そこにいるだれかと我らの未来のために【10】

【10】

「知ってのとおり、ジェムはいまお酒のせいで潰れてる。正確にはあんたの、そう遠くない未来の彼氏に潰されたわけだけど」
 マリアたちから譲り受けた場所からラシム・ハラダの家の窓やドアを観察する合間に非難がましい目を向けられて、トレヴァーはさすがに居心地が悪そうに肩をすくめた。
『そう遠くない未来の彼氏』というのがかなり堪えた。自分が微妙な立場だということをまだ忘れるわけにはいかないのだ。クラウスがアメリアの状態を知るために、利用しようとして近づいてくるのかもしれないのだから、ぬか喜びをしたくないというのが本音だ。
 元々、自分が遊びでだれかとつき合うことのできないタイプだということはよくわかっている。これまでの恋愛も、つき合う決意をする頃には相手のことをかなり好きになっていて、とりあえず寝てみてから考えるなどといった軽率なことも、どうしてもできないのだった。トレヴァーにとっては快楽より心の繋がりが重要だが、クラウスが必ずしも同じ考えとは限らない。
 そういった感情を理解してもらえなかったら悲しいかもしれない。ああこれが本音というものか。
「やだ、もう彼のこと好きなのね、ラビットフット」いつのまにか、家ではなくトレヴァーをじっと見上げていたKが目を見開く。
「一目惚れなんてものが、ぼくのなかに存在するとは思ってなかったんだ」トレヴァーは認めた。Kに嘘をついたところで、どうせすぐに見破られるのだ。それにどうやら、いまちょっと自分の感情の話しをしたい気分らしい。「あのまっすぐな目にやられたみたいだ。それに、彼はほら、なんていうか、なんでもありって感じがするだろ。周囲にたいして、壁が……低いっていうかさ」
「ああ、あなたの言ってること、理解できてると思う。続けて」
「もしかしたら、ぼくのことも受け入れてくれそうな、期待みたいなものがある。たとえば、ぼくの面倒臭いところとかを理解してくれそうな」
 アメリアがそうであるように。彼女が男だったら、きっと自分は恋愛対象として好きになっていただろう、とトレヴァーはときどき思うのだ。
 Kはしばらく黙ってトレヴァーを見つめた。まるで目に焼きつけようとするみたいに。いつも周囲にたいして“魅せる”ようにふるまっている彼の、こんなに素直な姿は貴重だったこともあって。
「ねえ、なるようになるよ。そもそもあんたは、不幸になりようがないんだし」
「恋愛だけは例外みたいなんだけどね、これまでの例を鑑みると。それに彼は、一カ月経ったらフランスだかデンマークだかへ行ってしまうんだし」
「距離が問題?」
「問題じゃない。ぼくが本気で望めば距離を失くせるわけだし。ただの言い訳だ」
 トレヴァーは認めた。距離どころか、あらゆる外部からの障害を取り除けるのがトレヴァーなのだ。人の気持ちを動かすことはできないが、システムの面ならどうにでもなる。人間すらも、個々の心ではなくそのときに必要な流れとしてなら、自然と彼の幸運を助けてくれる。
 一方で彼は、案外あっさりとフラれもする。ほんとうにおれのことを好きなのかわからないなどと言われて。浮気をされたこともあるし恋人がいる男に言い寄られたこともあるし、身体だけの関係を迫られたことだって数多くある。自分はそんなに軽薄そうに見えるのだろうかと、断るたびに打ちのめされてきた。その直後に悪態を吐かれたときなどはなおさら。
 断れなさそうだとか誰とでも寝そうだとか、捨てても傷つかなさそうだとかいろいろ理由はあるのだろうが、そうやって外見だけで寄ってくる相手がたくさんいることは紛れもない現実だ。どうせ男を弄んで捨てているんだろう、といった言い方も何度もされた。そんなこと、一度もしたことはないのに。きみといると引け目を感じる、とも。ちゃんと愛情があって向き合ってきたのに。結局のところ、ほんとうの気持ちなどだれにも伝わらなかったのだ。
