは一泊二日の地獄に踏み込む。それは、後に『旧梨木邸連続殺人事件』と呼ばれる悲劇だった。
黒衣の依頼人
雨上がりの午後、喫茶店Café Sereinの窓ガラスにはまだ細かな水滴が残っていた。
客足は落ち着き、店内にはジャズピアノの緩やかな旋律だけが静かに満ちている。
「あと15分で上がり、だろ?」
カウンターの奥、エスプレッソマシンの操作に集中していた春一に、俺は声をかけた。春一は今日も白のシャツに黒のベストというシンプルな制服を着こなしていた。相変わらず俺の兄は、世界の理を上書きするほど完璧な美貌をしている。
「うん……もう少しで終わる」
その声は、風が草を撫でる音のように柔らかい。控えめな微笑み。流れるような所作。何気ない仕草すら、いつだって儀式のように整っている。
「特に用事なければ、このあと家で……」
言いかけた言葉は、ドアに取り付けられたベルの音で途切れた。
入ってきた男は、一目で只者ではないとわかる雰囲気を纏っていた。身長は俺よりやや低いが、がっしりとした体格。無造作に見えてよく整った黒い短髪と鋭い細い目が、冷静で計算高い印象を与える。
服装は黒いスーツに、着古した黒のトレンチコート。その裾を揺らしながら、スーツのポケットに手を入れる仕草は妙に自然だった。
春一が微かに表情を引き締めたのを見て、俺は席を立った。
「間宮と言います。天城調査事務所の者です」
声は低く、乾いていた。名乗られた瞬間、代崎の顔が頭に浮かんだ。彼女の、高い知性と気風の良さをストレートに表すような、柔らかくも圧の強い女言葉まで、脳内で鮮やかに再生される。
あの名探偵の所属する事務所の人間が、なぜここに?
春一も、代崎のことを考えたみたいだ。
しかし、春一の口から出た問いは不穏だった。
「すみれさんは、無事ですか?」
それを受けた間宮と名乗った男は、少し眉を寄せる。そして最低の報せを淡々と持ち込んだ。
「昨日、退院した。先日、異能案件の調査中、衝撃を受けて意識を失った」
その言葉に、空気が一瞬で重くなったように感じた。春一は黙って目を伏せている。春一の長い睫毛がゆっくりと動く。
「……重症ですか?」
その眼差しは、深い静寂を湛えていた。
「肉体的にはおそらく軽い。ただ精神的には、しばらく復帰は無理だろう。理屈は分からんが、所長の指示で、今は事務所でひたすら寝ている。……入院中は鎮静剤の静脈注射が必要だった」
最後の一言を聞いた春一の表情が、凍りつくのがわかった。
間宮の語調には、ある種の慣れを感じた。だが、そこに冷淡さはなかった。30代前半くらいに見えるが、仕事として、何度もこうした報せを伝えてきたのかもしれない。
「それで、俺たちに何を?」
俺が問いかけると、間宮は視線を春一に向けたまま答える。
「檜森町(ひのもりまち)、都内山裾にある古い洋館の調査。うちの事務所で、そこのオカルト事象の調査を請け負った。非公式だが警察から依頼だ。事前調査をした代崎はその事象を『幻燈』と呼称していたそうだ。そして、その洋館に着いた途端、代崎は倒れたらしい」
思わぬ知らせに、春一を見る。一瞬、視線を交わしただけで、心の深層にまで踏み込まれるような錯覚を覚える。
その清冽な瞳に映るのは、遥か昔から続く記憶。時を越えた存在だけが持つ輝き。俺はその瞳の先にある見えない何かへの思考を断ち、間宮の言葉の意味をかみ砕く。
「……つまり、担当の代崎が倒れた。で、代わりに俺たちに、その調査をしろと?」
「正式な依頼ではない。あくまで、非公式だ。だが、あの女は随分と君らを信頼しているらしい。特に、」
そこで言葉が止まった。
春一が、僅かに表情を変えたからだ。彼の美しい瞳は、見る者に無言の圧力を与える。
「行きます」
間宮をすっと見据えた春一が静かに告げた。
「春一?」
呼び掛けた俺に、言い聞かせるように語ってくれる。
「すみれさんは……俺たちを何度も助けてくれた」
春一が視線を落とす。それから、カウンターを見つめながら続けた。
「だから今度は、俺の番。すみれさんの現状を改善するには現地に行かないと無理だと思う」
春一の覚悟が、俺を一瞬で黙らせた。この兄が自分から動くのは、必要な理由があるときだけ。代崎すみれは、春一にとって掛け替えのない理解者だ。それを思えば、俺も放ってはおけない。
「なら俺も行く。ひとりでは行かせられない」
俺がそう言うと、間宮は軽く頷いた。
「わかった。明日午後3時から何か集まりがあるらしい。それに合流することでオーナーと話がついている。出発は明日の10時。俺がここに車で迎えに来る。必要なものを用意しておいてくれ」
そう言って彼は名刺を一枚だけ残し、喫茶店を出ていった。
間宮という男が去り、ドアが閉まると、再び俺の耳に小さなジャズが戻ってきた。
調査前夜
慣れた手つきで用意された春一の夕食は、どれも丁寧で、自然と心が和んだ。その穏やかな余韻の中で、俺は例の洋館の情報を探し始めた。
「檜森町。……ここか。山裾って言っても、かなりの奥地だな」
画面をなぞる指が止まる。
「最寄り駅から車で40分。土砂災害でも起こったら孤立しそうだ。霊感の強い人間が軒並み『ここに何かいる』って騒いだって、掲示板に残ってる。どうも有名な事故物件らしいが詳しくは載ってないな」
俺はスマホで地図を確認しながら、小さな違和感を覚えていた。
「なあ春一。何か起きる気がしないか?」
「……うん。そうだね。俺も、『なにか』起きると思うよ」
春一は、受け取った俺のスマホの小さな画面を眺めながら、ゆったりと上品な声色で応えた。月光にも似た輝きを宿す、タンザナイトのような春一の瞳。
それを見て、俺は覚悟を決める。春一が行くと決めたなら行くしかない。
代崎は調査中に昏睡状態になった。しかも、間宮曰く入院中に鎮静剤の静脈注射を受けていた。帰宅してから、何のことかと調べてみれば、激しく錯乱し、暴れ、自傷や他害のおそれがある場合にのみ行われる処置らしい。
胆力も気概も人一倍の、あの代崎が、だ。
俺には、春一や代崎のような異能はない。だが、それでも俺は、春一を護らなければならない。絶対に。
曰くつきの洋館での集まり。誰が、何のために?
間宮にもっと情報を求めるべきだった。今更ながら後悔が頭をよぎる。
「あのね、典彦。二日くらい前かな、断片的にだけど、ちょっと視えたんだ」
「なにが」
思わず過敏に反応してしまった。春一が驚いている。
「……?……大丈夫だよ、典彦。一緒にいてくれるんでしょう?だったら絶対大丈夫」
不思議そうに俺を眺めてから、なにやら納得したらしく、俺を宥めるように春一が言ったその言葉は、強く胸に突き刺さった。
「結局よくわからなかったんだけど。でも印象的だったのはね、深海をふたりで散歩するんだ。誰も出られず、誰も入れない海の底で」
それは、随分と奇妙な予言だった。
春一はそれ以上何も言わず、ただ微笑んだ。
【第二章】終わりなき夜の黙示録(神依春一視点)
「真実は、海より深い孤独に宿る」
罅割れた予知夢
今朝、夢を見た。三時十三分。
茜色の絨毯。その上に倒れた、男の手首。千草色の上着。蜘蛛の巣状に罅割れた風防の下で、時計の針がまるで未来の時間を拒むように、その数字の上で止まっていた。
エンジン音が、坂道を登るにつれて僅かに唸り声を上げる。車内には、ワイパーの小刻みな音と、音を絞ったカーラジオのBGMだけが流れていた。
俺は後部座席に座っていた。助手席には典彦がいる。
典彦は、翳りの濃い車窓を見つめたまま、あまり口を開こうとしなかった。元より寡黙な兄弟ふたり、沈黙には慣れている。だが今日は、その意味が幾分か異なる。
運転している檳榔子黒(びんろうじぐろ)のスーツの男。間宮真という人物に、昨日初めて会った。
彼はすみれの同僚で、あの天城調査事務所の探偵調査員の一人。
目つきは鋭く、態度の裏には棘があった。だが真面目で誠実な、理屈の通じる人間、そしてすみれにとって大切な仲間なのだと感じた。
彼に初めて会ったその瞬間、俺は彼を待つ『死の未来』の影を視てしまった。でも視てしまっただけ。それはきっと現実にはならない。俺たちは出会った。すみれが俺のもとへ導いた。
これからの未来は確定していない。自分にそう言い聞かせ、車窓越しに外を眺める。
弟が最近気に入って着ている洒落た茶鼠の上着は、贔屓目を差し引いてもよく似合っていた。同時に、千草色とはまるで異なる別階層の光に属する色であることに安堵する。
それに典彦も間宮も、時計の風防はサファイアガラスだ。罅割れることはない。モース硬度九のサファイアガラスなら、破壊されれば鋭く砕ける。
山裾に近づくほど、霧が濃くなっていた。
事故死。あるいは自殺に見せかけた他殺。 間宮が関わるはずのその未来は、ひどく曖昧で、けれど確かに終わりの気配を伴っていた。もし俺が同行しなければ、彼は……。
間宮は思慮深く繊細で澄んだ精神の持ち主だ。俺が語れば、彼は揺らぐ。告げることで、致命的な未来を確定させてしまう可能性がある。だから今はまだ、何も言えない。
「春一くん」
不意に間宮がルームミラー越しに俺を見て、名前を呼んだ。三十二歳の彼は俺より六歳年上だが、やはり表に出す態度はとても丁重だ。
「はい。なんでしょうか?」
「一つ聞いておきたいんだが……君は、代崎とはどういう関係なんだ?」
典彦がちらりと横目を動かす。
間宮の口調に敵意はない。ただ、納得のいかないことがあるという言い回しだった。
「友達、です。何度か、一緒に事件に関わったことがあって」
「『異能』ってやつでか」
「間宮さんは、そういうの信じてませんよね?」
一瞬、間宮が気まずそうな顔をする。
悪いことをしてしまった。この人は思考を読まれることに慣れていない。間宮はすみれとは違う。思考を走査されても全く気にしない彼女が特別なのだ。
でもここまでなら、彼には『直感』や『推理』で納得できる範囲だろう。
「まあな。だが、所長が君に頼れと言うくらいだ。こっちは真面目にやる」
それだけ言うと、間宮は再び前を見た。
初対面の俺のために、つらい過去を一切表に出すことなく沈黙を選ぶ。すみれさんの同僚らしい、優しい人だ。
典彦は特に口を挟まず、車窓を眺めていた。暫くして、車は林道の分岐に差し掛かった。
舗装が甘くなり、タイヤが細かく揺れる。
山霧の中の同乗者
そのとき、前方に人影が現れた。ふわりとした白の外套を身に纏った女性が、こちらに気づいたのか、片手を上げた。
「……人か?こんなところで」
間宮が速度を落とし、女性の前で車を停める。
「すみません、車が動かなくて……あの、どちらに?」
丁寧に処理され、乙女色に染色された爪。傷みのない葵色のバレーシューズ。状態が良ければ中古でも数十万円で取引される革鞄。手入れの行き届いたミディアムヘア。
二十八歳。小柄で、柔らかな雰囲気。
ただその瞳には、ひっそりとした影があった。明るい湖畔の森、そんな印象を持った。
「わたしは、この先の洋館に向かっています。不動産屋さんから館の供養の依頼で呼ばれたんですが……途中で車が故障してしまって」
間宮が一瞬だけ眉を顰めた。
「供養?」
間宮が尖りかけた声を懸命に落ち着かせて、女性に静かに問いかけている。
「はい、わたしは雪野志桜里と申します。霊視による占い師を生業としておりますが、時々ご供養なども請け負っています」
間宮がちらりと典彦を見る。典彦も無言で、助手席から内鍵を解除した。
「同じ場所へ向かっています。乗ってください」
彼の品性に裏打ちされた、慎重な言葉遣い。志桜里と名乗ったその女性は、同乗を促す間宮に恐縮しつつ後部座席に乗り込んできた。
乾いたハーブの匂い。静穏な森の中にひとりで立っているような、不思議な安心感があった。
内側に踏み込まず、それでいてひっそりと寄り添うような波長。彼女はどうやら、他者の悲しみを感じ取れるらしい。
彼女の耳元で簡素な意匠のピアスが光を受けて煌めくのが見えた。俺の隣、後部座席に腰を下ろす。俺と目が合った瞬間、彼女の視線が揺らいだ。
「……!」
俺の顔を見て、彼女の表情が、強張る。そして何かに圧倒されたように、ゆっくりと小さく曖昧に微笑む。
「どうかされましたか」
「……いえ。ごめんなさい。えっと、あんまりにも綺麗な方だから。ちょっと、その、驚いてしまって」
隣で彼女がそう言って、小さく息をついた。俺の気配を感じ取ったのだろう。人ではなく『神の器』だった頃の名残。普通の人が気づかないそれを彼女は察知した。
表情はもう落ち着いていたけれど、手首を彩る精緻な彫金が施された細い腕飾りに触れるその指先だけが、膝の上でほんの少し震えていた。
この人も、『そういうもの』を知る世界で生きている。でもそれが何なのかまでは彼女には、理解はできないのかもしれない。
車は再び走り出す。
前方の山肌に沿って、やがて木々の切れ間から、白い洋館がちらちらと見え始めた。
遠くに視える、均整な二階建ての瀟洒な屋敷。漆喰で仕上げられた外壁、左右対称に並ぶサッシュ窓、石造の縁取り、旧式のステンドグラス。
静謐な風景に溶け込むジョージアン様式の邸宅。慎ましくも洗練された美意識。住まいに真の品格を求めた者の手によるものだと、遠く車窓越しにも伝わってくる。
だが美しいその建物は、時間から遠く取り残されていた。近づくにつれ、俺の脳裡に熾烈な『記憶』が浸透する。あの館にあるのは、残留思念でも怨霊でもない。もっと生々しく、現実に固定された『記憶』だった。
……あまりにも、壮絶な記憶。十五年前。けれどそれは今も、厳然とあの空間に刻み込まれている。幼い子供の烈火の如き叫喚。過大な負荷。すみれが倒れるのも無理はない。この記憶に直面するには、彼女の感受性と正義感は強すぎる。
繋がりを切るために意識を落とすのは正しい対処だ。
隣に座る志桜里が首を傾げながら、ぽつりと呟く。
「嫌な予感がします。この場所、何かが……」
彼女の声に、間宮が小さく顔を顰めた。
「まあ、変な集まりがあるらしいからな。俺も歓迎はしていない」
「そういう意味じゃありません」
志桜里は、真っ直ぐに洋館を見つめたまま、言葉を続けている。
「きっと、まだ……誰かが、ここにいます」
車は、館の正門前で停まった。 鉄製の門は、どこか軋むように開いている。いくつもの死がここにある、それだけは確かだった。
無意識に、呼吸を浅くした。うまく制御できない。脳裡に、燃え盛る叫びが木霊する。
黙って、耐えろ。凡て、飲み込まねばならない。
ずっと諦観と共に生きてきたはずだろう?
けれど、ここで『起きる』ことだけは、理解していた。
【第三章】蒼ざめた女(神依典彦視点)
「幽霊を見るのは、目ではない。罪の意識だ」
静謐の洋館
山の木立を抜けると、視界がぱっと開け、白い建物が姿を現した。
門は開いたままだった。車を進めると、砂利の音を吸い込む、しっとりと湿ったアプローチが続く。その先に立派な洋館が現れた。
どこかの成金が趣味で建てたという先入観から、もっとけばけばしい装飾の『なんちゃって洋館』を想像していた。
だが、実際に現れたのは霧のなかに沈む静謐な洋館だった。成金趣味とは程遠い。ヨーロッパの邸宅に対する強い敬意のような、どこか気品のようなものを纏っている。
けれど今では荒れ果て、ほとんど廃墟同然の姿を晒していた。
車を降り、洋館を改めて眺める。
玄関までの通路は石畳で、苔が広がっている。白い漆喰の外壁は、ところどころ黒ずみや剥がれが見え、場所によってはひび割れもあった。
左右対称に四組ずつ均等に並んでいる1階の窓。その白い木枠の塗装は、風雨に晒され剥げかけ、ささくれた質感を覗かせていた。
屋根の庇には落ち葉が積もっており、長らく掃除された形跡はない。ドアの脇の半月形の窓にも、上部にある明かり窓にも、蜘蛛の巣が薄くかかり、蔦が這っている。
建物の向こうに見える庭らしき空間は雑草に覆われ、かつて植えられていたであろう低木の輪郭もぼやけていた。
洋館を見上げた間宮は、心底嫌そうに溜息をついた。
「……まったく、しょうもない」
そして軽く舌打ちをしてから、続ける。
「オカルトマニアに肝試し、果ては配信目的のバカどもまで。こんなもんが名所扱いとはな。警察も頭を抱えている」
そして肩を竦め、冷笑を浮かべる。
この品格に満ちた館が荒らされる。その理由は単純で、ここが『幽霊屋敷』として知られているからだ。
明らかに長期間放置されてきたことは否定できない。しかし建築に興味のない俺にも、建てた者の美意識の名残は感じられた。ヨーロッパの田園風景に心を寄せた人物が、ここに相応しい住まいを慎重に作り上げた。そんな印象を受ける。
だからこそ、この洋館が心霊スポットとして騒がれていることに、違和感が付き纏う。
今回の集まりのために、鍵は外されていたらしい。俺は玄関のドアに手をかけ、そっと押し開けた。重い蝶番が、僅かに軋む。
空気の密度が変わるのを、肌で感じた。中はどこかひんやりしていて、閉ざされた空間特有の、外界から切り離された匂いが漂っている。
玄関は広々としていたが、決して華美ではない。正面には、奥へと延びる石張りの床が広がっている。かつて客を迎えるために整えられたであろう空間は、その役目を終えてしまっていた。
手入れの行き届いた時期もあったのだろう。だが今は、あちこちに薄く埃が積もり、床には微かな足跡が点々と残されている。ドアの両脇には、楕円形の窓が1個ずつ。磨りガラス越しの柔らかな光が差し込み、玄関を淡く照らしている。
右側の壁には、古びた鏡が一つ、掛けられていた。俺はふとその前で足を止める。鏡には、古びた室内と俺の姿がぼんやりと映っていた。
この静謐な館が、かつて『誰かの家であった』ということ。その事実だけが、空間に残された全てだった。
正面にある、館の内部へと続くらしき重厚なドアを開ける。冷たい空気が頬を撫でた。館の入口から繋がるそこは、随分と広々とした空間だった。
天窓から落ちる光が、斑模様の影を大理石の床に描いていた。石は所々ひび割れ、古びた赤い絨毯には過去の足跡が薄っすらと残る。
だが、それは空間を損なうどころか、むしろ不思議な風格を添えているようにも思える。
天井には、海をモチーフとしたと思われる繊細な装飾が彫り込まれていた。揺れる水草や綺麗な貝殻のような模様が、緻密に配置されている。この館が現役だった頃には、きっとこの天井単体でもアート作品と呼べただろう。
正面にある2階へと続く階段は広く、艶のある重厚な木材が滑らかなカーブを描きながら中央の踊り場に続き、そこから左右に分かれていた。
脇にある大きな窓から光が差し込み、浮かび上がるように埃が宙を舞っている。まるで映画のワンシーンに出てきそうな風情だった。
壁には群青色の絹が張られている。ところどころに褪せが見られるが、当初は相当に贅沢な仕立てだったのではないだろうか。
アンティーク調の椅子が疎らに置かれている。
艶のある暗い赤色のランプスタンドが、まるでまだ客を迎えるつもりでそこに立っていた。
虚飾の群像
壁際では、招かれた面々が円を描くように立っていた。なにやら妙な緊張感が漂っている。男も女も、どこか落ち着かない様子だった。互いに目を合わせるのを避けながら、ちらちらと周囲の人間を窺っていた。
誰かが咳払いした。空気が不自然に揺れる。
「……あー、ではまず、順に自己紹介でもしておきましょうか」
五十代くらいだろうか。少々恰幅の良い男が言ったが、戸惑いからか、皆が曖昧な表情を浮かべた。
一拍置いて、ピンヒールの女性が高慢に鼻で笑う。
「なにそれ、合コンじゃないんだから」
「あ、じゃあオレから……」
一人が咳払いしてから、口を開いた。
着ているグレーのスーツは、少し色褪せて草臥れているが、清潔な白シャツとのコントラストで不潔な印象は与えない。
「清風出版の羽賀宗佑です。うちの雑誌『月刊ジャスティス』は、裏社会や未解決事件を追ってましてね。こういう『曰く付き』の物件、そそられちゃうんですよ」
羽賀は軽薄そうな笑みを浮かべていたが、視線は誰よりも鋭敏に動いている。内心では、すでにこの場を記事に変換する計算を始めていそうだ。
次に答えたのは、自己紹介を提案した、ふっくらとした体型に飄々とした笑みを浮かべる男だった。
キャメル色のジャケットにベージュのスラックス、オフホワイトの開襟シャツ。小奇麗だが、襟元から覗く金のネックレスに多少の主張を感じる。
「ウェルステート不動産の宇田川と申します。この洋館の現オーナーです。ああ、電気がつかないのはですね、つい先日までは問題なく点灯していたんですよ。どうも設備が古いせいですかね、今日は調子が悪いようで……。近く、業者に修理を。ですが今日は日中ですし、窓から光も入りますので、このままご案内を続けさせていただければ」
そう前置きしてから、彼はにこやかに続ける。
「まあ、こちら、曰く付きの物件というやつですな。なかなか売れなくて困っておりまして。今回は売買の目途が立ったので、雪野先生に供養を依頼した次第です」
言葉の終わりに、まるでこの場に集まった全員に感謝するかのような笑みを浮かべたが、その目は笑っていなかった。
「朝比奈瑤子。ルシファビュラスのCEOよ。『美しさこそ女の価値』。私はその信念でここまできたの。ビジネスの世界じゃ、信念を持つ者が勝つもの。……嫌味に聞こえたなら、そう思っておけばいいわ」
ピンヒールの音を響かせ一歩前に踏み出した。完璧にセットされた髪と赤い口紅。その視線が俺に向けられたときには、思わず身を引きそうになった。他の参加者を見下すように一通り観察しながら強烈な自己紹介を済ませ、すっと唇を引き結んだ。
次々に名乗りを上げる面々の言葉を聞きながら、俺は心のうちで、そっと溜息をついていた。軽薄な記者に、胡散臭い不動産屋、自意識の塊のような実業家。どうしてこうも癖の強い人間ばかりが、この館に引き寄せられるのか。
次に口を開いたのは、ブラウン系ツイードのジャケットにワインレッドのネクタイを締めた男だった。胸元には同系色のチーフが差し込まれている。些か派手、見栄えを気にする人、という印象だ。
「山路靖。元は警察OBでね、今は清明大学の法学部で教えているよ。こういう場は慣れてるつもりだが。まあ、実に……雰囲気がある屋敷だな」
そう言いながら、その目は無遠慮なほどに参加者たちを見回している。まるでなにかを探るような視線。それは、俺にも一瞬だけ止まった。初対面の俺に向けられた、疑うような目つき。本当になんなんだ、この集まりは。
「荻原貴司といいます。『ひかりの園』っていう福祉施設で……。ともかく、子どもたちにとってこういう建物が……うん、いや……」
児童相手の仕事をしているからだろう、時計の文字盤が内向きなのが印象的だった。その語尾の不自然な硬さが耳に残る。表面は善良そうだが、卑屈な印象を与え、時折その目に暗い影が揺れる。
まるで自分の置かれた現状に苛立っている、そんな様子も感じられた。
荻原の目が一瞬だけ朝比奈と交差したかに見えたが、すぐに逸らされた。どこか所在なげに視線を落とす。
「真崎美緒、『グリーンウェイ郷土記念館』という郷土資料館の職員です。文化財の整理などを担当しています。……この館、取り壊すかもしれないんですよね。その前に記録を取らせていただきたくて」
どこか地味な印象の女性だった。目立たない無地の服に、最小限の化粧。清潔ではあるものの、控えめで慎ましい暮らしぶりが窺えた。自己紹介を終えると、真崎はさり気なく周囲の様子を窺った。
自己紹介が続く。だが、その裏で何かが始まっているような、奇妙な感覚。
「えーっと、株式会社翠嶺建設で、建築現場監督をしている榊原正嗣です。三十歳。今回は取り壊しなりリフォームなりが可能か調査を依頼されましたので。今日こちらに。……えっと、今日は調査ということで……すみません、あの、おれちょっと場違いかもしれませんけど……」
榊原は、チャコールグレーのジャケットに白いポロシャツ、濃いカーキ色のチノパンを合わせていた。派手さはないが、清潔感のある実用的な服装だ。
自分の足元を見るようにしながらの、要領を得ない話しぶり。左手でしきりに首筋を撫でながら、へらりと照れ笑いを浮かべた。右手には分厚いファイルがしっかりと握られている。
他の参加者たちの自己紹介を聞いている間、何かを言いかけて飲み込んだような場面が数度あったが、癖の強い連中のなかで緊張していたのだろうか。
間宮と雪野の紹介が続くと、それに倣って春一も名乗った。のんびりとした口調で、まるでこの場が現実でないかのような浮遊感を纏っている。
彼はまるで、『美しさ』という概念が実体を得て歩いている男だ。
真っ直ぐに貫いてくる、神聖な光を宿した澄んだ青紫の瞳。初対面の人間は、大抵、春一の清麗な面差しと、どんな宝石よりも美しい双眸に、惚けて魅入る。
だが、ここに集まった者たちは、そんな春一から一様に目を逸らした。
あの絶世の美貌に対して、あまりに珍しい反応だ。まさか本当に全員、後ろ暗いことでもあるのか。
最後に、俺の番が来た。名乗るだけのことなのに、妙に気を遣う空気だ。
「神依典彦です。東京電燈パワーエナジー勤務。……今日は付き添いです」
名乗りながら、参加者たちの『自己紹介』がどこか演技じみていたことを思い返していた。それぞれ何かを警戒し、慎重に言葉を選んでいたように感じた。
「へぇ、一流企業じゃないですか」
荻原が言う。感心しているような口ぶりだが、どこか卑屈さの滲んでいる。乾いた皮肉と、拭いきれない羨望が入り混じっている。別に威張るつもりなどなかった。
荻原の言葉の端に滲むものに、ざらついた気分になる。
30半ばに見えるが、初対面の年下にこの態度。社会人としてどうなんだ。
春一はそんなやり取りをよそに、天井を見上げ、彫刻や装飾を目でなぞっていた。傍らには、2階へと続く階段。研ぎ澄まされた意匠の中に、使用された年月が確かに刻まれている。
吹き抜け上部のアーチ窓からこぼれる柔らかな光が春一を神々しく照らす。
曲線を描く手すりに繊細な指を沿わせながら、何かを感じ取っているかのような動作。この場の、埃も虚飾も気にせず、まるで美術館を歩くが如く、優雅に。
だがその瞳の深さには、遠い祈りのような感情が滲んでいるようだった。
兄のその佇まいに、俺は得体が知れない不安に襲われた。代崎はこの館にあてられて昏倒した。
春一の美しい青紫の瞳には、現実とは違うものが映っている。この館で、兄は本当に無事でいられるのだろうか。
エントランスの空気が、少し冷えてきた。
幻燈の館
「こちらがヴェスティビュール、内玄関でございます。日本では除風室ともいわれます。扉の上に見えますのが、トランサムウィンドウと呼ばれる明かり取りですね。今ではなかなか見られない様式です」
乾いた声と共に、内玄関へのドアが重く開かれた。
応対するのは、不動産会社の宇田川だ。冷淡とは言わないが、どこか事務的だった。建物の歴史や曰くには触れない方針らしい。
参加者たちは、それぞれに異なる表情を浮かべながら玄関をくぐる。
漆喰の壁、木製のドア、風で微かに軋む床。そこには、誰かの手によって長く手入れされていなかった痕跡と、それでもなお残る品格が同居していた。
「エントランスの前室となります。広さはありませんが、天井が高く、閉塞感はございません」
ヴェスティビュールとやらは、磨かれた石張りの床で、落ち着いた色合いの壁とよく合っていた。
壁には古い額縁がいくつも掛けられており、そのうちの一枚に、海を背景にした写実的な絵画があった。
中央には、銛のようなものを掲げた筋肉質な男の人魚が描かかれている。俺には、やや異様にも思えたが、おそらく神話由来なのだろう。波飛沫や装飾の描写が細密だ。芸術には疎いが、その作業精度の高さには感心する。
「曰くがなけりゃな。しっかし、なんつーか。……掃除、大変だっただろうな」
空間を見渡した羽賀がそう呟いたが、宇田川は聞こえなかったふりをして説明を続けた。
外見は40代半ばに見えるが、記者を名乗っていた男が随分と若い言葉を使うな。
「では、エントランスに戻りましょうか。こちらが、この館のグランドホールですね」
案内に従いエントランスに戻り、今度はエントランスの蘊蓄を聞き流す。
「では、順に部屋をご案内します。まずはこちらのダイニングルームを」
朝比奈瑤子がふと振り返った。彼女の視線は、エントランスホールの側面にある、閉ざされたドアのひとつに向けられていた気がする。
俺の隣で、凪のごとく黙然と歩く春一を見る。艷やかな黒髪が肩を覆うように流れる。神々しいまでに整ったその顔。兄はいつも通り、幻想的で清澄なオーラを漂わせている。
その美しい横顔に影が走ったように見えた。そのときだった。
突如、エントランスの窓辺近くの空間に、幻の情景が浮かび上がる。それは実体を持つかのようにあまりに鮮明で、立体的な映像だった。
この館に現れるという『幻燈』が始まったのだ。
誰かが小さく声を漏らす。
ふいに、絹を裂くような叫び声がエントランスに響き渡る。朝比奈瑤子のものだ。朝比奈の手から浅緑の水筒が滑り落ち、底が床を小さく叩いた。
唐突に朝比奈が取り乱し、叫んで崩れ落ちたことに混乱する。
「なによ。なんなのよ」
そして続くのは、支離滅裂で不穏な響き。もはやその様子は、泣き喚くという表現が正しいと思える。
「今さらでしょう。私悪くないわよ!もう死んだはずでしょう!」
一体、彼女は何を口走っている?
朝比奈は、長い黒髪に巻きを入れた艶やかな髪型、濃い口紅、暗い赤紫のスーツに高価そうなアクセサリーを身につけ、自信に満ちた立ち居振る舞いの女性だった。
確かに超常現象だ。だが、過剰なほど自己演出にこだわっていた彼女が、ここまで見苦しく取り乱すものだろうか?
この幻燈で視えているのは、窓の外の庭を眺め笑いあう、幼い少女たちの日常の一場面に過ぎない。
そもそも朝比奈の叫びは、何かを見た人間のそれではない。俺には、まるで、見たくない記憶を暴かれたような反応に思えた。
ふっと、幻燈は掻き消えた。だが、遠くから声が聴こえた。別の場所で、また幻燈が現れたのか。だが今度は、子供の悲鳴のようなもの。吹き抜けを通して音が落ちてくる。2階の部屋だろうか。
さらに取り乱す朝比奈。腰が抜けたのか、エントランスの隅に座り込み、華やかに整えられていた髪を振り乱し叫ぶ。
「……なんでよ!あんた、大人しく死んでなさいよ!」
駆け寄った一同が目にしたのは、恐怖に震えながらも幻燈の悲鳴が聞こえる階段を、取り憑かれたように凝視する朝比奈の姿だった。涙で口紅が滲み、ファンデーションが剥がれて素顔が覗いていた。
俺はますますこの館に警戒を強める。何かが、狂っている。幻燈が?それとも、この空間そのものか。あるいは彼らが?
「……あんなの、……何よ、なんでよ、冗談じゃない……!」
口走った言葉は断片的で、内容は明確でなかったが、ただならぬ異変が起きたのは明らかだった。
再び上がった悲鳴を聞いた途端に、朝比奈はさらに青褪めた。心配して駆け寄った荻原に、激しく拒絶を示す。
「触らないで頂戴!汚らわしい!」
そう叫ぶと、猛烈な勢いで走り出し、階段から遠ざかるように、右側のドアへ向かい、その部屋へと駆け込んだ。
呆気にとられるが、何かが少し引っかかる。
ここに映し出されたのは、13歳程の少女と、おそらく四歳程度の女の子。姉妹だろうか。お揃いの黄色いワンピースと三つ編み。
あの少女、見た覚えなどない顔なのに、俺はなぜか知っているような感覚に囚われた。なぜだ?
