そこにいるだれかと我らの未来のために【9】
【9】
「異常なかったよ。だれも近づかなかったし、家自体、死んだように静まり返ってる。あの建物、ほんとうに存在してる? って感じ」
ほんの数メートルだけ歩道が二倍の幅になっているところに簡素な花壇があるだけのそのわずかなスペースは、日ごろから道行く人々のささやかな休憩の場となっていた。犬の散歩中にメールの返信をしたい人、学校帰りの高校生がちょっと立ち話をする場、子連れのお母さんがベビーカーのなかを整えたり、子どもを抱きなおしたりするところだ。
三人ほど立ち止まると定員オーバーで、四人目はただ歩き去りたいだけの人の邪魔になるようなちいさなスペースに、花壇を背にして胡坐をかいてギターを抱えていた女性が、歌い上げるように呟いた。ほとんどささやき声だったがなぜだかよく通る声で、風や大通りからのざわめきの上をそうっと滑るように耳に届く。発声方法がしっかり身についている。
彼女はまさに、駅前で演奏するにはまだ勇気が足りないといった風情で、ごく小さな音でギターを弾いて歌い、歌そのものよりもコードの調節に時間を費やしている、ストリートミュージシャン初心者の装いだった。
「それにしてもここ、最高の練習場だね。ベンチがあればもっとよかったけどさ」
たいした演奏はしていなかったが、それでも通りすがりの人から投げ入れられた、ギターケースに入った小銭をひとつずつ拾い集めながら、クルミ・フジタはマリア・ガリシア‐コルベラを見上げてにっこりした。小銭をポケットに入れ、使い古されたアコースティックギターをケースに収納し、立ち上がる。ずっと地面にくっつけっぱなしだったジーンズのショートパンツのお尻を両手で払い、思い切り腰を伸ばした。
「なにを弾いてたの」マリアが顎でギターケースを示した。
「え?」
「曲だよ。なにを演奏したの?」
「ああ、自作の曲だよ。目立たないカントリーソングにした。お尻が痛いとかお腹がすいたとかいう即興の歌詞でね」
それを聞いたマリアはおおきな笑みを見せた。「そんなあなたのためにホテルに部屋を取ったから。もちろん朝食食べ放題つきで。ビジネスホテルだけど」
「やった」
クルミがちいさく跳ねると、肩でカールさせたピンクの髪も一緒に跳ねた。
その髪はきょうのシャンプーできれいに流れて、元のブリーチされたブロンドの髪色に戻るはずだ。グレーのカラーコンタクトも外すし、ブルーのコンバットシューズは明日には一緒に住んでいる彼女のクローゼットへ、何事もなかったかのように返される。クルミはそもそも普段はショートパンツなど履かないし、うれしいとき飛び跳ねてみたりはしない。もっとずっと落ちついた雰囲気の姿をしていて、やむに已まれぬときがあっても、せいぜいが小走りする程度だ。
彼女は私立の小学校の非常勤教師で、トランスジェンダーの女性で、バイオリン奏者としてオーケストラにも参加する音楽家で、パートナーの女性との間に彼女のことを「クーママ」と呼ぶちいさな男の子をもつ母親でもある。幼子が急に駆け出したときも、当然、小走りで追いかける。ちいさくジャンプして「もうっ」などとは言わない。変装して街に溶け込むのが得意なので、張り込みの際に手伝ってもらっている。きょうのように、交代要員が深夜まで用意できないときなどは、パートナーと子どもには出張と偽って出動してもらうことになる。当然家には帰れないから、宿泊も込みの報酬が出る。
ほんとうはコスプレが好きなのに彼女に打ち明けられていないクルミにとっては、楽しい副業のひとつだった。昼夜問わず子どもの元気な喚き声に晒されている日常からの、ほんの短い気分転換としても、なくてはならない時間だった。
「これからはマリアがここに張りつくの?」