 うまく伝えられない自分が悪いのか? だけど、きみじゃなきゃ駄目なんだと縋りついたところで、その瞬間、相手の瞳の奥に浮かんだ優越感に嫌悪を抱いたのだから仕方ない。
 彼らの目はこう語っていた。これほどの美形がおれにひれ伏している、と。それでも捨てられたくなくて相手のいいなりになったこともあるが、あれは完全にどうかしていた。失敗だった。ぼくは心で生きていて感情というものがちゃんと存在する。それを明け渡してどうする。
 数回同じことを繰り返し、いまはどれだけ苦しくても去るものを追うのを一切やめた。そしていつしか、人と深くつきあうことが怖くなっていることに気づいた。
 人がトレヴァーと比較して見た目にコンプレックスをもつのは、決して彼自身のせいではない。プライドを満たすために利用されるのはたくさんだった。
 クラウスは、ぼくのどこに惹かれたのだろう。トレヴァーは考える。手の届く範囲にいる同じ性的嗜好を持った“外見のいい”男だからだろうか。これまでの恋愛経験からして、現時点ではそれが最もありそうな理由ではある。でも、まともな人間があれほどまでに愛する妹の親友に簡単に手を出すだろうか。クラウスが、トレヴァーの考える範囲の『まともな人間』だったとしてだけれど。トレヴァーの考えるまともな人間の範囲は、周囲の人々よりかなり広めに設定されているのだけれども。
「人を、ちゃんと好きになりたいんだ。彼のことはもう結構好きなんだけど、もっとちゃんと。K、ぼくは……ああ、なんて言えばいいかわからないよ」
「彼を信じたいんでしょ、わかってる。ほら、いらっしゃい」Kはおおきく腕を広げた。
「え~」
「いいから」
 肩を竦めたトレヴァーは、あたりをさっと見渡してだれもいないことを確認してから、身をかがめてKの腕の中へ入っていって、背中に手を回した。
「トレヴァー・くそったれ・マクドネル、しっかりしな。だいじょうぶ、あんたは魂こそが美しいんだから」
「ありがとうお姉ちゃんビッグシスター
「わたしのほうが年下なんだけどね。念のため教えておくと」
「わかってる。けど、Kはメンバーのだれよりも大人だよ。頼りにしてる」
 仕事の合間に遊び歩いていることを絶対に知られるわけにはいかないな、と思いつつ、Kはトレヴァーの頭を優しくたたいて身体を離した。
 そしてふたたびラシムの家に意識を移す。見える範囲での動きはない。そろそろ近づいて行って、入れるドアや窓を探したほうがいい。あの小型のスーツケースの中身が何であるにせよ、鍵を開けて取り出している頃合いだろうから。
「行こう。準備はいい?」
 首を振って促すと、トレヴァーは目に真剣な光を宿してジャケットの襟元を引っ張った。
「いつでも」
 同時に暗闇を飛び出し、突入するか家の周りをまわってみるかを早足で歩きながら考える。道路を渡っているとき、キッチンの窓にかかったカーテンがすこし開いているのが見えた。そこを目指すようトレヴァーに示して、うなづくのを確認してからK自身は玄関で足を止めて待機した。少女がいるなら、帰ったばかりで油断しているいまのうちに飛び込んでいけるように。地下室や寝室へ連れ込まれてしまう前に。
 トレヴァーは低いブロック塀で身を隠しつつ、カーテンの隙間から中を覗いた。ついでにそっと木枠に触れると、家全体にかなりがたがきているせいでほんのすこしだけ隙間ができた。内部の音を聴き、Kの方向、すなわち玄関のあたりを指さす。
 そこにラシム・ハラダがいるのだ。Kはすこしも音をたてずに、ドアが開いても姿が見えない位置へと移動する。すでに見つかってしまっているとは考えていない。気配を消すために心を虚ろにするやり方を、彼らはデクランから学んでいる。