「どこかで、見たことがある気がする……」
朝比奈の叫び声の余韻が、耳元で反響する。
赤いロベリア
その時、外の空が急に暗くなった。
まるで帳が下りるように、陽の光が一気に翳る。大きめの採光窓や楕円形の階段窓から差し込んでいた明るさが急激に失われ、エントランス全体が濁った灰色の影に覆われた。
羽賀が、そっと窓辺へ歩み寄って外を覗く。
「雨雲か?それにしても急だな」
山の天気は移ろいやすいとはいえ、少し不自然な気がした。まるで山全体が何かに覆われたような、濁った空。
「気圧が、妙に重いな」
間宮が呟く。米神をぐっと押さえてから、周囲を警戒するように見渡した。
そこへ、声が上がった。
「……朝比奈さんがいません」
朝比奈が駆け込んだ部屋を覗き込んだ榊原だ。
錆びたドアノブには軽く埃が積もっていたが、今はそれが不自然なほどに擦られ、ドアからは微かに湿った空気が流れ込んでいる。
「探してあげないと」
そう言った春一は、なぜかエントランスの右手に位置するドアを眺めている。その麗しい瞳には夜を切り取ったような深さがあった。
「まさか、一人で奥に行ったのか?」
間宮が面倒くさそうに舌打ちした。俺は間宮とともに、その応接間らしき部屋へと足を踏み入れた。
室内を一通り見渡した間宮が側面のドアに手をかけ、力を込める。鍵は、かかっていなかった。軋む音とともに、館の内部へと続く廊下が現れた。
「朝比奈さん!」
呼びかけに返事はなかった。廊下は長く、そして妙に静かだった。赤いカーペットも剥がれかけており、足音だけが薄く反響する。まるで、館そのものが音を呑み込んでいるようだった。
いくつかの部屋を手分けして探索するが、彼女の姿はない。だが、確かにここへ入った形跡がある。廊下の埃に残されたヒールの跡。
それはひとつ、またひとつと続き、やがてあるドアの前でぷつりと途切れていた。
廊下の突き当たりに、なにか模様が刻まれたパネルがはめ込まれた片開きの木製ドアが、ほの暗い壁に食い込むように佇んでいた。
「ここか……?」
ドアは重く閉ざされていた。内側から鍵がかかっている。その上、開けようとするたび、まるで誰かが反対側から押し返してくるような圧を感じた。古い建築なのに、ドアは揺るぎもしない。
「無理だ。一旦戻ろう。人手が必要だ」
俺と春一は、並んで赤いカーペットの廊下を歩く。遠く窓の景色を眺めていた春一が、ふと俺に向き直り、祈りのような声で囁いた。
「典彦、この屋敷には悪意がある。どうか気を付けてね」
透き通った美しい瞳に影が差すと、言いようのない不安がよぎる。
春一の言葉を聞いた誰かが笑った。だが、その笑いにすら、張り詰めた空気が滲んでいた。
そして、戻る途中。廊下の窓の向こうに、雷鳴が閃いた。その閃光はまるで、館そのものを呑み込むかのような、威圧的な白さを放っていた。
雨が降り始めた。初めは細く、やがて、豪雨。山を包むように、激しい音が館を叩きつける。
エントランスへと戻ったとき、誰かが呟いた。
「……酷い雨。あの坂道、今日はもう降りられないかもしれませんよ」
その何気なく溢れたらしき一言に、この洋館までの道のりを思い出し、はっとなる。他の者たちもそうだったのだろう。誰も口を開かず、ただ互いの顔を見合わせた。この館に閉じ込められる。強い雨音の中で、不気味な予感が音もなく広がっていく。
【第四章】物言わぬ傍聴人(神依春一視点)
「声を失った者の沈黙が、もっとも雄弁な証言となる」
白蝶貝の珠
惨劇の幕が上がった。
朝比奈瑤子の亡骸が発見されたのだ。
見つけたときには、朝比奈瑤子は既に硬直していた。表情は穏やかにも見えるが、眼瞼は半開き、口唇は微かに開いた状態だった。
長椅子に座ったままだが、指先は不自然に屈曲、左手は胸元を掻くような位置で硬直していた。
その姿勢は、呼吸が浅くなる中での無意識に胸を掻くような動き、死の直前に呼吸への苦しみ、空気飢餓があったことを示唆していた。
堅牢なオーク材の扉は内側から施錠され、硝子窓も凡て閉ざされていた。換気口には金網が嵌められ、バールのようなものでも使わねば破れぬほどの厳重さ。
この部屋は、誰の出入りも許さぬ完全な密室だった。
「トリアゾラム……。いわゆるハルシオン。一般的な睡眠薬だな」
絨毯の上、脚元に転がっていた琥珀色の小瓶に目を留め、間宮が低く呟いた。間宮が手袋越しに慎重に拾い上げた瓶のラベルには『Triazolam 0.25mg/tab』と印字されている。内容物は無く、蓋は外れたままだ。
「トリアゾラム単体で命に関わるような呼吸困難はまず起きない、と聞いたことがあるが。……いや、呼吸を浅くする可能性はある」
ベンゾジアゼピン系の睡眠薬を過剰摂取。単体での致死は非常に稀な事例だ。呼吸抑制を引き起こす可能性も極めて低い。
「用量としても致死域に達することは無いはず。だが、致死量には届かなくても、持病やアルコール、併用薬次第では十分に危険だ。この女『アレ』のショックで間違って過剰摂取でもしたのか? とはいえ、あの様子じゃあ、服毒自殺の可能性もあるな……」
元刑事の間宮は、現時点でのあらゆる可能性を口にする。だが間宮にも、まだ判断はできないらしい。
間宮が常に衛生手袋を携行しているのは、職業探偵の嗜みか、それとも元刑事としての習癖なのだろうか。呂色のドクターズバッグから当然の如く取り出された。
この死は、誰もが薄々感じ取っていた『何か』が、ついに姿を現した瞬間だった。いまこの時、この館に『異常』が棲んでいることを、皆が現実として理解した。
物言いたげにこちらを見てきた間宮を、無言で見つめ返す。
典彦は俺の隣で黙っている。その表情はひどく硬い。今は事態を見守るしかない。そして何より、俺を今すぐこの場から遠ざけたい、そう考えているようだった。俺がこの亡骸を『視て』傷つくことを警戒しているらしい。
彼女の死は、決して唐突なものではなかった。いくつもの兆しが、確かに存在していたのだ。
午後四時。
日は暮れかけ、硝子窓の外には不安定な天候が広がり続ける。そして嵐がますます酷くなってきた。雷鳴が館を揺らすように鳴り響く。
朝比奈瑤子が閉じ籠っていると思われる部屋の扉に向かって、皆が何度か声をかけたものの、中から返事はなかった。
貝殻の浮き彫り意匠が施された、オーク材の堅牢な扉。その沈黙に、誰もが気を揉みながらも、やがて、今はそっとしておこう、という空気が場を支配した。
朝比奈瑤子を除く参加者たちは宇田川の案内に従って、壮麗な館内を、再び巡ることとなった。
宇田川は見学を仕切り直すかのように、グランドホールの右手に構えられた格調高い観音扉へと歩み寄った。あの時、朝比奈瑤子が駆け込んだ部屋だ。
「こちらがダイニングルームです」
時代を超えた証人のごとき風雅な扉を無造作に押し開ける姿からは、この館への敬意が微塵も感じられない。
雅趣ある洋灯。天井より垂れる、硝子の雫が連なる絢爛たる飾り電灯。夕闇の薄明かりが差し込む広い硝子窓。深みのある木張りの床。
壁に掛けられた絵画は、貝殻や水草を模した古風な意匠の額縁に包まれ、錆と埃に覆われながらも、かつての優々たる物語を閉じ込めていた。
「こういった洋館のダイニングルームは、かつては貴族たちが食事を楽しむ場として、使用されていた部屋なんですよ」
宇田川は大袈裟に手を振りながら説明を続ける。
「ここでも多くの社交が行われ、いくつものパーティが催されたことでしょう」
滔々と言葉を並べる、宇田川の声だけがやけに大きく響いていた。
説明を聞いていた参加者の一人、榊原がふらふらと部屋の中央へ出て、華やかな長卓を撫でた。
「へぇ、そういうの想像すると、ちょっと面白いですね」
彼がどこまで意図しているかはわからない。でも、かつてこの部屋で紡がれていた記憶に想いを馳せる言葉に、救われる思いがする。
新聞記者と名乗った羽賀は、苦笑交じりに宇田川の説明に突っ込む。
「そういうもんかね。こういう広い部屋、オレは全く落ち着かねぇよ。こんなとこでメシ食うのか?広すぎだろ。お貴族さまとは考えが合わねぇな」
羽賀の言葉に、何人かが小さく笑った。
「そうか?チェンバロの音色が似合いそうな部屋、って感じだろ」
言葉に含まれた知識の匂い。教養を感じさせる一言は、冷静かつ論理的な印象を与える男である間宮だ。
ほかの参加者たちの意外そうな表情に、しまったという顔をする。周囲の視線に気づいた間宮は、直ぐに口元を引き結んだ。
「育ちって結構、出ますよね」
水を差すように、薄く笑って言ったのは荻原貴司だ。
羽賀は一瞬黙りこみ、ちらりと視線を向けたが、それ以上は言わなかった。
山路が腕を組み、やや見下ろすように言った。
「ふむ、基本は押さえてあるな。こういう格式ある空間は、何度も見てきたからね」
自慢げな口ぶりが鼻についたのだろう、羽賀は半笑いで流し、間宮は露骨に胡乱な顔をした。
志桜里は男たちの会話をよそに、壁の絵に目を留めた。
「素敵な絵。これを選んだ方は、ここの娘さんね。お父さまがお好きだったイギリスの田園風景。このお屋敷にぴったりだわ」
壁の絵を褒めた志桜里の視線を追い、荻原貴司はちらりと絵を眺め、すぐに興味を失ったように肩をすくめた。
「へぇ、わかる人はいいですね」
笑みを浮かべてはいたが、声に滲む棘は隠せない。
志桜里は笑顔のまま、やんわりと返す。
「感性はそれぞれですもの」
空気が僅かに冷えた。間宮が咳払いし、羽賀が荻原貴司を一瞥する。
典彦は皆の会話から半歩引いた位置に立っていた。彼は建築にも芸術にも興味がない。俺の横顔を眺めながら、宇田川の語る台詞も、参加者たちの感想も、等しく聞き流している。
この空間は、年月を重ね、寂れながらも、どこか清雅な趣があった。
艶を帯びた深い赤褐色の長卓が部屋の中央にゆったりと据えられ、参加者たちはその周りを取り巻くように立ち、部屋を見渡している。
「このダイニングテーブル。これもまた、時の流れの中で残されたひとつの美ですね。この美しい部屋に相応しい一品ですよ」
ひときわ雅やかなキューバンマホガニーの長卓へと向けられる参加者たちの視線に気づいた宇田川は、そんな一言を添えた。
彼の言葉にふと反応したのは、俺と典彦を除けば最年少の参加者、美緒だった。
「本当に、美しい部屋です」と、たった一言だけ。
その声は、俺にはひどく寂寥感を帯びて聴こえた。そこには喪われた大切なものを思い出す響きがあった。
宇田川は、彼女の言葉をそうでしょうと頷くだけで聞き流し、その響きを気にも留めずに部屋の隅にある装飾の話を始めた。
説明が一区切りしたところで、榊原が宇田川に問いかける。
「……ところで、朝比奈さんはもう大丈夫なんですかね?もう結構時間たってますよ」
朝比奈瑤子を気にする素振りを見せるのは榊原だけだ。
「なに、女ってのは気分屋だからな。ほっときゃそのうち出てくるって」
羽賀が軽く笑いながら榊原を諫めた。
宇田川は軽く肩を竦めるようにして、次の案内へと移る準備をする。
「……まあ、のちほど様子を見て参りますよ。それでは、次の部屋へご案内いたしましょう。お次のリビングは、エントランスを経由する必要がありましてね」
そう言った宇田川は、参加者たちを促しながら先ほど通ったグランドホールへと続く豪奢な扉へと向かう。
リビングルームを改めて案内すると告げる宇田川に続き、参加者たちは再びグランドホールを後にする。
その瞬間、美緒の眼差しが、グランドホールの右手にある閉ざされた観音扉に向けられた。海草の浮彫細工と泡を模した白蝶貝の象嵌が施された両開き扉。その部屋の説明はまだされていない。
常に落ち着きと理知を湛えていた美緒の瞳が揺らぎ、その一瞬だけ彼女の空気が張り詰める。
宇田川も典彦も、ほかの人々も、その視線に気づかない。何も言わずに歩みを続けた。
俺には、彼女の目を吸い寄せた談話室から、幼い軽やかな笑い声と優しい旋律が今も鮮やかに聴こえているのに。でもそれに反応を示す者は誰もいない。
そのままグランドホールを背にし、次の部屋へと案内が続けられていく。
神の器は黙して語らず
「こちらがリビングルーム、つまり客間です。かつてはこの館の『もてなし』の中心だった空間ですね」
そう言って押し開けられた古色蒼然たる扉の向こうには、かつての栄華をそのまま封じ込めたような迎賓の間が現れた。
羽賀は肩を竦めて口を尖らせた。
「これで客間ぁ?ちょっと物寂しすぎでしょうよ……」
色褪せながらも、なお格調の高さを保った部屋だった。
窓帷は銀糸を織り込んだ深紫の重布。壁面は海洋寓意のダマスク様式で覆われている。貝の輪郭と波紋の反復文様が僅かに浮き上がり、天井の周縁には宮廷建築を思わせる貝縁の漆喰装飾が連なる。
部屋の中央の壁際には大理石を積んだ重厚な暖炉。海を泳ぐ女神の浮き彫りや、巻貝と水泡の意匠を施した鏡。典麗な花紺青の波斯絨毯が床を覆い、古雅な曲脚を持つ舶来の家具が上品に配置されている。
だがその凡ては、時に蝕まれていた。壁も絨毯も色褪せ、暖炉は煤けて、彫刻は一部欠けていた。
「……まるで時間が止まってるみたいだな」
リビングルーム全体を眺めた間宮が思わず、といった風情で、詩的な感想を口にする。
天井には、グランドホールのものよりやや小ぶりな、硝子の雫を連ねた華麗な吊り電灯。板硝子のサッシュウィンドウの向こうには、荒れ果てた庭が広がっていた。
部屋には、優美な曲線を描く猫脚の円卓や長椅子、肘掛椅子が並んでいた。ルイ十五世様式と思しき、雅致を湛えた調度だったが、いづれも布地の縁には虫喰いの痕跡があった。
榊原が、椅子のひとつに近づいて、布地を指でなぞった。
「なんつーか、座ったら壊れそうな形状ですね……いやでも、こういうのがオシャレなんすよね。 いわゆるアンティークってやつで」
神妙な口調で言うが、どこまで理解しているのかは怪しい。
それを見て、志桜里が微笑を浮かべる。
「この手の椅子、わたしの家にもありますよ。アンティークな猫脚の家具、好きなんです」
空間そのものに向かって語り掛けるような、柔らかな声色。
「こちらは、来客との歓談や、憩いのひとときを過ごす部屋ですね」
宇田川は、志桜里とは対照的に、この館の優しい歴史に感情を寄せることなく言葉を連ねた。
その横で、山路がふっと鼻を鳴らすように笑った。
「歓談ねぇ。今のこの状態からは想像しにくいが。まあ、空間の作りからして、応接の動線はしっかりしているようだがね」
山路が腕を組んだまま、視線を流し、部屋の構造を品定めしながら批評交じりに呟く。その声には癖のある自信が強く滲む。
「窓の位置とソファの配置。ふむ、よくできてるな」
特に目新しいことは言っていないが、少々自信過剰なその調子が彼なりの振る舞い方なのだろう。
荻原貴司が口元に薄っすらと笑みを浮かべながら言った。
「ま、ここで笑い声が響いてた時期もあったんですよ」
随分と軽い調子で、笑いながら。
俺は、美緒をちらと視てから相槌を打った。
「そうでしょうね」
その言葉は荻原貴司に対する肯定でも共感でもなかった。
なんの小説の一節だったか。悪人ほど記憶が抜け落ちるのは早い。そんな言葉を思い出したのは、彼の声があまりに軽かったからだ。
この館で何が起きたのか、彼ほど知る者はいないだろうに。
美緒は薄く微笑みを浮かべていたが、その睫毛は微かに震えていた。頑ななまでに美緒の視線は、巻貝と水泡に縁取られた女神像が浮かぶ、煤けた暖炉の彫刻に固定されたままだった。
窓の向こうの夕暮れが、部屋のなかに沈みこんでいく。
かつて『もてなしの空間』にあったもの。それはもう、失われたのだ。
リビングルームの案内を終えた宇田川は、手馴れた所作で長い廊下を進み、波模様の意匠の真鍮の取手に手をかけると、深い色合いの堅牢な扉を押し開けた。
「こちらが図書室です」
案内された静謐な図書室は、書棚は三方の壁を天井まで覆い、書物たちが無秩序に居並んでいた。18世紀の洋書、明治初期の図書、革の工芸製本。
欧文や旧仮名、日本では見慣れない文字体系の本まで混ざり、どれも時代の重みを湛えていた。
「蔵書はすべて、この館の旧主人が生前に集めたものです。文学から神秘学、建築様式、薬草学、果てはオカルトに至るまで、実に幅広い分野に手を伸ばしていたようですね」
紺桔梗の壁紙。書棚の彫刻にはイルカやトリトン、珊瑚の緻密な高浮彫。海洋神話的な装飾が室内の随所に施され、書庫全体が深海を思わせる静謐な品格を湛えていた。
部屋の中央には黒檀の机が据えられ、その上には深縹の硝子笠をもつ古風な読書灯が整然と置かれている。
重厚な書斎机の前には、真鍮の貝殻鋲が打たれた革張り読書椅子が6脚。張地が傷んでこそいるが、今なお、しっかりとした造りだ。誰かがここで読書をし、書き物をし、思索に耽っていた時間の痕跡が穏やかに残されている。
宇田川の案内が終わると、誰も言葉を発しなかった。沈黙が部屋を満たす。微かな埃と革の匂いが漂い、ここだけ時間が止まったようだった。
その静寂を破るように、志桜里が閲覧机にそっと手を置いて言った。
「……朝比奈さんのこと、やっぱり気になります。幻燈から逃げ出してから、戻ってきてないし。嫌な感じがするんです」
言葉の余韻が、誰の頭の中にも残る。
「あの現象、『残留思念』に見えました。『死者の強い感情』が、場所に焼き付いて、それがわたしたちの前に現れる……」
志桜里の口から『残留思念』という言葉がこぼれた瞬間、荻原貴司の目の奥が微かに揺れた。彼には随分と恐ろしいものなのだろう。表情には出さず、口を引き結んだままだが、その掌が無意識に、深いポケットの中で強く拳を握っているのが判った。
美緒がそっと目を伏せた。口元に指を添え、強く言葉を封じ込めた。蒼ざめた横顔が、室内の薄明かりに沈んでいる。幻燈を語る志桜里の言葉が、過去の傷に触れた、そんな反応だった。
やがて彼女の視線は僅かに揺らぎ、この場にいる数人の顔色をさりげなく窺った。そこには、確かな冷たい拒絶が滲んでいた。
間宮は固く腕を組んだまま、表情ひとつ動かさず瞬きもせずに志桜里を見つめていた。彼は、『残留思念』などという言葉に、心底うんざりしている。
だが同時に、否応なく納得しかけているのだ。
彼は今まで、俺にも志桜里にも礼儀を保っていた。だが本当は、オカルト的なもの一切に激しい嫌悪感情を持っている。しかし彼自身が、すでにこの館の異常、『幻燈』に触れてしまった。
彼がこの状況にどれほど苛立っているか、それでも冷静であろうと努めているか。それが、痛いほどに伝わってきた。
参加者たちの顔色より、残留思念へと想いが傾いているのだろう。志桜里はどこか遠くを見るような素振りで、推理を続けた。
「『幻燈』はただの映像じゃない。誰かが、強い想いを遺したまま、そこにいて。その想いを残留思念として視せてくる。その感情を語りかけてくるんです。朝比奈さんは……その呼びかけを受け取ってしまったのだと思います」
重く沈んだ空気の中で、誰も直ぐには言葉を返せなかった。
こちらを観察する典彦の視線を感じながら、沈黙したまま、志桜里の話を聞いていた。
……志桜里さん。それは違うよ。
『幻燈』は残留思念の実体化じゃない。
あれは『再生』だ。
この館に焼き付いた『過去そのもの』。
館の記憶だ。
それが俺たちの前に現れている。
ここに亡者はいない。あるのは過去だけ。
ただ、十五年前ここにあった『真実だけが』鮮やかに映し出される。
今はまだ、それを言うべきではない。志桜里が語った『残留思念』という言葉は、オカルト的な用語として、皆に理解しやすい単語だろう。とても人間的で、きっと皆の心に受け入れられやすい。
話せば、恐怖を煽る。
だが今は、彼女の誤解に黙って乗るのが正しい選択だ。この錯誤は、きっと盾として機能する。俺は寂として周囲を見渡した。
嵐が止まない。
思考を胸に秘し、沈黙を選ぶ。
やがて彼らは、扉の前に立つだろう。
秘書室の死体
ただの霊的現象ではなく、何かが『語りかけてくる』。志桜里の言葉が、重く、一同の脳裡に幾度も過ぎる。
午後六時三十分。
時刻としてはまだ宵の口のはずだったが、窓の外はすっかり夜だ。黒々とした雲が空を覆い尽くし、雷鳴が轟く。風が閃光とともに吹き荒れ、雨は横殴りに変わり、硝子窓を打ちつけている。
「……あの」
その沈黙を破ったのは、榊原の掠れた声だった。明らかに不安を滲ませた口調。
「朝比奈さん、本当に大丈夫なんでしょうか。あれからずっと戻ってきてないっすよ」
再び榊原が発した、朝比奈瑤子を案じる言葉。だが、今度は皆が耳を傾けた。榊原は、頻繁に瞬きを繰り返しながら、しきりに首を撫でている。
「ああ、まだ引き籠ってんのか、あの女」
間宮の声は低く、けれど苛立ちが隠せていなかった。
責任を避けたいのだろう。山路は、心配を装う決まり文句を口にした。
「こんな天気だ。様子を見に行ったほうがいい」
しかしその一言が、場の緊張に一石を投じる。
榊原が顔を上げ早口で話し出す。
「そ、そうですよね。とりあえずまた部屋を見に行って。ドアが開いていれば、ちょっと探してみましょうよ。……ほら館内、そこまで広くはないし。……閉まってたら、ちょっと声をかけてみるだけでも」
羽賀は頷きつつも肩を竦め、冗談めかして軽く反論する。
「まあそうなんだけど。でもなぁ、いやぁどうだろう?あの人えらいプライド高そうだったし、あんまり刺激したくなくない?」
「そんなこと、言ってる場合じゃないです」
志桜里の言葉は、普段の控えめな調子にしては鋭かった。
その場にいた全員が、自然と視線を交わす。誰もが同じことを思っていた。もし、何かがあったとしたら。
『呼びかけを受け取ってしまった』という志桜里の言葉は、得体のしれない恐怖、彼女が何かと対話したのではないかという危惧を呼び起こしていた。
「刺激したくはないけど……放っておくのもどうかな」
美緒は髪を弄りながら、不安げに言葉を添える。
誰もが、心のどこかで朝比奈瑤子が、何かに巻き込まれているかもしれないという予感を、言葉にせず共有していた。
朝比奈瑤子が引き籠ったままの、貝殻の意匠が施された分厚いオーク材の扉の前に、再び人影が集まった。
声をかけても、返事はなかった。
「朝比奈さん?」
「瑤子さん?」
廊下に響く呼びかけに、返ってくるのはただ、窓を叩く嵐の余韻だけ。精緻な浮き彫り細工が施された重厚な扉。その錆びた取手を揺らしても、中は静寂そのものだった。
典彦が扉の取手を握り、捻ろうとするが、内鍵がかかったままだ。
「ダメだ。まだ内側から施錠されてる」
典彦が呟く。
間宮が低く呻くように言った。
「この部屋、内鍵しかないのか。面倒な。バール持ってこい。確か工具箱があったろう」
羽賀が顔を顰める。
「待てよ、それって壊すってことか?」
山路が保身を滲ませつつ言い添えた。
「他にどうする? もし倒れてたら、責任が取れるのか? 時間の問題かもしれんぞ」
典彦は軽く頷き、淡々と依頼する。
「宇田川さん、工具箱。玄関脇にありましたね」
すぐに榊原と宇田川が走って戻ってきた。手には、やや錆びついたバール。
「おれやりますよ。慣れてるんで。……じゃあ、いきますね」
榊原が短く告げ、バールの先を扉の隙間に差し込む。何度か角度を変え、力を込めた瞬間。
鈍い音を立てて、扉が内側に少し押し開く。部屋の空気が、一瞬で外気に流れ込む。淀んだ冷気が、足元を撫でた。
「朝比奈さん?」
志桜里が重厚な扉の隙間からそっと呼びかけた。
返事はない。重たい扉を大きく押し開けると、窓帷の開いた硝子窓から響く、嵐の轟音が襲ってきた。
誰もが息を呑む中、懐中電灯を構えた間宮が先に足を踏み入れる。間宮の視線に従い、俺と典彦が後に続く。
懐中電灯の光をゆっくりと暗い部屋の奥へ向けた。長椅子の背もたれ越しに、何かの気配があった。ずれているクッション。床に落ちたスカーフ。
間宮がそっと視線を滑らせたその先に、朝比奈瑤子がいた。
青白く血の気を失った顔は硬直し、唇には泡の跡。脚元には小瓶が一つ転がっている。
「……!」
間宮が息を呑み、長椅子の横に片膝をついた。
「脈がない」
淡々と独り言つ。
長椅子の肘掛けにだらりと落ちた右手。呼吸抑制の名残か、爪は僅かに紫色を帯び、指先は氷のように冷たく硬い。
その指先に触れて呟く。
「冷たいな。それに硝子のように硬い……」
間宮の声は低く、それでいて確かだった。
長椅子に腰かけたままの朝比奈瑤子は、すでに死後硬直に入っていた。顔面は酸素飽和度の低下を示す特有の青紫。半開きの眼瞼から覗く縮瞳。唇の端から、まだ乾ききらない淡い薄紅色の泡が零れている。左手は胸元に浮かびかけたように止まり、そのままの姿勢で凍りついていた。
その亡骸の発見から間もなく、間宮が慎重に死因を確認する。
彼は事務的に検分を進めた。
「死後硬直が始まっている以上、二時間は……。いや、死亡時間は現在不明。死因は服毒の可能性が高い」
間宮の冷静な声が、室内の空気を震わせた。
間宮の視線は自然と部屋の細部へと流れ、部屋の四隅を見渡す。彼の思考が加速していくのが解る。
窓も施錠され、換気口には金網。オーク材の扉は内鍵で閉ざされていた。俺たちが抉じ開けるまで、外から開けられた形跡はまったくなかった。完全な密室だ。
脚元には琥珀色の小瓶が転がり、小さなラベルには『Triazolam 0.25mg/tab』の印字。
間宮が懐中電灯を典彦に手渡す。典彦はそれを受け取り、検分中の間宮の手元を照らしながら、眉間に皺を寄せて呟いた。
「薬物……ですか?」
彼らの横には、朝比奈瑤子の所持していた漆黒の手提げ鞄、Chlorisのハイエンドモデルであるベトゥラ35。ポロサス素材のそれは、フラップが開いた状態で亡骸の隣に無造作に置かれている。紅玉の赤い光がちらりと反射するのが見えた。
「亡くなっています……朝比奈さん……」
部屋の入口から、志桜里が震える声で告げた。室内の間宮の声は聞こえない位置だ。ただ彼女は感じたのだろう。手首に巻かれた鈍く光る美しい細工の腕飾りを撫でながら目を伏せている。
だが、その言葉に誰もが身を固くした。
「なんでだよ。信じられねぇ……だって、このひとは……!」
榊原が震えた声をあげてから、強く唇を噛む。
山路が早口で喋り出す。
「密室だ。内側から鍵がかかっていた。外からの侵入は不可能……死因は自殺か?いや他殺かもしれん」
冷静を装おうと必死だった。だがその声には抗いがたい恐怖が潜んでいるようだ。彼は元刑事の間宮とは違う。元警察官とはいえ、遺体と向き合う日常の経験はないのだ。
誰もが、先ほど志桜里の口から語られた『幻燈の原理』を思い出していた。
何かが語りかけてきた。
それが死へと繋がるものだったとしたら?
参加者たちの脳裡に、あの時、異様なほどに取り乱した朝比奈瑤子の叫び声が響く。
こうして、第一の亡骸の発見は、無言の衝撃をもって幕を上げた。
雨音が、まるで皮肉な拍手のように、硝子窓を叩き続けている。
【第五章】愚者のあやまち(神依典彦視点)
「真実を知る者が口を閉ざす、それは無私の誓約である」
仄暗い館の中で
18時40分。混乱は、音もなく始まった。
発端は、簡易的ながら遺体の検分を終えた間宮が、警察に連絡を取ろうとしたことだった。
彼は、私物の医療用ライトをしまうと、遺体の傍から立ち上がり、俺と春一を伴って部屋を出た。
精緻な細工が施された重たいドアを閉める。雨音だけが響く廊下で、他の面々が不安げな表情でこちらを見つめていた。
間宮は周囲を見渡しながら、慎重に言葉を紡ぐ。
「死亡推定時刻は現時点では断定できない。外傷は見られず、状況からして服毒の可能性が高い。意図的な服薬による自殺か、あるいは偶発的な過剰摂取なのか、現段階では判断材料が不足していて、判断できない。どちらの可能性にも証拠も根拠もない」
バールによって破壊されたドアの前には、死の余韻などという生温い表現では片付けられない、濃密で重苦しい空気が漂っていた。
「とにかく、警察を呼ぶんだ」
山路の声が上ずる。
間宮は頷いて手袋を外し、スマホを取り出した。スリープを解除すると、眉を寄せて画面を見つめる。
「……圏外だ。まったく電波を拾わない」
「圏外?都内だろ、ここは」
間宮の一言に、皆が次々とスマホを取り出し、そして顔を引き攣らせた。俺のスマホも『圏外』だった。俺が促すと、春一もショルダーバッグからスマホを取り出した。
「電波、届いてない」
春一が暗がりで画面を覗き込み、小さく呟いた。
スマホは誰の手元でも無力だった。
「この建物、山に囲まれてますから」
真崎がそう呟く。
そんな彼女を一度凝視した榊原は、青褪め、震える声で言った。
「あの、なんとか警察に連絡をとらないと、ですよね。……その、無線なり固定電話なり、の確認をしないと、いけない……」
「ああ、まずは固定電話と無線機を確かめよう」
間宮が声を張り、固定電話と、管理人室の無線機を順にチェックするよう指示を飛ばした。
「間宮さん。こちらのお部屋、昔は秘書室ですよ。まずは、ここの電話機を確認しておきますか?」
春一が、朝比奈瑤子の遺体のある部屋のドアへ、手のひらを向けて指し示す。
ぎょっとした表情で春一と目を合わせた間宮は、顔を顰めながら背後に向き直り、そのドアを開けた。
奥の机には埃まみれのダイヤル式電話が置かれていた。間宮が受話器を手に取りダイヤルを回すが、首を横に振る。
「……繋がらない。固定電話も無理なのか」
俺は即座に否定する。
「いえ、そうとは限りません。PBXなら主装置次第です。個別回線なら他の部屋は通じる可能性があります」
「PBXってなんですか?」
俺の言葉に対し、部屋に踏み込んだ真崎が、不思議そうに問いかけた。
その後ろから、榊原がまごつきながら、彼女に丁寧に解説した。
「PBXってのは、えーと、つまり建物全体の電話回線を制御する主装置というのがあって、そこから各部屋に内線が伸びてる仕組みです」
続けて榊原が、俺と間宮に言った。
「管理人室に配電盤と電話の主装置がありますから、早めにそっち確認にいきましょう」
構造がどちらにせよ、電話線の状況を確認するには、それが一番早い。
部屋を出て管理人室の場所を尋ねると、宇田川が思い出したように言った。
「あっ、管理人室に無線もあったはずです。ただ、詳しいことは全然わからないので……ご一緒いただけると助かります」
そして、慌てて管理人室への案内を申し出る。
「管理人室は、ダイニングルームの横にある、地味な小さな扉の先に。短い廊下があって、その突き当たりです。ドアには『関係者以外立入禁止』と書かれています。すぐご案内しますので」
間宮が即決する。
「俺たちは、管理人室へ行く。宇田川さんと榊原さん、神依で行きます。他の皆さんは、一度リビングで待機をお願いします。ここよりは安心はできるでしょう」
宇田川が頷いた。
「ええ、確かにあそこなら。ソファなどもありますし。暖炉は使えませんが、燭台は用意してあります。火を灯せば、それなりに明るくなるはずです」
俺は、春一にいつもよりも丁重に、できる限り優しい声で尋ねる。
「春一はどうする?一緒で大丈夫か?」
非常事態だ。俺は、この状況で春一と離れることが不安だった。今、俺の持つ専門知識は役に立つ。それを理解していてなお、自分の都合で春一を連れ回すことも、ひとり置いていくことも嫌だった。
同行を告げられ、俺があからさまに安堵したことは、きっと春一には見抜かれていただろう。
話が纏まったとみたのか、間宮に呼び掛けられる。
俺たちは管理人室へ向かうため、部屋を後にした。遺体の傍に立っていた真崎が最後尾となり、彼女は音も立てず、黙ってドアを閉めた。
皆で再びエントランスへと戻り、間宮の提案に沿うかたちで、二手に分かれることになった。
望みを探して
ダイニングの隣、階段の陰にひっそりと佇む配膳口のドアを、俺は無言で押し開けた。使用人通路には、無音の冷気が漂っていた。
宇田川が管理人室の金属製のドアを開けると、中には配電盤と埃を被った旧式無線機があった。
宇田川は入り口で硬直し、目が泳いでいた。恐怖なのか、ただの動揺なのかは分からない。入口で固まっている宇田川に、春一が問いかける。
「固定電話を確認してもらえますか?」
動けないらしい宇田川に代わって、春一が操作を始めた。
「……通じない。ホワイトノイズもダイヤルトーンもない。電話線そのものが切れてるんじゃないかな」
どこにも繋がらず、受話器からは、無音が返ってくるだけだったらしい。春一を注視していた俺に、淡々と報告した。
俺も無線機に取り付き、試すが反応なし。
「全周波数、応答なし。緊急チャンネルも駄目だ」
通電していないのか、あるいは回路自体が死んでいるのか?