「そう……」マリアが、暗闇に溶け込んでほんとうに見えなくなりかけているターゲットの家に目をやりながらうなづいた。「ファビアナに頼むつもりだったんだけど」
「またいつもの気まぐれ?」そう言ったときだけ、クルミの目つきはすこしだけ教師のそれになった。素行の悪い生徒の、まさに悪い素行の場面に出くわしてしまったときの。
「うーん」マリアは首の骨をぽきっと鳴らした。返事の難しい質問だ。ファビアナは優秀だが、優先順位がいつもマリアの依頼とは限らない。「あの子、張り込み苦手だしねえ」苦手というのは柔らかい物言いで、ほんとうは張込みが嫌い、と断言してしまってよかった。
「あたしが残ろうか。グレイスひとりじゃ、赤ちゃんと母親の面倒を見るのは大変じゃない?」
「それは駄目だよ。せっかくひとりなんだから、今夜はベッドを独り占めして」
「うーん……まあ、そうだね。わかった。せっかく部屋を取ってくれたんだし、思い切り手足を伸ばして寝ることにする」
「そうして」
「あ、ねえ、名前決めた?」
「名前?」マリアの脳裏に、姪のリアーナ・ガリシア‐コルベラのちいさな顔が浮かんだ。食べたくなるようなつるりとした頬と、自分にもすこしだけ似たアーモンド形の目も。彼女の名前は、姉のグレイスとふたりで考えてつけた名前だった。グレイスがどうしても赤ん坊の父親の名字をつけたくなくて、代わりにミドルネームを入れようかという話も出たが、結局はシンプルにしたのだ。
「あたしたちの名前だよ。オーシャンズ8的な。こっちは七人だから、オーシャンズ7だけど」
「それか。ああ困ったな、ぜんぜん浮かばなくてさ。クルミ決めてよ。そういうの得意じゃない?」
「チューリップグループとか」クルミが笑う。「あたしには、小学校低学年向けのセンスしかないよ」
「チューリップ」
「なに?」
「テュリパン。スペイン語でチューリップ」
テュリパン。クルミが口の中でつぶやく。「いいかもそれ」
「セブンもつける?」
「7はスペイン語でなんて言うの?」
「スィエテ」
「やだ、クールじゃない?」
「テュリパン・スィエテ。わたしたちのチューリップグループだね」
「早速みんなに伝えよう」
クルミがテキストを送信していると、マリアの視線の先、クルミの背後遠くに、暗闇から滑るように人影が出てきて、それまで廃墟のごとく静まり返っていた件の家の前で立ち止まった。
かすかな音をたててドアが開き、玄関に淡く明かりが灯る。ここからははっきりと顔を見ることはできないが、サイが二本足で立ったかのような大柄な男で、フードのついた服を着ている。黒髪を後ろでひとつに纏め、額が広かった。キャスター付きのスーツケースをほとんど抱えるようにして家の中へ入っていく。ドアが閉まった瞬間、マリアはいつの間にか止めていた息をふっと吐き出した。まさか張り込み一日目で成果が出るとは。それも自分がいる時間帯に。来るか来ないかは別にして、ファビアナの仕事ぶりそのものを疑ってはいないが、メンバーの中でもとくに責任感の強いクルミと一緒でよかった、と思った。
「たったいま旅行から帰ってきましたって感じの姿ね」さりげなく振り返って確認したクルミの声のトーンはぐっと下がっていた。コスプレの時間は中断で、クルミ・フジタとして集中すべきときが訪れたのだった。
「まあね。Kからの依頼ってこともあって、すべてが怪しく見える」
マリアは男が家の前に立った直後あたりから、クルミの首に腕を回して、何気ないふうを装ってケータイを構えて動画を取っていた。保守的だったアジア圏でも最近では同性カップルは珍しくなくなったので、アドリブのバラエティも豊富になって、張り込みも盗撮もやりやすい。
クルミの耳元に唇を寄せ、画面と家を交互に見ながらマリアが唸った。残念ながら気づくのが少し遅かったが、映像にはかろうじてスーツケースが映っているはずで、すぐにKへ送る準備をした。