 ひとり? と指を立てるとトレヴァーは首をひねる。まだ確信は持てないということか。声は聞こえる? と耳を示すと、口の前でバツをしたあと自分の靴を指したので、男はきっと無言で歩いているのだろう。トレヴァーの無駄に手入れの行き届いた美しい人差し指は何度もKの背後を示す。遠ざかって行っている……廊下を横切りリビングへと。そして手のひらをこちらに向けてストップの印をつくる。彼が自分の耳を叩く頃には、Kにもテレビの音が聞こえてきた。
「ひとりみたいに思える」トレヴァーがKの傍に移動して来て、どこの窓からも影が映らないように気をつけながら屈んだ。当然、通りからも見えない位置で。もうぬかるみはほとんど乾いているが、あたりはまだかすかに湿り気を帯びている。それでもトレヴァーは大事な靴も衣服のことも気にせず、汚れた壁に身を寄せた。
「なにも起こってなければいい。だけど、アメリアのためには、なにかが起こってくれていないと困るっていうジレンマを抱えてるわけだね、わたしたちは」
 一度目のときは、はっきりと失敗だとジャッジできるだけの材料がなかったため、有耶無耶になっていた。きっとただの誤報だろう、疲れていて、幻聴が聞こえたのだろうと、皆それぞれに内心のざわめきを抑え込んだ。失敗を認めたくなくて、敢えて深くは追及しなかった。
 いまは、どちらに転ぶにせよ結果は出る。この家の中に入りさえすれば。
 しばらくそのままで様子を窺っていると、ラシムの足音がふたたび遠ざかった。Kは頭のなかで部屋の見取り図を思い浮かべる。寝室のクローゼットを乱暴に開け、閉め切らずに寝室から出てきて、廊下を横切り、キッチンのほうへと歩いている。
 そして、シャワーの水音が強く聞こえてきた。
 つけっぱなしのテレビとシャワーのおかげで、もっと近づいたとしても、こちらの気配は完全に消せる。
「入って確かめよう」
 トレヴァーも同じことを考えていたようで、すぐにそう提案してきた。
「それしかないね」
 Kが答えると、トレヴァーはなぜかウインクをしておおきな笑みを見せた。両手を擦り合わせてまで。
 毎回のことだが、この突入の瞬間が彼にとってはとても楽しみなようなのだ。まるで年末のパーティーのごとく。そしていつもどおりKには、彼が感情と状況の結びつけかたを間違えている気がしてならなかった。
 呆れて首を振りつつ、ドアの隙間を撫でる。鍵がかかっている。もう一度触れて、開錠しようとして失敗する。
 Kのなかにいままでに感じたことのない感覚が煙のように広がる。彼女はそれが恐れと不安が混ざって生じるものだと察するが、起こってしまったことはどうにもならない。恐れは広がり続けてほとんどパニックになりかける。みぞおちが冷たい。あと、首のうしろの頭との境目あたりの一点も、一瞬で凍ったみたいになっている。
「クソ、なんなのよ」
「どうした?」
 トレヴァーが肩越しに覗き込んできて、彼の纏ういつもとかわらない香水のかおりがすこしだけ彼女に癒しをもたらす。
「鍵が開けられない」Kの声は震えている。
「うそだろ?」
「できない。こんなこと初めてだよ」
 鍵開けはKの能力だった。また元どおりに閉じることも同じく。
 物心ついた頃からどんな鍵でも周辺に触れるだけで開けられたし、閉じられた。部屋の鍵もオートロックも、不動産会社からもらったものは使ったことがない。セキュリティの心配があるから、引っ越しのたびに毎回お金を払って変えてはもらっているが、鍵自体持ち歩いてすらおらず部屋に置きっぱなしにしていた。もしものときのために事務所に保管してある一本を除いて。