それを聞いた榊原が矢継ぎ早に話し出す。
「まぁ、ここ山の中で、設備も古くて消防法ギリギリで。それに、えーと……ほら、中継局に落雷とかで電話回線に被害が出ることもよくあることだし……。だから他の手段、探さないと」
その声色は酷く揺れ、顔は強張ったままだ。
「まあ、嵐でアンテナが吹き飛んだのかもしれない」
俺は低く呟いたあと、宇田川に向き直る。
「宇田川さん。固定も無線も、どちらも使えません。ここの設備では、外部に連絡を取ることはできない」
「まさか、無線まで……? つい先日までは普通に使えていたんですよ!」
宇田川の顔が見る見るうちに青褪めていく。
「一応、停電の可能性もあります。確認します」
俺は配電盤へ向かうが、ランプはすべて消えていた。
「ブレーカーは落ちていない。テストボタンを押しても反応がない。問題は外部の電源系統だ」
思わず眉間に皺がよるが、まず、この事実を共有することが優先だ。
「つまり、打つ手なしか?」
俺の言葉を受けて、間宮が確認するように呟いた。
俺は首を横に振った。
「いえ、もうひとつ確認することが。非常用の発電機です。……起動できれば、通信機器が復旧して、外部への連絡が再開することもありえますから」
その言葉に、視線が一斉に俺へと集まった。俺の言い様はその可能性の低さを見事に物語っていたはずだが、宇田川の目には希望の色が戻る。
「発電機はどこにある?」
間宮が宇田川へと即座に問いを投げかける。
「確か、西翼の地下機械室です」
宇田川が自信なさげな声で答えた。
「……厨房の裏手にある階段を降りていくと、昔、ボイラー室だった場所があって。その奥に格納されているはずです」
宇田川の案内で地下機械室へ赴く。冷気が階段を吹き上がる。古い配管が軋む中、重厚な鉄のドアに辿り着く。ドアプレートには、掠れた文字で『機械室』とあった。
手をかけ、ゆっくりとドアを開いた。懐中電灯の光が、床に置かれた配電盤と、その奥に鎮座する大型の発電機を映し出す。
発電機のメインスイッチへと歩み寄る。鍵がかかっていない。しかし、ハンドルを回してもエンジンは動かなかった。
原因は、燃料系の詰まりか、バッテリーの完全放電か。
いずれにせよ。
「内部の劣化、だな……」
呟いた俺の声だけが、湿った地下室で、緩やかに木霊した。
【第六章】クローズド・サークル(神依春一視点)
「最良の共犯者は、自分が共犯だったことに気づかない者だ」
SOS - SOS
合流し事実を共有すべきだと、間宮が噛み締めるように告げた。硝子窓を殴りつける暴風雨の音が響く廊下を抜け、リビングルームへ向かった。
足を踏み入れると、全員が黙り込んで待機していた。
羽賀は眉間に皺を寄せ窓際に立ち、腕を組んだまま外を見つめている。山路は暖炉の前の長椅子に腰掛けて、顔面蒼白で硬直していた。
リビングルームには三つの円卓が配置されている。中央に一つ、窓側に一つ、そして扉近くの左手にも一つ。中央の円卓を避けるように、男女に別れて二つの円卓が使用されていた。
「固定電話はどうでしたか?」
扉近く、左手の円卓に座っていた美緒が、俺たちと管理人室から戻った宇田川に問いかける。
言葉に詰まる宇田川の代わりに、その隣から榊原が答える。
「線が完全に切れています。電話機も……古いのがあるだけで、ダイヤルも反応しませんでした」
納得できなさそうな一同に向かい、間宮が言葉を引き継ぐ。
「固定回線は繋がらない。電話線が切れてるのか、中継局そのものが落ちてるのか。ともかく通じなかった。無線も反応がない。現時点で無線での連絡は不可能だ」
……この閉ざされた状況下の指揮権の所在が、今、確定した。
間宮には、典彦や榊原のような工学の専門知識はない。だが彼らにはない重みが、間宮の言葉にはある。それが証明された。
「復旧できないのか?」
山路が些か高圧的に口を挟むが、あっさりと首を横に振られて憮然としながら、言い募る。
「じゃあ、なにか別の方法はないのか? ほら、衛星通信とか、緊急用の何かとか……」
曖昧模糊とした質問ではあるが、言いたいことは判る。
問題は、パラボラアンテナと衛星通信電話を、この建物と参加者が保持しているわけがないことだ。
中央の空いた円卓に俺を誘導しながら、典彦が視線を少し彷徨わせた。どこから説明したものかと思案しているのが判る。
工学に欠片も興味のない人間との交流なんて、上京して、あの雪深い村を出て以来だろう。そしてあそこにはそもそも電話のある家すら稀だった。
「……衛星電話は持ち込みが必要です。誰も持ってないでしょう。それに衛星を捕まえるにも今の天候じゃ、アンテナ設置しても無駄です」
美緒の隣に座る志桜里が首を傾げながら無邪気な内容を尋ねる。
「えっと、Wi-Fiとか……なんか、電波みたいな、繋げないんですか?」
それにはWi-Fi対応モバイルルーターが必要だ。そしてここは、都内とはいえ山間部。仮にルーターがあり、基地局に被害がなくとも、この暴風雨が止んでから数時間は電波を拾えない。
おそらく彼女の質問の意図は、ルーターの有無だ。Local Area Networkを外部に繋ぐ設備はないのか。それを志桜里が出力した結果、Wi-Fi電波みたいな、という表現になったのだろう。
椅子を引いて座らせた俺の後ろに立ったまま、典彦は、些か初歩的すぎる質問にやはり困惑しながら答えた。
「Wi-Fiは無線LANの一種。……LANっていうのは、ローカル、エリア、ネットワークの略称。要するに、建物内の通信。外と繋がるには中継設備か基地局が必要です。……今の天候と設備ではまず無理です」
一同は黙り込んだ。硝子窓を揺らす甲高い音が室内を満たす。何かあるはずと思っていた希望が、説明されるたびに一つずつ潰されていく。
「GPSとか、そういうのでなんとかできないのか?」
窓際に立つ羽賀が、軽い調子で典彦たちに尋ねる。
GPS、Global Positioning System。人工衛星からの電波で、緯度と経度、基本的な位置情報を特定するGPS受信機。今現在発売されているほとんどのスマートフォンに内蔵されている。だが……。
「……スマホのGPSは、人工衛星から発信される電波を受信して、現在位置を計算します。このプロセス自体に、通信回線は必要ありません。ですが特定した位置情報を外部に送るには、通信回線が必要です。圏外の現状では意味がない。今、GPSで可能なのは画面上の地図アプリで位置を表示することだけです」
典彦の声は平坦だ。でも、立て続けの初歩的な質問に、少し苛々しているようだ。
「非常用の通信設備なんかはないのか?緊急通報装置とか、そっち系も?」
更に続いた羽賀の質問に、典彦は淡々と答えた。
「管理人室の設備には見当たりませんでした」
その簡素すぎる典彦の答えを聞いた榊原が、左手の円卓の空席へと向かっていた足を止め、全員を見渡して、丁寧に説明し直す。
「ここは、とても古い建築構造で、定期的なメンテナンスなんかもしていなかったんです。だから、消防法で求められる水準も最低限しか満たしていません。えーと、つまり、もし仮に、非常通報回線があったとしても、停止してます」
間宮が、一同に言い聞かせるように言葉を継いだ。
「この天候のせいもあるだろうが、設備の老朽化も進んでいたということだ。アンテナも回線も、維持されていれば機能していたらしいが……」
その言葉に、志桜里が小さく頷く。
「そうでした。この洋館、事故物件になってから、まともなメンテナンスはされてないとうかがってました」
「……じゃあ、本当に、どうにもならないのか」
山路は、もはや縋るように問いかけたが、その声には少し攻撃的な響きもあった。
硝子窓に寄りかかりながら、羽賀はあくまで軽薄な口調で言い放つ。
「おいおい、通信手段が全部アウトかよ。この洋館、さすが心霊物件って感じだな。とはいえ噂とはレベルが違うけど。神様、オレたちのこと嫌いすぎじゃねえか?」
この男、言葉こそ浮薄極まる。だが行動は真っ当だ。苛立ちを他者にぶつけることも、無駄に不安を漏らすこともない。年少の俺たちを常に気遣っている。
「死体があるのに、連絡が取れないとは……。そんな馬鹿げた話があってたまるか」
山路が怒鳴るが、その指先は震えていた。
志桜里が暖炉の前の長椅子へと向き直り、山路にそっと言葉を添える。
「どうか、ご冷静に」
山路は腕を組み黙り込んだ。その眉間には、深い皺が刻まれたままだ。
「ええ、まったくですよ。いきなり殺人、連絡手段は全滅……ふざけるなと言いたくもなります」
吐き捨てるような荻原貴司のその言葉に、誰も異を唱えなかった。今、この場にいる誰しもが、同じ困惑と焦燥のなかにあったのだ。
朝比奈瑤子の亡骸が見つかってから、既に四十分近くが経過している。
俺も、言葉を返さなかった。今の俺が、彼に言葉を返すべきではない。
この館に滞在する全員が、心の中で認めつつあった。何かが狂っていると、確信し始めていた。
深海の沈没船
「……通信が、すべて繋がらない」
美緒のはっきりとした声が、冷たく響く。
携帯も圏外、固定電話も無線も不通。
硝子窓の向こうで吹き荒れる嵐を背景に、凍りついたような沈黙が室内を支配していた。
俺は、この瀟洒な館の夜に、音も届かぬ深海の底に沈んだ船を重ねた。
「……外の様子を見に行くべきではないのか。道路の状態を確認して、使えるなら救助を呼びに行くんだ」
山路が言う。焦燥を隠そうとしない声音だった。尤もな提案だが、彼の語調には、その役目を自分で担う気配は微塵もなかった。
死者が出て、通報も叶わない。誰かが外へ出るしかない。誰もがそれを分かっていながら、言葉にすることを恐れていた。
焦りが空気に溶け込み、じわりと呼吸を重たくしてゆく。
稲光が館内を照らし、轟く風が館全体を軋ませていた。荘厳な飾り電灯の硝子が煌めき、風雅な調度の輪郭を淡い影絵のように浮かび上がらせた。
そのとき宇田川が手を挙げた。腹を括ったような面持ちだった。
「……私が見てきます。地形については、私が一番把握していますので」
言葉に嘘はなかった。この館の管理を担っているのは彼であり、本来、最もこの場所に通じているはずの人物でもある。
「裏手の、南へ抜ける坂道の様子を」
嵐の中を進むという彼を、誰も制止はしなかった。
「夜道は危ないっすよ。俺も行きます」
榊原の申し出は善意そのものだったが、宇田川に直ぐに謝絶された。
「いや、一人で十分です。あなたは、中に」
「……じゃあ、これを。せめてレインコートだけでも」
榊原が鞄から取り出したのは、ポリ塩化ビニル製の雨合羽。おずおずと差し出したその手は、震えていた。
宇田川は黙ってそれを受け取り、丁寧に袖を通し、フードを深くかぶると、小型の懐中電灯を手にした。
暴風に押さえつけられた玄関扉を、典彦と榊原が、力を合わせ押し開く。
その刹那、怒号のような風が吹き込み、横殴りの雨がヴェスティビュールの床を濡らす。羽賀の手にした燭台の炎が、大きく揺れた。
宇田川は、何も言わずにその嵐のなかへと踏み出す。手にした灯りだけを頼りに、雨の帳の中へ。
やがて、その背は闇に呑まれた。
瞬く間に館内は重い沈黙に包まれた。雷鳴だけが響いている。
「……大丈夫か、あんな中で」
荻原貴司が他人事のような声色で呟いたその言葉が、耳に残る。
一同は、言葉少なにグランドホールを後にした。それぞれが歩きながら、彼の無事を願っていた。再び戻ったリビングルームでは、皆が思い思いに椅子に腰を下ろした。
美緒と志桜里、榊原は、再び左手の円卓に。山路は相変わらず暖炉の前の長椅子に陣取り、腕を組んで黙り込む。
中央の円卓は俺と典彦、そして間宮が席を埋めた。
窓際の円卓には荻原貴司と羽賀が座った。だが、背中合わせに近い形になるほど正反対に向いた其々の足先が、二人の距離をはっきりと表している。
女性二人は鞄を膝に乗せていた。俺と弟、間宮は自身の椅子の下に鞄を収めたが、他の男性陣は椅子の横に無造作に置いている。なかには、開口部が半ば開いたまま床に置かれた鞄もあったが持ち主は気にもしていない様子だった。
彼らを眺めながら、荒れ狂う風の音の囁きに耳を澄ませていた。外はすでに漆黒に沈んでいる。さらに雨脚が強まり、硝子窓を叩き、風が壮烈に唸っていた。
やがて、傍らの扉を眺めながら美緒がぽつりと呟いた。
「こんな中、大丈夫なのかしら……」
孤絶の館
宇田川が戻ってきたのは数分後。ずぶ濡れで肩を落とし、疲労と焦りを滲ませながら館へ入った。靴の水が廊下に染み、濡れた髪が張り付いていた。
誰も声をかけず、報告を待った。
「南側の坂道が崩落していました。ガレージの道も土砂で塞がれています」
一拍置いて、彼は被害状況を詳細に伝えるべく言葉を継ぐ。
「……崖沿いの道が、地面ごと、ごっそり崩れ落ちていたんです。雨で地盤が緩んでいるのか、ぬかるみも酷い。倒木もあって、車も徒歩も無理です。……踏み込めば、そのまま谷底です」
室内に凍ったような静寂が満ちた。
午後七時三十分。亡骸の発見から丁度、一時間。嵐はなおも激しさを増し、夜の闇と混ざり合って館を包んでいる。
リビングルームに並べられた数本の燭台の灯り。硝子の雫を纏った流麗な天井灯が、燭台の灯りを受けて、仄かに光を落とす。リビングルームには重い沈黙が漂っていた。
「警察も救助も呼べない、来られない。自力脱出は無理。俺たちは今夜、完全に閉じ込められた」
口を噤む一同に向かい、間宮が真っ暗な硝子窓の外を睨むようにしながら呟いた。
全員の胸に、異常事態という現実が、ひたひたと染み込んでゆく。
「なんで、こんなことに」
呻くような荻原貴司のその言葉に、誰も答えられなかった。
嵐が、凡ての音をかき消すように硝子窓を叩き続ける。全員がようやく理解した。外への道は完全に断たれたのだ。
薄闇の窓辺で、雨粒が走る硝子窓を見つめる。硝子窓は黒い鏡のように外の闇を映していた。
嵐が、外界との凡ての接点を断ち切った。ここは孤絶の館となった。だが、この一夜限りの幽閉が、彼らを待ち受ける始まりにすぎないことを、彼らはまだ知らない。
密室の連鎖と疑念の芽生え。
この閉ざされた静謐の館で、これから幾つもの『真実』が明るみに出る。
一人リビングルームを出て、暗闇のグランドホールへと足を向けた。壁を囲む群青色の絹張りが、まるで深海のようだと思った。
雨は降り続いている。鍵のかかった扉が隠したのは、亡骸だけではない。理由もまた沈黙した。
声を失えば、心はより雄弁になる……。
ただしそれは、聞く者がいればの話。
この館では、その声は誰にも届かず、ただ時のなかに沈んでいた。
【第七章】深闇の抱擁(神依典彦視点)
「人が調査を求めるとき、本当に望んでいるのは安心だ」
海底宮殿の真珠
リビングから出た春一を追いかける。俺が重厚な木製のドアを押し開けると、ひんやりとした空気が流れ込んできた。
館内は電気が通っておらず、灯りは、雪野から渡された缶入りのアロマキャンドルだけだ。エントランスは、酷く暗かった。
漆黒の空間。
俺には、春一はまるで真珠のように浮かび上がって見えた。
俺の姿をその透き通った瞳で見つけると、春一は仄かに微笑んだ。
「ねえ典彦。このグランドホールは、とても麗しいね。寓意は海底の宮殿かな」
春一は昔から、俺と『素敵なもの』を共有することが好きだった。彼の見つける素敵なものたちは、今まで俺の生きてきた場所にもあったのだろう。
けれど彼を失っていた七年間、目の前にあっても何一つ気づくことなく生きてきた。
彼の瞳はタンザナイトのように煌びやかだ。美しいものを見出し、美しいものを映す瞳なのだ。
「あの、マホガニーに刻まれた天井装飾」
春一は、おもむろに天井へと俺の視線を促し、ゆったりと語り始めた。
「中央から放射状に伸びているのが珊瑚の枝。その隙間にあるのは、星と泡の浮遊模様。中央や角に貝殻の浮彫が配置されているのが見える?そのまわりの水草はゆらゆら漂うみたいで」
彼の瞳が何かを捉え、その美しさに触れるたび、空気が澄んでいくのがわかった。
「まるで海流に揺られているみたいでしょう?」
海底宮殿を静やかに歩く春一は、祈るように語り続けた。その声には、不思議と心を落ち着かせる力があった。
春一が俺に贈ってくれる世界は、いつだって素敵なものだけが存在している。どんな場所でも、どんなときでも、それは変わらない。
この碌でもない状況でも、世界と他者を、心の底から慈しむことができる。それを強さと呼ばないのなら、何を強さと呼ぶのだろう。
「そこの三叉槍は、海の神トリトンを象徴してるんだ。玄関に彼を描いたアカデミック絵画があったでしょう。典彦、人魚の絵なのに女性じゃなくて筋肉質な男性だったから、びっくりしてたね」
俺に向かって悪戯っぽく微笑みかけてから、春一は解説を続ける。
「……この邸宅自体は、ジョージアン様式のカントリーハウス建築で、これは左右対称と、古典的な神話が題材となった端正な装飾が特徴とされているんだよ。けど、調度品は優美なルイ十五世様式が多い」
この寂れた館に対する、教養と優しさに裏打ちされた気高い肯定。
正直耳慣れない用語も多い。だがひとつだけ、はっきりとわかった。幽霊屋敷、事故物件なんて言葉でこの館を表現されることが、春一にとって苦痛だったのだろう。
「そっちの、艶を抑えたマホガニー材の観音扉。海草の浮彫細工や泡を模した白蝶貝の象嵌が控えめに施されていて、とても綺麗でしょう。あの扉の向こうには、この家の音楽室があるんだ」
エントランスの右手にあるドアの一つに、すぅっと春一の視線が動く。タンザナイトの瞳が色を変え、何かを隠し持つかのように深遠な輝きを放った。
語る春一に、博覧強記という言葉が頭に浮かんだ。生来、聡明な人だとは分かっていたが、その細やかな感性と博識ぶりには流石に舌を巻く。
春一は、平日に週4日喫茶店で働き、人と触れ合う経験を積んでいる最中だ。そして残りの3日を近場の区立図書館で過ごしている。
9時の開館から20時の閉館まで、あらゆるジャンルの本を読み耽っているらしい。今は、とにかく知識を得ることが楽しいようだ。
小説から宗教学、建築、工学、数学、薬学、医学、神話、哲学、美術史、百科事典、天文年鑑、辞書や洋家具のカタログまで、彼の興味の赴くままに。
迎えにいけば、目映いばかりの笑顔で嬉しそうに話してくれる。話から察するに、一日で数十冊あるいはそれ以上に読んでいる。
春一の読書は、情報の収集ではない。分厚い専門書であっても、細かい脚注にも目を止めて、書き手の思考を丹念に追っていく。
たとえ大量の難解な専門書から得た知識であっても、俺が理解できるかたちに落とし込めるのは、優しい春一らしい学び方だった。話を聴くだけで、俺も、まるでその日その日で、新たな世界を旅している気分になれた。
世界史と、叙事詩と植物学図鑑を繋げて話す春一の頭の中は、全ての知識が星座のように繋がっているらしい。
沈黙を強いられていたあの村から連れ出せて以来、春一が知識を吸収していく様子を見るのが、俺は何より嬉しかった。
悪意の気配
春一の美しい話に耳を傾けながら、窓に近づいたのも、その鍵に触れたのも、すべて何気ない行動だった。
カシャン、と鍵は軽く外れた。だが窓自体は、まるで壁の一部のように微動だにしない。
「……開かないな」
手応えはあった。明らかに、どこかが引っかかっている感触だ。
もう一度、今度は少し力を込めて押す。だが、まるで内側からがっちりと固定されているかのように、ビクともしなかった。
なぜだ、鍵は外れてるのに。
近くにきた春一が、俺の手元に小さなライトを向ける。俺は窓枠の下部と側面を丁寧に撫でる。すると、指先に僅かに硬質な感触が伝わった。木材ではなく、金属の感触がある。
「春一、ここ見てくれ。これ、枠の裏に金属が仕込まれてる」
木製の窓枠に見えていた箇所の内側に、金属の縁取りが覗いていた。装飾には、見えなかった。
ガラス部分を枠の内側から挟み込むように、補強金具らしきバーが走っている。
「建て付けの補強としては、妙だ。普通、外から見える部分にわざわざ金属は使わないはずだ。なんだこれ」
言葉に詰まった瞬間、春一が軽く瞬きをした。その瞳には、深海のような冷たさと優しさが同時に宿っていた。
春一が指を滑らせて止めた。
「……ここ、エポキシ樹脂でネジ穴が埋められてる。内側から接着されてるんだ。これ、外れないよ」
エポキシ樹脂?
全く知らない単語だが、よく見れば、窓の固定用と思しきネジに、透明な樹脂のようなものが充填されている。表面は丁寧に整えられているが、よく見れば光の反射が違う。
「エポキシ樹脂って?」
春一に訊ねると、いつも通りの優しい口調で丁寧な答えが返ってくるが、その内容は想像を遥かに越えた。
「エポキシ樹脂は……そうだね、化学的に硬化する接着剤って言えばいいのかな。強度が極端に高くて、耐久性、防水性、耐薬品性を備えるんだ。だから、現在の技術だと、一度硬化すると絶対に取り外せないと思っていいよ」
それは明らかに、老朽化でも、台風対策でもない。あまりにも強烈に、何者かの意図を感じさせる細工だ。
「絶対に……?」
呆然と呟くと、春一は、この犯行がいかに狂気的であるかを、より詳しく俺に教えてくれた。悪気はない。春一は、常に正しい人なのだ。
「あ、ごめんなさい。あのね、理論上はね、数百度の熱や強アルカリ溶剤で樹脂自体を壊せば外れるよ。でもここでそんな機材や薬品は用意できないから……。うん。ここを開けたいなら、硝子窓を割るしかないと思う」
恐ろしい事実を教えてくれた春一の瞳は、澄んだ水面のように揺れている。
「他の窓もか?」
思わず尋ねてしまう。
首を傾げる仕草は慎ましく、どこか優雅だった。
「俺の『視た』限り、全部かな」
こうなると、通信も、照明も、非常電源すらも。全てが沈黙している現状すら、人為的なものではないかと、確認せざるを得なかった。
であるならば、どこかに復旧の可能性が残っているのではないか。俺は春一に「いってくる」と一声かけ、間宮のいるリビングに駆け出した。
「気になることがあります。どう考えても、電気系統の不具合にしては腑に落ちない。断線や過負荷では説明がつかない何かがあります」
リビングから連れ出した間宮に相談すると、彼は顔を顰めながら、「行くぞ」と低い声で言った。
俺たちは管理人室へと再度、向かった。
部屋の隅、配電盤へ続くケーブルダクトに目をやると、金属製の蓋が、僅かに浮いていた。通常、専用工具なしでは開けられないはずの場所だ。それなのに、開いている。薄暗がりの中にも、それははっきりと見えた。
懐中電灯の光を当てると、切断されたケーブルが目に飛び込んできた。明らかに、意図的な断線だ。しかも雑ではない。工具で狙いすましたように、綺麗に切られている。
隣で間宮が呟いた。
「これは……明らかに人為的に見えるな」
「俺もそう思います。こんな奥なら、普通まず気づかない。それを狙ったのかもしれない」
光を断裂部に当てながら言葉を継ぐ。
「しかも、切られてるのはメインじゃなく、非常電源の方です。これは偶然じゃない。狙って切ってる。専門知識のある人間の仕業としか思えません」
間宮が短く頷く。ふたりの間に沈黙が落ち、外で降り続ける雨音すら遠く感じた。
俺は再び、配電盤そのものを点検することにした。
配電盤のカバーを開くと、天井から垂れ下がる古い配線。錆びたブレーカーが並び、油と金属の臭いが鼻をつく。間宮に渡された手袋をはめ、一つずつブレーカーを入れ直していくが、反応はない。照明も電話も、通電の気配すらない。
焦げ臭さはないし、遮断器も落ちていない。異常温度の警告灯も、点く気配がない。まるで、最初から電気など流れていなかったかのように。
念のため、非常電源への切り替えスイッチも確認する。接触不良や焼損の形跡はない。だが、切り替わっている様子もない。
見た目には正常だ。だからこそ、不気味だった。配電盤の異常を確かめた後も、何かが引っかかっていた。
誰かが、意図的にこの建物の機能を止めようとしている。その事実が確かになった今、俺の中に別の疑念が芽生える。
もし、電気や通信だけじゃないとしたら?
物理的な出入り口そのものも、塞がれていたとしたら?
これは事故じゃない。意図的な遮断だ。
俺たちは、何者かによって、外の世界と断たれている。だとすれば、他も……。
「……間宮さん。ちょっと、裏口、見てみませんか?」
彼も同じことを考えていたのか、直ぐに頷いた。
厨房の奥、通用口へと続く細い廊下を抜ける。外へ繋がる唯一の勝手口には、古い鉄製のドアが嵌められている。だが、ノブを回しても、まったく動かない。
内鍵がかかっているのかと思ったが、何か様子がおかしい。鍵穴に工具を差し込んでみると、内部でガリ、と異様な音がした。
歯車が噛み合っていない。いや、壊されている。
「……鍵、折られてるな。内側からだ。ピンが削れてる」
間宮がしゃがみ込み、懐中電灯を照らしながら呟いた。
俺も覗き込む。ドアノブの内側から、機構が潰されていた。まるで中から破壊して、開かなくしてしまったように見える。
これは、外からの侵入を防ぐためではない。
「これ、偶然と思いますか?」
間宮に尋ねた後で気がつく。今のは、答えを予期した上で、それでも否定が聞きたいがゆえの非合理的な問いだ。
「いや……誰かが、脱出手段を潰してる」
だが、間宮に肯定されて、再び悪寒が走った。外は嵐。通信は絶たれ、非常電源は遮断され、出入口は物理的に破壊された。
これは、自然の封鎖じゃない。
俺たちは、仕組まれた檻の中にいる。
【第八章】女王のルビー(神依春一視点)
「沈黙が紡ぐ真実、選ばなかった言葉が凡てを語る」
疑念の閉鎖空間
グランドホールにいた俺を迎えに来た典彦と間宮は、俺を連れてリビングルームへと戻り、館の滞在者たちに一つの事実を告げた。
「通信設備に細工がされていました。配線の一部が鋭利な工具によって切断されてる。通信手段の断絶は、雷や嵐のせいだけじゃない。素人にはできない、かなり計算された手口で、です」
間宮が険しい表情で顎を引いた。
「つまり、ここにいる誰かが……外との連絡手段を断ち、脱出経路も塞いで、完璧な閉ざされた場を作り出したってことだ」
部屋の中で、初めて明確な事実が示され、重苦しい沈黙が広がる。誰もが息を呑み、音ひとつ立てなかった。
そこに、志桜里の言葉が、ぽつりと零れた。
「朝比奈さんは……本当に自殺だったのでしょうか」
羽賀が茶化すように話し出す。
「ま、確かに。取り乱し方は異常だったが、あの女がマジで自殺なんてする可愛げある性格してるかねぇ?」
榊原が震える声で続けた。
「もし、もし、仮に、誰かが彼女を殺したとしたら、その人間は今、この館にいるということですよね?」
榊原の一言は、まるで鈍い刃のように全員の胸に突き刺さり、リビングルームが静まり返る。それは、言ってはならないはずの言葉だった、と言わんばかりに。
だが、誰もが耳を傾け、心の中で反芻した。それは、多くの者が考えていたが、言及することを避けていた現実だった。
外に出られない。
誰とも連絡が取れない。
殺人者がまだ、この館にいるかもしれない。
間宮が硝子窓の外を見た。雷鳴が闇を裂き、雨が激しく叩きつけている。
「殺人か自殺か事故か、まだ断定できない。ただ、ここが閉ざされた場所になったのは事実だ。警察にも連絡できず、外にも逃げられない……ならば次にすべきは真相の解明だ」
室内には、もうただの沈黙ではない空気が漂っていた。疑念、恐れ、そして確信。誰かが、状況を用意したのではないか。
嵐も封鎖も、偶然とは思えない。誰もがそう考えた。
「こんなタイミングで、全部遮断されるなんてありえるかよ」
吐き捨てるような荻原貴司の呟きが、決定打だった。誰も否定しなかった。全員の中に、同じ認識が芽生える。
これは仕組まれている。
俺たちはただの訪問者じゃない。この閉じられた舞台の、出演者になったのだ。
その予感は、じわじわと一同の脳裡に突き刺さり、氷のように広がっていった。雨の音が絶え間なく響く中で、ただひとつ確かなことがあった。
それは、ここから誰一人として出られないという事実だった。
この館は、何者かの意図で封鎖され、殺意のために閉じ込められたのだと、誰もが理解した。
黒の鞄
間宮が一歩前に出ると、重たい沈黙がリビングルームを包んだ。全員の視線が彼に注がれているのを、ひしひしと感じる。
視線を一身に受けながらも、彼は淡々と、しかし力強く言った。
「ここにいる全員に、手荷物の確認と簡単な事情聴取に協力してもらいたい」
声は低く、だが揺るぎなかった。
「俺は調査員としてここに来た。警察が来るまで、ただ待ってるわけにはいかない。命がかかってる。全員の無事を守るためだ。……協力してくれ」
典彦が口火を切った。
「道理です。調査に必要なら当然、協力します」
そして典彦は、すぐ隣の俺に優しい視線を向けた。
「……春一も問題ないか?」
声色が、常より丁重だ。どうやら俺を心配しているらしい。典彦に微笑みかけてから、間宮に対して肯いた。
「俺にできることなら。……お話しするときは、典彦が傍にいてもいいですか?」
おそらくこれが正解である。弟が嬉しそうで何よりだ。
続いて志桜里が、左手首の精緻な腕飾りを撫でながら言った。
「はい。大丈夫ですよ。でも、取り扱いには、どうかお気をつけてくださいね。商売道具などもございますから」
宇田川は一つ咳払いをして、スーツの襟を整える。
「よろしく頼みますよ。これ以上の事件は御免ですからね」
羽賀は、弾むように間宮に同意する。
「おお、雰囲気あるなぁ。いいねえ、元とはいえ強行犯の刑事さんの取り調べが受けられるとは。喜んで協力するよ」
どうやら少々不謹慎とは自覚しているようだが、抑えきれないらしい。こんな事態だが、嬉しいものは嬉しい。それはそれ、これはこれ。とてもよく解る。
対照的に、山路は苦虫を噛み潰したような顔をしたまま腕を組み、吐き捨てるように言った。
「君に従う理由はないな。まったく、元刑事だからと偉そうに」
間宮はそれに反応せず、次へと目を向ける。荻原貴司が、やや背を丸めて立ち上がった。
「ああ、はい。わかりました。……よろしくお願いします」その語尾には、どこか卑屈さと皮肉めいた調子が混ざっていた。
美緒は静かに、しかしはっきりとした声で応じた。
「はい。勿論です。必要なことでしょう?」
彼女の瞳は真っ直ぐ、間宮を見ていた。
そして最後に、榊原がそわそわと身を揺らしながら挙手する。間宮の鋭い視線が、少し苦手らしい。
「はい。えっと、あの、おれ、なんでも協力します」
彼は今まで、なんでも協力してきた。おそらくこれからもそうだろう。
沈黙は嘘じゃない。彼の選ばなかった言葉。そこにある、たった一つの真実が報われるために、俺に何ができるだろう。
こうして、屋敷に閉じ込められた九人の関係者は、一人を除き、職業探偵である間宮の求めに応じ、それぞれの立場から協力の意思を表した。
間宮はリビングルームにある中央の円卓の前に立ち、鞄やポケットの中身を広げるための場所を整えると、淡々と告げた。
「順にお願いします。私が確認し、必要に応じて事情も伺います。拒否権は勿論ありますが、その場合はこちらで相応の判断をします」
「君に何の権限がある。改めて言う。私は拒否する」
山路は間宮を睨みつけ、そう言い放ってから暖炉の前の長椅子へと向かった。間宮の元刑事という肩書、それがそんなに癪に障るのだろうか。
「わかりました。ただし、拒否されたことは記録として残します。これは皆さん共通です。後で警察が来たとき、状況説明の参考になりますので」
間宮は、刺すような鋭い視線で周囲を見回す。
その視線に促され、皆が中央の円卓から距離をとり、壁際に散って待機する形になった。
間宮は、まず自身のドクターズバッグから凡ての携行品を取り出し、中央の円卓に並べた。硬質な音が立て続けに響く。
そして開口部を広げて全員に鞄の底を向けて目視させたのち、開いたまま逆さに振った。
内容物と重厚な革鞄の総重量は、間違いなく5kgを超えるだろう。それを一日持ち歩く、彼の腕橈骨筋と握力に今更ながら驚嘆する。
並べられたのは、スマートフォン、檳榔子黒の山羊革長財布、海松色の牛革鍵入れ、青漆の革手帳、鉄色の山羊革名刺入れ、黒ボールペン、藍墨茶のA4クリップボードフォルダー、濡羽色の革手袋、鉛色の500mL水筒、墨色の軽量折り畳み傘、衛生手袋、医療用ライト、懐中電灯、小型デジタルカメラ、USBメモリ、モバイルバッテリー、呂色のスイスアーミーナイフ、精密ピンセット、個包装マスク三枚。
間宮は円卓を囲む者たちの視線をなぞるように確認すると、淀みのない動作でそれらを鞄へと戻す。
口金をカチリと噛み合わせながら、再び視線を流した。
最初に進み出たのは、美緒だった。端の剥げた濡羽色の合成皮革トートバッグを差し出し、間宮の前で開く。
中には草臥れた淡墨色の長財布。中身は千円札がほとんどだ。小さな手鏡、白練色の小ぶりな化粧入れ、スマートフォン、濃藍の折り畳み傘、花色の手帳、苗色の布製筆入れ、ポケットティッシュ、藍色のPVCレザー鍵入れ、電灯付き小型防犯ブザー。そして、薄青の500mL水筒。
どれも使い込まれていて、堅実な生活感がにじみ出る中身だった。
鞄を自ら開き、手荷物を明かす、それは自身の生活や価値観を晒すことになる。真っ先に進み出た美緒は、同世代の志桜里と比べられることを欠片も恐れなかった。それは、薄い化粧、控えめな装いでも隠せない強さだ。
次いで志桜里が続く。