「確かにね。あのスーツケースの中身、すごく気になるなあ」
クルミが毛先を払いながら首をかしげる。耳の下に赤い痕があるのが街灯にうっすら浮かび上がって、自分も集中していて、ちゃんと視野が広がっているのをマリアは感じた。
「ねえクルミ、やっぱり……」
「当然残るよ。ベッドより睡眠より、いまは好奇心が抑えられないからね」
「チェックインの時間を遅らせるから、Kが来るまで一緒にいてくれればいいよ。なにか動きがあったときのために」
「うれしい。じつを言うと、睡眠よりなにより、人が作った朝ご飯を食べられるのが幸せよ」
「彼女は朝ご飯作らない人?」
マリアは、ちらちらと画面を見ながら訊いた。クルミのほうには、先ほど送ったチーム名への肯定的な感想が届いてきていた。
ファビアナからもハートとダイヤつきのきらびやかなテキストが届いていて、それを見たときはふたりでくすくす笑った。
「料理にも、センスってものがかかわってきてね」笑いの合間にクルミが答える。
「彼女、なにが得意なの」
「え、セックス以外に?」
「オーケイ、もう黙るね」
Kからの返信はすぐにきた。いまから行くからそこにいて。
「ずっとここにいると目立ちすぎる。すこし場所を変えよう」
ふたりは手をつなぎながらぶらぶら歩いて暗い場所へと移動する。家は、リビングらしき場所に明かりがつき、男がさっと外を見てからカーテンを閉める姿が確認できた。マリアはそれをカメラではなく動画におさめて、即、Kに送る。
Kたちの到着はほんとうに早かった。
最初の動画を送ってから約六分後、大通り沿いにものすごいスピードで黒のカマロが滑り込んできたかと思うと、まだじゅうぶんに止まりきらないうちから助手席が開き、Kが颯爽と降りてきた。
運転してきたのは背の高い白人の男性で、スーツのボタンを留めつつ歩いてきた。マリアは彼こそがうわさに聞いていた特別に神に愛された子、ラビットフットだろうとあたりをつけた。彼の運転ならこの素早さも納得がいく。加えてあの車! あのセクシーなボディはたまらない。
もうひとり、狭い後部座席にビスクドールのようにつるりとした肌のかわいらしい女性が乗っているが、彼女はドアを開けずに心配そうにこちらを見ているだけだった。
クルミはKたちと会うのが初めてだった。彼女はKが想像以上にふつうの女性だということに驚いていた。自分がKのことをもっとあからさまに裏世界の住人のような、あるいはもっと男性的な外見をしているものだと無意識のうちに考えていたことをいま初めて自覚した。髪などはこれ以上ないくらいのショートカットで、光沢のあるライダースーツに身を包んでバイクに乗っていそうな。そのことにクルミ自身がかなりショックを受けた。自分はあまり他人のイメージを固定しない人間だと思っていたのに、レズビアンの女性なのに、こと他人の外見にたいして断定的な視線を持っているとは。
あまりにふつう。なのに、一度目に映すと背けられなくなる魅力がある。顔が可愛いとかどうとか、そういった単純な次元ではない。内側をもっと知りたくなる。表面がつるりとしたパンがあったとして、それがクリームパンなのかジャムパンなのかをどうしても知りたくなる欲求と似ていなくもない。
そういえば、以前息子が言っていた。「あんぱんまんって、齧ってみないとあんぱんまんなのかどうかわからないよねえ。きょうクリームが入ってたら? 明日ハンバーグだったら?」彼はけらけら笑いながらジャングルジムをすごい勢いで登っていったのだった。
なるほど。シュレディンガーのあん(ぱん)。
彼女のこともひとくち齧りたくなる。どんな色の中身があふれてくるのか知りたくてたまらなくなる。そういう魅力だ。これ以上見ていたらとてもよくない状態になりそう。クルミは計り知れない力を秘めた女性からなんとか視線を外した。