 例外は、同じパワーを持った別の人間が、鍵ではなくて能力を使って閉めたときには彼女の力は通用しないが、それならば感覚でわかる。今回は違う。これはごく普通の鍵だ。
 そういえば昼間にここへ来たときもすこし手間取った気がした。背後でうるさくしていたボーイズのせいで集中力が途切れたのだと、あっさり流してしまっていたが。
 指先で構造を把握し、ロックの状態を分解/再構築しているのだと漠然と想像していたが、どうやって開けるのかそして閉じているのかは考えることもなくできた。
 それがいま、できなくなっている。
 Kはもう一度やってみた。『やってみる』というのがどういうことかよくわからないけれど、とにかくいつもどおりになるように願いつつやってみた。反応はなし。
「クソ!」
「落ち着いて」
 トレヴァーの両手が肩に置かれる。それでもKは落ち着くことができない。
「無理だよ。これまで何の問題もなくできてたことができなくなってる。いきなり両腕を切り取られたも同然」
「わかった。じゃあ、一旦戻っ……」Kを促し立ち上がりかけたトレヴァーが中腰で固まる。
 たったいま、なかから鍵が開けられた音がして、ラシムが出てくることをKも確信した。いつのまにかシャワーの音も止まっている。
 逃げる時間はない。騒ぎすぎた自分の失態だと舌打ちをする間もなく、あれだけ開けたがっていたドアが、腹立たしいほど簡単に開いた。
「おまえらなにやって……」
「もう会わないなんて言わないでくれ、頼むから!」
 ラシムがしゃべり終えないうちに、トレヴァーがKに縋りついて捲し立てた。いつもの母国の上流階級の話し方を捨て、かなり早口なアメリカ北部あたりのような言葉遣いで。
「おい、なんだってんだ」
「助けて。こいつにつきまとわれてるの」パニックの息切れを利用して、たいした演技も必要なく切羽詰まった雰囲気が出せた。Kはそれから振り返って、トレヴァーをきつく睨む。
「わたしたちはもうずっと前に別れてるんだよ。いい加減に理解してよ」
「やめろやめろ、そんなこと言うな。あんなに愛し合ったのに離れられるわけないだろう。別れてない、ぼくたちは別れてないんだってば!」
 トレヴァーは髪を振り乱し、なさけなく声を張り上げ、耳を塞ぎながら立ち上がって子どものように地団太を踏んだ。気持ちの悪い粘着質のストーカーの出来上がりだ。完成度は、残念なことにかなり高かった。
 彼がもし俳優だったとしたら、この演技でティーンのファンの三分の二は画面から目をそらすことだろう。オスカーの助演男優賞と引き換えに。
 ラシムが、かかわってたまるかとでもいうように胸の位置で両手をあげて一歩下がった。その隙にKが、立ち上がって背後に回ると同時に、ホルスターから抜いた銃を後頭部に突きつけている。
「騒ぐと頭をブチ抜くよ」太い首の後ろのくぼみに銃口を押し当てて、Kは安全装置を外す音を聞かせる。いまのせりふはあまりにも『警察関係』とはかけ離れているな、と内心苦笑しながら。これではまるでジャック・リーチャーだ。
「こんな押し込み強盗は初めてだ」ラシムが怯えた声を出した。
「ぼくのウェールズアクセントはどうだった」
 トレヴァーは膝の部分の汚れを両手で丁寧に払った。それから髪の乱れを直し、ラシムの胸を、ちゃんと断りを入れてから  いいかな?  優しく押しつつ家のなかに入り、ドアを閉めて鍵をかけた。
「新鮮だっただろ」
「冗談でしょ? テキサスあたりかと思ってたのに、まさか出国すらしていなかったなんて」
 トレヴァーはちょっとむっとした表情になった。「アメリカ英語なんてしゃべれないよ。ダブリンあたりの訛りにすればよかったかな。でもあそこの言葉は難解だから、そもそもうまく喋れないかもしれなくて」