彼女が差し出したエトゥープの鞄。世界的に著名なブランド、Chlorisのジャンヌ35。彼女が御母堂から受け継いだその鞄には、丁寧に手入れされ、大切に慈しまれてきた歳月が刻まれている。
中身は、スマートフォン、槿花色の長財布、星図・数列・顧客情報が並ぶ花紺青の革手帳、菖蒲色のPUレザー鍵入れ、墨紺のインクの桜柄の万年筆、紫水晶の数珠、小ぶりな鈴、白檀のお香、タロットカード、ハーブポプリ、七種類の天然石が並ぶ首飾り型アミュレット、槿色の350mL水筒、携帯用ハンドクリーム、日焼け止め、桜色の手巾二枚、リップクリーム、ポケットティッシュ、つげ櫛、缶入りのアロマキャンドル三個、小さく畳まれた紅藤色の羽織もの。
信仰と感性と趣味、それらを凡て詰め込んだような内容物。
軽やかな鈴の音と、ふわりと広がる白檀の香り。間宮が眉を顰める。だが、志桜里への気遣いだろう。奥歯を噛み締めて直ぐに無表情を取り繕い、検分を進めた。
次は俺たちの番らしい。間宮に無言の視線で告げられる。彼はとても視線の使い方が上手だ。視線だけでこれほど明確に指示が出せる人は希少だろう。
まず典彦が、俺の手荷物検査に付き添うようだ。促されるまま、鞄を典彦に渡す。山羊革で仕立てられたグリーニッシュブルーのドラムバッグ。
四ヶ月前、七年ぶりの誕生祝いの品として、典彦から贈られた。
典彦は俺の鞄を受け取ると、間宮の前で中身を取り出していくが、途中で奇妙な表情が混じった気がする。
入れていたのは、スマートフォン、深碧の小さな三つ折り財布、藍色の手巾、白練色のPVCレザー鍵入れ、薔薇色の小型LEDライト付き防犯ブザー、象牙色の鹿革の小物入れ、懐中時計。
飲料は、真珠色の350mL水筒とPET素材の容器に入った300mL経口補水液の二つ。
食べ物は、チョコレートバーが十一枚、キャンディ包みにした手作りキャラメルが二十個。キャラメルは、ちゃんと瓶に入れてきた。
三日ほど前、断片的ながら視えた未来に備えて、少し準備しておいたもの。
それを見た間宮の顔が、明らかに引き攣った。
でも言及はなかった。彼は本当に正しく優しい。人品という言葉は、間宮のような人のためにあるのだろう。
典彦は黙って小物入れの中身を間宮の前に並べていく。
目薬とポケットティッシュ、携帯用アルコールティッシュ、アルコール70%手指用洗浄ジェル、クロルヘキシジングルコン酸塩配合の使い切り消毒液三包、局所管理ハイドロゲル創傷被覆材五枚。
典彦は、俺の鞄の底を間宮に目視させたのち、間宮へ自身の鞄を引き渡した。間宮が確認する間に、丁寧にドラムバッグに荷物を詰め直してくれた。
深縹の蓋付き肩掛け鞄。一枚革で作られた無駄な装飾のないそれ。俺に贈ってくれた鞄と同じお店で、数年前に購入したらしい。柔らかな質感で革本来の個性を生かすエシカルブランドを弟は気に入っている。
中身は、スマートフォン、鍵入れ兼用の金青色の二つ折り薄型財布、紺桔梗の折り畳み傘、紺色の手巾、ポケットティッシュ、モバイルバッテリー、藍色の500mL水筒。
それから、細身の懐中電灯と、PET素材の容器に入った500mL低張性飲料。
荷物の主である典彦は何故だか何とも言えない顔をした。
可愛い弟のために、俺が気を利かせて入れておいたもの。
昼光色の全般照明が眩しいコンビニエンスストアは苦手だが、頑張って買いに行ったのだ。
俺の挑戦と気遣いを感じたらしい典彦は、嬉しそうだ。だが、少し困惑した表情も見えた。
……重量はそれなりにあるはずだが。
今まで気がつかなかったのか、典彦。
羽賀は軽快な足取りで、間宮の待つ円卓へ向かっていった。
鈍色の手持ち肩掛け斜め掛けが可能な鞄から取り出されたのは、スマートフォン、海老色の二つ折り財布、丼鼠の800mL水筒、茶褐色の牛革鍵入れ、最新のデジタルカメラ、大容量モバイルバッテリー、黒革のA4取材ノート、A 4ファイル、ボールペン二本、USBメモリ、小型ノートパソコン、音声録音機、充電ケーブル、茶褐色の牛革名刺入れ、ガム、サングラス、懐中電灯。
まるで外回り取材の完全装備だ。これでもかと並ぶ機材に、彼の執念深さが滲んでいる。
次は榊原。人懐こい笑みを浮かべながらも、どこか落ち着きがない。
素鼠のポリアミド製ビジネスリュックを勢いよく間宮へと差し出す。
スマートフォン、萱草色の三つ折り財布、紺鼠の折り畳み傘、錫色の1000mL水筒、モバイルバッテリー、香染の小型手帳、鶏冠石のPUレザー鍵入れ、ボールペン、雨合羽、図面ファイル、音声録音機、安全手袋、ミントタブレット、小豆鼠の手巾、日焼け止め、懐中電灯。
持ち物は多いが、整理されており、業務に忠実な性格と安全への思いがよく判る。
だからこそ彼は、この事態を本気で案じて、本気で怯えている。凡てを飲み込んででも守りたいのだろう。彼の持つ善性は、人間として何より称賛に値する。
宇田川は躊躇うことなく鞄を差し出した。その所作には、早期の収束を望む現実的な姿勢がにじんでいる。
「手短に頼みますよ。こういうのは段取りが肝心ですから」
口調は淡々としていたが、協力の意志は明確だった。
朽葉色の書類用革鞄の中から出てきたのは、鬱金色の長財布、スマートフォン、相済茶の500mL水筒、加熱式煙草、黒橡の牛革名刺入れ、目薬、灰茶の牛革鍵入れ、眼鏡入れ、タブレットPC、青丹の手巾、ミントガム。
どれも、身なりや対面を意識する職業人として、ごく妥当な持ち物である。
最後に荻原貴司。彼は渋々と墨色の合皮製マグネット式ブリーフケースを差し出した。最小限の所持品に対して、少々不釣り合いな大きさの鞄。空間が余り収納物が泳いでいる。鞄は使い分けない主義らしい。
内容は、スマートフォン、墨色の三つ折り財布、Bluetoothイヤホン、黒紅のPVCレザー鍵入れ、モバイルバッテリー、 PET素材の容器に入った500mL炭酸飲料。
……そして紅玉の耳飾りが一つ、無造作に鞄の中に転がっていた。暗い鞄の底で、赤い宝石は鮮やかに輝いていた。
「……これは、どういうことだ?」
間宮がそっと拾い上げる。燭台の光を受けた紅玉は、深紅の炎のように揺れた。
「これ、お前のでは、ないよな?」
間宮が凄む。一斉に視線が荻原貴司に向く。揺れる、疑惑と警戒の色。
「なあ春一、あのイヤリングって、確か……」
あれは朝比奈瑤子の耳元にあったもの。でも、女性の装飾品にはあまり自信がないらしい弟に尋ねられた。即座に答えを返す。
「典彦。あれは間違いなく、初めて会ったとき、朝比奈瑤子さんが身につけていたイヤリングだよ。形状からみて左耳のもの」
鞄の中身が広げられた円卓の前で狼狽える荻原貴司に向かい、榊原がぽつりと呟いた。
「じゃあ、どうしてお前が持ってるんだよ」
そして、宇田川が冷たく言い放った。
「まさか、朝比奈さんの遺品を?」
疑いの視線を一心に集めた彼は、唇を戦慄かせ、血の気を失った顔で立ち尽くす。
「違うっ……俺じゃない!誰かが、入れたんだ!」
紅玉を見つめていた羽賀が、息を呑む。
「おい……その大粒のルビーのイヤリング。それ、Kallistaの限定モデルだぞ。 百貨店で即完売だったやつ。売れば、片方だけでも五十万はくだらない……」
美緒の声が低く響いた。彼女は、荻原貴司に冷ややかな視線を向けている。
「そのイヤリング、あの時の朝比奈さんの耳には、なかったわ」
彼女は、朝比奈瑤子の亡骸のある部屋に足を踏み入れた一人だった。俺たちが二度目に部屋に入ったとき、続いて入室した彼女に後ろから声を掛けられた。
「いや……違う……俺は、本当に知らないんだ……!」
その声は震え、追い詰められていく。
だがそこで、羽賀がぽつりと呟く。
「でもまあ、ちょっと出来すぎじゃないか?……自分のカバンに証拠を入れといて探偵に素直に渡す犯人なんて、今まで見たことないぜ」
「では、あるいは誰かが入れた、と。彼に罪を被せるために?」
美緒が、低く呟いた。
一瞬で、場が凍りつく。
探偵(あなた)への依頼:
現時点で犯人と思ったキャラクターの名前を教えてください。集計します。
現時点でのあなたの直感、あるいは論理的な推理。
怪しい人物の名前のみでOK。複数候補や「まだわからない」も大歓迎。でも推理も大歓迎。
推理を提出する(投票先)↓
🔗 https://note.com/qa/lucky_marten8203
【第九章】尊厳の寓話(神依典彦視点)
「疑いの先にこそ、真実は微笑む」
奇妙な視線
「……とりあえず、手荷物は確認したな」
間宮が重たいため息を漏らす。その声音に、これまで無言で従ってきた全員の疲労と困惑が凝縮されていた。
リビングに立ち込める空気は冷たく、濁っていた。まるで、誰かが隠し持つ悪意が、じわじわと部屋の隅々まで染み込んでいくようだった。
誰もが黙ったまま、目を合わせようとしない。口を開けば、何かが壊れそうだった。
椅子の軋む音さえ大きく響いて、耳に障る。
「このままじゃ身も心も保たない。少し休憩しよう。嵐の中、動けるわけでもないしな」
間宮の声は低かったが、断言するような重みがあった。
誰一人として反論はしなかった。出来なかった、というのが正しいかもしれない。
座り込む者、無言で窓の外を見つめる者、ソファに背を預けたまま天井を仰ぐ者、うろうろと歩き回る者。
張りつめた気配だけが、部屋に満ちていた。安堵ではなく、嵐の只中で一時的に得た擬似的な平穏。嵐が止んだわけでも、出口が見えたわけでもない、宙ぶらりんな緩衝地帯だった。
「……電気は完全にアウトだけど、水は出るんだな」
羽賀の声がして、ぽたぽたとした滴の音がリビングに響く。彼は部屋の隅にある、小さな配膳口の蓋を何気なく開けたらしい。中には簡素な流し台があり、蛇口が一つ取り付けられている。
全員の視線が、音の方へと自然に集まる。
榊原が小さく頷いてから解説する。
「ああ。この館、昔ながらの重力タンク式なんです。だから、上の階に溜めてる分だけですけど、使えます」
榊原の情報を受けた間宮が、忠告がてら短く頷いた。
「飲むのはやめておいたほうがいいだろうが、とりあえず手を洗えるだけでも助かるな」
俺も水音に耳を傾けながら、引っかかりを感じた。
今回は『調査のために参加した』と言っていた榊原の口からは、当たり前のように、館の構造の説明が次々と出てくる。
俺は、春一へと視線を移す。整った横顔は陶器のように端正で、同時にひどく儚く思えた。
ふと、抑え込んでいた激しい不安が口をついて出る。
「春一。なあ、本当に大丈夫なのか。代崎はこの館の調査中に昏倒して入院までしたんだぞ。そんなところに閉じ込められるなんて」
言いながら、声が僅かに震えた。彼の中で何かが軋む音がしたような気がして、胸が痛んだ。
けれど、俺の言葉を聞いた春一は、ふっと目を伏せるようにして、少しだけはにかんだ。その微笑みは、どこか透明で、目の奥に残像のように焼きつく。
兄はきっと、本当はとても強い人なのだ。だが、その美しい青紫の瞳が伏せられると、哀しみが溢れて見えて、胸が締めつけられた。
けれど、顔を上げた春一は表情をふわりと綻ばせた。見つめ返した瞬間、何か硬質な、清浄なものに心を射抜かれた気がした。
「心配しないで。……あのね。俺は、典彦がいるから大丈夫だよ」
華奢な輪郭と整った目元がその笑みに柔らかく照らされて、不思議と胸のざわつきが静まっていく。
そしてその言葉は、妙に真っ直ぐに胸に刺さった。彼が普段、感情を言葉にすることが少ないからだろうか。
そのとき、視界の端で何かが動いた。目を向けると、真崎がこちらの様子をじっと見ていた。俺たちの会話を聞いていたのだろうか。
彼女は何も言わず、ふっと目を伏せた。その仕草には、まるで、置き去りにされた者のような、奇妙な寂しさが滲んでいた。
真崎の奇妙な視線に、やけに息苦しい、後ろめたい気分になった。
「ちょっと、外の空気吸ってくるな」
春一に告げて、俺は席を立った。廊下に出て、頭を冷やしたかった。
自分でも、なぜこんなに動揺しているのかわからない。ただ、胸の内に渦巻くものを、誰にも見せたくなかった。
全員がリビングに集まり、その中には間宮もいる。春一ひとりでも危険はないはずだ。
見捨てられた者たち
リビングに戻ると、先ほどまでの場所に、春一の姿が見えない。
微かな声が聞こえた。
その方向に目をやると、窓際の小さなソファに、春一と真崎が並んで座っていた。近づいて、少し距離をとった位置で立ち止まる。静まり返った空間では、小声でも耳に届く。
盗み聞きをしているようで後ろめたさを感じたが、俺はその場を離れる気にはなれなかった。
今この状況で、春一を真崎とふたりきりにするのが、どこか危ういように思えた。理由を問われれば答えに窮する。だが、あの女はまだ、容疑者の一人だ。
そうでなくとも、春一が、誰かにあんな顔で微笑みかける姿を見るのが、どうしようもなく落ち着かない。
「弟さんと仲がいいのね」
真崎の声は、これまでのどこか淡白な印象とは違って、驚くほど柔らかかった。濁りのない、真っ直ぐな音色。まるで別人のような声音に、思わず耳を傾けてしまう。
春一は少し間を置いてから、静かに答えた。
「うん。俺の生まれた村ってちょっと変わっててね。とても閉鎖的で古い信仰が現代まで残ってた。それで、生贄っていうのかな」
背筋がすっと冷たくなった。思わず息を呑む。春一の口からその話題が出るとは、思ってもみなかった。
「厳密には違うんだけど。まあ、そういう感じのやつで。昔、村中の人に、ああ、両親も含めてね。殺されそうになったことがあるんだ。でも典彦が助けてくれた。典彦が間に合ってくれたから、こうして生きてるんだ」
その言葉は、まるで石を落とした水面のように、俺の心に波紋を広げた。あの出来事を、春一が、こうして初対面の誰かに語る日が来るなんて思っていなかった。
春一にとっては、今でも癒えていない傷のはずだ。それをよりによって、こんな場所で語るなんて。
割って入ることもできず、ただその場に立ち尽くす。
戸惑いなのか、嫉妬なのか、自分でもはっきりしない。感情がどう動いているのか、自分でも理解できなかった。
春一の言葉を遮ることもなく、ただ黙って聞いていた真崎が呟く。
「そう。……間に合った。だから生きて……」
表情は窺えないが、彼女の背筋は僅かに丸まり、手のひらは膝の上で固く握られていた。
それは、驚きなのか、哀れみなのか、それとも共鳴なのか。わからない。わからないが、春一が真崎に心を開いていることだけは、はっきりとわかった。
そして、もう一つ気づいたことがある。
真崎の外見は、言葉を選ばずに言えば『地味で冴えない女』だった。同世代の雪野と並べば、その差は一目瞭然だ。
雪野はいわゆる『丁寧な暮らし』とやらの雑誌や広告に出てきそうな外見をしていた。
清潔そうなブラウスに、ベージュのロングスカート。
真っ白なノーカラーコート、薄い紫のぺたりとした靴、少し年季の入ったボストン型レザーバッグ。
傷みのないブラウンの髪が印象に残る、女性らしい女性。なにやら艶のある爪は丸く整えられていて、手荒れ一つなかった。
一方の真崎は、毛玉の浮いたグレーのカーディガンに、擦れた合皮の靴と鞄。いずれも草臥れ、端が少し剥げている。髪も手も、手入れが行き届いているとは言いがたく、顔立ちも平凡だった。
それでも、上京当時の俺が見ていた『貧しさ』とは異なる空気を、彼女からは感じた。
不思議だった。見た限り真崎には、華やかさも、会話の個性もない。なのに彼女には、視覚的な冴えなさとは裏腹に、どこか目を引くものがある。
違和感の正体が、今までうまく言葉に出来なかった。
春一と並ぶ真崎を見て、分かった。所作だ。
彼女が風貌に反して、冴えない女、そんな印象を与えない理由。所作に、粗雑さがひとつもない。
かつて厳しく躾けられた春一は、無造作に振舞ってみせても常に麗しく気品がある。
真崎には、それに通じるような品があった。指先は細やかに動き、足音は立てないように配慮しているかのように軽やかだ。話す時の声の抑揚も自然で、決して声高に自己主張しようとはしない。
まるで『決して、見苦しくはならないように』と、きちんとした教育をしっかりと受けた時期がある、そうとしか思えなかった。
……察する生活レベルを考えると、その美しい所作とのちぐはぐさが気になる。
これじゃあ完全に盗み聞きだ、そう思いながらも、どうしてもその場を離れられなかった。
春一はじっと真崎を見つめていた。その透き通った無垢な瞳に向かって、真崎は、唐突に思いがけない告白を始めた。
「私は誰にも選ばれないの」
真崎が、ゆっくりと目を伏せたのが見えた。
「丁度、1年くらい前かな、赤ちゃんを流産したの。颯真さん、恋人はね、赤ちゃんができたとわかって、結婚しようって言ってくれたのよ。流産した後も」
「……そうなんだ」
春一が小さな声で、優しく相槌を打っている。
「でも、ご両親に反対されたから。私が孤児、だったから。それに……」
一度、言葉が途切れた。だが春一の優しい瞳に促されたのか、ゆっくりと続きを語り出した。
「……それで、結局、別れた」
真崎の声には、怒りと悲しみが入り混じっているように思えた。
「反対し続けるご両親と戦うことに疲れちゃったんですって。わかるわ。結婚する理由もなくなっちゃったし、祝福されない結婚なんてしたくないわよね」
徐々に真崎の語気が強くなる。彼女の話す内容に、聞いているだけで胸が重くなった。
「美緒さんは、誰に選ばれたかったの?」
春一が、真崎に静かに尋ねた。
「……お母さん。14年前、溜め込んだ薬を沢山飲んで、お酒を飲んで、自殺したの。どうしても死にたかったんだわ」
ふたりの間にしばしの空白。そして真崎は再度、語りだした。
「どうして、私のために生きてくれなかったの、って。私を選んでくれなかったのって。ずっと」
「それから?」
真崎は少し息を吐いてから、ぽつりと言った。
「赤ちゃん。赤ちゃんも、私なんかのところに、生まれてきたくなかったんでしょうね。……だって、私は……」
真崎のあまりにプライベートな話を盗み聞いてしまった罪悪感が激しく沸き起こる。
最期の晩餐
間宮が部屋の中央で、ゆっくりと立ち上がった。その気配に、空気が再び引き締まった。壁の古ぼけた掛け時計の秒針だけが、重苦しい静寂を刻んでいる。
「いいか。休憩はここで終わりだ」
間宮の声は低いが、微塵の揺らぎもなく届いた。
「感情の整理は終わっただろう。これから話すべきことが山ほどある」
彼は全員を見渡しながら続けた。
「外の状況は変わっていない。嵐は収まっていないし、通信も復旧しない。現状を動かす手掛かりは、まだ何も見つかっていないんだ」
間宮が一呼吸置いてから、全員を順に見回す。
「ここからは、情報を整理して行動を決める時間だ。無論、建設的にだ。間違いなく、誰かがこの状況を仕組んでいる。次に何をすべきか、各自の意見を聞かせてもらう」
場の空気が引き締まり、俺を含め全員が無言で姿勢を整えた。燭台の揺れる炎が、シャンデリアのクリスタルに鈍く反射していた。その下で、誰ひとり反論せずに頷く。
羽賀が立ち上がり、背伸びをした。
「さて、そろそろ本番、ってわけか。どうせなら、もっとドラマチックな舞台に移ろうじゃないか」
間宮が眉を顰めるも、その意図を察して頷いた。
「……そうだな。ダイニングに移動しよう。全員、異論はないか?」
間宮の問いに、誰も異を唱えなかった。俺は無言でテーブルの中央に置かれていたひときわ大きな燭台を手に取った。
他の者たちも黙って立ち上がった。椅子が軋む音が、静まり返った部屋に不自然なほど大きく響いた。宇田川と羽賀、榊原が壁際の燭台を回収する。
荻原だけが一拍遅れて立ち上がった。周囲の様子を窺いながら、青いシャツジャケットの裾を弄っている。何かを手伝うべきか迷っているようだったが、結局、何も持たずに列の最後尾へと回り込んだ。誰も彼に声をかけなかった。
間宮は、バッグから懐中電灯を取り出すと、短く「行こう」と言って先頭に立った。一行はリビングを後にし、エントランスホールへと足を踏み出した。
重たい空気の中を進む。古びた床が靴音を吸い、ただ数本の懐中電灯と、ゆらゆらとした燭台の炎だけが、廊下の石壁に光を落としている。
隣の春一の様子を見ながら、俺は黙って歩を早めた。床の一部に僅かな段差を見つけた。咄嗟に手を伸ばし、春一の腕を掴んで誘導する。
誰かの足音が遅れ、俺は後ろを振り返った。雪野が、足を滑らせかけた山路の腕を支えていた。真崎も手伝い、無事体勢を立て直せたようだ。
やがて、ダイニングのドアが姿を現す。古びたドアノブを羽賀が押し開けると、ドアがゆっくりと音を立てて開いた。
燭台の光が、奥の長いテーブルの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
これからどうなるのか。
俺はひっそりと息を吐いた。
俺たちは、長いダイニングテーブルに続々と着席した。緊張した空気が漂っている。
暖炉側のテーブルの短辺は間宮だ。この形状のダイニングテーブルでは、おそらく間宮の座る位置がホスト席、長辺側はホスト席に近い席が上座になる。
少し迷ったが、春一を長辺の端、間宮の右隣に座らせ、俺はその隣に腰を下ろす。年功序列という単語が一瞬だけ頭を過ぎったが、面子を見て思い直した。
気品溢れる美しい兄を彼らの下に置くのは、もはや冒涜である。
向かい側には、春一の正面に真崎が、俺の正面には榊原が座っている。雪野は小首を傾げてから俺の隣の席を選んだ。それに羽賀、荻原が続く。榊原の隣は山路。宇田川はその隣、ドア脇の最下座を自ら選んでいた。
座る位置には誰も異論を挟まなかった。真崎と山路の選択は予想外で、少々違和感を覚える。礼儀正しそうな真崎が上座を選び、序列にうるさそうな山路が間宮や俺たちの席に口出しせず下座を選ぶとは。
ドアに近いからか?
「はい、どうぞ」
春一が何の気負いもなく板チョコを間宮に差し出す。
「頭を使うと糖分が減るでしょう?みなさんもどうぞ」
さらに10枚の板チョコをカバンから平然と取り出し、立ち上がって配り出した。
優雅な所作で為される異常行動に、言葉を失う一同を全く意に介さない。最後に俺に2枚差し出し、春一は満足げに席についた。
燭台の炎が静かに揺れている。
古めかしいダイニングの壁には、重苦しい沈黙が這うように満ちていた。誰もがチョコを手にしたまま、言葉を探している。
先に口火を切ったのは、やはり間宮だった。
「……もし仮に、自殺ではなく殺されたのだとしたら。この館にいる誰かが殺したということになる」
間宮はさらに、こめかみを押さえながら低い声で続けた。
「その場合、俺たちは犯人と一緒に、数日を過ごすことになる」
ひどい現実を突きつけられる。
山路が少々上から目線で尋ねてくる。
「封鎖工作とは、具体的にどんなものだったんだ。まだ簡単な報告しか受けていないぞ」
「正面玄関以外は全て塞がれている。俺と神依が現場を確認した」
山路が何か言いかけたが、間宮が制した。
「今はまず、状況を整理する」
間宮が指を折りながら、淡々と述べた。
「一つ、朝比奈が部屋に籠城したのが午後四時。遺体が発見されたのは午後6時30分。発見時に全員が揃っていた。死亡推定時刻は不明」
「一つ、封鎖工作の痕跡が発見された。土砂崩れだけでなく、人為的に外からの道が潰されていた」
「一つ、現在われわれは通信不能、車両通行不能の状況にある。外部支援は当面見込めない」
彼は一度言葉を切ると、周囲を見回した。
「この状態で殺人が行われた可能性がある以上、最悪の可能性、つまり第2、第3の被害を警戒する必要がある」
俺たちは黙って聞いていた。重たい事実が、胸に沈んでいく。
それから俺たちは、燭台の淡い灯りの下、状況の核心を冷静に検証した。
通信断絶の現状、物理的封鎖の事実、死亡時刻の曖昧さ、外部からの孤立。これらを踏まえ、最悪のケースを想定した危機管理の意見が交わされた。
間宮の仕切りは絶妙で、無駄な感情論は即座に排され、手際よく状況が整理されていった。全員が現状を正確に把握したうえで、これからやるべきこと、避けるべき行動を確認し合った。
榊原がちらと腕時計を見て、遠慮がちに口を開いた。
「……あの、ちょっとだけ、思ったんですけど。今のままだと、体力とかが、その、持たない気がして。……えっと、もうみんな疲れてるだろうし。その、2階の客室で仮眠をとる、とか、えーと、どうでしょうか?」
俺はそれを聞いて、春一の様子を確認した。その美しい横顔に、少し眠気が見える気がする。榊原の提案は最もだと思い俺も賛同する。
「間宮さん。この状況がどれだけ続くかわからない以上、一度休むべきだと思います」
一瞬考えた間宮が素早く応じる。
「そうだな。殺人者への対応は必要だが……救助が来るまで生き延びなければ意味がない。遭難も差し迫っている」
春一はその言葉にゆったり頷きながら、燭台の火を見つめていた。
状況を冷静に整理した以上、次は体力の温存だった。
それぞれが無言で立ち上がり、仮眠のため2階の客室へと向かった。廊下を照らす灯りは心許なく、誰もが言葉少なだった。
幻燈の部屋『泡の間』
「お部屋の割り振りについて、こちらでお話しましょう」
そう言った宇田川が、客室だというドアノブを回した。階段から一番近い部屋だ。
ドアには、『泡の間 The Bubble Room』の文字が刻まれた金属製のプレートが埋め込まれている。
軋む音とともにドアが開いた。室内は、10人が入っても、窮屈ではない程度に広かった。他の部屋もこんな感じなのだろうか。
全員が入室した、その瞬間、光が弾けるように部屋の奥を満たした。
思わず息を呑んだ。たぶん、他の人達も同じだったはずだ。
その光を見た瞬間、嫌な予感がして、咄嗟に春一の前に出た。無意識に、彼の視界を塞ぐように身体が動いていた。
壁に、天井に、床に。まるで部屋そのものがスクリーンに変わったかのように、あの幻燈が現れた。
立体的で詳細な映像。やはり、実体を持つかのように、異様なまでに鮮明だった。今まさに、この場で起こっている、そうとしか見えない臨場感に満ちた情景。
だがその幻燈は、昼間に見た幻燈とは、まるで別物。言葉にすることすら憚られる光景だった。
映し出されていたのは、あの昼間の幻燈で見た少女たちと、女性がひとり。無邪気に笑っていた幼女は、床に倒れている。
白いエプロンを身につけた、まだ若い家政婦らしき女性が、悲痛な叫びを上げて駆け寄り、その身体に縋りつく。
震える手で幼女の頬に触れ、「なんてこと……」と、喘ぐように嘆き、震えながらエプロンを外して小さな身体を覆う。
ドアの前に立ち尽くす少女。きっとあの子の姉だ。綺麗な青いワンピース。華やかに編み込まれた髪。いかにもご令嬢の余所行き、といった清楚な装い。
だがその目は、部屋に横たわる妹の姿を真っ直ぐに見据えていた。少女は、部屋のなかで行われた、残酷な出来事を理解できる年頃なのだろう。
声が出なかった。ただ、目を離すこともできず、映像に見入るしかなかった。ドアと対面になる壁際にいた俺には、少女の表情がくっきりと見えた。
「……っ」
横で、間宮が押し殺すように低く唸る。
荻原が感情を抑えきれず、苛立ったように吐き捨てる。
「なんだよ、これ……」
羽賀はその場に固まり、ただ黙って映像を見つめていた。
真崎の顔は凍りついて見えた。まるで時間が止まったみたいに、ぴくりとも動かなかった。
宇田川は言葉を探すように口を動かしながら、微かに開いた口元から、言葉にならない音が漏れていた。
山路は顔を背け、腕を組みながら俯いた。その肩が微かに震えているようにも見えた。
場が凍りついたまま、榊原のか細い声が、すっと耳に届いた。
「……叔母さん……」
幻燈の映像が闇に溶けるようにフェードアウトする。
俺は、慌てて振り返り、幻燈が始まる直前、後ろに隠した春一の様子を窺う。
春一は、何も言わなかった。じっと見つめ返された。静謐な青紫の瞳。彼が消えてしまいそうで怖かった。
長い沈黙が続いたが、雪野が穏やかな声で場を収める。
「もし気分が優れない方がおられましたら、どうぞお声掛けください」
その落ち着いた声に、緊張が少しだが緩んだ他の面々も、それに倣って緩やかに動き出した。誰もが疲れたような表情をしていた。
「……この部屋で部屋割りの話をさせてもらおうと思っていたんだが」
宇田川が額に手を当て、溜息をつく。
「どうやら場所を変えた方がよさそうですね」
幻燈の残像がまだ脳裏を焼いているこの部屋に長居する気にはなれなかった。
全員が再び廊下に出たところで、真崎が「部屋、どうしますか」と呟くと、俺を含め、何人かが自然と宇田川の方を見た。宇田川が先ほどの客室を除いた部屋を振り分ける。
「じゃあ、振り分けましょう。さきほどの部屋を除けば、使えそうなのは5部屋です」
彼は鞄のポケットから手帳を取り出し、無造作にページをめくりながら、口早に続けた。
「女性はおふたりだけ。真崎さんと雪野さん。まずは二人で一部屋、女性部屋でいいですね?左翼の『真珠の間』に」
真崎が小さく頷いた。雪野も静かに受け入れる。
「残り8人を4部屋。そうですね、山路さんと羽賀さんは、右翼の角部屋『深海の間』に。格式の高い広めのお部屋ですし、おふたりなら会話も弾むでしょう」
「……なるほどな」と山路が鼻を鳴らした。羽賀は冗談めかして肩を竦めている。明らかに、うるさい組だと全員が思っているが、口にする者はいない。
「神依春一くんは、間宮さんと『王女の間』に。『真珠の間』のお隣となります」
一瞬だけ視線が集まった。兄の名前が出ただけで、俺の意識は少しだけ研ぎ澄まされる。間宮なら信頼できる。初めましてから2日目だが、何故か確信できた。春一の能力も知っているはずだ。配慮してくれるだろう。
「榊原くんと神依典彦くんは『珊瑚の間』に。左階段近くのお部屋です」
俺は「了解です」とだけ返す。榊原は壊れたように幾度も頷く。
「私と荻原さんが『月光の間』。これで5部屋、ぴったり10人分」
宇田川は腕を組み、一同を見渡した。
「では、おやすみなさい。また明日」と穏やかな口調で雪野が言った。
だが、「うん。おやすみなさい」と、頷きながら優しい声で応えた春一以外からの返事はなかった。
各自が無言で居室へと向かっていく。
不可解な会話
割り振られたのは、屋敷の南側に並ぶ客室のひとつ。左階段を上ってすぐ、左翼廊下の端にある部屋だった。『珊瑚の間』というだけあってか、赤みの強い両開きのドアが印象的だった。
ドアノブを回すと、軋んだ音を立ててドアがゆっくり開いた。ひんやりとした空気が、薄暗い室内からこちらへと漏れてくる。どこか湿った匂いが鼻をかすめた。
「……失礼します」
榊原が小さな声で呟き、先に一歩、足を踏み入れた。俺も後に続く。
室内は思ったより広かった。古びた木製の家具が整然と置かれており、明らかに良いものだとわかる。
ただ、表面にはうっすらと埃が積もっていて、ここしばらく誰も触れていないことが察せられる。壁紙はベージュ系だが、日焼けと時間のせいか、ところどころ色が褪せ、角には僅かな剥がれも見える。古さはあるが、安っぽさはまったくない。全体に、しんとした品のようなものが漂っていた。
奥にはベッドが二つ、重厚なフレームと装飾のある脚で、少し距離を取って並んでいた。
「意外と……きれい、ですよね」
榊原がぽつりと呟いた。どこか安堵のような響きがあった。
彼は足元を確かめるようにしながら、そっと部屋の奥へと歩を進める。
「まあ、少なくとも寝るには困らないな」
天井は少し低めで、木の梁がうっすらと見えている。窓は西側に一つ。古風な木枠の窓を叩く土砂降りの雨は、まだ止む気配がない。
重たいカーテンや絨毯も相応にくたびれてはいるが、元々の質の良さがそれを覆い隠しているようだった。長年、誰にも見向きもされなかったであろう空間には、どこか哀れさのようなものもあった。
時計の針はまだ、深夜には遠かったが、俺は軽く伸びをしてからドア側のベッドに寝転んだ。
ベッドに身を預けると、身体の芯まで疲労が染み渡っていたことに気づく。榊原も静かに荷物を下ろし、ベッドに腰かけるのを横目に、あっという間に眠りに落ちていた。
ふと目が覚めた。腕時計を見ると0時ジャスト。
榊原はトイレでも行っているのか不在だ。落ち着かず、俺もふらりと廊下へ出た。だが、すぐに歩みを止めた。何かが、引っかかっていた。
胸にひっかかった棘を抱えたまま、無意識に廊下を歩いていた。
そのとき、ふと、廊下の奥から小さな声が聞こえた。誰かの気配を感じて、俺は足を止め、柱の陰に身を隠す。ひやりとした木の感触が背中に伝わる。
微かに聞こえるのは、榊原の声だった。抑えたつもりでも、夜の廊下には十分すぎるほど響く。
「……あの、今夜、たぶん眠れそうもなくて」
遠慮がちで、それでも必死な響きを帯びた声だった。
「睡眠薬、少しだけでも分けてもらえたりしますか?」
一拍の沈黙。俺が耳を澄ませると、返ってきたのは、落ち着いた真崎の声だった。
「ごめんなさい。実は、いまは手元になくて……ちょうど切らしているのよ」
やんわりとした口調で、榊原の頼みを断った真崎。そこには、静かな拒絶の空気があった。
「……そうですか」
息を呑み、絞り出すような返答をした榊原から、それ以上の言葉はなかった。
彼らは、初対面のはずだ。それなのに、なぜ榊原は、真崎が睡眠薬を常用していると知っていたんだ。そういえば、榊原は真崎に対して、常に丁寧に対応していた。彼らは、知り合いだったのか?
そして『ちょうど切らしている』。
彼女が睡眠薬を使いきったのは一体いつだ?