マリアが軽く手を振り、それをみとめたKが真剣な目つきのままうなづいて、スピードはそのままにこちらへ近づいてきた。スーツの男性がちょっと首を傾けながら人懐こい笑顔を浮かべた。やあ元気? とでも言うように。彼らは合流し、そのまま立ち止まらずに少し歩いて家の中から見えにくいように闇に溶け込み、小声でさっと挨拶をした。
「ラビットフット」とKが親指で男性を示すと、彼は胸の位置に手を挙げて軽い調子で「ハイ」と挨拶した。
Kは、マリアの整った顔立ちの向こうにグレイスを思い浮かべてしまっていた。明るくて楽しくて妹想いのグレイス。ちょっといちゃいちゃしただけだからこそかもしれないけれど、また会いたいと願っている自分がいる。いまなにをしているのか、リアーナと一緒に元気に笑っているのか、マリアに尋ねたい気持ちを抑え、頭を振ってカマロを示した。
「車にいるのがアメリア。気になってると思って」
マリアは当然アメリアのことも聞いていた。Kの属する『警察関係』の組織の、必要とあらば遺体の解剖もする医療班だと。同行してきたということは、怪我人が出る懸念があったのだろうか。ではなぜ一緒にこちらにこないのかがわからなかったが、質問はしなかった。ただうなづき、「マリア」とラビットフットに向けて自身を示したあと、「クルミ」と相棒を紹介した。クルミは緊張していて、展開とそれにふさわしそうな行動が読めずにいるようで、黙ったままかすかに頭を下げただけだった。だれもが堅苦しく振舞うなか、ラビットフットだけが笑顔を絶やさず、クルミにたいしても礼儀正しくうなづきかけた。もしかして彼はイギリス人だろうか、とマリアはなんとなく察した。
「ふたりともありがとう。あとは任せて」Kがにこりともせずに言う。「四番」とも続ける。
マリアはほんの一瞬はっとした表情を浮かべたが、すぐに真顔に戻って理解したことを示すためにすこし顎を引き、クルミを連れて即座に立ち去る。じゅうぶんに距離を取ったころで、クルミが訊く。「なんの番号?」
「ちょっとしたゲームだよ。駅前のスーパーの食品売り場にあるロッカーの番号。いつも振り込まれる報酬のほかに、特別手当をくれたみたい。現場に出てた子たちだけの分をね」
Kとした取り決めの中で、特別ボーナスというのがあり、特別危険を伴う依頼で、その日身体を張ったメンバーにのみ付与されることになっている。とはいえ、使いみちはマリアが決めてしまっていいのだ。その気になれば独り占めすることだってできる。ロッカーの番号を告げられるだけなのだから、仲間に訊かれたときのごまかしようは百通りも思いつける。たとえば、さっさと立ち去れ、の隠語なのだとか。それなのに彼女はKの提案どおりにしていて、これからもそれを覆すつもりなどなかった。
「きょうはそんなに重要な張り込みだったの」
「そうみたい」マリアはクルミの腕に腕を絡めた。「ラッキーだよクルミ。めったにないんだから。ファビアナに感謝してもいいくらいに」
「うれしい。明日のランチを豪華にできるってことね」
「それどころか」マリアがクルミの手を取ってくるりと一回転させた。「今夜のホテルのキャンセル料を払って、マリオットのエステつきプランにグレードアップしても惜しくないくらいだよ」
クルミは立ち止まって目を丸くした。「そんなに? 彼女、何者なの」
「うーん」マリアは人差し指でトントンと下唇をたたいた。「実は、なにをしているのかはよくわからないんだよね。だけど、命をかけても惜しくない相手ってことは確かだよ」
クルミの丸い目が、これ以上ないくらいおおきく見開かれた。「あなたたちの関係って、すんごいクレイジー」
マリアは片頬にえくぼをつくって、でしょう? と眉をあげた。クルミも笑った。マリアの気持ちはよくわかるのだ。自分だって、マリアのために命をかけてもいいと思ってここにいるのだから。