「どこの国の発音でもいいから、さっさと盗るもの盗って消えてくれよ!」
「きみにとっては朗報だけど、ぼくらは強盗じゃないんだ」
「そしてこれは悲報だけど、質問への答え次第では、命を失うことになる。お金じゃなくて」
「なんだって?」
「女の子はどこ」Kが訊く。
「なんだ? 待ってくれ、いったいなんの話だ」
「あんたがスーツケースで運んできた子だよ。どこにいる」銃口を左右に振りつつ、Kがラシムを睨みつけた。
「ス、スーツケースに、なんだって?」
「K」
 リビングでスーツケースを開けていたトレヴァーが、神妙な面持ちで首を振った。遠目でもわかる。そこには本や衣服がぎっしりと詰め込まれていて、仔猫すら入る余地はない。女の子を外に出してからまた衣服を詰めたのだろうか。だがKたちがここへ来ることなど知る由もなかったのだから、そんな手間をかける必要はありえない。
 つまりはこういうことだ。Kとトレヴァーは、アメリアの不調を受け入れざるを得なくなった。
「おまえら、わけのわからないことばっか言いやがって」
 ラシムが片膝を立てて立ち上がりかけるが、Kの銃口がそれを押し戻す。彼は再び身を低くして両手をあげた。
「どうする、K」念のためケースの奥まで確認したトレヴァーが、騒がしいテレビをミュートにしてからこちらに戻ってきた。
「考えさせて」
「人の家に押し入りやがって、ただですむと思ってんのか」ラシムは、銃口を警戒しながらそれでもどうにか凄んでみせた。だが声はかなり震えていた。
「黙ってて」
 いままで間違っていたことがなかったから、人違いだった際の身の引き方がわからない。ただでさえ鍵の件のショックが尾を引いているのだ。銃まで出しておいて、通報されずに撤収する方法が思いつかない。逮捕されたとしてもすぐに保釈はされるはずなのだが、今回ばかりは本部に失態が報告されるのは好ましい状況ではない。どちらの味方かがはっきりしないクラウスが日本にいることも邪魔くさい。アメリアのことを両親にたいしてどんなふうに話されるかわかったものではないからだ。
「こうなってくると、いまのぼくらってほんとうの強盗みたいだ」
「そうだね……ちょっと、なんで楽しそうなのよ」
「警察を呼ぶからな」
「ぼくらがその警察……みたいなものなんだ」トレヴァーがささやき声で返した。輝く笑顔のおまけをつけて。
「バッヂを見せろよ」
「黙れってば」
 殴って黙らせようかと思ったとき、玄関のドアが素早く三回、ノックされた。
「ふたりとも、そこにいる?」
「アメリアね。入ってきて!」
 トレヴァーが鍵を開けに玄関へと急いだ。
「今度はだれだよお」
 ラシムが、あげた両腕をそのままに、脇の下からおそるおそる玄関のほうへ視線を遣る。そして入ってきたのが華奢な赤いヒールを履いた小柄な女性だということがわかると、目を丸くして改めて全員を眺めた。彼らの関係性と目的がより一層わからなくなったようで、口を開いたり閉じたりを繰り返している。
 彼の目に映っているのはギャングとサイコパスで、そこへトトを連れていないドロシーが飛び込んできたようなものだった。
「あらら、お取り込み中みたい」アメリアが口元に手を当てて目を丸くした。
「そのとおりだよ」Kがいらいらしながら肩を竦めた。
「だけど女の子、いなかったんでしょ」
 Kはトレヴァーとそっと視線を交わした。「まだわからない」Kの声は、自分自身に言い聞かせるようでもあった。「まだ全部の部屋を探してないし……」
 慰めの言葉をかけられそうな雰囲気を片手をあげて制して、アメリアは小脇に抱えたタブレットを確認した。
「こんばんはミスター・ハラダ。わたしはアメリア。見てわかると思うけど、このなかではあなたの次に非暴力的な人間だから、安心してね。早速だけど、あなた、カーラ・ダグラスを知ってる?」