俺は足音を殺してその場を離れた。
頭の中である映像を思い出していた。朝比奈の遺体。その傍らに転がっていた、空になった薬瓶。
俺の中で、ひとつの思考が形を取りはじめていた。
【第十章】予告の時刻(神依春一視点)
「憎悪で人は殺せる。しかし愛ならもっと容易だ」
王女の間(The Princess’s Room)
与えられた客室は南西側の角部屋だった。
その配置と、眼前の扉から察するに、客室というより貴賓室と呼ぶべきかもしれない。
キューバンマホガニーの六枚パネルの観音扉が、この部屋の格式を物語っていた。全体が光沢を帯びた上品な質感を湛え、緻密な縁取りの中には、海草が揺らめくような繊細な高浮彫が巧みに施されている。
艶やかな真鍮製の取手に間宮が手を伸ばす。蝶番が低い唸りを上げながら、扉が開かれた。
その先で、視界に飛び込んできた光景に、彼は一瞬、言葉を失ったようだった。
部屋はほぼ正方形。
天井は控えめに丸みを帯びたヴォールト構造。海草や泡、貝殻、王冠などの絢爛な漆喰細工が、宮廷建築の如く均整の取れた配置で全面に施されていた。
天井中央には真珠光沢のある硝子細工を基調とした多層式の燦爛たる飾り電灯。
寄木張りの床の中央に配された波斯絨毯には、群青色を基調に、銀糸で波紋と真珠を刺繍した円文が整然と連なる。
光の角度で波のように輝く薄藤色の上質な絹張りの壁面。
ウォルナット材の腰壁には、象牙と金属を併用した精緻な海洋寓意の浮き彫り装飾。
上品な意匠、整った調度。あの不穏な部屋の記憶とあまりにかけ離れていたからだろう。ふたりで入室したものの、感情の整理がつかないのか、間宮は眉間に皺を寄せて呟いた。
「……アレがあった部屋と比べると、えらく、立派に見えるが」
彼なら扉の格式と部屋の配置から、ある程度は想定していると思っていた。
ほとんど睨むように室内を見つめる間宮に告げる。
「この館は、ジョージアン様式の邸宅を模していますから。客室は相手の階級に配慮するために様々な仕様になっているのが一般的です。ここは最上位来賓室でしょう。……間宮さんに優先して休んでいただくためかと」
「……まあ、春一くんを見ると、この荘厳な部屋もただの背景だな。今更気後れするのが馬鹿らしくなってきた」
その率直な物言いに従い、改めて室内をみた。
目を引くのは、部屋の中央にある天蓋付き寝台だ。白蝶貝の象嵌で彩られたキューバンマホガニーが波のような曲線を描き、海洋神話寓意の柱の彫刻は控えめながらも精巧だった。
背板には象牙と白蝶貝、さらには月長石を用いた象嵌が施され、虹色に揺れている。
薄銀に淡紫を混ぜた絹地のカバーレットには、銀糸と細密な金刺繍により海草と星座が浮かび上がる。
奥には大きな硝子窓。濃紺色の天鵞絨の窓帷は、遮光性、遮音性いずれも高水準なようで、稲光も暴風雨の音も、廊下よりずっと控えめだった。
元刑事であるからと、多くの責任を負わされている間宮の睡眠の助けになるだろう。
白蝶貝の象嵌と繊細な青銅細工が施された調度。書斎机、飾り台、長椅子、肘掛椅子、鏡台にいたるまで、いずれもルイ十五世様式に基づいて雅やかにまとめられている。
白蝶貝と純銀の象嵌が煌めく衣装棚。その横には、壁に直立して設置された真珠色の装飾枠付き全身鏡。
王女の間は、その名に相応しい様式美が貫かれていた。
「絵になる部屋だな。おそらく、朝比奈のことがなければ、ここも案内予定だったんだろうな。ベッドは清潔そうだし、案内されたダイニングやリビングと同様、他より手入れされてる」
間宮の予想は正しい。
典彦に与えられたのは珊瑚の間。この部屋や主寝室と比べて「絵になる部屋」では決してない。手入れの優先度は低い。彼がアレルギー持ちでないことは幸運だった。
宇田川の言動から推察するに、事前に手入れされていたのは、この貴賓室と、真珠の間、深海の間だけだ。
広く格式ある、俺達や女性陣から最も遠い深海の間に、指揮権を握る間宮への反発を繰り返した最年長の山路、軽薄な態度を見せている中年男性の羽賀。
オーナーである宇田川本人は、犯人ではないかと皆に疑われている荻原貴司を引き取り、最も格式の低い月光の間へ。
間宮以外で見るからに頑丈、機動力のある榊󠄀原と典彦を、未整備、階段横、他の男性陣との壁になる珊瑚の部屋へ。
宇田川は、善良さを常に示す榊󠄀原と、元刑事の同行者である典彦を疑っていない。
だが、運動習慣がある体格の良い若い男性である彼らは、他の誰が犯人かわからない状況において、危険が相対的かつ絶対的に低い。間宮が犯人でない限り、残りの参加者が一瞬で彼らを殺すことはまず不可能だ。
自らに役立つ屈強な人間ではなく、俺や女性二人の安心と安全を優先する判断は、宇田川の倫理観を示している。
「休むぞ」
間宮はそう言うと、壁際に配置されている青磁色をした天鵞絨張りの寝椅子へと向かった。
慌てて引き留める。口に出すのは躊躇われたが、彼の顔色はあきらかに悪かった。だが、「どうぞ寝台を……」と口にした瞬間、その配慮は見事に裏目に出た。
心底呆れたという顔をして、間宮がすごいことを言い出したのだ。
「はあ? お前は何だ、ガニュメデスじみた見た目してるくせに、何でソファに収まろうとしてるんだ。そんなの見たら、弟が泣くぞ」
この人、実は見た目以上に疲れていたんだろう。流石に神々の誰より美しかった美少年とまで言われる相手に喩えられるのは初めてだ。
「いいか。お前がベッドに寝る、俺がソファで寝る、それがこの部屋の自然な絵面だ。それともなにか、あのプリンセス御用達みたいなベッドで俺に寝ろと?」
捲し立てる言葉の勢いと、その声音は滑稽なほど真剣。譲る気配は微塵もなく、口を挟む隙も与えない。その強情さには苦笑せざるを得なかったが、そこにある無骨さと真心を、とても好ましいと思った。
とはいえ、この件で譲る気は一切なさそうだ。まあ、この広さの寝椅子だ。間宮も問題なく休める。それに、この寝椅子のほうが、『月光の間』の寝台より確実に快適だろう。
微睡の告白
間宮は、天鵞絨の寝椅子に横たわり、海底宮殿の如き精緻な彫刻を施された天井を、睨むように見つめていた。俺は『プリンセス御用達みたいな』寝台の端にそっと腰を下ろしながら尋ねる。
「眠れないんですか?」
「君こそ、そんな風に見える」
間宮は視線を動かさないまま応じた。しばらく沈黙が流れる。
やがて間宮は、額にかかった髪を指先で払いながら、低く語り出した。
「十代の終わり頃だった。母が『光輪導会』っていう宗教にのめり込んだ。最初はセミナー通い程度だったんだが、そのうち喜捨だの護符だの……。父は、黙って出ていった」
握られた拳が微かに震えていた。
「理屈があれば、人は納得すると思ってた。だから、俺は警察に入った。でも今日、『幻燈』を見て……君の異能を目の当たりにして、否応なく知ったよ。理屈の外にある現実ってやつを。あれを見てしまっては、信じないという選択肢が、もう選べない」
俺は、小さく頷いた。
「何かを信じるってこと自体は、悪いことじゃない、それは分かっている。……けど母は、家族を置いて、信仰を選んだ。だから俺は、信じないと決めたんだ」
その声が、過去の重さを物語っていた。
「俺はずっと、霊だの異能だのは、人の弱さにつけ込む道具だと思ってた」
声には長い疲れが滲んでいた。だから、ふわりと優しく語りかける。
「理解しなくていい。許さなくてもいい。だってあなたは、今も、今までも、ずっと正しく優しい人です」
暗闇の中、俺の瞳を見つめながら、間宮は僅かに口元を緩めた。
「……悪いな。くだらない話をした。誰にも言ったことは、なかったんだが」
午後十一時。
館の外は吹きすさぶ風に葉が舞い、どこか遠くで軋む音がした。風と雨音の合間に、人の気配が混じる。徐々に近づく廊下の声が、部屋まで響いてきた。
間宮が身を起こした。
「……あ? 廊下、誰かいるみたいだな。話し声がする。見回りがてら、少し見てくる」
薄い毛布を整え、控えめに言葉を添えた。
「……俺も、ご一緒しても宜しいでしょうか?」
音が響かない配慮だろう、間宮がゆっくりと扉を開けた。促され先に廊下へと出る。揺らめく光が壁の絵画を揺らしていた。その光の先、隣室の『真珠の間』の前に、人影が三つ。館の宿泊者である女性二人と、燭台を手にした宇田川である。
一歩前に出て、柔らかく声をかけた。
「どうかされたんですか?」
応じたのは、紅藤色の羽織ものに身を包んだ志桜里だった。声は幾分か緊張を帯びている。
「実は、お部屋の鍵がかからなくて。どうにか出来ないか、宇田川さんにお願いしてたんです」
「でしたらこちらのお部屋と、交換しますか?女性お二人ですから。そのほうが、安心でしょう」
その提案に、背後から間宮が肯いたように言葉を添える。
「ああ」
だが、美緒は軽く手を振りながら微笑んだ。
「そんな、大丈夫ですよ。きっとちょっとした不具合でしょうし……それに荷物も、もう広げてしまいましたから」
俺は一拍、間を置いてから肯いた。
「そうですか」
言葉少なに部屋へ戻る。扉を閉めると、静寂が再び降りる。整えられた寝台に身を沈めた。
天蓋は淡い藤紫の絹張りで、夜の帳に溶けるように優雅な襞を描いている。四方を囲む柱には、波打つような貝殻や海草の浮彫細工に、清逸な金箔が控えめに施されている。海底の如き崇高美に包まれ、眠りについた。
美しく、優しい記憶だけが宿る『王女の間』。姉さまに甘えて身を預ける、無邪気な楓ちゃん。あの部屋から、最も遠い世界がここにはあった。
午前五時三十分。
硝子窓の外はまだ青白い闇に沈んでいる。規則正しく刻まれた習慣に従い、自然と目を覚ました。
硝子窓の外には未だ激しい豪雨が続いていたが、どの部屋より外部からの防音に配慮された室内は、存外静かだ。寝椅子に横たわる間宮も、深い眠りに沈んだままだった。
……あと十分もすれば、典彦が迎えに来るだろう。
間宮は、誰かに無防備な姿を見られるのを極端に嫌う人だ。身体を起こし、彼を起こすべきかどうか思案する。
青い上着の男
時計が止まった瞬間から、この悲劇は始まった。死の匂いは、記憶よりもずっと静かだった。
三時十三分。Flashbulb Memory。
茜色の絨毯の上に倒れた男。荻原貴司。千草色の上着を着た彼の腕時計の風防は放射状に罅割れている。時刻を示すその針は、時の流れを拒絶する明確な意思を感じさせた。
時間は、午前五時四十分。
間宮が扉を開き、視線で俺を促す。雷鳴はもう聞こえない。だが外では未だ、風が吹き荒れ、雨が降り続いている。薄暗い朝の空気に、湿った冷気が混じった。
廊下はまだ深い眠りに包まれていた。間宮が持つ懐中電灯の明かりが、床に揺れる影を二つ落としている。丁度、典彦が『珊瑚の間』から出てくるところだった。
「おはよう、春一。間宮さんも。もう起きていたんですね」
典彦と目を合わせると、間宮と並んで廊下を進み始めた。合流した典彦は、少し後ろに控え、俺の足元を照らしながら歩き出した。
グランドホールへ続く階段へと向かう。昨夜の移動では右階段を使ったが、今朝は『珊瑚の間』に近い左階段を選んだ。
典彦の顔色が優れない。
「昨夜は、正直あまり眠れなかった。何か嫌な感じがして……」
どこか落ち着かない様子だった。
俺は美しい夢を視ながら眠れた。寝不足だと言う弟に、声を抑えながらも、敢えて明るく声を掛けた。
「この時間帯、館内はまだ静かだね」
廊下を抜けると、眼下にグランドホールが広がった。湿った冷気が肌を刺し、空気が重く感じられた。艶のあるマホガニー材の手すりには、丁寧に磨き上げられた光沢があり、縁には波を模した文様が刻まれている。
階段を下り始めたその時、間宮がぴたりと足を止め、俺の前をそっと腕で遮った。
「……ちょっと待て」
視線を下ろすと、踊り場の向こう側、右階段の手すり近くに倒れた人影。茜色の絨毯の上で、荻原貴司が死んでいた。
頭部の下に、円状の血痕が黒ずんで広がり、髪は血でべったりと固まっている。頭蓋が砕けたのだろう。皮膚の裂け目から、象牙色の骨片が露出していた。
間宮の懐中電灯の光が亡骸を照らす。
「……荻原さん!?」
俺の肩越しにその姿を捉えた典彦が、俺の腕を掴み、前に出る。間宮と並んだ典彦が、全光束200lmの懐中電灯で踊り場を広角照射した。強い灯りが、倒れた男を浮かび上がらせる。
千草色の上着が血に暗く染まっていた。半開きの口元には乾いた血液。顔は白く冷えきり、引き攣ったまま硬直している。瞼は半眼で静止し、眼球は僅かに混濁。不自然に屈曲した指先。顎から首、両腕に筋肉の強いこわばり。胸元から下の胴体や脚部は、自重に従って血の染みた絨毯へと沈んでいる。襟元から覗く首筋には鮮やかな赤紫色の死斑が現れていた。
湿度が高く、底冷えする環境。同時に、吹き抜け階段という『風の通り道』でもある。
気温が低い。筋肉内の化学反応は遅延する。
湿度が高い。角膜表面の水分蒸発、細胞の腐敗や変性が抑制される。
風が当たる。角膜表面の水分は強制的に蒸発する。
「荻原さん……?」
間宮と共に踊り場に向かった典彦が手を伸ばし、その肩に触れようとした。
「待て、触るな」
間宮が素早く制止する。墜落性死斑を避けるためだろう。
「おそらく死斑が出てる。背中全体に。位置が変われば、検視の判断がぶれる」
典彦を後ろに下げ、周囲に鋭く目を走らせた間宮が独り言つ。
「……転落だな。右側の階段から落ちた痕跡がある。手すりが壊れ、壁に擦れた跡もある」
間宮の声は静かだった。典彦も顔を青褪めさせ、周囲を見回している。
荻原貴司の左手首には、文字盤を内側に向けて着けられた腕時計があった。罅割れたミネラルガラスの風防の下で、針は三時十三分を指している。
「止まった時計の時間が、おそらく死亡推定時刻だ……三時十三分。まだ皆寝ていたはずの時間」
その声に応えるように、背後の廊下の先から微かな物音が聞こえてきた。館内の他の者たちが、次第に目覚めて動き始めたらしい。
雨音が途絶え、東側の硝子窓からは、青白い光が僅かに差し込んできた。
雨が止んだ。
だが、それはまるで、新たな覚悟の幕開けを告げるかのようだった。
「知らせなければ、いけないな」
間宮が深い溜息を吐きながらそう言うと、典彦も肯いていた。
視線をもう一度踊り場に落とす。
茜色の絨毯の上に横たわる硬直した亡骸。ミネラルガラスが割れて、三時十三分で止まった腕時計が嵌められた左手。
二枚の爪が剥がれ多数の裂挫創の刻まれた指先とは対照的に、その左手首の内側には擦過傷一つなかった。
【第十一章】バアラトの館(神依典彦視点)
「愛は人を救いもするが、最も精緻な毒にもなる」
咎人たちの告解
雨は完全に止んだらしく、エントランスには、東側の窓からはっきりと日の光が入るようになった。踊り場の遺体を改めて検分していた間宮の指示で、みな左階段を使用したが、館の構造上、誰もがその遺体を目にすることとなった。
遺体発見から30分。エントランスに集められた誰もが口を閉ざしたまま時間が過ぎる。あまりにも急な出来事に、何を語ればいいのかも分からなかった。
静寂と疑念だけが、ひしひしと満ちていた。
そんななかで、山路だけが異様に映った。他の全員から少し離れ、壁際に立っているが、脂っぽい額に汗が滲み、視線は定まっていない。
「……私は、この館に呼び出されたんだ」
沈黙を破ったその声は、掠れていた。山路は、ゆっくりと手をブリーフケースに伸ばし、茶封筒を取り出した。指先は微かに震えていた。
「数日前、この手紙が届いた」
彼の視線は宙を彷徨い、誰の目も見ようとしない。声には、震えと共に何かを諦めた響きが混じっていた。
「……15年前、この館で起きた事件の真相を、知っていると」
手紙を握りしめながら話す山路は、下を向きながらキョロキョロと視線が動き、誰の目も見なかった。
「15年前。私は、あの事件の処理を命じられた。南雲由紀は犯人ではない、それはわかっていた。だが、その時は、早く幕引きをしなければと焦っていたんだ」
南雲由紀、その名前が出た瞬間、榊原と羽賀がはっきりと身を強張らせた。
続く山路の言葉を聞き、さらに強い不快感を覚えた。
「でも、都合がよかった。第一発見者で、遺体にも一番に触れて、メイドの服には少女の血液が大量に付着していた」
その保身に満ちた発言を聞いた元刑事の間宮が、苛立ちを込めて吐き捨てる。
「それが、警察官のすることか……っ」
その様子を眺めていた春一が、唐突に口を開いた。
「私は、日本国憲法及び法律を忠実に擁護し、命令を遵守し、」
その声には、人を圧倒する力があった。全員の視線が自然と彼に集まり、誰もがその言葉に耳を傾けた。
「警察職務に優先してその規律に従うべきことを要求する団体又は組織に加入せず、」
山路は、その厳然たる語り出しを聞いた瞬間から、全身を硬直させ、瞬きひとつせずに聞き続けた。
「何ものにもとらわれず、何ものをも恐れず、何ものをも憎まず、良心のみに従い、」
春一は神々しさすら感じさせる響きで、聞き覚えのない、揺るぎない誓詞じみた文言を滔々と紡ぎ続けた。
「不偏不党且つ公平中正に警察職務の遂行に当ることを固く誓います」
そして春一が口を閉じた瞬間に、山路はその場に崩れ落ちた。
雪野が迷いなく彼のもとへ駆け寄って膝をついた。嗚咽を漏らし、肩を震わせながら項垂れる山路の背中を、そっと撫で始める。
嘆息した榊原も無言でそこに近づき、ただ黙って雪野の隣に身を屈め、その仕草を引き継いだ。
重苦しい空気のなか、間宮は苛立ちを顔に滲ませ、低い声で切り出す。
「おい、事件の真相って……この館のことで、だな?あんたは一体、何を隠したんだ?」
昨夜見た幻燈が脳裏に甦り、たまらず俺も問いかける。
「なあ、そもそも、15年前にこの館で起きた事件って、なんなんだ?」
エントランスに沈黙が満ちる。
それを破ったのは羽賀だった。彼は小さく咳ばらいをし、襟元を緩めながら語り出した。口調には、どこか自嘲と諦めが混じっていた。
「実は、オレもね……2週間くらい前かな。妙な電話があったんだよ」
声は軽い調子を装っていたが、僅かに掠れていた。
「電話を取ったのは会社の別のやつだけど、オレ宛だった。匿名で、『4月22日、午後2時、旧梨木邸で、15年前の秘密を知る者たちが集います』ってな。意味は分かんなかったが……ずっと気になってたんだ、その事件。それで、ここまで足を運ぶ気になった」
羽賀は一拍置いて、唇を舐める。
語るには、あまりにも遅すぎた後悔が胸を押し上げているのが、誰の目にも明らかだった。
「15年前、オレはこの事件の取材を担当してた。正式には『檜森町令嬢殺人事件』。警察が連行した女、それが南雲由紀だった。当時、この館でメイドをしてた若い女性だよ。釈放されたけどさ……」
彼は深い深い嘆息とともに、懺悔を吐き出した。
「それでも、オレはそのまま記事を書いた。いや、書き散らしたってのが正しいな。警察発表を鵜呑みにして、まともな取材もせずに。彼女を犯人として、名前も出して、顔写真まで載せた」
羽賀は視線を下に落とし、拳を震わせながら絞り出した。
「雑誌が発売されて間もなく、彼女は命を絶った。……彼女、自殺したんだ。たった26歳だったのに」
声は次第にかすれ、最後の言葉はかろうじて聞き取れるほどだった。
「昨夜の『幻燈』で映ったろ? 女の子に駆け寄って、エプロンで隠してやってた女性。あれが、南雲由紀だ。オレ無理矢理、直接取材もしたからな。間違いない。……あんなときにさ、真っ直ぐに駆け寄っていける、優しい女性だったんだよな」
羽賀は息を整え、さらに続けた。
「あとから聞いたが、あの取り調べ、かなり苛烈だったらしい。……あんだけ嘆くほどのお嬢ちゃんを殺したなんて疑われて連れていかれて。挙句プライバシーも何も配慮されずにさ。辛かったろうよ。心を壊れるほどに、な」
その場に流れる空気が一段と冷え込む。羽賀の告白は、自己弁護の気配を含まぬまま、場に投げ出された。
謎の脅迫状
「……ごめんなさい。もう、みていられない」
雪野が小さく震える声で呟いた。全員の視線が雪野に向かう。
彼女の言葉を聞いた俺は、心が凍りつく思いがした。なぜ今まで気が付かなかったのか。エントランス階段の踊り場には、荻原の遺体がそのまま横たわっている。
春一や雪野には、あまりにも酷な場所だった。急ぎ、間宮に提案する。
「間宮さん。場所を移しませんか」
素早く春一と雪野に目を走らせた間宮も即座に同意した。
「悪かった。ここにいても仕方ない。まずは場所を移そう。……そうだな、リビングに行くか。話を整理する必要もありそうだ」
踊り場を見上げるその表情には、憤りと疲労が混じっている。
その言葉に、誰も異を唱えなかった。全員が踊り場から目を背けながら、リビングへと足を進めた。
リビングには、いくつかの椅子と円いテーブルが三つ、点在するように置かれている。暖炉の前には立派なソファが置かれ、窓際には二人掛けの小ぶりなソファ。
全員が腰を落ち着けた。みな昨日と同じ席だ。
……窓際のテーブルに荻原貴司がいないことを除けば。誰の顔にも、安堵の色はなかった。
「少し考えを纏めたいが……、ここはさすがに落ち着かないな」
俺たちと中央テーブルにいる間宮がそう言うと、真崎が助言をくれた。
「では、隣の書斎がよいかと。そちらの扉の向こうにある」
間宮に目線で促され、示されたドアに向かう彼に俺と春一も続く。
風格ある木製のドアを開けると、空気は一段とひんやりとし、インクと革の微かな香りが鼻をかすめた。
まず、壁に飾られた古い地図と、艶と深みのある重厚な木材を贅沢に使った大きな机が目に入った。
山路が握りしめていた手紙と、羽賀が持ち込んでいた過去の『檜森町令嬢殺人事件』に関連する記事の数々。分析のために間宮が受け取ったそれを、順に見ていくことにした。
記事の数々に軽く目を通し、いよいよ山路が受け取ったという手紙を開く。
拝啓
時下ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。
突然のご連絡、誠に失礼いたします。
貴方様がかつて関わった、檜森町の、あの館での出来事について、今も強い関心を寄せている者がいることをご存知でしょうか。
あの日、あの場所で起きたこと。
私は、その「真実」を知っています。
貴方がそれを忘れても、決して許さぬ者がいます。
十五年前のあの事件には、多くの疑問と未解決の点があります。
この度、関係各位にお集まりいただき、事実確認と真相の解明を目的とした場を設けました。
つきましては、下記の日時に、旧梨木邸までお越しください。
記
・日時:四月二十二日(火) 午後三時
・場所:旧梨木邸
真実と向き合うべき時が来たと、貴方だけでなく、他にも関係のあった方々、みなさまに、ご連絡しております。
ご自身の立場を守るためにも、どうぞお運びください。
あなたの真実が知りたい。
現在のオーナーの方には、貴方様が物件にご興味をお持ちだと伝えてあります。
お目にかかれるのを、心よりお待ち申し上げております。
何卒よろしくお願い申し上げます。
敬具
梨木邸の関係者より
「……で、これがその呼び出し状、か?」
間宮が盛大に眉を顰めた。
「えっと。……できるだけ丁寧なお手紙にしようという意思は、十分伝わるね」
覗き込んだ春一のオブラートで厳重に包んだ物言いを、間宮が容赦なく切り捨てる。
「文脈がめちゃくちゃだ。表記ゆれも多すぎる。気持ち悪い」
間宮の言葉はきついが、正直、俺も同感だった。
「なんというか……『社外ビジネス文書 例文』で、検索して。コピペしながら、言いたいこと並べて、そのまま印刷して送った、って感じ、ですね」
間宮が書簡を軽く掲げてみせる。
「そもそも封筒。差出人の梨木邸関係者ってとこ、完全に手書きだろ。挙句、宛先には鉛筆で下書きした跡まで残ってるじゃねえか。……こいつ馬鹿か」
辛辣な言葉を苛々と連ねる間宮に、春一が衝撃的な事実を告げる。
「間宮さん。この封筒、糊付けのところに指紋、ついてます」
それを聞いた間宮の表情は呆れを通り越して、どこか無力感すら漂っていた。
「勘弁してくれ。なんなんだこいつ」
沈黙を破ったのは、再び春一だった。
「でも榊原さんの善性は本物ですよ」
春一は、そっと机の端に指を置き、真っ直ぐに間宮を見た。
「安全を守ることへの誇りも。だからこそ今回こんなことになってしまって。彼は、みんなが遭難するかもしれないって、ずっと怯えていました」
間宮は眉を顰めたまま、まるで春一の言葉を計りかねるように、「は?」とだけ返した。
春一はそれに構わず、机上の封筒に目をやった。
「この封筒の文字、榊原さんの持ってるファイルの表紙と、筆跡が同じです。比べたらわかると思います。……警察が来たら指紋の鑑定もできます」
春一のその発言に、書斎の空気は揺らいだ。俺も、すぐには口を開けなかった。
だが、昨夜のことを思い出した。
「間宮さん。昨夜の、あの『泡の間』の幻燈を見て……榊原さん、『おばさん』って言ってました」
「おば……?」
間宮が僅かに顔をしかめた。
「榊原は、自己紹介でたしか、30歳といっていたな」
目を伏せて記憶を引き出すように間を置き、ぽつりと呟く。
「なら、15年前に26歳で自殺したという、あのメイド、南雲由紀を指していると考えるのが自然だな」
その推論が目の前に提示されたとき、俺は何も言えずに固まった。
それは、線と線が唐突に結ばれたような、奇妙な納得と、冷たい予感を孕んだ瞬間だった。
薄青の水筒
書斎には、冷たく重たい沈黙が垂れ込めていた。春一の言葉、封筒の筆跡、間宮の冷静な推論。それらが俺の心をじわじわと締めつけてくる。
あらゆる証拠は、明らかに榊原を指し示している。だが、俺はまだ納得できていなかった。
動機は十分。そして、この館に施された一連の工作、これが可能なのは俺を除けば彼だけだろう。状況証拠どころじゃない。この無防備すぎる手紙を思えば、警察が来れば直ぐに動かぬ物的証拠すら、いくらでも確保されることは間違いない。
だが、榊原という男の言動の端々に滲む、朴訥とした誠実さ。それが彼の犯行を想像するたびに、決まって胸のどこかで引っかかる。
「……もう少し、確証が欲しい。どこかに証拠がないだろうか」
ぽつりと呟いた言葉に、春一が頷く。
「うん。朝比奈瑤子さんの鞄は、まだ調べてないよね」
正面の間宮と視線が交差する。そこには言葉以上の合意があった。被害者が生前、なにを持ち、なにを遺したのか。それを見落としておいて、何を語る資格がある。
「行くぞ」
間宮が素早くその身を翻し、歩き出した。俺と春一も直ぐに続いた。廊下の向こう、赤い絨毯の先へ。
秘書室にある遺体の側に、無造作に置かれていた朝比奈の黒い鞄。いまさら持ち主の許可を求めることもできない。
間宮が私物の衛生手袋を装着し、そっとその鞄に手を伸ばし、中身を検める。
いかにも高価そうなクロコダイル素材の黒いハンドバッグだった。
中身は、最新型のスマホ、名刺入れにキーケース、赤茶の革手帳と、エルブルスの高級ボールペン。
この使いづらそうな赤っぽい長財布は、確か、ケラックウォレットとかいうやつだ。
それから、シルクのハンカチ、ハンドクリーム、口紅、日中用UVカットクリーム、J’aimeのロゴの入った携帯用香水。サングラス、水筒、OCガス噴射式の小型護身具、モバイルバッテリー、山路が受け取ったという手紙と、宛先だけが異なる茶封筒。
そして、Wi-Fi対応のモバイルルーター。
「ルーター?」
俺が思わずルーターを手に取ると、手のひらにぴたりと吸い付くような重みがあった。まだ電源は生きている。
俺の頓狂な声と行動に間宮が眉を顰めるが、続けた言葉に表情が変わる。
「これ、Wi-Fi対応のモバイルルーターです。しかも山間部でも比較的電波が強いモデル。……雷で基地局が落ちてても、予備電源がある。基地局というのは、大きな被害を受けていなければ、通常6、7時間もすれば復旧します。いや、させるものなんです」
現在は本社勤務だが、これでも半年ほど前までは電力インフラの最前線にいたのだ。それなりに詳しい自信がある。
「つまり、雨が止んで数時間もすれば。……こいつで通信が通る可能性は高いです」
ずっと気を張っていたのだろう。間宮が長い溜息を吐きながら、独り言のように口にした。
「あと数時間で救助も警察も呼べるってことか」
俺は眉間に皺を寄せたまま、間宮の手によって、丁寧に並べられた朝比奈瑤子の私物たちを見つめた。
「なにかこれ、違和感というか、既視感というか……なにか引っ掛かるんだが……なんだ?」
その呟きに、春一が水筒を手のひらで示しながら、ゆったりと答えた。
「朝比奈瑤子さん、水筒をエントランスで取り落としていたよね。そのときのことかな。もしくは、その薄青の水筒が、美緒さんとお揃いだからじゃない?」
間宮が「は?」と声を漏らし、次いで目を細めた。
「ああ、そうだ。確かに。真崎の水筒、こんな淡い緑だった。形も完全に一緒じゃねえか」
俺は水筒を眺めて、低く唸るように、間宮に尋ねる。
「間宮さん。全身ハイブランドで固めたエグゼクティブが、水筒だけ安物ってことはない、ですよね」
その指摘に、間宮が腕を組んで頷いた。
「ああ、2人の職業や身なりからして、経済的格差は相当だろう。偶然お揃いのボトルなんて……流石に無理がありすぎるな」
空気が急に重くなった気がした。さりげない生活用品の中に仕組まれた、何かの気配が浮かび上がる。まるでピースのひとつが、強引に別の絵から切り取られて嵌められたような、異物感。
視線が水筒に戻る。たかがボトル。だが、ここから何かが繋がっていく。そんな確信めいたものが、今、動き出した。
「おい、これ中身は判るか?」
間宮が春一に向けて水筒を軽く振った。春一の視線が水筒に向く。
「ベンゾジアゼピン系睡眠薬とオピオイド系鎮痛薬が高濃度で混ざった飲料かと」
いつも通りの上品な声色で、なにやら物騒な響きをした応え。そんな春一に、間宮は僅かに目を細めている。
「……確かに呼吸困難で死ぬな。いや、確率が極めて高いというべきか」
間宮はいつの間に、春一に対し、これほど信頼をおくようになったのだろう。そこには疑いの色が一切ないように思えた。
間宮に目で促された春一は、間宮の目を見つめ返しながら、淀みなく話しだした。
「はい。朝比奈瑤子さんのご遺体には、顔面チアノーゼと、未乾燥の泡沫状血性液がありました。これは窒息や呼吸抑制系の薬物の特徴。肺水腫による致死的な呼吸困難、オピオイド系などの強力な中枢神経抑制薬の過剰摂取を示唆します。それに左手は胸元を掻くような位置で硬直してました。これは死に際に呼吸が苦しかった証拠」
法医学か何かの用語なのだろう。間宮は春一を見つめ、納得したように、丁寧に頷きながら聞いている。
「それに朝比奈瑤子さん、ソファで座ったままでしょう。これは急激な意識消失と呼吸停止が同時だったから。つまり使われたものは、オピオイド受容体作動薬の可能性が高いです。それから空のトリアゾラム瓶。合法的に入手できて、相乗効果で致命的な呼吸抑制を引き起こす併用薬。その最有力候補は比較的入手が容易な弱オピオイド鎮痛薬の……」
途中で、俺が全く理解できていないことに気が付いたらしい。俺に向き合った春一は、パチパチと瞬きした後、ひとつ頷いた。
そして、俺に誤解のないようにか、小首を時折傾げつつ、ゆっくりと説明をしてくれる。
「えっと、両方とも中枢神経系を抑制する薬なんだ。特に、呼吸中枢、呼吸を司る脳幹の部位が深く抑制される組み合わせで……。高濃度の併用では、致死的な呼吸抑制を引き起こす危険性が著しく高まる……?」
春一の話がようやく理解できた。春一に笑いかけてから、間宮に対し、確認するように言った。
「水筒の入れ替えが可能だった真崎に突きつけるには、かなりの根拠になりそうですね」
間宮が重く頷く。
「そうだな。立件するには毒物鑑定を待つ必要があるが、状況証拠としては申し分ない。そして鑑定結果が裏付けられれば、訴追の根拠としては決定的だ」
一拍の沈黙が落ちたあと、俺は口を開いた。
「なあ、オピオイドって、どんな薬なんだ?」
俺の問いに対して、春一は、再び言葉を選びながら答えた。
「簡単に言えば、とても強い鎮痛剤。モルヒネやフェンタニルが代表例。重症度の高い慢性的な痛み、もしくは手術後の激しい痛み。通常の鎮痛薬では対応できない場合に限って、慎重に処方される薬。……緩和ケアとかで使われると聞いたら、イメージしやすいかな」
昨夜の記憶が蘇る。盗み聞いてしまった、春一と真崎の会話。
手術直後に激しい痛みを訴える患者へ処方される薬。つまり、一年前に真崎の身に起こった出来事を考えれば、彼女には、入手が可能だったのではないだろうか。
【第十二章】愛の記憶が導くもの(神依春一視点)
「生きた人魚は歌わない。願ったのは愛ではなく、ただ隣にいられる日常だった」
二人の令嬢
午前八時。朝比奈瑤子の亡骸のある秘書室からグランドホールへ戻ると、声を荒らげる羽賀の姿が目に入った。彼らの視線の先には、階段の踊り場に横たわる荻原貴司の亡骸がある。
間宮の指示で階段の通行は禁止されており、その件で、なにやら揉めているようだった。
「あのな、あの階段、使うなって探偵さんにも言われてんだろう?じゃ、二階に行けないだろ。大体、あんた、あの遺体を跨いで行けんのか」
羽賀が苦々しげに吐き捨てた。
荻原貴司の亡骸はグランドホールの大階段の踊り場に横たわっており、通行を拒むようにその場に在る。左階段側からなら物理的には通過できるが、現場保存の観点から間宮に通行禁止を言い渡されている。
「でも、わたし、どうしても二階の子供部屋を確認したいんです」
志桜里が懸命に言い募る。
「あそこに、まだ何かが残ってる。呼ばれてる、そんな気がするんです。だって、まるで誰かが、深い水の底から私たちを呼んでいる気がしませんか?」
「そもそも子供部屋って、どのあたりだよ」
羽賀がぼやいた。
美緒が小さく首を傾けた後、ぽつりと呟いた。
「メイン階段が使えないなら。使用人階段があったはずです」
「え?」
志桜里が振り向く。
美緒は、まるで当然のように答える。
「ダイニングの奥、パントリーの裏。家人に見せずに使用人が上階へ出入りするための階段です」
まるで、そんな邸宅に住んでいたかのような口ぶりだった。
「よく知っているな……」
傍で聞いていた間宮が眉を顰めた。
美緒はほんの一瞬だけ言葉に詰まったが、視線を逸らして説明を続けた。
「……勤め先の郷土資料館で、この館の図面を見たことがあります。当時の地元の名士が建てた、ジョージアン様式のこの家のことも。……簡単にですが記録されているので」
羽賀が感心したように鼻を鳴らす。
「へえ、郷土資料館、意外と面白そうだな」
だが、間宮も典彦も、美緒に対して訝しげな視線を向けていた。
ぼんやりと、案内を買って出た美緒を眺める。彼女が振り返ったとき、眼が合った。
あっと、思ったときには手遅れだった。
気づいたときには、彼女の記憶の水底へと落ちた後だった。美緒と視線が交錯した。その瞬間。目の前には、美しい庭が広がっていた。
瀟洒な洋館がまだ生きていた日。四角く石が敷き詰められた中庭は、幾何学的な端正さを湛えていた。
足元には年季の入った石畳が整然と連なり、中央には卯の花色をした大理石の噴水が水音を立てていた。
彫刻の縁には細やかな花綱模様が刻まれており、陽光を受けて淡く輝いている。
時は初夏、柔らかな陽射しの午後、空気はゆるやかに流れ、どこまでも穏やかだった。
石で縁取られた花壇には、整然と植えられた薫衣草が、ちょうど満開の盛りで、香りが風に溶け込んでいる。
……ああ、これは美緒さんの記憶だ。雪深く閉ざされた土地で育った俺が持ちえない陽だまりの記憶。
噴水の縁石に腰掛けて、二人で一冊の絵本を覗き込んでいるようだ。楓ちゃんが笑っていた。その絵本を、美緒が静かに読み聞かせている。
楓ちゃんは、柔らかな撫子色の帽子をかぶって、声をあげて笑う。
「もっかい、美緒ねえさま、もっかい!」
美緒は言う。
「また明日、だよ。続きは明日」
妹はむくれるように頬を膨らませるが、それもまた愛らしい。
ほっそりとした指先でそっと、その頬をつつく。二人の笑い声が重なる。
そのとき、光景の表面がふっと揺らいだ。まるで水面のように記憶が波立ち、何かが零れ落ちる。
聴こえたのは、ただ一言。
「大丈夫よ。ねえさまが、絶対護るから」
その手の主は、楓ちゃんの頭を撫でながら、そう言っていた。
大丈夫、なんて。
そんな約束。
叶わなかったのに。
春一の視界は揺らぎ、音が溶け、やがて薄れていった。
美しい白昼夢から醒めたとき、美緒の目を通じて、その記憶を読み取ったことを改めて悟った。
水底に沈む叫び
ふと視線を横に滑らせる。志桜里と一瞬だけ目を交わし、互いに言葉を交わさずに意志を確認した。確信は、すでにふたりの間に共有されている。
物言いたげな典彦に告げた。
「……典彦。美緒さんを見ていてほしい」
その言葉に、典彦の眉がわずかに動いた。鋭く反応し、低く問い返す。
「……どういう意味だ?」
視線は外さない。淡々と、だが確かな重みを込めて続ける。
「記憶を視たよ。典彦も気づいてただろう。彼女は、あの子の姉だ。そして、毒となる薬を合法的に入手できたのも、水筒を入れ替えることが可能だったのも……彼女だけ」
それを聞いた典彦の気持ちが一瞬で重く沈んだのが解った。典彦は間違いなく、彼女が楓ちゃんの姉の、梨木美緒だと気がついていた。それでも言葉にされると違うのだろうか。
それを受けて、志桜里が一歩前に出るようにして言葉を継ぐ。
「あの部屋……きっと、あの女の子が殺された場所なんです。空気に痛みが残ってる。ここに立ってるだけで、わたしにもわかる。もし真崎さんが本当にお姉さんなら……ここは、あまりにもつらすぎます」
言葉の端々に、感情が滲む。志桜里の表情には強い憐憫と、仄かな怒りが混じっていた。
しばしの沈黙。典彦は言葉も動きもなく佇んでいたが、やがてゆっくりと春一のほうを振り向く。
「……わかった」
その声には、納得というより、決意があった。
「だが、何かあったらすぐ呼ぶんだ。いいな?」
相変わらず過保護な弟に、春一は微笑を浮かべて丁寧に謝意を伝える。
「ありがとう、典彦」
言葉に偽りはなかった。
典彦はそれ以上何も言わず、無言で踵を返す。そして、美緒のいる方へと、真っ直ぐに歩いていった。
子供部屋の扉は、軋むことなく静かに開いた。俺が先に一歩、足を踏み入れる。途端に、冷気とは違う、どこか底のない沈黙が肌にまとわりついた。
何もない。床は剥き出しで、踏みしめるたびに乾いた埃が小さく舞うだけ。
剥がれかけた壁紙。室内には家具も玩具もない。
唯一残されていたのは、窓辺の重たい窓帷だけ。ただ、微かに湿ったような、埃と古布の匂いが鼻をかすめた。
腰壁には、波打つような曲線の浮き彫り。人魚が泳ぐ海底を思わせる、優美で繊細な装飾が刻まれている。けれどその優美さが、今はなぜかやけに寒々しく映った。かつて愛が注がれたはずの意匠。けれど、今この部屋に満ちているのは、空虚だけだ。
殺害現場。その言葉が、脳裡にぬるりと浮かぶ。
背後から、志桜里の気配が近づいてくる。振り返らずとも、彼女が足を止めたのがわかった。俺のすぐ横に、ぴたりと立つ。その距離は、どこか心細げだった。
彼女が部屋全体に目を巡らせ、低く囁くように言う。
「……この部屋だけ、やっぱり空気が違いますね。痛みが、残っているようで……」
俺は彼女の言葉を受け止めながら、視線を漂わせた。
「何か、感じる?」
志桜里は、何かに耳を傾けるように立ち尽くす。そしてぽつりと漏らす。
「……あれ?……おかしいな。……ここ、何もないはずなのに……」
次の瞬間、彼女の表情が微かに歪んだ。手が胸元に伸び、苦しげに押さえた。
「ごめんなさい……今、たぶん……『あの子の叫び』を感じ取ってしまって……」
言葉が途中で震える。彼女はその場にしゃがみ込み、胸を押さえたまま、深く息をつく。
「胸が……痛い。すごく、痛くて、重くて……」
俺はすぐに膝を折り、彼女の横に寄り添った。声を潜める。
「この部屋の〝残留思念〟を……感じ取ったんだね」
志桜里は目を閉じ、こくんと頷く。
「はい。ただ……感情だけが、一気に流れ込んできたみたいで」
言葉を継ぐのもつらそうだった。彼女はそっと瞼を上げ、窓の方を見つめる。かつての記憶が染み込んだ窓帷を、じっと見ていた。
「すごく、痛くて、苦しくて……誰にも気づいてもらえなくて。この子……ここで、……殺されたんですね」
その言葉は、まるで部屋そのものが語ったように響いた。
俺は返す言葉を持たなかった。ただ、黙ってその場に留まった。志桜里の傍で、何もないはずのこの空間に、確かに残る激しい痛みと、叫びに向き合っていた。
沈黙が、重く降り積もっていく。
光が在るかぎり
志桜里は、自嘲気味に笑った。
「変ですよね、私。昔、美容師だったんです。でもいつからか、お客さんの『声』が、直接頭の中に流れ込んでくるようになって」
その声は細く、掠れていて、どこか呼吸と混じっていた。震える指先が胸元をそっと押さえる。自分の輪郭を確かめようとしている、そんな動きだ。
「私は『誰かに言えなかった想い』が強く残る場所に反応しやすいんです。昔、美容師をしていた頃、お客様の後悔や悲しみが、そのまま言葉や姿で流れ込んできてしまって」
志桜里の告白を、無言で聴く。これは彼女の信念に根差す、生きづらさの話だ。きっと、ずっと独りで抱えてきたんだろう。その気配が伝わってきた。
志桜里は、俯きながら続ける。
「ある日、カットしてたら突然、変なこと言っちゃって。気づいたら、その方の亡くなったお祖母様の口ぶりで話していて。お客様や職場の人たちに『あなた、何を言ってるの?』って怖がられて、辞めざるを得ませんでした」
言葉は淡々としていた。が、それが逆に深い傷を思わせた。声を荒らげるでもなく、涙に滲むでもない。だからこそ、それは重かった。
周囲から、『異常』として扱われた日々。彼女はそれを、一人で黙って耐えたのだ。誰にも理解されないまま、自分の異常性に向き合いながら。
「それは君の能力だ。呪いじゃない」
俺は穏やかに、そう告げた。言葉は自然と出た。彼女を慰めたかったわけじゃない。これはただ、事実を言葉にしただけだ。
それから、優しく視線を向ける。
「誰かの心に深く共鳴する力か。無意識に他人の『心の声を口にする』……辛かったね」
彼女はほんの僅かに驚いたような顔をし、次いで、ほっとしたように笑った。それを『能力』と呼ぶのは、彼女にとって救いだったのかもしれない。少なくとも『病気』や『異常』よりは。
志桜里が微笑む。
「はい。誰にも言えなかった強い想いが、あまりにも押し寄せて。私には、重すぎた。でも、同時に『誰かの痛み』を癒せるかもしれないとも思って、占いを学びました。だから今は、カフェで占い師をやっています。そっと話を聞くのが精一杯です」
自己肯定と自己防衛。その間で彼女は、己の存在意義を探してきたのだろう。丁寧な生き方だ。彼女の生き方には、一種の覚悟があった。
受け入れられない力を、無理に『意味のあるもの』に変えようとしたわけじゃない。ただ、誰かの役に立てるように、と歩み寄っただけだ。それは間違いなく、人間として尊敬に値する姿勢だった。
「私はただ、届かなかった気持ちに共鳴してしまうだけ。感情の残り香を感じてしまうだけ。だから、この館の『声』も、ずっと気になっていて……」
志桜里の中には、優しさの核のようなものが確かに存在していた。
「でも、この館で、あの子のことを想って、誰かがその生きた証を見届けるのは、悪いことじゃないと思うんです。だから来たんです、供養のために」
『誰かのために』という言葉を、ここまで澄んだ目で語れる人間がどれだけいるだろう。彼女の言葉たちは、俺には持てない思考だった。羨望ではない。ただ、ある種の敬意を覚えた。
やがて、彼女が顔を上げる。ずっと興味を持っていたらしい志桜里が無邪気に尋ねる。
「春一さんの力って、どんなものなんですか?」
昨夜、孤独を告白してくれた美緒を想う。彼女に俺の過去を語ったのは、少しでも、彼女の孤独に寄り添いたかったからだけれど。凡ては遅かった。
でも美緒は、俺の自己開示に応えてくれた。それは揺るぎない事実。
だから、俺も語るべきだろう。志桜里の自己開示に応えるべきだ。美緒のように誠実に、俺の真実を。
問いに答える前に、ふと遠くを見る。今ここで言葉を選んでも意味はないとわかっている。過去は変えられない。ただそこにある。
「俺は、『神の器』だった。七年間、神に感情も言葉も奪われて、ただ存在していた」
言葉にすると、記憶が少し疼く。だが、今さらそれに痛みを感じるほど、もう柔らかくはできていない。
「かみさま、ですか?」
彼女の相槌は、不思議そうな、けれどどこか納得したような、そんな声色だった。
「神はこの世にいるよ。人がそれを神と信じ、それを神と呼んだとき、それは神になるんだ」
抑揚なく語る。俺にとってはただの現実だった。神座村で生まれ、育てられたその現実は、今となっては、忌むことでも、誇ることでもない。
「俺の生まれた神座村は、数百年前まで雪で閉ざされた辺境の貧しい山間の村だった。……大体、八百年くらい前かな、村に『それ』は来た。それの持つ力で作物は実り、病は癒えた。飢えることのない豊かな村になった。村人たちはそれを神と呼んだ。……神依の家は、その神を村へと連れ帰った男が初代だ」
快晴の日が一年で数えるほどしかない、極限の豪雪地帯。およそ百年前まで半年以上、積雪により外部から孤立していた過酷な環境。
祖先が『神』を持ち帰ったその時から、村は神に縋ることを覚えたのだ。神は何も語らなかった。『神』と名乗ったこともなかった。村の者達が自ら『神』を解釈し続けた。
だからそれは、きっと必然だった。
……『神の器』足り得る資格を持つ者、『神』の求める美しい人間を絶やさぬために、村は『美』に、狂った。
あの村では、美は、神聖であり、特別であり、正義だった。
閉鎖性による遺伝的収束と価値観の固定化。
健康と美の両方が選択圧の対象となる、極端な刷り込みによる性淘汰。
劣悪な環境でも揺るがない、濡れたような黒髪、左右対称な顔と身体、綺麗な肌。心身ともに健康であること。
そして俺は、その『美しい人間だけが住む村』で、神を宿す器として選ばれた。
「……昔の俺はね、志桜里さん。神の器になるために育てられた。魂も肉体も、『それ』に明け渡すことをみんなに求められて生きてきたんだ」
未来や過去を視る、他者の思考を走査する、それは俺の本質ではない。俺は『それ』の器になるためだけの存在だった。それが俺の真実だ。
俺が生まれたとき、先代の器は老いていた。『神』は特別に美しい器にしか宿らない。
先代が老いれば、『神』を留めるために新たな器を決める。
『神』が認めうる、次の器が必要だった。だから俺が選ばれた。俺が生まれた時、村人達は確信した。俺が次の器となると。
約六百年前に突然変異で生まれた青紫の瞳。雪深い閉ざされた村には、弟のように、陽光の下でだけ松葉色になる榛色の虹彩の者が多かった。
青紫の瞳は、曇天や雪景色の下では光が拡散しやすく、色合いが引き立てられ、幻想的に見せる。創始者効果、遺伝的隔離、社会的価値による選択圧。
最も多く『神の器』を輩出し、常に村で最も美しい女性が嫁いできた神依の家には、特に生まれ易い。
「『神の器』。感情も、思考も、『神』に明け渡して、ただそこに在るだけ。何もかもが、『神』に喰われる。生きたままの、ただの入れ物」
俺の声は冷えていた。それに彼女が少し怯えているのが判る。だが、共感し共鳴する力を持つ彼女に害が及ばぬことを第一に、注意を払いながら話す。
父母、双方の家系の『美』の遺伝子。俺は、その凡ての『美』が劣性ホモ接合で発現した個体、だったのだろう。
「俺は神座村で七年前、正式にそれを引き継いでね。以来、『神の意志』が俺を支配していた。感情も言葉も、凡て」
自分が何者かすらわからなくなっていた。まだあのときの空白は、俺の中に残っている。
「感情も言葉も飲み込まれ、ただ器として生きる七年間。気が狂いそうだったよ。俺はその中で……人であることすら忘れそうになった」
語り終え、視線を志桜里に戻した。
「……それでも今、春一さんは、人として、神依春一として生きてます」
志桜里のそれは同情でも励ましでもなく、肯定だった。彼女らしい、優しさだけに満ちた言葉だった。
「そう、典彦が、弟が助けてくれた。『あれ』はもうこの世にいない」
薄っすらと微笑みながら答える。言葉にした瞬間、心に柔らかいものが灯る。
彼の記憶だけは、『神』にも渡さなかった。
「弟が、迎えに来てくれた。俺を人として引き戻してくれた。だから俺は、人の中で生きていたい。弟の望む、優しい人として在りたい」
志桜里に微笑みかけて、俺は話を締めた。
志桜里、ぽつりと言った。
「……それが、あなたの気配の基なんですね」
彼女の顔色を確認してから、話を切り上げる。
「志桜里さん。もうこの部屋で気になるところはないんだね? 下でみんなと合流しよう」
歩き出す前に、ふと腰壁に描かれた人魚に目をやる。
腰壁に泳ぐ人魚を眺め、志桜里に心の内で教える。人魚のお姫さまは足と引き換えに声を失った。それが、人間になるために払った代償だった。
空白と弟は、俺に諦観を与えた。
新たな世界を歩きたければ、何も語れぬことを受け入れねばならない。
それが、人の世の理(ことわり)なのだと。
そして、愛する者の隣で、人の世界で、人として生きるためには、歩くたび、焼け付く痛みにだって耐えねばならない。
【第十三章】狂気なき殺人者(神依典彦視点)
「理性による真の殺意には、常に一理がある」
探偵は叩き割る
9時30分。通信が復活した。
朝比奈の所持品だったWi-Fi対応モバイルルーターが、不安定ながら電波を拾い始めたのだ。
エントランス、内玄関の近くで預かったモバイルルーターを睨んでいた俺は、近づいてきた間宮に報告と相談をする。
「東側の窓際なら、もう少し安定するかもしれません。ただ、遮熱ガラスじゃないだけマシですが、窓の封鎖工作は2階もされているらしいので……」
俺の言葉を聞いた間宮は、即決した。
「バールとってくる」
その言葉に、錆びたバールが未回収だったことを思い出す。昨日、朝比奈の閉じこもっていた部屋のドアを抉じ開ける際に使ったままだ。
間宮は瞬時にその身を翻し、朝比奈の遺体のある秘書室へと足早に立ち去る。
あれで窓を叩き割るのか。判断が早い。
2分もせずに、バールを片手に帰ってきた間宮は、俺に渡していたモバイルルーターを受け取ってポケットに突っ込む。
そして真崎を一瞥し、視線を俺に向ける。見張っていろ、ということか。
バールを手にした間宮は、2階へと通じる、ダイニングの奥にある使用人階段に向かって歩き出した。
間宮がダイニングへ入室してから1分ほど、入れ替わるように雪野がエントランスに現れた。
彼女は、春一と一緒に2階の子供部屋に行ったはず。
春一の姿が見えず、思わず雪野に訊ねる。
「春一は?」
俺の勢いに一瞬、面食らった雪野は、曖昧に微笑みながら答えてくれた。
「ダイニングで、えっと、……バールを持った間宮さんと丁度お会いして。春一さんもご一緒に2階へ」
なぜ?