 初めて耳にする名前に、Kもトレヴァーも首を傾げた。
「カーラ?」ラシムの背中がすっと伸びた。「四年ほど前までつきあってた。いまはもう故郷のミシガンに帰ったはずだが、彼女がどうしたんだ。カーラになにかあったのか」
「彼女にっていうか、彼女の娘さんが、一昨日の夕方に誘拐されたの」そう伝えたときのアメリアは、もうすこしも嬉しそうな顔をしていない。胸を痛め、少女を心から気遣う目になっている。「ほんとうに、残念だわ」
「誘拐ってどういう……いや待て、彼女に娘がいたのか?」彼はもう両腕をおろしていたが、だれも咎めなかった。「なにがどうなってんだ」
「知らなかったのね」
「アメリア、なにが起きてるの」
「車の中で、彼の過去をリサーチしてたの。家族構成はもう知ってるから、女の子が生まれたあたりに彼がつきあってた友人や恋人をSNSから辿っていって、カーラを見つけた。SNS、突然投稿が途切れてたから、つき合ってた人、見つけやすかったよ。そして、声が止まったあたりの時間に解決した誘拐事件を探して、最終的にこれにたどり着いた」
 アメリアはKとトレヴァーにだけ画面が見えるようにした。組織内だけの機密文書のため、外部に漏らすわけにはいかないからだ。しかもアメリアはハッキングしてその書面を見つけているため、殊更注意をする必要があった。ダウンロードなどしてしまったら痕跡を残すことになるし、あまり長く開いてもいられない。
 そこには、ほんの二時間ほど前に、ミシガン州のディアボーンで三歳の女の子が救出されたという内容の報告書があった。
「声が聴こえなくなったってことは、どうにかして助かったんじゃないかって考えて」
「まさか、この子が?」トレヴァーが訊く。
「そうだってことが、いま確信できた」アメリアは、ラシムを見上げてにっこりした。
 ふたりがざっと目をとおしたところで画面を現地のニュース番組の録画に切り替え、何度かチャンネルを変えて顔がよく映っているものを選んだあと一時停止をし、今度はラシムにも見えるように掲げた。
「ミスター・ハラダ、見て」
「カーラ、カーラだ。ちっとも変わってねえ」膝立ちのままにじり寄ると、いとおしそうに画面に指を這わせた。「そして、この子が?」
「救出されたカーラの娘さん……あなたの子よ」
「えっ?」
 アメリアはそこで素早く仲間を振り仰いだ。「この子が日本語と英語の両方で助けを求めてたって言ったこと、覚えてる? カーラさんは父親の母国語も娘に教えてた。わたしは父親を中継して、その子の声を聴いていた。ねえ、これでわたしの能力がどう変化してるのかの説明が、なんとなくつくと思わない?」
「いま、なんて?」
「こっちの話。あなたの子ってのは間違いないよ」
 ニュースではこう紹介されていた。地元警察によって犯人の家の地下室から救出されたのは、カーラ・エリザベス・ダグラスの三歳の娘、サクラ・シム・ダグラス、と。
「サクラ・シム。ラ・シムって、あなたの名前っぽい」
 カーラは明るい髪色にハシバミ色の目をしている。一方サクラはブルネットで、瞳は濃いブラウンだった。アジア系の血を引いていることは間違いない。そして目の形と、尖った上唇がラシムによく似ていた。
 助けを求める少女のシナプスが、脳内を突破してまだ会ったことのない父親の思念を見つけて繋がり、彼を基地局としてアメリアに信号を送ったと仮定する。それはサクラのスーパーパワーのなせる業なのか、アメリアの能力の一部なのかということまでは判別できないが。
 あるいはこれが、人との繋がりということなのかもしれない。
「サクラ・シム! なってこった、間違いなくおれのことだ。カーラはおれを、ときどきシムって呼んだんだ」ラシムは、タブレットにほとんど覆いかぶさるようにして覗き込んだ。その小さな画面からあちら側へくぐって行けると信じているかのように。
「ああ、ニックネーム! そういうことだったの」アメリアが嬉しそうに手を叩いた。
「アメリア、きみって天才」トレヴァーは指を鳴らした。
「昼間、ラビットフットが言ってたでしょ、助けを求めているのはハラダの子どもかもしれないって。あなたの言葉がずっと頭を離れなくて、まずその線を追ってみたの」それから周囲をぐるりと見渡し、Kの持つ銃に視線を留めた。「よかった、暴力的なことになる前に答えが出て」
「よかった、弾を無駄にせずに済んで」Kはほっとして銃の安全装置を戻し、ホルスターへ収めた。それからラシムに向かって呼びかけた。
「彼女と連絡はとってなかったの?」
 ラシムが肩を落として首を振る。「別れて以来、一度も」
「電話してみなよ」トレヴァーが手を差し出してラシムが立ち上がるのを手伝いつつ、頭を傾けてタブレットに映る元・彼女を示した。
「アメリカに帰る日に電話をしたら、携帯はもう解約されてた。SNSのアカウントもブロックされちまってたから、共通の友だちにも連絡先を訊けなかったんだ。その、拒絶されてるんだと思って、ショックで。それにものすごく恥ずかしかった。だんだんみんなとも疎遠になって、いまはこのとおりだ」
 両手を広げて埃っぽくて侘し気な部屋の中を紹介してから、彼はさみしそうに笑った。いや、すくなくとも笑おうとしてがんばってはいた。
「なんで別れたの」Kが訊く。
「あー……ギャンブルだ」ラシムは首を振りつつ呆れるように嗤い、己を恥じてうつむいた。「それに、酒も。くそどうしようもねえよ。暴力を振るったことはない。それだけが救いといえば救いだ。別れられて当然とはいえ」
「だけど、やり直そうとしてるじゃない。あれ、医療関係の本でしょ」アメリアがタブレットを小脇に抱えて、広げられたスーツケースのなかを指さした。
「終末ケアとか、ホスピスとかの本だ。今週初めから、泊りがけで職場体験に行ってた。親と兄は医者だが、おれ自身は医者にはなれなかった。大学の医学部の試験も受けたけど、ぜんぜん駄目だった。頭も足りなかったし、めちゃくちゃ不器用だしな。だけどホスピスの介護士ならもしかしたら……同じAAに通ってる人に紹介してもらったんだ。おれは、力だけはあるからな」
「疑って悪かった」Kが手を差し出した。「今回のことは、完全にわたしたちの勘違いだった」
 ラシムはその手をじっと見つめ、やがて口を尖らせて肩を竦めた。
「いいさ。久しぶりにカーラの姿を見られたし、どうやらおれに娘がいるらしいってわかったし。その子は誘拐されたけど、無事に母親の元へ戻ったわけだしな」そしてKの手をきつく握って、親しみを込めて一度だけ上下させた。「貴重な体験だったぜ。みんなが無事だったから言えるんだけどな」
 手を離したKは両手をあげて後ろへ下がった。それをラシムが撃つ真似をして、やっとましな感じに笑った。
 ラシムは確かに力が強かった。そして過ちを赦すおおきな心もあった。だったら、彼自身も赦されていいはずだ、とKは思う。どこかで、目には目を、と怒りをぶつけあう者がいるなら、ここでは赦しには赦しを、と唱えてもいいだろう。
「あんたたちが何者なのかなんて、おれは知らないほうがいいんだろ?」
「そう考えてもらえると、すごく助かるよ」トレヴァーが胸に手を当てた。
「ねえ」アメリアが笑顔でラシムを見上げた。「あなたの名前を娘につけたんだよ。拒絶されてるとは思えない。すくなくとも、まったくなにもかもがノーってわけじゃないんじゃないかな」
 それを聞いたラシムが、目を細めつつ下唇をつき出した。両手をもそもそとポケットに突っ込み、肩をゆっくりと上下させる。「ありがとう」なんと答えていいかわからず、彼はやっとのことでそうつぶやいた。