軽い苛立ちを覚えるが、ここから離れるわけにはいかない。間宮にも春一にも真崎を見張るよう頼まれている。
10分後、バールを手にした間宮が、春一を伴ってダイニングのドアから姿を現した。
「春一」
呼びかけると、不思議そうな顔をする。
春一の横にいた間宮から端的な報告を受ける。
「おい、通報は済んだ。状況は説明したが、濃霧による視界不良のせいで救助ヘリは飛べない。車両通行が可能になるにも、半日以上はかかる見込みだそうだ。だが山岳救助班が派遣される。こっちは最短3時間、最長6時間と思っておけ」
追憶の旋律
「美緒さんとお話しするなら、サロンがいいと思うな。グランドホールの右手にある談話室、このお屋敷なら、音楽室って呼ぶほうが適切かも」
その声音は涼しげで、控えめに目を伏せる仕草すら美しかった。
春一に導かれ、俺と間宮は、かつてピアノの音が響いていたというサロンのドアを開いた。
洋館の1階、エントランスの右手にあったその部屋は、今では埃に沈み、かつての栄華の影をとどめるのみとなっていた。
古びたグランドピアノに春一が歩み寄る。そして軽く埃を払い、ポンポンと軽く弾き始めた。
「春一、ピアノなんて、いつ弾けるようになったんだ?」調律されなくなって久しいだろうピアノは、案の定、少しズレているみたいだ。
「ピアノが教えてくれるよ」
俺の言葉に、笑って答える春一。でもその笑顔は、俺のためじゃない気がした。夜の底のような、その静謐な瞳には、何が映っているのだろう。
繊細な指が、鍵盤の上を軽やかに舞う。奏でられた旋律は穏やかで、どこまでも美しい。一音一音が、誰かの記憶にそっと触れるようだった。
「……シューベルトのピアノ三重奏曲第2番、第2楽章」
間宮が独り言つ。硬派な外見とは裏腹に、つくづく文化的な教養のある男である。
ステンドグラスに照らされた室内に、音が撫でるように溶けていく。ピアノとは、ここまで豊かな音が出る楽器だったのか。胸に迫るような低音が規則正しく刻まれてゆく。ゆるやかに流れ出した旋律は、まるで言葉を失った祈りのようだった。
柔らかな音なのに、どこまでも届く。高く遠く広がる旋律は、開かれたドアから、エントランスへと伝わって、もはや館全体へと響き渡っているのではないだろうか。
澄んだ音色が洋館を包み込む中、開け放たれた重厚なサロンのドアに気配を感じて振り返った。そこに現れたのは、真崎だった。
春一の手で奏でられるシューベルトの旋律に耳を傾け、彼女の唇がかすかに動く。哀しくも美しい音が室内を満たし続ける中、真崎はグランドピアノの元へ、ゆっくりと歩み寄った。
足音は軽やかだが、どこか緊張をはらんでいる。
真崎美緒、いや、梨木美緒。
彼女は、かつてこの館に暮らした令嬢だ。
あの幻燈の少女に抱いた違和感は、真崎にその面影があったからだ。だからなぜか見覚えがあると感じた。
そして、羽賀に提供された記事に、この館を背景にした1枚の写真があった。その隅に映っていた少女は、間違いなくあの幻燈の少女だった。
亡くなったのは梨木楓。当時五歳。
真崎美緒は、その姉だ。
書斎の場所も、使用人階段も、知っていて当然だ。この館は、彼女の生家だったのだから。
「話がしたい」
間宮が切り出す。
「ええ。でも、音楽が終わるまでは話したくない。構わないかしら」
真崎は、落ち着いた声で、春一の奏でる音色に聴き入りながら告げた。
真崎はピアノの脇、古ぼけたソファにそっと腰かけた。春一の指先がシューベルトを優しい旋律で紡ぐ。
ピアノの低音が最後の一音を刻み終え、静寂が降りる。
真崎との会話を終えたあとは、そのままじっと春一の圧巻の演奏に聴き入っていた間宮が、隣で深い息を吐いていた。
「ありがとうございました」
春一が、鍵盤からそっと手を離しながら真崎の目を見て丁重に礼を述べた。
いつの間にか、ピアノの音を聴いて集まってきていたらしい、館の滞在者たち。ドアの近くに並び、聴き惚れていたようだ。榊原や雪野なんかは涙ぐんですらいる。
檜森町令嬢殺人事件
「……朝比奈瑤子。彼女の鞄にあった水筒は、お前の水筒と全く同じものだ。あの、『幻燈』で取り乱した朝比奈がエントランスで取り落とした水筒を、自分が持ってきたものと、入れ替えたな」
間宮がそう告げた瞬間、真崎の肩がほんの僅かに動いた。驚きというより、覚悟が滲んだ動きだった。
「鑑識が到着していない現在は、状況証拠でしかない。だが現状、お前が毒を盛った可能性が高いと考えている」
間宮が冷徹に続ける。
「そして、朝比奈瑤子の鞄にあった水筒の中身は、致死量に近い睡眠薬と鎮痛薬の混合物だと、俺は思っている」
「悪い。昨晩、あんたが春一と話していたことを聞いてた。……あんたには、合法的に強力な鎮痛剤を手に入れる機会があった、違うか」
俺が言うと、真崎は何も言わず、ただ目を伏せた。
「あの秘書室に閉じ籠った朝比奈は、動揺したまま、鞄にあった水筒のコーヒーを飲んだ。ベンゾジアゼピン系の睡眠薬とオピオイド系鎮痛薬、その組み合わせなら、十数秒から1分程度は問題なく行動できる。即死するような代物じゃない。自分で水筒の蓋を閉め、鞄に戻す猶予はある」
間宮が一歩、真崎に近づく。
「そして床に転がっていたトリアゾラムの薬瓶、あれも同時に放り込んだんだろう。朝比奈は水筒のコーヒーを飲んだあと、鞄の中で転がっていた見慣れない薬瓶に気付いた。おそらく、偶然それを手に取ったタイミングで意識低下が来たんだろう。別に鞄の中で発見されても問題ない代物だしな」
真崎を見据え、間宮は推理を続けた。
「薬に耐性がなければ薬効は最大化する。そしてあの錯乱状態、薬効は増強されうる。混入先がコーヒーということを考えると、カフェインが一時的な覚醒効果をもたらす可能性はあるが、それも束の間だ。カフェインは消化管の動きを促進する。おそらく温かい液体でもあった。薬の吸収は早まったと考えるべきだろう」
今朝、間宮と春一が話し合って辿り着いた結論の全てを、順に開示していく。
「じゃあ……おれたちが声をかけた時点では、もう昏睡状態だった可能性もあるってことですか?」
榊原が口を開いたが、間宮からも真崎からも、返答はなかった。
間宮は淡々と事実のみを述べ続けた。
「荻原貴司については、動機も犯人も不明だ」
「腕時計の針を見て、初めは3時13分が死亡時刻だと思った。だが、全員がエントランスへ集まる前に、改めて遺体を確認した。死後硬直の様子、青白く冷え切った顔色、血の乾燥具合から見て、死亡時刻は、おそらく午後11時前後。午後10時から翌午前0時といったところだろう」
間宮が遺体を精査して感じた違和感。間宮は、それを秘書室で春一に尋ねていた。
春一の法医学知識に基づく詳細な観察、分析を受け取って、間宮が推理した死亡推定時刻。
春一曰く、遺体の様子は死後6時間30分前後。
湿度が高く底冷えする環境。吹き抜け階段という風の通る発見場所。どちらも通常とは遺体の変化がズレる要素らしい。
「時計に細工をした意味が謎だ。時計のガラス面は割れているのに、左手首は傷一つなかった。つまり、突き落とし殺害した被害者から、わざわざ腕時計を外し、時間をずらし、破壊して、再度遺体に装着させたとしか思えない。寝静まった深夜。目撃情報はない。アリバイ工作は必要ないだろう」
「でも午後11時って、わたしたち宇田川さんとお話してましたよ」
雪野が首を傾げながら自信なさげに話す。
「ああ、そうだったな。状況を整理したい。そこから詳しく聞かせてくれ」
雪野と間宮の情報は初耳だった。
春一を見ると頷かれ、こっそりと話してくれた。
「昨晩の午後11時、志桜里さんたちと宇田川さんがお話してた。お部屋の鍵が壊れてるって。『真珠の間』と『王女の間』はお隣同士でしょう?間宮さんに声がするって言われて、廊下に出て2人で少し話を聞いたんだ」
間宮の事情聴取は続く。
「ええ、鍵が古くて不具合を起こしたのか、閉まらなかったんです。それでお二方に修理を依頼されて。確かにそのくらいの時間でした」
そういえば、宇田川は『月光の間』で、荻原と同室だったはずだ。
「なあ、宇田川さん。その修理を頼まれた段階では、荻原は生きていたんですよね?」
宇田川が頷く。
「ええ。『月光の間』に。ただ、私が修理を終えて部屋に帰ったときには、いらっしゃいませんでした。トイレにでも行かれているのかと、私はそのまま寝てしまったので。それ以上のことは」
間宮が尋ねる。詰問、といったほうが正確かもしれない。
「それは何時頃だ?」
宇田川は、間宮の口調に圧倒されつつ言葉を紡ぐ。
「おそらく、11時半くらいではないかと」
間宮はとりあえず、と前置きして、情報の整理を始める。
「荻原は11時までは生きていた、それは一旦、確定とする。これは死亡推定時刻とも一致する。そして、11時半には、部屋にいなかった。すでに死亡していたか、ただ出かけていたかは、いまのところ不明」
間宮は、ぐるりと全員を見渡して、的確に質問を投げかける。
「……全員が2人部屋だ。途中で別行動をとったやつ、一時的に部屋にいなかったやつはいないか」
俺は昨晩のこと思い出し、はっとした。あの不可解な会話。あれを聞いたのは、0時頃だ。死亡推定時刻の範囲だ。
「……深夜に目が覚めたとき、俺たちの泊まっていた『珊瑚の間』に榊原さんはいませんでした。俺も外の空気が吸いたくなって部屋を出たら、真崎さんと廊下で話しているところを見ました。あれが、0時ぐらいだったと思います」
どっちも左翼側の客室だから、踊り場付近に行く必要はない。遺体があったかなんてわからないだろう。そもそも全館停電している状況だ。俺たちだって、左階段からでは相当近づいてからしか見えなかった。
間宮は、真崎と榊原に目を向け、視線で話を促す。
「えっと、はい。そのぐらいに真崎さんと廊下でお話をしました」
「ええ。間違いありません」
榊原も真崎もあっさりと頷く。
「別行動……」
雪野が困った顔をして小さく呟いた。
間宮が視線で、雪野へ無言の圧をかける。
「えっと、宇田川さんに修理をお願いしている間に、少しだけ美緒さんが、眠れないし、少し歩きたいと。宇田川さんに許可をとってエントランスの方に」
「エントランスに?真崎、午後11時過ぎ、踊り場に荻原の遺体はあったか」
「午後11時には、死体は見てません」
奇妙な言い回しだ。もしかしたら巧妙というべきかもしれない。
間宮は、『午後11時過ぎ』を聞いた。
だが、真崎の答えは『午後11時には』。
そしてもう一つ。気になったことがある。
間宮は常に荻原を『遺体』と表現している。元刑事だからだろう。今もそうだった。
なのに真崎は、荻原を『死体』とはっきり言い換えた。
この大人しそうな女性が、わざわざ。明らかに、意図的に。
俺は直感的に口にしていた。
「真崎さん。俺たちが発見する前に……、荻原の遺体を見ましたか?」
真崎はゆったりと、俺に微笑みかけた。
そして告げた。
「ええ。見ましたよ。だって、私が階段から突き落とした直後には、死体になってましたから」
どれだけ地味な装いをしていても、彼女は生まれながらの淑女だった。
微笑みながら殺人を告白するその姿に、気品すらある気がして、気づけばそんな感想を抱いていた。
三時十三分の記憶
朝比奈同様、荻原を殺したのも、彼女ではないかと、どこかで予測していたのだろう。間宮が冷静に尋ねる。
「なぜ殺した?」
目を伏せ、一瞬だけ感情を飲み込むようにしてから、真崎はゆっくりと語り始めた。
「訊きたい?ええ、答えるわ。あれはね、死んで当然の男だった。15年前、あの男は私の妹を殺したの」
声は低く、抑制が効いていた。真正面を見据える視線が鋭く、ひとつの問いすら挟めない。真崎は、感情の波を必死に抑え込もうとしているようだった。だが、それでも言葉は止まらなかった。
「あなたたちも視たでしょう。妹の最期がどれだけ凄惨なものだったか。妹はたった五歳だったのよ。あんな真似ができるなんて、人間じゃないわ」
「……まさか、荻原が……」
羽賀が思わず呟いた。
真崎は頷くでも否定するでもなく、続けた。
「あの男、荻原貴司。あれ、私と楓の再従兄なのよ。東京の大学に通うからって、この屋敷に下宿することになったらしいわ。『月光の間』、あの男が下宿してた部屋よ」
真崎はそこまで言うと、再び目を伏せ、唇を僅かに引き結び、一度だけ深く息を吸った。『月光の間』その言葉に、宇田川が目を見開くのが横目に見えた。
「あの男が、楓を見る目、可笑しいこと気づいていたのに」
自分を呪う、自責の混じる低音。真崎は言葉を噛み締めながら語る。
「……気づいていた、って。なら」
その信じがたい言葉に俺は思わず声を上げた。
「ええ、そうね。怖かった。意味が分からなかった。だから見て見ぬふりをしてた。それがどれほど愚かなことか、あのときの私は分かっていなかったのよ」
その表情には、怒りではなく、ただ苦しみだけが滲んでいた。
「あの日は、私のピアノのコンクールだったの。楓はまだ小さいから、お留守番って。そういってあの日、楓を家に置いておくことを決めた母は、精神を病んで、丁度1年後に自殺したわ」
淡々と語られるその経緯に、聞いていた者たちは息を詰めた。どこにも涙はない。ただ、呑み込んでもなお消えない痛みが言葉に染み込んでいた。
「……そう、でしたね……」
榊原が絞るような声で言った。
「雪野さん、宇田川さん、ごめんなさいね。『真珠の間』の扉の鍵穴、私が壊したの。『月光の間』に宇田川さんがいたら、あの男、呼び出せないから」
一瞬、穏やかな口調になり、雪野と宇田川への向けて上品に謝罪の言葉を伝えた。
「まさか、あのイヤリング……」
脳裏に昨日の記憶が流れた。そうだ、あの秘書室に入ったのは、俺たちと、真崎と榊原だけ。そしてあのとき最後に部屋を出たのは遺体とバッグの側にいた真崎だ。
「そう。昨日、秘書室であの女の鞄が無造作に開いていてイヤリングが見えた。それで、思ったの。今夜休むってなったとき、この天候で様子を外に見に行くほど責任感の強い宇田川さんならってどうするかなって。窃盗か殺人かを疑うような相手と、自分が同室になるんじゃないかと思った。実際、そうなった。オーナーの宇田川さんなら鍵穴の不具合だ、とでもいえば先に部屋から連れ出しても不自然じゃない」
一転、言葉に冷たい棘が戻る。ふっと口元が動いた。それは笑みに似ていたが、冷たく乾ききっていた。
「女は皆、自分の下にあると思い込んでるの。ずっと昔から。エントランスに忘れ物をした、一人では怖いからついてきてって言ったら。嗤いながら、いいよ同行してあげるって言われたわ」
誰もが黙り込んでいた。真崎の声に誰一人割って入れない。
「だからね、突き落とす前に教えてあげた。私、楓の姉の美緒よって。そうしたら顔色が真っ白になって後退って。そのうえ、自分から足を踏み外して落ちたの、あの瞬間の顔。たぶん、一生忘れないわ」
声色だけは冷静で平坦だった。だが深く低く、ゆっくりと苛烈な呪詛を吐き出した。
「ああそうだ、時計。それはね、死体の腕から時計を外して、文字盤の針を3時13分に合わせてから壊したの。それから付け直した」
「アリバイ工作、ですか?」
雪野が、少しかすれた声で問いかけた。
「違う。そんな行為になんの意味があるの。3時13分。私が、15年前にあの部屋で、由紀さんと一緒に妹の遺体を見つけた時間よ」
由紀さん、その名前が真崎の口から出た瞬間、榊原の喉から、ひゅっと息を飲んだ音が聞こえた。
「レンチだったかしら……名前までは知らないけど。工具箱にあったの。銀色で重たくて、時計のガラスを壊すには丁度よさそうだったから」
真崎の声には、ただひたすら凍てついた静けさが宿っていた。
「……いまでも夢に見るの。楓の手。冷たかった。柔らかかった。でも、もう戻ってこない。あの瞬間、時間が止まったのよ。だから、あの男の時計も、止めておいたの」
誰もが言葉を失っていた。真崎が語るたびに、室内の空気が一段ずつ重くなる。その中で、真崎だけが、まるで過去に戻ったように静かに語る。
「水筒に入れたもう一つの薬はね、トラマドールっていうの。手術後に処方された薬。全部、飲まずにとっておいたの。その時は、ただ母のことを思い出しただけだった」
真崎の声は、遠くを見つめるような、過去を掘り起こすような響きだった。
昨夜盗み聞いてしまった真崎の話が蘇り、俺は一瞬息が詰まった。
自殺企図。そんな言葉が頭をよぎる。14年前、処方薬を溜めこんでアルコールと併用して行われた母親の服毒自殺。
そして、1年前の流産と破局。あのときはわからなかった。結婚を反対された理由は孤児だから、だけじゃない。おそらく相手の両親は、真崎の過去を、『檜森町令嬢殺人事件』のこと、あるいは母親の自殺を知って反対したんだ。
「朝比奈瑤子、彼女ね、父の私設秘書だったの。それを理由に、この屋敷にも我が物顔で出入りしてた。父の愛人だったのよ。彼女、自分で母に自慢げに語ってた」
声に鋭さが戻る。真崎は背筋を正し、顔を正面に向け、重く、冷ややかに言葉を継いだ。
「あの女はね、あの日、この屋敷にいたのよ。あの子が殺された子供部屋の隣室の、主寝室にいたの。楓が殺されるまでずっと、楓の悲鳴を聞いてたのよ。本人が私に語ったの。母の葬儀で、勝ち誇るみたいに」
真崎は、毅然と顔を上げ、瞳の奥に燃えるような光を宿しながらも、取り乱すことなく平静に語り続けた。
「そんな……あの女が……」
山路が呻いた。そうだ、その証言があれば、南雲由紀を容疑者にする必要などなかっただろう。
「彼女、メディアにも露出してたから。そこで高価な愛用品を、嬉々として披露してた。だからあの水筒を用意するのなんて、造作もなかった」
穏やか、だが決して優しくはない声音。
「彼女、昔からコーヒー中毒だった。この家でもよく飲んでたわ。けど、どれだけ取り乱したって、あんな高価な鞄を置き去りにはしない。一千万くらいするんでしょう、アレ。馬鹿みたいよね」
朝比奈瑤子の傲慢さを嗤い、冷ややかに言い放つ。そこには怒りすら越えた、徹底した軽蔑がにじんでいた。
「笑えるでしょう。誰も、私が『あの美緒』だとは気づかなかった。あれほど私の家で好き勝手していたくせに。あの女も、あの男も」
そして、真崎は口を閉ざした。長く封じていた何かを、ようやく吐き出したように。息を飲んだまま、誰も動けない。俺自身、言葉が出なかった。空気が重く、肺の奥にまで沈んでいくようだった。
十五年目の殺意
真崎が、ゆっくりと顔を上げた。目は赤く潤んでいたが、涙ではなかった。怒りとも違う、諦念とも違う。ただ、凪のような静けさのなかに、焼き付くような確信だけがあった。
「正義なんてどこにもなかった」
淡々とした口調だった。けれど、その一言には、世界そのものを否定するだけの重さがあった。
「法律も警察も社会も、私も妹も母も守ってはくれなかった」
彼女は少し笑った。乾いた、感情のない笑いだった。
「12歳でショック状態だから?証言に信憑性がない?早急な幕引きのために証言を黙殺して、隠蔽して、適当な警察発表」
誰かが固唾を呑む音が、妙に大きく聞こえた。
「その結果何があったか、あなたたちは知っているはず」
「母は精神を病んで自殺したわ。そして、私と一緒に第一発見者になったメイドも自殺したのよ。容疑者として連行されて、苛烈な取り調べを受けて。釈放されても顔も名前も晒されて」
それは怒りではない。事実を並べる冷ややかな強度だった。真崎のその言葉に、ドア近くに立っていた羽賀の表情が、ハッキリと強張る様子が見えた。
「死は不可逆だからだめ?……あの男が法的に裁かれなかった、それも不可逆だった。違う?」
沈黙が重くのしかかる。間宮は何も言わず、真崎を見つめ続けた。だが、彼女は視線を返さなかった。
「どちらが先に秩序を踏みにじったの?」
真崎の睫が震える。拳が、血の気を失うほど白く握り締められている。
「資格がある者たちは、裁かなかった。では、私が裁いたことは、そんなに罪深いの?」
口元には微かな笑みすら浮かべていた。だが、それは皮肉でも開き直りでもない。凍てつくような自嘲だ。
「そうね。私には殺す以外の選択肢を用意できなかった。そのことへの罰は受けるわ。喜んでね。私はあの男とは違うもの。でも、あの男を殺したことを罪だとは決して思わない」
ただ、彼女の語る真実が、空間の隅々にまで染み渡っていった。
「君の妹は、君に復讐を望むと本当に思っているのか」
元刑事である間宮の言葉を聞きながら、思った。
人を殺した者は等しく罰を受けるべきである。真崎の主張するそれは、対称性という意味では、完成された殺意の論理だった。
「妹は望まない?……本当に?……私にはわからない。なのに、あなたにどうしてわかるの?なあに、殺された経験でもおあり?」
淑やかな口調。だが真崎のその声色は、まるで空気を切り裂く刃だった。
妹を何一つ知らない探偵に、その心を代弁される謂れは一切ない、という強く激しい嫌悪と拒絶。
その言い分と感情を、正当だと思ったのだろう。一瞬、黙った間宮は、別の論理を真崎に告げた。
「彼にも、家族がいた。職場の同僚も、子どもたちも、彼を信じていた人々がいた。彼らにとって、君は加害者だ。君はその人たちの未来から、大切な人を奪った」
彼女はゆっくりと身を乗り出し、真っ直ぐに間宮を見つめた。
「あの男を大切に思う人間?それを私が何故、考慮しなければならないの?あの男はそれをしなかったのに?」
語気が、強くなる。だが、それは激情ではなかった。理性のもとで繰り返された、15年の蓄積の音だった。
真崎の論理には、常に対称性があった。荻原が慮らなかった事柄を、真崎にだけ強いるのは事実として非対称だ。
だが、間宮はそれでも真崎に正義を説く。
「もし君の行為を正当化するなら、同じように裁かれなかった加害者を、誰かがまた、私刑で殺すことも正しいということになる。暴力の連鎖は、君の中で終わったように見えて、他者の中で再び始まる」
真崎の肩を持ちたいわけではない。でも俺は、それは少し違うんじゃないかと思った。
真崎が起こしたこの事件が、仮に『復讐殺人を容認する思想』の土壌を生んだとしても、思想は自由だ。それは憲法が保障している。
そしてその思想が、仮に犯行のハードルを引き下げる結果を齎したとしても、トリガーを引くのは本人であって真崎ではない。その責任まで真崎が負うべきというのは、暴論だ。
「個人に、他者を裁く資格はない。たとえ相手が殺人鬼でも」
社会正義に根差した間宮の正論は、既に社会正義に裏切られている真崎には、どこまでも響かない。
「私に他者を裁く資格がない?ねえ、資格を問うなら、資格を持っていた者たちは、なにをしたの?」
真崎の口から、低く、乾いた笑いが漏れた。その瞳に、今度ははっきりと憎悪が宿っていた。
「あんな奴らがこの15年、何もなかったように暮らしてたと思うと吐き気がする」
言葉の奥に、悔しさと絶望が滲んでいた。
「あいつらだけは、何があっても地獄に落ちてほしかった」
言葉を区切り、真崎はふっと目を閉じる。
「死者はもう誰も殺せない。死ねば誰も傷つけられない。私が奪ったのは命ではないの。あの男の『未来』よ」
真崎の声が震えていたのは怒りではなく、覚悟のせいだった。
「あの男の職場を見に行ったわ。あの目。子供たちを見ていた目が、昔、妹を見ていた目と一緒だった。……あの男、今、学童保育指導員なんてやってるのよ。ぞっとしたわ。子供相手の犯罪の再犯率、性犯罪の再犯率、あなただって知っているわよね?」
真崎は小さく息を吐いた。
「……あの男は反省なんて欠片もしていなかった。生きていればあの男は、きっとまた誰かを傷つける。また、無垢な子供を殺すかもしれない。でも死者は、もう誰も傷つけられない。殺せない。そうでしょう?」
そこに一切の迷いはなかった。ただ荻原の未来を、可能性を、確実に、絶対的に、必ず、奪う。その覚悟だけが宿っていた。
「あの男の未来、もしかしたらまた殺すかもしれない、その可能性の全てを永遠に奪えるなら、私の未来、その全てを賭ける価値がある」
眉を顰めた間宮が苛立たしげに言葉を紡ぐ。
「正義の名を借りて私刑を行うな」
真崎は、冷ややかに間宮を見つめた。
「私の行いは正義はではない。当然ね。15年前の警察やメディアがそうだったように」
間宮の言葉に応える真崎の声は低く、確信に満ちていた。
正義すら、語らない。彼女は、自己を正当化することも、弁護することも一切、しない。その決意に、思わず息を飲む。
間宮も、そうだったのだろう。念を押すように尋ねる。
「君は、その行為が『正義ではない』と、そう理解した上で、それでもなお、あの男を裁いたのか?」
「そうよ?……だって私にはなにもない。だから弁護も必要ない。殺人を犯した罰なら喜んで受ける。でも、あの男を殺したことは決して後悔しない。それだけ」
そして彼女は微笑した。それは安堵か、諦めか、きっと誰にも判断できない表情だった。
「なあに?暴力で終わらせることは、負の連鎖を生む?これから私は無期懲役か死刑よ。それでおしまい。連鎖なんてしないじゃない」
彼女は間宮に向け、少し笑った。乾いた、感情のない笑いだった。
真崎の笑みに眉を寄せながら、間宮は、それでも真崎へと対話を投げた。
「君自身はどうなるんだ」
真崎は、間宮を真っ直ぐに見つめて、言い放った。
「計画的に2人殺した人間に未来なんてないでしょ。綺麗事が大好きなのね」
その言葉を聞いた瞬間、俺は堪りかねて口を出した。
「なあ、あんたが復讐で人を殺すことで、今後の犯罪被害者遺族が、私刑を行う犯罪者予備軍扱いされかねない。そのことは考えたのか?」
真崎が微かに眉を動かした。その反応が、どこか鈍く見えたのは、彼女にとって予想外の角度からの一撃だったからだろう。
「復讐の是非じゃない。あんたが未来を捨てたせいで、他の被害者遺族の未来まで疑われる可能性がないと、あんた自身は思えるのか」
俺が告げずとも、理知的で、痛みを知る、他者の痛みに寄り添う知性を持つ彼女なら、いつか気づく。その時、あんたは耐えられるのか。そう思うと、どうしても言わずには、いられなかった。
「……司法も、報道も、社会も、いつだって、声が小さいほうを黙らせる。その現実を、あんたは誰より知ってるはずだろう」
彼女は何も言わなかった。だが、瞳が揺れていた。はじめて、理性に亀裂が入ったように見えた。
「被害者遺族として徹底的に苦しんできたあんたが、それをやった。それを理解しているか。……なあ、真崎さん。それは、あんたが捨てた未来ひとつで、本当に贖えるのか?」
俺の言葉に、真崎の表情が凍り付いた。
【第十四章】ネメシスの神託(神依春一視点)
「善人と呼ぶべきは、 他者を責めない自由を手放さなかった者だけだ」
封鎖された真実
典彦の言葉に黙り込んだ美緒。その様子を一瞥した間宮が、今度は榊原に鋭く問いかける。
「……お前は、真崎の提案をなぜ受けたんだ? 一連の工作を可能だったのはお前だけだ」
俺は間宮の視線に、榊󠄀原への悪感情がないことに安堵する。榊󠄀原が、彼のような善人が、これ以上、追い詰められて苦しむ必要はないのだから。
「はい、この館の封鎖は俺がやりました。会社のほうに事前に鍵が預けられていましたから。それを使って。一時的に閉じ込めて、真相を自白させる。そういう計画でした」
榊原は、美緒が、自身と同様に『正義を信じること』を信じていた。だからこそ自らが手を汚すこと、この館への封鎖工作を決意し、独りで建造物損壊を行った。
榊原は、ふっと息を吐き、苦笑のような表情を浮かべた。
「美緒お嬢さんは……叔母と一緒に、現場の第一発見者だったと聞いていました。だから、二ヶ月前に、美緒さんに教えられたとき、それが真実だと分かりました。荻原貴司のことも。当時、何故、その事実が明らかにならなかったのかも。そして、朝比奈瑤子が傍観者だったということも……全部」
この二日間。榊原の声には常に、彼の善性に根差した、迷いと信念があった。今はそこに、どこか諦めのような響きが混じっている。
「だから、どうしても、真相を明るみに出したかった。いけないことだとは、勿論、分かっていました。でも……なにもしないことなんて出来なかった」
榊原は少し俯き、震える声で言葉を紡いだ。瞳はどこか遠くを見つめているようだったが、その奥には確かな意志が宿っていた。
「おれは、どうしても叔母さんの無実を証明したかったんです。有耶無耶のまま事件が終わって、叔母さんの名誉は、今も回復されていないんです」
彼の言葉には、消せない無念が滲んでいた。彼自身が、過去の影にずっと縛られてきた証左だろう。
叔母上の亡くなられた十五年前の事件当時、榊󠄀原は十五歳。事件の捜査情報は警察内部にあり、榊󠄀原に入手する手段はない。
……叔母上の冤罪を晴らす合法的代替手段は、理論上は存在する。だが、それは凡て現実的には不可能だ。
弁護士を通じて情報開示請求を行っても、警察の捜査情報は原則として提供されない。再捜査の請願をしても、客観的かつ決定的な新証拠、有力情報がなければ警察は動かない。
民事訴訟による国家賠償請求は、警察の過失や違法性を原告となる榊󠄀原が立証しなければならない。事件の真相が明確でない状況で警察を相手に勝つことは、まず不可能。
検察審査会に申し立てたところで、一般市民から選ばれる審査員は、当時の捜査が不当だったと判断する材料のない状況では、不起訴相当、捜査は妥当だったと結論せざるを得ない。
また、いづれの手段も多額の費用を要する。警察や国を相手に訴訟を起こすには、着手金だけで数十万、長期化すれば数百万単位となる。
そもそも勝訴の公算が極めて低い案件を引き受ける弁護士を見つけること自体が困難だ。
「荻原貴司が殺したんです。彼が犯人だったんです。彼が、楓お嬢さんを暴行して殺す、その現場を、朝比奈瑤子は見ていたんです。あの日、朝比奈瑤子はその場にいたんですよ」
榊原は衣服越しに心臓の上をぎゅっと押さえ、訴えるように続けた。声を震わせながら、必死に真実を訴える榊󠄀原に、胸が痛む。
「荻原の罪が明らかにならなければ、真犯人が現れなければ、再捜査はされない、そうですよね」
激情を抑え込む榊󠄀原は、一瞬だけ、元刑事である間宮に向ける視線を強めた。
彼の声が硬くなっていく。
「真犯人がいないと再捜査はされない。だから、荻原が死んでしまうことなんて一ミリだって望んでなかった」
もはや司法という土俵に、希望を託せる未来は消え失せた。それを再認識した榊原の、絶望が伝わってくる。
「犯人には黙秘権がある。だから、朝比奈瑤子は叔母の無実を証言できる唯一の生き証人だった」
榊原の言葉はすべて、嘘偽りのない本心だった。そこには、事件の重みと彼の信念が交錯していた。
俺は、彼女が死んだ、それを知ったときの、彼の嘆きの言葉を思い出した。
「なんでだよ。信じられねぇ……だって、このひとは……!」
彼の、「だってこのひとは」に続いた内心の言葉。
「叔母さんの名誉を回復できる証言ができる唯一の人だったのに」
山路の反省と告発があれば。朝比奈瑤子が証言してくれれば。当時の捜査資料に、再捜査を求めるに足る明白な疑義が生じるはずだと信じていたから。
けれど、その中にあっても彼は、この場にいる人間の安全を優先した。
殺人事件が起きたのに、警察が呼べない状況に焦った彼は、自身が工作した地点へと、手早く典彦らを誘導した。
榊原は、出来る限り早く、ほかの手段を模索したかったのだ。電力会社に勤務する典彦や、豊富な知識を持つ元刑事の間宮が、自分の知らない知識で、なんとか事態を解決してくれることを期待した。
彼の表情に浮かぶのは、怒りでも悲しみでもなかった。むしろ嘆きに近かった。そして今、もう一つ確かなこと。彼が心底から告げたのは、すべて、憎しみでも正義でもない、怨嗟でも憤怒でもない言葉、だけだった。
部屋に、静寂が落ちた。
それを破ったのは、美緒だった。声は、酷く小さく、少しかすれていた。
「……私の証言は、十二歳だから、ショック状態だからと黙殺された。でも、あの時、私がもっと強く証言していれば……由紀さんは、あなたの叔母さんは、生きていたかもしれない。……ごめんなさい」
榊原が言葉を絞り出すように、ゆっくりと、彼の内側で荒れ狂う心情を落ち着かせながら、美緒に告げた。
「……俺は、あの二人に、いえ、ここに集めた四人に償って欲しかった。ただ、真相を告白さえしてくれれば、叔母さんの名誉は回復される。俺は、それだけを願っていたんです」
それから彼は少し視線を落とし、苦く笑った。
「……でも、あなたの苦しみに気付かなかったこと、お詫びします」
美緒は、知っていただろう。どれほど榊原がそれを望んでいたか。
だが榊原は、美緒に対して、自分を使われたことも、信頼を裏切られたことも、かつて無力だったことも、責めなかった。怒りもしなかった。
生き証人を殺す。真犯人を殺す。それは榊原に対する明確な裏切りだった。彼は、再び事件を司法の手に委ねることで、叔母上の名誉を回復させること、社会に対し正義を再び問うことを望んでいたのだから。
その相手に、ただ謝罪される。美緒の呼吸が浅くなり、手が震えているのがわかった。口を開きかけて、閉じた。
「お前の正義は、榊原の信念と善意を踏みにじった。それでもなお、こいつは『あなたの苦しみに気づけなかった』って謝ったんだぞ。……お前は、それにどう応えるんだ?」
間宮の問い掛けに、こたえはない。
美緒は、ただ蒼褪めている。
榊󠄀原の言動には、いつだって保身は微塵もなかった。俺たちに、館の情報を率先して提供し続けた。その彼が唯一、語らなかったこと。
何故、今まで榊原は、自らが封鎖工作を行なったことを黙っていたのか。
彼女はその真実に、今、気がついたらしい。
榊原は、自身だけなら極限状態の人間たちに吊し上げられてもいいと思っていたから、情報を喋った。
……主導的な共犯者だった美緒の安全を考えたから、工作の事実を沈黙した。
花のワルツ
俺は、ずっと考えていたことを彼女に告げた。
「俺なら、もし最愛の人に『ひどい最期』だけを覚えられていたら、耐えられない。美緒さんは、楓ちゃんもそうだと思いませんか」
美緒は、グランドピアノの前に座る俺を見た。おばけでも視た幼子のような表情。見つめ返すが、黙り込んだままだ。
ずっと不思議だった。美緒は、なぜ生きていた妹を語らないんだろう、と。
でも、今、理解した。だから彼女に告げる。
汚された奪われた、あの子の「最期」だけを何度も語った美緒。彼女は、ずっと楓ちゃんを葬り続けている。
「貴女の中で、楓ちゃんはずっと『死に続けている』」
絶望、それを絵にかいたら、こんな表情になるのかもしれない。でも通じてほしい。だから一生懸命、彼女にお願いする。
「貴女の中で、楓ちゃんをもう殺さないでください」
この美しい談話室に意識を向けたとき、子どもの笑い声が幻のように耳に残ったのは、その日がはじまりだったからだ。
「貴女はあの子の笑顔を記憶から消してしまった。……殺された五歳の女の子。今のままでは、それが楓ちゃんの全てになってしまう」
水を打ったように静まり返った室内。
ふと見渡すと、絶句した志桜里の姿が目に入る。ああ、そろそろ語るべきだろう。
「幻燈は、残留思念ではありません。この館、この場所に刻まれた過去、かつてここにあった真実そのものが再生されているんです」
うまく理解が及ばないのか、室内の皆は、なんだか奇妙な顔をしている。
呆然としたまま、ぽろりと美緒が言った。
「なら、もう一度だけ、妹の声が聞きたい」
その言葉を聞いて俺の脳裡をよぎったのは、夜の海で人魚のお姫さまが泡となって消えたという童話だった。
そうだ。幻燈が映し出すのは過去の情景だが、それを見る心は、今この瞬間のものだ。
彼女たちに、ピアノの前を譲らねば。
すっと立ち上がって、美緒の元へ向かう。彼女が座る二人掛けの長椅子。隣に腰掛けた。
次の瞬間、音楽室の中央に、光の帯が迸った。鏡が、窓が、床が、まるでスクリーンのように変貌する。
楓ちゃんが生きていた頃の真実を、この館が教えてくれる。
美緒が、小さく息を呑んだのが判った。幻燈によって映し出されたのは、最期の日の、前日の午後だった。
十五年前の、陽の差し込む音楽室。
白百合色の麗糸の窓帷が風に揺れている。グランドピアノの前に座る少女たち。
撫子色のワンピース姿の楓ちゃんが、足をぶらぶらとさせながら、鍵盤に手を伸ばしている。
その隣にいるのは、当時の美緒だ。
「美緒ねえさま、練習?」
首を傾げながら尋ねる楓ちゃんに、にっこり笑って美緒が肯く。
「そうよ。明日、コンクールだから。聴いてくれる?」
楓ちゃんが飛び跳ねるように椅子から降りて、グランドピアノの横に立つ。
グランドピアノの椅子に座り直した美緒は、すっと深呼吸をした。背筋をのばし、鍵盤にそっと指を乗せた。
ぱらぱらと、星屑をばら撒くようなアルペッジョ。ハープを模した音色がそっと空気を揺らした。右手が旋律を歌い、左手が伴奏を織り上げる。
隣の楓ちゃんは、声を出さないように口を手で押さえながら、楽しげに身体を揺らしている。
中間部に差し掛かると、和音が増え、左手も跳躍が忙しくなる。旋律は高音と中音を鮮やかに行き交った。鍵盤の幅を大胆に使いながら交錯し、右手は高音域で細やかな装飾を添える。
まるで舞踏会の中央でドレスの裾が広がるように、音が広がっていく。
華やかで可憐、しかし弱さを見せた瞬間に音の輪郭は崩れ、華やかな装飾が一気に霞んでしまう難曲。
しかし彼女の指先は、まるで花びらが舞うように鍵盤を駆け抜けた。
凡ての音が鳴り終わって、しん、とした沈黙が戻ってきた。
次の瞬間、楓ちゃんがくるくる回りながら飛び跳ねる。
「かわいい!美緒ねえさまとっても素敵!」
無邪気に笑う楓ちゃんが美緒に問いかける。
「わたしも美緒ねえさまみたいに弾けるようになる?」
美緒は微笑んで告げた。
「もちろんよ。もう少し手が大きくなれば、なんだって弾けるわ」
それを、美緒は見つめていた。
目を見開き、口元に手を当てて、言葉を失ったまま。彼女の頬に、一筋の涙が流れた。
幻燈の中で、楓ちゃんが無邪気に振り返る。
「ねえ、美緒ねえさま、ずっと一緒にいてくれる?」
目の前の十二歳の美緒は、笑顔で肯いた。
隣に座る二十七歳の美緒は、声にならない嗚咽をこらえながら、頭を垂れた。
しばしの沈黙のあと、俺は彼女に言った。
「……これが、この場所に刻まれた正しい歴史。あの子が、貴女が愛していた彼女です」
美緒の頬に、一筋の涙が伝う。
ふいに口を開いたその声は、誰に向けたものでもなく、自分自身への深い悔恨だった。
「私、妹の憧れてくれた『美緒ねえさま』でなくなったのね」
よかった。楓ちゃんの生前に思いを馳せることができるようになったんだ。
「『美緒ねえさま』って、呼ばれて……誇らしかったのに……」
隣で崩れ落ちた美緒の、声にならない嗚咽が聴こえる。
長椅子で並んで座っている美緒に向き直り、俺の思いを伝えた。
「最期の姿だけが、大切な人のなかに遺り続ける。……俺なら、耐えられない。大切な人には美しい思い出だけを覚えていてほしい。一緒にいたときの俺を、心に遺していてほしい。だから美緒さん。生きていたときの楓ちゃんの記憶を、もう忘れないであげてください」
祈りは生者のために
壁際に立っていた志桜里が、俯いて咽び泣く美緒に柔らかく言った。
「……よければ楓ちゃんのために、小さなお祈りをしませんか」
俺と美緒が座る長椅子の前に歩をすすめた志桜里は、静かに床に膝をつき、ゆっくりと美緒に語りかける。
「わたしは楓ちゃんの供養のために、ここに呼ばれました。できることなら、あなたに見届けて欲しいんです」
立ち上がった志桜里が、俺たちの座る長椅子の横にあった小机に、小さな香を焚いた。仄かに白檀の香が広がる。
「わたしは、占いも供養も生きているための人のものだと思っているんです」
志桜里はそう言いながら、小さな鈴を鳴らした。鈴の音が、部屋の空気を撫でてゆくようだった。
志桜里は再び美緒の前に膝をついてふんわりと笑いかけた。そして、柔らかく美緒の手を取った。その手には紫水晶の数珠が握られている。
「楓ちゃんは、最後まであなたを愛していました。だからこそあなたが心を壊してしまうことを……一番悲しんでいたと思います」
香の煙が、仄かに空気を包み込む。
「だから、罪を償い、ほんの少しでも幸せになってほしいんです」
そう告げて、美緒の手に数珠を握らせた。
「どうか生きてください。罪を抱えてでも。だって、あなたのことを楓ちゃんはとても愛していたんですから」
美緒は数珠を握りしめ、ひくりと肩を震わせた。それだけが答えだった。その涙は、ようやく彼女が過去を弔えた証のようにも見えた。
香の煙が、もう空気の一部のように、天井へと消えていった。
「……香は、もう焚き終えました。これで、楓ちゃんの魂は、静かに眠ることができます」
志桜里はそう言って微笑んだ。
志桜里は、信念に従い、優しい嘘で美緒に希望を与えることだけを願っていた。そこに悪意は一片もない。生きる者への誠意だけがあると、志桜里は思っているのだろう。
「……信じるかはあなた次第です。わたしはただの占い師ですから。……あなたの中の楓ちゃんも、あなた自身の心も、どうか少しでも安らかに」
志桜里に浄化の力はない。
ここに楓ちゃんはいなかった。
それを志桜里は知っている。
この家には、ただ、楓ちゃんが残した幻燈だけがある。
彼女には資質があった。
そしてそれは、今際に目醒めた。
この館に、『真実の再生』を託したのだ。
俺たちのような人に伝わるように。
夜に灯る
ゆるゆると顔を上げた美緒に、間宮が丁重に語り掛けた。悲しみに満ちた彼女の表情を、間宮は静かに見据えている。
「正義が機能しなかったことを理由に、正義など幻想だと、断じる。……それは、街灯が壊れていたからといって、夜を永久に闇だと決めつけるようなものじゃないか」
彼の言葉は、まるで暗闇の中で見る柔らかな灯火のように、今の美緒には響いているみたいだった。
間宮の言葉凡てに、怒りに震えながら反発していた姿は、もうそこにはなかった。
「お前の怒り、悲しみ、それ自体は真実だ。否定なんかしない。だが、……お前はそれを、社会のすべてが敵だと、正義は不在だったと、話をすり替えた。その瞬間、もうそれは真実じゃなく、お前自身を蝕む、ただの呪いになった。……俺はそう思う」
間宮の言葉は、重く、しかし決して冷たくはなかった。彼の視線は揺らぐことなく、美緒の瞳を捉えていた。
「正義の名を借りた復讐は、誰にも許されない。……確かにお前の怒りは正しい。お前は、お前が罰を受けることも、正しいと思ってるんだろう。」
「……だが、……悪いが、酷なこと言う。死んで終わらせるな。これからお前は司法に委ねられる。そこで話せ。徹底的に戦え。ではどうすればよかったのかと何度でも問いかけろ。」
「加害者を殺さなくても、十分に裁かれ、罰せられ、再発が防げる社会に、俺たちがしていけるように。……それが、連鎖を断ち切るってことだろう。……榊原の正義を、生きて語ってくれ」
その言葉に、美緒の瞳が僅かに潤んだ。彼女の内に渦巻いていた激しい感情が、揺らいだ瞬間だったのだろう。だから、それは涙というよりも新たな覚悟の光のようにも見えた。
主文。
被告人を懲役二十五年に処する。
本件は、被害者遺族である被告人が、司法に裁かれなかった加害者らに対し、自らの手で制裁を加えたという、私的復讐事件である。
二人の命を計画的に奪った行為は、法秩序を根本から揺るがす重大犯罪である。刑法百九十九条は「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の拘禁刑に処する」と定めており、通常は死刑又は無期懲役が相当である。
医学鑑定により、被告人には重度のPTSDに起因する行動制御が著しい困難が認められたが、刑法三十九条二項の心神耗弱には当たらないと判断する。
しかし、本件は情状酌量の余地が極端に大きい。
被告人がこれに至るまでに置かれた環境、経験した深甚な精神的外傷、社会的孤立、そして過去の事件における国家機関の対応の不備に起因しており、裁判所としては、国家機関の不作為が被告人の深い孤立と絶望を助長した事実は看過できない。
また、被告人は、自発的に犯行を認め、逃亡や証拠隠滅の意思も認められず、深く反省している。
本件は、被告人の個人的事情に起因するものであり、一般予防の観点からも、無期刑を選択すべき事案とは言えない。
以上諸事情を総合的に勘案すれば、更生可能性を考慮すべき事案である。よって刑法六十八条により酌量減軽を適用し、死刑又は無期拘禁刑を懲役二十五年に減軽する。
なお、幼い妹を奪われた被告人に対し、国家機関の不作為が更なる苦痛を与えたことについて、裁く者として深い遺憾の意を表する。
エンディング 旧梨木邸連続殺人事件
「秘密は存在しなかった。誰もが容易に真実へと辿り着けた。……たった一言、問いかければ良かった」
「まずは水を飲んで、座って。話は順番に聞くから大丈夫」
午後二時四十分。
都内の山奥、外界と遮断されていた洋館に、山岳救助隊の一団が到着した。
無線の音とともに、除風室へと続くエントランスホールの重い扉が開かれる。事件の舞台となった非日常の空間に、『公権力』が足を踏み入れた瞬間だった。
雪野志桜里が梨木楓の供養を終えたあと。間宮は午前九時三十分に、通報できたこと、数時間後には山岳救助隊が到着する見込みであることを告げた。
その後、数人が、玄関近くの窓際に自主的に待機することになった。
疲弊した男が五人、エントランスにあった椅子を玄関や窓の近くに動かし、それぞれの思いを抱えたまま黙って座っていた。
間宮は、全員に聞き取りをしたのち、二時間ほど書斎に籠って事件の経緯を纏め、それからエントランスでの待機に合流した。
精神的に不安定な真崎美緒と、その世話をする三人は、今もサロンで休んでいる。
土砂崩れによって車両通行は不可能なまま、ぬかるんだ道なき道を五時間近くも歩いたのだ。エントランスに入ってきた警察官たちは、見るからに消耗していた。
警察官は、疲労を滲ませながらも職務に忠実に、メモ帳を開いたまま訊ねる。
「状況整理のため、ここで少しお話を伺わせてください。名前と、ここにいる理由、そして昨晩から今朝にかけての行動を、簡潔にお願いします」
間を置かず、一人の救助隊員がやや柔らかく声をかけた。
「いまは任意の協力です。大丈夫、急ぎません。順番にお願いします」
その言葉に、間宮が一歩前に出た。
「悪いが、殺人二件を自供している真崎美緒の精神状態が不安定だ。今は、あちらのサロンで数人と一緒に休ませている。そちらの連中には十分な配慮を頼みたい」
その口調には、押しつけがましさはなかった。ただ、現場に居合わせ、全てを目にしてきた者だけが持つ静かな重みが宿っていた。
そして差し出したのは、A4サイズの用紙十枚に渡って、書き記した事件の概要だった。彼が書斎に籠り、休むことなく纏めた記録だ。
「全員分の名前、生年月日、住所、勤め先、それから発見時の遺体の様子、真崎美緒の自供内容、今回の事件の概要については、これに簡単に纏めてある」
警察官は紙束を一瞥するも、やや困惑した表情を見せた。
「あなたは?」
間宮は淡々と自分の所属と経歴、そして渡した書類と照合できるように、それぞれの名前を告げた。
「間宮真。天城調査事務所の調査員だ。三年前まで警視庁刑事部捜査第一課強行犯係にいた。こいつらは、右から神依典彦、宇田川昇、山路靖、羽賀宗佑。サロンにいるのは真崎美緒のほか、榊原正嗣、雪野志桜里、神依春一」
名を告げられた警察官が頷き、周囲の面々にも視線を送った。その後、受け取った紙束をぱらぱらと捲り、非常に悩まし気な表情をした。
情報量が多すぎる、という心の声が聞こえてきそうな顔だった。
間宮はそれを見逃さず、さらに一言、釘を刺すように口を開いた。
「今、強引に聴取すれば下山が困難になりかねない。そこにない情報が今すぐ必要なら、俺たちに訊いてくれ。……サロンの連中にはくれぐれも、威圧的な尋問は避けてほしい。あれ以上は、保たない」
一瞬、全員の息が止まった。窓越しに見える斜面には、まだ混乱を引きずった土の跡が残り、空気は湿気と緊張で濁っている。
「俺たちも含め、昨日の午後から全員がそれぞれ板チョコ一枚と、個々の水筒にあった水しか口にしていない。サロンの連中四人は、まずケアを優先してほしい。特に真崎美緒には、軽い脱水症状がみられた」
警察官は肯き、言葉を選びながら応じた。
「わかりました、ではサロンの方には今は救助隊員のみ接触し、事情聴取は後に。……では皆さんから個別にお話をさせていただきますが……」
警察官と救急隊員、その全員が揃って目を伏せる。誰もが、言い出せない疲労と安堵の狭間にいるようだった。
「あちらのリビングには、三つの円卓と二つのソファがある。待機場所として使っていたから既に全員の指紋と足跡だらけだ。個別聴取するならそこが便利だと思う」
その声音には、疲弊した者に対する深い配慮と、警察という職業への理解がにじんでいた。
「水食糧などはサロンの女性二人と春一くん、そこの五十代二人に優先して配布を」
間宮の言葉に、回された紙束に素早く目を走らせていた救助隊員の肩が僅かに緩んだ。
警察官はペンを止め、深く頷く。
「了解です。では、簡単な聴取が終わりましたら、搬送の準備が整い次第、順に下山していただきます。状況に応じて、警察署または医療機関に移動となります。全員の正式な事情聴取はそのあとに行いますから」
警察官の判断を聞いた救助隊員が、その背後で肯き、サロンへと向かう。
相手は、脱水傾向の容疑者と、孤立した館で、遺体と一緒に過ごした三十歳以下の三人。扉を開ける前に深呼吸。
ケア優先、絶対に威圧的にならないように接触。
胸の内で繰り返しながら、先ほど聞いた間宮の言葉を再度反芻する。
ふと、奇妙な疑問が一つ浮かんだ。
なんで全員、板チョコ一枚食べてんだろう。
「失礼しますね。大丈夫ですか?救助隊員の中野と申します。体調のほう確認させて……」
中の人間を怯えさせないよう丁寧に声掛けしながら、間宮に示された重厚な扉を押し開ける。そして、そこで目に飛び込んできた様子に絶句した。
ピアノ横のソファに座る二十代後半の女性二人。その横のピアノ椅子には現実感のない異次元の美貌の青年が腰を下ろし、ソファの足元には三十歳前後の朴訥とした印象の男性が胡坐をかいて座り込んでいる。
エントランスの男性たちとは、打って変わって、明らかにリラックスした様子、のんびりとした雰囲気だ。
「あ、はい。よろしくお願いします」
慌てて口の中の何かを飲み込んだ、朴訥とした男性(間宮から見せられた資料によるとおそらく榊原正嗣)が答えた。
残りの三人は、困った顔をしながら、もぐもぐと口の中のものを咀嚼しており無言である。
ソファに座る女性の一人の膝の上には、キャンディ包みにされたお菓子らしきものが入った瓶。室内には僅かに、独特の甘い香りが漂っている。キャラメルである。
「わあ、お腹空いてたんです。ありがとうございます。あ、わたし、占い師を生業にしております、雪野志桜里と申します」
間宮の情報との温度差に困惑しつつ、遭難者への決まり文句を口にした隊員たちに向かい、にこにこ笑って、差し出されたカロリーメイトを受け取る女性。
では、もう一人の、大人しそうな女性が計画殺人二件を行ったという真崎美緒だろうか。
雪野の名乗りを聞いた榊原が、慌てて自己紹介を始めた。
「あ、えっと、おれは榊原正嗣です。三十歳。翠嶺建設の現場監督してます。あ、ここの封鎖工作したのおれです。間宮さんから聞いてますか?」
初耳だ。ケア優先とのことで事件関連の紙には目を通していない。
「真崎美緒。彼を騙して工作させて、二件の殺人をやったわ」
雪野に半分渡されたカロリーメイトの袋を開けながら、さらりと告白する真崎。
口の中のキャラメルを咀嚼し終えたらしい、神々しいほどの美青年が首を傾げながら告げる。
「こんにちは。神依春一です」
主文
被告人を拘禁刑1年6月に処する。
この裁判確定の日から3年間、その刑の執行を猶予する。
訴訟費用は被告人の負担とする。
理由
本件の犯行に至る経緯、被告人の動機、犯行後の態度、並びに被害者らによる寛大な処分を求める声等を総合的に考慮し、以下の通り判断する。
本件は、被告人が叔母の名誉回復を目的とし、都内所在の旧洋館において、外部との通信手段を遮断した上で、物理的封鎖を施し、関係者を事実上の監禁状態に置こうとした建造物損壊被告事件である。検察官は当初、本件を「監禁事件」として起訴したが、公判における証人らの証言によれば、心理的・肉体的拘束の程度は極めて限定的であったと言わざるを得ない。よって、監禁罪についてはその実行の着手を認めるに足りる証拠がなく、本判決においては建造物損壊の事実のみを量刑の基礎とする。
第1 犯行の態様と危険性
被告人は、数百箇所のネジ穴への樹脂注入、通信網の事前遮断など、極めて計画的かつ徹底した建造物損壊に及び、建物の機能を著しく損なわせた。これは、公共の安全と他者の財産権を著しく侵害する反社会的な犯行であり、その手法の特異性と完遂能力の高さ、建造物損壊罪の態様としては、前例を見ないほど悪質かつ特殊なものである。本来、法治国家において到底容認できるものではない。
第2 犯行の動機と経緯
しかし、本件の背景には、15年前の事件において、被告人の叔母が冤罪の疑いをかけられ、メディアの過熱報道と捜査機関の作為的な情報流布により自死に追い込まれた事実がある。被告人が選択した手段は非合法的ではあるが、その根底には「司法による正義」への歪な形での期待と、国家機関の不作為に対する深い悲痛があった。当時15歳であった被告人が、成人後、合法的手段を尽くしたにもかかわらず制度の壁に阻まれ続け、再捜査の端緒すら掴めなかった絶望感は想像を絶する。
第3 被告人の主観的意図
被告人の目的は、他者を傷つけることや自己の利益を得ることにはなく、偏に「真実を語り合う場」の確保にあった。神依氏の供述によれば、被告人の工作は「他者を絶対に傷つけない」という信念に基づき、心理的障壁としての機能に限定されていた。事実、殺人事件の発生という不測の事態に際し、被告人が即座に封鎖計画を放棄した事実は、被告人の良心の証明である。
第4 情状証言と社会的評価
本件において特筆すべきは、監禁の被害者とされる者たちの証言である。被害弁償がなされていないものの、被害者らは宥恕の意思を示しており、被害を受けた建造物の所有者である宇田川氏は当裁判所に対し「なんとかならないか」と被告人の善性を理由に情状酌量を求めている。また、当時誤報を発信した当事者である羽賀氏が、本件の責任は自分にあるとまで述べ、被告人の寛大な処分を求める上申書を提出している点は、本件の根底が15年前の冤罪事件であることを強く示唆している。
さらに、現場に居合わせた元警察官、大手企業社員といった多様な社会的背景を持つ証人らが、被告人に対し「生命の危険を感じなかった」「善良な人間である」と供述し、むしろ被告人の人柄や事件当時の振る舞いを肯定する異例の証言が相次いでいる事実は、犯行の悪質性を著しく減じるものである。また、証人らが一様に寛大な処分を求めている点は、量刑判断において無視できない。
結論
被告人の行為は、実定法上決して容認されるものではない。しかし、被告人に前科はなく、犯行に「相手を傷つけない」という強い自制が働いていたこと、殺人事件発生後は直ちに計画を中止し捜査に全面的に協力したこと、被害者らによる強い宥恕を考慮した。被告人は既に深く反省しており、再犯の恐れも認められない。諸事情を鑑みるに、直ちに実刑に処して被告人を社会から隔離することは、むしろ正義に反すると判断せざるを得ない。
よって、社会内での更生の機会を与えるのが相当と判断し、主文の通り執行猶予を付した判決を下す。
なお、当裁判所は、被告人をこの暴挙にまで追い込んだ15年前の捜査・報道の在り方について、強い懸念を抱かざるを得ないことを付言しておく。今後は法を遵守する一市民として、被告人がその善性を社会のために役立てることを切に願う。
エピローグ “The Lonely God”
「怒りも怨嗟もなく、愛の記憶だけを胸に消える者こそ、最も自由な魂である」
「あのお屋敷、人魚姫がモチーフだったんですよね」
志桜里がカップを傾けながら言うと、「そうだよ」と、春一はふわりと笑った。
窓辺の席には午後の陽光が揺れ、店内は夜空を思わせる淡い青の配色と、静かなクラシック音楽に包まれていた。ふたりの会話は自然と囁き声に近くなった。
「……あれだけのことが起きて」
志桜里は、少しだけ目を伏せた。
「美緒さんが、やったってことに、まだどこかで、実感がないんです」
春一は首を傾げる。
「そうかな。美緒さんは、ちゃんと全部準備してたよ」
春一はスプーンでカップを軽く回した。
「志桜里さんも、視たでしょう。あの洋館の中で」
「幻燈……ですね」
志桜里は、小さく頷いた。
「そう。幻燈……あれは、楓ちゃんが残した真実。ずっと、そこにあったんだよ。なのに、みんな気付かなかった」
楓ちゃんの魂は、あの館にはなかった。
あの館には、十五年前に楓ちゃんが遺した、鮮烈な記憶だけが刻まれていた。
楓ちゃんは、極限の痛みの中で強力な異能を発現させたのだ。最期の瞬間に、あの館に全ての真実を鮮明に焼き付けた。記憶や感情を強く感知できるような同士へと届くように。その遺志だけは、少しでも酌んであげたかった。
「でも、美緒さんだけは、忘れなかった。自分の中の楓ちゃんを。まあそれは記憶っていうより、呪いに近かったかもしれないけど」
志桜里は円卓の縁を指先でなぞりながら嘆息した。
「……だから、美緒さんは榊原さんを使って殺人を計画した。そして、自らの手で実行した」
志桜里の、美緒への同情の表情を眺めてから、春一は問い掛けた。
「……志桜里さん、なにか俺に言いたいこと、あるんじゃないかな」
志桜里は小さく息を飲み、それから少し調子を強くして、春一に尋ねた。
「春一さん。あなたには、過去も未来も視える。なら、わかっていたはずです、あの館で何が起きるか。……美緒さんを、止められたのではありませんか」
「うん。……まあ、そうかもしれないね」
ゆっくりと答え、春一はミルクだけを入れた紅茶を一口すする。
美緒は、既に命と人生をもって、楓ちゃんに応えると決めていたのだ。これを止めるのは不可能に近い。楓ちゃんに、社会は正義を与えてくれなかった。だから、美緒は凡ての代償を背負うと決めた。
……春一には、極刑だって覚悟していた美緒を止める正当な方法を、どうしても見つけられなかった。
もし彼女に失うモノが命以外に一つでもあれば。
もし荻原貴司が児童施設で働いていなければ。
もし社会に合法的代替手段があれば。
美緒は間違いなく、その手で人を殺しはしなかったのだから。
春一は、志桜里に優しく笑いかけた。
この異能を用いて、法律と倫理を無視して、手段を一切選ばなければ、勿論可能であっただろう。
だが、極刑すら覚悟した殺意を永久を喪わせる方法は、物理的あるいは精神的な死しかない。
「でもそれは違うかなって。俺は、美緒さんを責めることが正しいとは思わなかった」
予知による未来の殺人を理由に、他者を責めることは不当だ。
未来を知っていても、その人の基本的人権を侵害しない限り、犯罪を「絶対に」予防することは神にも出来ないだろう。
未来は、いつだって、その人にしか選べない。
自分のために命と人生を懸けてくれた姉。
加害者が死んだという結果。
「美緒さんは、楓ちゃんのヒーローだった、それだけだよ」
楓ちゃんは、姉を愛していた。
美緒はもう、止まれなかった。
そもそも五歳の少女が暴力に晒されて、ヒーローに悪者をやっつけて欲しいと願うことが、そんなに不自然だろうか?
助けてもくれず、報復すらしてくれない。それは本当に裏切りではないと、言えるのだろうか。
人が人を裁く。それは社会にとって悪だろう。
だから美緒は裁かれる。けれど、彼女はそれすらも強く覚悟していた。
楓ちゃんの最期。裁かれなかった加害者。司法の不作為。メディアの暴力。犯罪被害者遺族への偏見。
孤立無援のなかで凡ての覚悟を決めた美緒。
楓ちゃんの「美緒ねえさま」。
その心を操ることも、吊るし上げられる危険に晒すことも、あの日の俺には、どうしても出来なかった。
「……ねえ、人魚姫は幸せなお姫さまだったと思わない?」春一がふいに話題を変える。
「でも、悲劇の象徴じゃありませんか?」
志桜里が戸惑いながら返すと、春一は肩を竦めた。
「お姫さまにはお姉さんがいたじゃないか。だから彼女は、最期に誰も恨まず死ねたんだ。人魚姫が泡になれたのは、お姉さんが美しい髪と引き換えに契約して、銀のナイフを用意してくれたからだ」
人魚姫の姉は、自らが代償を払うことで、愛する者に、救済か復讐か、二つを選択肢を与えた。彼女のためにその身を削った姉がいたからこそ、人魚姫には、自らの未来を選ぶ自由があった。
「ねえ、楓ちゃんが復讐なんて望んでなかったなんて、嘘だよ。本当は君もわかってる」
たったひとつの真実を、春一は静かに語った。
楓ちゃんは人魚姫にはなれなかった。
楓ちゃんの最期には、なんの選択肢もなかった。
楓ちゃんに救済はなかった。
その魂も尊厳も、誰も救ってはくれなかった。
死者に救済はない。
美緒が今更、なにをしても、しなくても。
「楓ちゃんは、犯人を最期まで憎んで、恨んだよ。そして美緒さんに望んでた。助けて欲しいって。そして、いつだって美緒さんの一番になりたかった。あの日だって一緒に出掛けたがってた」
どこか遠いところを見つめるようにして話す。
社会正義は生きている者のためにある。誰にも助けて貰えなかった死者が、社会正義を了する必要はないはずじゃないか。
生者には、法を守る責任がある。だが死者には、義務も、権利も、存在しない。
その叫びを、見ず知らずの人間が『赦し』で塗り替えようとする行為は、善ではない。傲慢だ。生者の都合によって、『道徳的な偶像』として利用される。
美緒がそれを拒絶したのは当然のことだ。
「封鎖は、必然だった。春一さんが……」
恨む、呪う、憎む。
その感情は、正しくないのだろうか。
死者の最期に、存在してはいけないのだろうか。
「助けて」と叫びながら亡くなった子供が、「痛い」「怖い」「なぜこんな目に」と感じること。
それは、否定されるべきなのか?
「うん。まあ、そうなるね。俺が、天候を。あとは、彼女が望むままに」
あの嵐は、決して意図したものではなかったけれど、春一の異能によって引き起こされたのだ。
その責めは、負うべきだろう。
「春一さんは、いつから全部知ってたんですか?」
沈黙は嘘じゃない。
春一は、あの日、あの館で、誰にも問われはしなかった。だから、ただ真実を届けなかっただけ。
……たすけてって、俺が言いたくなった。あの館で、再生される過去のなかにいる間、ずっと。俺も子どもに戻ったみたいだった。
自分の能力で背負った苦痛。春一が勝手に受け取ったのだから。それを理由にしてはいけない。
けれど、これが現実に楓ちゃんの身に起こったことで、楓ちゃんが受けた苦痛なんだと思うたびに、それだけは耐え難いと感じた。
「最初から。あの館に着く前。車の中でね。十五年前、なにがあったか全部。志桜里さんみたいに、残った感情の一部を受けとるんじゃなくて。全部、わかってしまったから」
春一は明るく言った。なんでもないことのように笑ってみせる。
「そのあと館に着いて、彼らがかつて何をしたのか、美緒さんが何を考えているのかわかった」
人は、死者が怒っていないことを願う。それは、死者のためではない。自分の安寧のためだ。でも楓ちゃんは、怨みながら死んだ。愛と呪いは、いつだって両立する。それはどちらも祈りの一つだから。
楓ちゃんの発現させた異能は、春一が今まで出会った人間の誰より強かった。春一の人格を抑制し、『あれ』の齎した春一の『神の力』を強制的に覚醒させるほどに。
「俺が『あのとき』、館の記憶を再生させたのは、罰するためじゃない。ただ、真実を浮かび上がらせたかっただけ。楓ちゃんの遺した真実だから」
あれは、誰にとっても予期せぬ出会いだった。
館という器に刻まれた『幻燈』は、楓ちゃんの強い異能と遺志の結晶。けれど、『神の器』だった春一の存在が、楓ちゃんの遺した『幻燈』に万人が知覚できるほどの強さを与えてしまった。
あの日あの場に、春一が居合わせてしまったせいだ。
春一が出来る美緒への償いは、かつて確かに存在していた幸せな日常を、『生きていた時の楓ちゃんの声』を届けることだけだった。
「うん。そうだね。『これに関しては』今でもいいことしたと思ってる。褒めてくれてもいいよ」
美緒には楓ちゃんと過ごした、美しい記憶だけを持っていて欲しかったから。
志桜里は、少しだけ眉を顰めて、それでも言葉は出なかった。
「『幻燈』は楓ちゃんの最期のメッセージだ。そして俺には、それに応えられる力があった」
春一は微笑んだ。軽く、何気ない問いかけのように。
「大好きな人が、凡てを忘れて幸せになるなんて望まないよ。誰だってそう、は言い過ぎかな。……でも、少なくとも楓ちゃんは望まなかった。俺も望まない」
だって、……置いて行かれて、忘れられたら。
そこに残された人間はどうすればいいんだ?
「美緒さんは、楓ちゃんのために凡てを捨てて戦うと決めた」
楓ちゃんは、愛されていた。それが、どんな行為であっても。そこに至る、彼女の記憶の水底にあった愛だけは、揺るぎない真実だった。
殺人という行為は裁かれるべきだ。だがそれは法のなすべきこと。私人が被害者遺族であった美緒を責めることは、道徳ではなく二次加害、私刑にほかならない。
「俺なら、嬉しいよ?」
典彦は、迎えに来てくれた。最期にどうしても会いたいと思った。ただ、それだけだったのに。春一をあの村から連れ出してくれた。
だから楓ちゃんのことも美緒のことも、春一は一言だって責めたくなかった。だから柔らかな声で、謡うように告げる。
「だって最高に愛されてるって感じでしょう?」
七年。楓ちゃんの一生よりも長い歳月。
志桜里はゆっくりとカップを置いた。そして、言った。
「あなたは間違っています。予知していたのに、止めなかった。それは法律が裁けるものではありません。でも生きる者の倫理として」
彼女が口元に浮かべていた、曖昧な微笑みが、ほんの少し揺れる。
……彼女は、今の言葉が持つ意味を、本当に理解しているのだろうか?
殺人現場そのものに居合わせていない以上、民間人の神依春一と雪野志桜里に殺人阻止の法的責任も法的権限もない。
だが、春一に結果に対して義務を科し責任を問うた以上、彼女の論理では、彼女自身にも殺人阻止の倫理的義務と倫理的責任が遡及して生じることになる。
殺人を阻止することが可能な「能力を持つ」雪野志桜里にも、「生きる者の倫理として」。
……春一は、雪野志桜里に対して、沈黙を選ぶことにした。彼女の怠惰を責めても、過去は変えられないのだから。
雪野志桜里は、他者の痛みに共鳴することができる異能の持ち主だ。彼女は、美緒の苦悩を知る手段を有していた。
そして、美緒と同じ『真珠の間』に宿泊していた。彼女には、二件目の殺人を止める機会が誰よりもあった。
夜に出掛けようとする美緒に、ただ一言、問いかければ良かった。
一人、暗闇を歩くことを案じて、ただ美緒と共に行けば良かった。
ただそれだけで、美緒の殺人の機会は潰えた。
あの閉鎖環境では唯一、美緒と同性であった雪野志桜里だけが、法的にも倫理的にも問題なく、あの夜の殺人を確実に止めることが可能だった。
これは紛れもない真実だ。だが、人を傷つけるためだけの言葉を、春一は使わないと決めていた。他者を裁かぬこと。それは弟が与えてくれた、春一の自由のひとつだ。
人を責めない自由を手放さないこと。知性を決して武器にしないこと。いつも美しく正しい言葉だけを使うこと。常に他者に優しくあること。
そうあることを、春一が決めたから。
なぜ美緒ねえさまを、あの暗い館で一人にするような真似ができたんだ?
「……美緒さんへの言葉は、嘘だったんですか?」
雪野志桜里のその声は微かに震えていた。
あの日を思い出したのか、それとも目の前の男に裏切られたような気がしたのか。
「まさか」
春一はきっぱりと言う。
「あれは、全部ほんとうだよ。大好きな人には、綺麗な思い出だけを想ってほしい」
「だって、そうしょう? 一番大好きな人に、汚された記憶だけを後生大事にされるなんて悪夢以外のなにものでもない。楓ちゃんもそうだよ。大好きな人には、自分の美しい記憶だけを覚えていて欲しい」
しばし、沈黙が落ちる。
外では子どもが自転車のベルを鳴らして走り過ぎた。店内のピアノの旋律が、少しだけ伸びた。
「死者の尊厳を守るあなたに、わたしは敬意を払います。けれど、それを生きている人の未来を失わせてまで、守るべきだとは、わたしは思いません」
彼女の言葉に、春一は目を細めた。
……痛みを知るはずの彼女に、結果をもって不作為と呼ばれることになるとは、思わなかったな。
雪が溶けて、道が開けた。新たな世界を歩む覚悟を決めた時、きっとこれも想定すべきだった。
春一は喫茶店アルバイトで、神でもなければ公的権力でもない。居合わせただけの喫茶店アルバイトである人間に、死を「合法」かつ「確実に」防ぐ手段は、存在しない。
仮にその能力を、人を操るために自ら行使すれば、それは傲慢な独裁であり、尊厳の侵害になる。
Outcome Bias。
そしてFundamental Attribution Error。
手段の悪を強制される謂れはない。この世の誰にも。
春一の意志は、春一のものだ。
春一には権限も権益もない。この世の誰にも、無償で無限に、他者の為に働く奴隷的義務はない。
なによりも。
手段の悪を拒絶したこと。それを持って不作為とすることを、春一は受け入れるべきではない。
この社会に生きる人間であるためには。
春一には、表層をみるだけで他者の価値観やその過去まで推察できる知性がある。
だが、どれだけ高精度でも予測で他者を毀損してはいけない。予知した殺人とは、主観的未来犯罪に過ぎない。
彼女は、春一の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「春一さんのヒーローは、来てくれたんでしょう?」
春一は一瞬だけ、目を伏せた。典彦のことまで、持ち出すのか。
息を吐いて、笑った。
弟がくれた自由、蹲って生きる愚など、一瞬とて犯してたまるものか。
「うん、俺には典彦がいた。でも楓ちゃんの最期には誰もいなかった。だから『彼女』の味方でいたかった」
楓ちゃんの記憶を受け継いだ春一は、初めて会った瞬間から美緒を大好きになったから。
もどかしそうに彼女が言葉を飲み込んだのを見て、春一は紅茶の最後の一口をすっと飲み干した。熱くも冷たくもないその感触を確かめてから、微笑んだ。
……彼女は、とても人間的なだけだ。
「ここのアールグレイ、香りがいいね」
そう言って、空になったティーカップを丁寧にソーサーに戻す。
「お店の雰囲気も。カトラリーも綺麗だったし、接客の人も親切だった」
彼女は、小さく「ありがとうございます」と答えた。声が震えそうになるのを堪えるように。
春一は席を立ちながら、軽く指を振った。
「今日はありがとう。こんなに話したの、久しぶりかも」
雪野志桜里にとって、神に喰われ、神にされた過去を持つ春一は、すでに救うべき生者ではないのだろう。
それはきっと、仕方のないことだ。ヒトの世にあって、春一の異能は強すぎる。
「俺の働いてる店もいいお店だよ。駅から近い。それにチーズケーキが美味しい」
春一は、それでも弟の望む、優しい人間になりたかった。彼の隣で歩くためなら、凡てを飲み込むと自ら決めた。あらゆる痛みを理性の燃料に変え、ヒトの世界で、彼と生きると。
己の過去も、人間心理の構造も、論理で理解できるだけの冷徹な知性が、春一にはあったから。
「……はい。機会があれば伺わせてください」
「うん。気が向いたらでいいから。さようなら」
カラン、と椅子を戻す音。ドアベルの軽い音。春一は、それらすべてをまるでBGMのように受け流して、ふわりとした笑みのまま喫茶店を後にした。
振り返らず、背負うものなき背中を見せて去っていった。
彼女は、空のティーカップを見つめながら深く息を吐いた。テーブルには、誰のものでもない静寂だけが残された。
喫茶店を出た春一は、今日の夕飯の献立と、さきほど雪野志桜里と交わした会話を考えながら、地下鉄の駅を目指す。
最後に選択したのは、美緒だ。
殺すしかない、そこに至るまでの理由を問う者が、もっと早く、誰か一人でも美緒のもとにいれば、彼女はそれを選ばなかった。
予知は証拠になり得ない。法のもとで生きる以上、未来の殺人を責めることはできない。神の力は万能ではない。少なくとも人の世では。
過去は変えられない。他人の未来は選べない。人間として少しでも寄り添うこと。それが俺があの日出会った彼女にできる、凡てだった。あの夜、美緒におやすみと伝えたとき、未来は確定していなかった。
予知は、万能でも全能でもない。
未来は、その人の意思でのみ動く。
……他人の未来は、きっと本物の神さまにも選べない。
そうだ。ハンバーグはどうだろう。
二件の計画殺人は、極刑もありうる。美緒はそれを正しく認識していた。榊原が願ったように、美緒の命と未来を護りたかったけれど。凡ては、遅かった。間に合わなかった。俺も、榊原も。
だから、せめて美緒の味方でいたかった。
心的外傷。Flashbulb Memory。人間の脳は残酷で、最愛の人の最期だけしか思い出せなくなる。それはよくあることなのだ。
三時十三分。
十五年前、美緒の時計が止まった瞬間に、この悲劇は始まった。
楓ちゃんの最期に囚われ続ける美緒に、十二歳の美緒が、大好きだった楓ちゃんと過ごした真実の時間を届けること。
たったそれだけのことにしか、俺の持つ神の力は、役に立たなかった。
牛乳も卵もパン粉もある。挽肉を買って帰らねばならない。
自分に失うものはなにもない。
そう思ったから、彼女は水底の記憶にあった慈しみを、毒へと変えたのだ。
No one spoke the truth. Not the living. Not the dead.
And yet, the lantern never lied.
“There was no great detective. Not this time.”
静かなる告発
妹は殺された。殺した男は生きている。
あの男の未来すべてを奪えるなら、私の未来すべてを賭ける価値がある。
社会正義など、なかった。
だから私が殺す。
でも、社会のために殺されることも、受け入れる。
それ以外の有効な方法を、私が見つけられなかったことは事実だから。
なにより、人を殺した人間は、等しく罰を受けるべきだと思うから。
社会正義なんて、どこにもなかった。
その怒りは、今も変わらない。
だから、私は戦う。どんなかたちでも。
過去は変えられない。
でも、未来は変えられる。
今この私が、それを変えていく。
二度と、社会を諦めることはしない。
決して、社会との対話を拒否しない。
私の命を懸けて。
私の命が尽きる、そのときまで。
何度でも、社会に正義を問い続ける。
雪野志桜里 二〇二二年五月十四日
「正義を説くものは、常に無知を知らねばならない」
春一さんは、最初からすべてを知っていた。
あの洋館に足を踏み入れてすぐに感じた違和感。全員が、『幻燈』を見た。
わたしや春一さんだけでなく。
霊感なんてないはずの人たち全員が、等しく『真実の再生』を目撃した。それは偶然なんかじゃなかった。
幻燈とは、本来限られた人間にしか見えない、ただの過去の残滓のはず。でも、あの夜のそれは違った。
全員に視せるために用意された舞台だったんだ。
おそらくそれは、楓ちゃんを殺した者たちを死へと導くため。
幻燈の再生はすべて、楓ちゃんの意思に従った春一さんの力だった。
わたしはずっと不思議だった。あの日の悪天候。急激な天候悪化、土砂崩れによる交通遮断。どこか不自然だった。
まるで、まるで誰かが、封鎖を仕組んだかのように思えたのに。ほんとうは、わたしが気づかなければいけなかった。あれもまた、あなたの力だって。
あの夜の嵐は、春一さんが意図的に、引き起こしたはず。
だって彼は、『理を歪める力』を持っている。
彼なら悲劇を絶対に止められたはずなのに、結果は違ったのだから。
彼は正しく、奇魂(くしみたま)であり、荒魂(あらみたま)の器を持って生まれたひとなのだ。
神の器。
それは、初めは受け入れる容器でしかなかったのかもしれない。でもその彼は今、神の如き器量の持ち主へと至ってしまったんだ。
あの日、あなたは過去を知ってしまったから。館に来る直前。楓ちゃんが殺された瞬間を、その身に焼きつけるように追体験してしまった。暴力、恐怖、絶望、痛み。
春一さんは楓ちゃんの最期の、『唯一の理解者』になった。だからきっと、美緒さんでも、社会でもなく、『楓ちゃんだけの味方』になったんだ。
でも、あなたは手を下さなかった。
それは、復讐を果たすのは、あなたでは意味がないと考えたからなんだと思う。
「復讐は、美緒さんのやるべきこと。罪を背負うかぎり、罰を受けるかぎり、美緒さんは楓ちゃんを忘れない」
そう考えたんだろうと、わたしには思えてならなかった。
あなたはずっと一人で楓ちゃんを悼んでいたんでしょう。誰にも知られず、誰にも語らず。
梨木美緒。かつて楓ちゃんのヒーローだった少女。彼女は、楓ちゃんを守れなかった。
だからこそ、あなたは彼女にその責任を返したのでしょう?
おそらく、今日わたしに会いに来たのは、これほど親切に説明してくれたのは、訝しんでいた、わたしへの口止めのためだろう。春一さんは、決して嘘はつかなかった。
でもわたしには、美緒さんを止めなかった、神依春一という人間を、認めることはできそうになかった。
あなたは、探偵の協力者でありながら、犯人の協力者でもあったんだ。
神依春一 二〇二二年五月三十一日
「沈黙は無知を意味しない。それは知りすぎた者の選択だ。……名探偵は正しく問わねばならない」
午後も遅い時間、硝子窓越しに差し込む陽はもう傾きかけている。
喫茶店Café Sereinの扉が開くと、すみれが立っていた。薄い灰色のシャツに青藍のパンツ姿。強い決意のような光が、その眼にある。正義感と気高さを体現したような、いつも通りのすみれがそこにいた。
彼女が日常生活に復帰できた、そのことを何より嬉しく思う。すみれは、俺と同じく、あの館に遺された楓ちゃんの記憶を焼き付けられるように追体験したのだ。
入院中、鎮静剤の静脈注射すら必要だった彼女が、生きてここに居る。
「……すみれさん。来てくれたんだね」
「春一くんの淹れてくれるコーヒーのファンなの。でもそうね、近くまで来たから、って言えば格好つく?」
勝気に笑ってみせる彼女の、普段より少しだけ濃い化粧と、揺れる視線。
だから、敢えて軽く笑って、手元のカップを拭きながら言った。
「すみれさんは、いつでもかっこいいよ」
すみれは席につき、しばらく沈黙したのちに、ぽつりと言った。
「この前、来てくれてありがとう。あれがなかったら、私は鎮静剤で誤魔化し続けるしかなかった。……ごめんね、春一くん。私のためにあんなとこ行って、あそこで、二日も過ごしたんでしょ。あなたの異能なら、私よりずっと鮮明な苦痛だったはずよ。」
ふと視線を逸らした。春一は物心がついた頃から、将来『神の器』になる子供として神聖視された。誰からも理解を放棄され、誰にも人間として愛されず、春一は過ごした。そして不可逆の、絶望の七年。
「……俺は、大丈夫だよ。諦観は、誰より得意だって自覚してる。典彦が連れ出してくれるまでの七年を思えば、なんだって耐えられる」
今でも夢に見る、あの歳月。魂すら侵され、喰われ、俺という人間が塗り潰されていく、あの感覚。
……神座の、一理と必然は認めている。だが善良であれば基本的人権が保証される、この楽園で過ごした半年で確信した。
あの地元は異常だった。俺は絶対何一つ悪くない。だから俺は、俺自身のことでも正しく憐れむ。俺を憐れむのは俺だけで良いのだから。
でも、『起きて』しまっていた俺が、やってしまったことを知ったら彼らは怒るだろうか。
心配そうな顔をするすみれに、ふわりと微笑んだ。
「あのね。あの館では典彦も真さんも隣にいてくれたから。だから大丈夫だよ」
だって、本当に嬉しかったから。『神の器』として完成するために押し込められた、たった一人で凍えながら過ごした冷たい祠とは違う。
犯人が誰かわからなかった時、他人のいる場所では、真は、常に俺を視界に入れていた。
『王女の間』での真との一夜を思い出す。かつてあの館に下宿していたという荻原貴司は、貴賓室である『王女の間』には、足を踏み入れたことはなかった。
あの夜、あの場所でだけ、苦痛から解放された。あの部屋に遺された、楓ちゃんの陽だまりのように幸せな記憶だけを夢に視た。
「ね、すみれさん。俺、ガニュメデスみたいかな?」
極度の緊張と疲労にあった真の発言は、今思うとなかなか衝撃的だった。けれど、あの一夜がなければ、嵐はきっと止まなかった。
「ガニュメデスってなに?」
怪訝な顔をするすみれに、詳しく話す。
「ギリシャ神話で、ゼウスに見出されて神々の給仕係をしてた美少年、かな。水瓶座はその姿を模ってるんだよ。あの日ね、真さんに言われたんだ。ガニュメデスじみた見た目だって」
「あの男、そんなユーモアあったのね」
すみれの、驚きと少しの呆れを含んだ声色に思わず同調する。
彼は決して誇示しなかったけれど、真の言葉や所作の端々には豊かな教養があった。だが、その使い方は些か独特。ギリシャ神話を、知識ではなく自然な言語として使う人間はおそらく希少だろう。ふたりで、顔を見合わせて笑う。
真は、ずっと春一に優しかった。正しくあろうと常に自らを律する、美しい品性の持ち主。でも、どこか微笑ましい。年上の男性に使うには少し失礼な表現だろうか。
やがて、すみれはカップに口をつけながら言った。
「もう少ししたら、また現場に戻れるかも。まだ本調子じゃないけど」
ふたりの間に再び静けさが戻る。
座面の深いソファに身体を預けながら、すみれはコーヒーカップを回していた。彼女らしくない行儀の悪さ。その不安げな仕草は、いまだ癒えない傷の深さと、精神の不安定さを表していた。
自分が不幸だから不快だからと、他人を不快にさせて良い道理はない。自分を無条件に愛するべきなのは他人ではなく自分。他人に好かれるには、相応の振る舞いをせねばならない。それが俺とすみれが共有する真理だった。
だが、楓ちゃんが殺害されるに至るまでの苦痛の完全な追体験。ごく普通の生まれ育ちのすみれが、その記憶を抱えて尚、それを実践し続ける強さは、間違いなく特別なものだ。
すみれは、一瞬の逡巡ののち、彼女らしいはっきりとした口調で、俺の目を見ながら話し出した。
「あのね、春一くんの大丈夫、それは大丈夫とは言わないのよ。それは理性でなくて心的外傷からの麻痺だって自覚して。どれだけ些細でも、痛いときは痛いって、言いなさい。私はいやよ。春一くんが、あんなのですら、独りで耐えるなんて」
俺は大丈夫なんだ。弟を、世界で一番愛すると決めたのは春一だから。誰にも理解されなくても、どれだけ裏切られても、それでも人間と弟を愛する強さがあったことを誇るために。それなのに。
「なにもできなくても、知って傍にいたい」
代崎すみれ 二〇二二年五月三十一日
「他者を裁く以上の傲慢は存在しない。 正義を疑う者だけが正義の教徒である」
コーヒーカップの縁に口をつけるでもなく、ただ液面を揺らしながら、ぽつりと呟いた。
「聞いてほしいことがあるの」
春一くんは、黙って頷いてくれた。
「荻原が働いてた施設の子供の話だけど……辞めたって聞かされたらしいの。そしたら、『触られなくなってよかった』とか、『目が怖かったからほっとした』とか……そんな話が、ぽつぽつ出てきたって」
言葉を切って、私は小さく息を吐いた。あくまで事実を並べているだけなのに、コーヒーの香りが一瞬だけ、えぐみを帯びて感じられた。
「そういうの、なかなか表に出ないのよね。記録にも残らないし。通報しても証拠がないって揉み消されて、結局は子供が嘘つき呼ばわりされて終わり。……そういう地獄が普通にある」
苦い何かを噛みしめるように、呟く。
「死者はもう誰も殺せない、でも生きていれば、また誰かを傷つけるかもしれない。……かもしれない、その可能性すべてを奪えるなら死んでもいい。暴論だし、正義じゃない。でもまあ、覚悟と一理はあるのよね」
春一くんが、カトラリーを磨く手を止めた。その仕草に、彼の感情が溢れている。私が黙り込むと、しばらく沈黙が流れた。
罪に問われず罰を免れ、未反省無監視状態にあった小児殺人犯。次の被害者が生まれることを絶対に防ぐ為に死刑を覚悟して殺人を実行した彼女。命懸けの功利主義。冤罪が放置され再捜査が拒否されていた状況では、その一面は事実として、確かにあった。
勿論、地獄に落ちて欲しい、という遺族感情はあったのだろう。だが、本当の引き金はきっと違う。死刑になったとしても、妹のような幼い犠牲者が生まれる可能性をなくせるなら、その価値はあると彼女は考えた。
彼女がその手で人間を殺害すると決意した最後の引き金は、憎しみではなく、彼女の孤独と論理だった。
もう彼女に失うものは自分の命だけだったから。
再び、話し出す。春一くんにだけは、聞いて欲しかった。
「人を殺した者は等しく罰を受けるべき。だから罪を免れた相手を殺す。そして、それを殺した自分も罰を受ける。対称性としては論理一貫しているっていうか。原理の普遍化を、自分にも科してる。間違ってるけど、筋は通ってる」
私は小さく笑った。乾いた音だったが、そこに冷たさはなかった。
「法治国家では、被害者に暴力以外の解決手段を用意する責任は国家にある。被害者遺族である彼女に対して、社会契約を先に破ったのは司法で、国家だった。なら、彼女にだけ法の遵守を求めるのはダブルスタンダードになる。法を支える法哲学に照らせば、彼女の論理の整合性は完璧に近い。その上で、彼女に他者を処刑する権利は生まれないことも彼女は理解していた」
国家が独占している暴力を正しく実行しなかった事実が先にある。国家が先に彼女と彼女の周囲に対して社会契約を完全に破棄した。
ゆえに彼女と梨木楓を殺した男、荻原との関係は、万人による万人の為の闘争、自然状態になった。国家が裁きを放棄したと彼女が信じた瞬間、彼女は自分にその義務があると考えた。
けれど、法定通貨、保険診療、義務教育、そのほかの国家の恩恵を受けているから、国家からの裁きを進んで受け入れる。排除を義務と考え、他に方法がないと信じても、それでも間違っていると自覚していたから、彼女は自分を裁く国家の権限を否定しなかった。
彼女の思想と行動は、現実の法律よりも法哲学に忠実、と言うべきなのかもしれない。だからこそ、恐ろしかった。
「それでも、私刑は否定されるべきよ。正義や道理を語って、個人が人を裁くなんて、傲慢の極みだもの。……でも、だからこそ、最初の加害がなければ復讐もなかった、国家の不作為がなければ、彼女が手を下す必要もなかった。その事実は絶対に忘れるべきじゃない。罪に問われなかった加害が、沢山の人生を終わらせた。殺すしかない、そう彼女に決意させた、そこに至るまでのすべてを矮小化して『殺人はいけない』だけで済ますのは、アンフェアだわ」
春一くんに整理しきれない思いをつらつらと語り、ようやくコーヒーに口をつけた。
その時に、それまで無意識にカップを回していたことに気がついて、バツが悪くなる。春一くんの前で、ちょっと行儀が悪かった。
「そうだね」
静かな肯定。春一くんの言葉は少ないが、重みがある。
ぬるくなった液体が喉を落ちていく。その苦味に、何かの終わりが含まれている気がした。
沈黙が落ちた。いっそ殺してくれと何度も叫びたくなった、あの鮮烈な記憶が、今も時折、私を蝕む。
けれど目の前には、優しく私を見守る春一くんがいる。あの地獄、そして殺人事件。二日にも渡って、壮絶な経験をさせる切っ掛けになった私に、今も向けられる深い友情と信頼。
春一くんの、透き通るように清らかな瞳。痛みを他者への優しさに、知識を自らの強さへと変える、深い知性の証。そこに映る、私の瞳の中には、あの極限の痛みの残滓と、それでも未来に向けて開く窓があった。
ジャズの旋律がゆったりと流れるCafé Sereinの外では、雨がポツポツと落ち始めていた。春一くんと見る、優しく降る雨。この時間が、いつか私を癒してくれる。そう思えた。
神依典彦 二〇二二年五月十五日
「愛の証明は沈黙、愛の代償は永劫の孤独」
目の前には、雑多で華やかな街並みが広がっている。
渋谷のスクランブル交差点。初めての恐ろしいほどの人混みに、春一は少しばかり緊張しているようだった。ここはちょっと人が多すぎたか。
胸がちくりと痛んだ。何気ない日常の一コマが、春一にとっては「経験のない冒険」なんだと実感するたび、過去に囚われていた春一の時間がどれだけ不自由だったかを思い知らされる。
だからこそ、今。こうして隣に並んで、街を歩いているだけで、俺は救われるような気持ちになる。どんな過去があったとしても、今は春一が笑っている。それが俺にとっては、何よりの幸せだった。特別なことなんて、何もない。ただそれだけの時間。でも俺にとっては、春一がいる日常が何より尊い。
春一は、この世の誰よりも、美しく優しく正しい、特別な人だ。
「なあ、春一」
隣を歩みながら、俺は春一に声をかける。
「ん?」
春一が淑やかに相槌を打つ。陽射しに眇められる、静謐な青紫の瞳が俺を射貫く。昔から変わらない、どこまでも神秘的な輝き。
「これからは、いくらでも一緒に歩ける。街でも、祭りでも、温泉でも。行きたいとこがあったら、ぜんぶ教えてくれ」
春一は少しだけ驚いた顔をしてから、照れくさそうに、一瞬だけ目を伏せた。
春一は何も言わなかった。でも、俺に向けられる、神々しいほど綺麗な微笑み。柔らかな春の陽だまりみたいで、心の底から、じんわりとあたたまる。
横を歩く春一が、ふいに俺の袖をつまんだ。言葉はなくても、その奥ゆかしく可憐な仕草に、今この瞬間を大切に思っているのが伝わってくる気がした。
俺の美しい春一が、ただ幸せそうに微笑んで、今、ここにいる。
間宮真 二〇二二年四月二十六日
「動機を探る者は探偵たり得る。 だが、沈黙を問う者こそ名探偵だ」
あの地獄のような二日間を終え、警察の事情聴取も終えた。
その翌日、代崎の心的外傷の対処のため、春一を、彼のアルバイト先の喫茶店に迎えに行き、天城探偵事務所に連れて行った。
理屈はわからない。ただ、代崎は回復した。不安そうな挙動は残るが、鎮静剤が必要なレベルからは確実に脱した。
家まで送るため、愛車ディアデムの助手席に乗せた春一に呼びかけられたとき、自身の眉がぴくりと動いたことを自覚する。
「真さん」
は?シートベルトを着用する手を止め聞き返す。
「……今、なんて呼んだ?」
「え?真さん。だめですか?」
運転席に座ったタイミングで、幸いだった。
俺の動揺は明らかだと思われるが、無垢な瞳で見つめ返される。
しばらく沈黙し、見つめ合う。相変わらず、クラリティの高い多色性の宝石を、計算しつくしてカッティングしたような双眸だ。
「……だめ、ではないが」
ダメではないが、唐突である。俺の困惑を余所に、名称変更の正式な了承を得たと解したようで、機嫌よく満足気だ。
俺は視線を外し、溜息を吐いた。
春一はそのまま、嬉しそうに微笑んでいる。
その顔に、ゆったりと微笑んだ春一が板チョコを一枚、俺の掌に置いた瞬間を思い出す。
「はい、どうぞ。……?頭を使うと、糖分が減るでしょう?」
呆気にとられ、沈黙した俺に不思議そうな顔をして、なにやら納得したように、優しく説明された。促されるままにそれを受け取った。
「……悪いな」
声は低く、わずかに掠れていただろう。
救助が望めるまで、いつまでかかるかわからない。殺人犯がいるかもしれない。その状況で、全員に見返りなく食料を差し出せる人間が、この世にどれだけいるだろう。
集団ヒステリーが起きてもおかしくない。そんなことを一人で危惧していた俺が馬鹿みたいだと思った。
……全員が、等しく無償の善意を受け取った。それがあの場での建設的な話し合いを可能にした。
空腹状態での見返りのない食料の配布。
それは単純な自己犠牲ではない。まず、自ら差し出すことで、全員の道徳的基準の引き上げる行動だった。
そして、閉鎖環境における俺の統制権力の強化。それが全員の生存率をあげ、場を安定させると予測した。
理性的判断に裏打ちされた、気高く強い、より高次元な利他行動。
高い知性と深い慈愛。彼自身が極限のなかで最善を模索し、選び取った優しさだった。
俺の横に座っていた彼の瞳に晒されて、利己的な意見など誰が言えるものか。
目が合えば嬉しそうにする春一。ハンドルを握りながら、俺は、俺の犯した罪を贖う方法は、存在しないことを心に刻む。
春一は、代崎とは違う。あの夜、俺は間違えた。あの館に到着した瞬間に、代崎は倒れた。俺は、そう聞いていたのに。
目覚めた代崎が、あの館に春一を連れて行ったことを聞いた瞬間、俺に向けた表情。あれは憎悪だ。
あの館で、春一は無事だったわけじゃない。嵐は止まなかった。……荻原貴司の遺体が発見される、その時まで。
大丈夫か?
それは彼への暴力になる。極端に抑制された人間には、YES以外の選択肢はない。
なぜ何も言わなかったのか?
当然だ。俺は、彼の覚悟と慈愛に甘えるだけで、話しても受け止めてくれる、そんな安心と期待を抱ける振る舞いをしなかった。
一人で抱え込まなくていい、という安心。弱さを晒しても失望も拒絶もされない、という期待。春一はあの夜、行動でも言葉でも、俺にそれを与えてくれたのに。
俺は、彼の慈悲に縋るばかりで、本来、俺が真っ先に負うべき責任を果たさなかった。
自身が犯した罪と向き合え。
事実から逃げずに戦え。
二度と間違いを犯さないために。
これからの俺が、彼になにができるか、何度でも問いかけろ。
「……、春一。お前が沈黙するとき、俺に何をしていてほしい?」
……彼女に死刑を宣告することは、法治国家の事務手続きとして正しい。彼女もそれを望んでいますから。
だからこそ、彼女が「死刑を覚悟してでも人間を殺さなければならなかった理由」を、この国の司法は直視すべきです。彼女がナイフを握ったのは、国家が先に彼女を裏切ったからです。
幼さを理由に彼女の証言を握り潰してまで、南雲由紀さんに苛烈な取り調べを行い、冤罪と知った上で警察発表をしたことは、当時の広報担当、警察OBである山路氏の証言から確定しています。
その結果、メディアによる顔出し実名報道を招き、南雲由紀さんは自死。その上で再捜査を拒絶し、未解決事件として放置した。この事実は、南雲由紀さんの甥、榊󠄀原正嗣さんの建造物損壊被告事件の判決にて言及されています。
『15年前の事件において、被告人の叔母が冤罪の疑いをかけられ、メディアの過熱報道と捜査機関の作為的な情報流布により自死に追い込まれた事実がある』と。
彼女を裁くなら、同時に司法機関の加害と国家の不作為という罪を隣に並べなければ、現行法を支える法哲学、その論理的整合性を、この法廷が崩壊させることになるでしょう。
法治主義の、自己否定として。
検察側は彼女の『冷酷さ』を指摘しますが、それは違います。彼女にあるのは、この国の法の論理への忠誠と、楓ちゃんへの愛です。
彼女は、妹を殺した男による次の犠牲者の可能性を絶対に許容出来なかったから、国家が自ら放棄したナイフを拾い上げただけ。
彼女を裁く権利がこの法廷にあるのは、それは彼女が依然としてこの国の社会制度の恩恵を受けているという一点にのみ依拠します。
彼女が「殺すしかない」と決意した、そこに至るまでの「国家の不作為」を無視したまま下される判決は、法ではなく、法の名を借りた更なる不作為です。
どうか、彼女を正しく裁いてください。たとえ死刑であっても構いません。彼女もそれを望んでいます。
ですが、彼女がナイフを握ったのは、あなたがたがそのナイフを『正しく振るわなかった』からです。
もし彼女に失うモノが命以外に一つでもあれば。もし幼い妹を殺した男が反省も監視もなく児童施設で働いていなければ。もし未然に次の被害を防ぐ合法的代替手段が社会にあれば。
彼女は決して、その手で人を殺しはしなかった。
司法機関によって12歳の彼女の証言が握り潰されたことで、過去の罪によって未来の被害を防ぐ合法的手段は喪われた。彼女には、殺す以外の手段で子供から脅威を遠ざける方法を見つけられなかった。
……殺人という重大な手段の悪は、如何なる背景があろうとも必ず裁かれるべきです。
ですが、彼女は『12歳で国家による加害に晒され傷ついた女の子』です。『15年間、犯罪被害者遺族として孤独を強いられた27歳の女性』です。
……美緒さんは、『死刑を覚悟して国家の不作為を一人で補完すると決意した、愛情深く理知的な、楓ちゃんの姉』です。
どうか、それを理解した上で量刑を宣告なさってください。
旧梨木邸連続殺人事件から3年後。独立開業した間宮真の事件簿はコチラ。
探偵間宮はオカルト事件は扱いませんが、神依兄弟や榊󠄀原正嗣、代崎すみれは登場。
なお、各章の冒頭に記された『沈黙の警句』は、神依春一という知性が凡ての構造を読み解き、言語化したものである。
伏線や物語への考察、キャラクターへの質問など、答え合わせはお気軽にどうぞ。ちょっとした気付きや一言質問も大歓迎です。
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質問&回答が溜まったら特設記事を用意します。
桜子への質問箱↓
https://note.com/qa/lucky_marten8203
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