 そうだ。連絡を取る手段はいくらでもある。彼女の実家へ遊びに行ったこともあるのだ。自分が変わったことを証明できれば、また彼女に会えるかもしれない。ひょっとすると、娘にも。
 なんてことだ、おれに娘が。
 人生をやり直そうとした矢先に、とんでもないサプライズだ。カーラがおれの子どもを産んでくれていたなんて。妊娠を知らされなかったことは理解できた。先月までのラシムは悪影響の塊だったと、自分自身よくわかっている。
 いますぐ彼女の元へ行って、恐ろしい想いをした娘を、そしてカーラを、思い切り抱きしめたかった。だけどまずは、新しく仕事を始めるのだ。そのあいだに連絡を取って話し合おう。受け入れてもらえるまで、どれだけ時間がかかってもいい。
「ありがとう」
 Kたちが彼の家をあとにするときにも、ラシムはかすれた声でもう一度そう言った。なにもない床の一点を、顔を真っ赤にしてじっと見つめながら。
 
「遺伝子がもつれてるって感じ」車に乗り込むなり、アメリアが腕組みをして唸った。「なんでこんなことになってるんだろ。これじゃ、被害者の居場所を見つけるまでに時間がかかりすぎちゃうじゃない。今回はいろんな意味でうまく納まってよかったけど、声を聞いてるわたしが助けられないと意味がないでしょ。日本からアメリカに駆けつけるわけにもいかないし」
「アメリアだけじゃないよ」帰りの運転もトレヴァーに任せ、助手席に納まったKが後部座席を振り返った。視界の端にとっくに閉店しているアイスクリームショップが映って、自動的にチョコミントの味が思い出される。「さっきはっきりわかったんだけど、わたしの鍵開けの能力はまったく使えなくなってた」
「嘘でしょ」Kの肩に置かれたアメリアの指先はかすかに震えていた。「わたしたちになにが起こってるの? だって、ミシガン州を対応したアメリカの支局  シカゴあたりかなあ  はちゃんと機能してる。あっちはちゃんとサクラ本人の声を聴き分けていた。わたしみたいに、伝達じゃなくて。わたしたちの周りが、“heard Japan”だけがおかしいってことよね。なんでなの?」
 まったくわけがわからないから、Kもトレヴァーもなにも答えられない。ふたりとも口ごもり、結局、頼もしい意見はひとつも出せなかった。どちらも能力の仕組みを追及することについては、それほど熱心ではないということもあって。
「ひとついいことは、前に失敗したと思っていた子も、どこかの支局で助けられてる可能性があるってことだよね。日本にルーツのある子が救出された報告があるかどうか、後で調べて安心しようよ」Kは明るい面に目を向けた。
「うん、そうね……ほんとうによかった。なにかが少しずつおかしい感じだけど、どこかでちゃんと解決してるなら、一応は安心できる」それでもやはり、自分でどうにか関わりたいという気持ちが声に滲んでしまった。
「原因と対策を早いところどうにかしたいけど。ねえ、リタから連絡は?」Kがトレヴァーに訊く。
「なにも。いや、あるにはあった。今回の事態に関して、デクランと連絡を取ったっていう報告だけが、メールで」
 つまり、進展はなし。
「もうひとつ、不可解なことがある」トレヴァーが指を立て、バックミラーも使ってふたりに視線を送る。
「まだなにかあるっていうの?」Kは、もうこれ以上の面倒ごとはやめにしてもらいたいんだけど、という態度を隠さなかった。
「ぼくの幸運ラックにまったく影響がないってこと。行きの運転を体験しただろ? 信号が青なのは言うまでもなく、こんな飛ばし屋の多い時間帯に、五車線をほとんどドリフト走行で走り抜けて無事だなんて、ラビットフットじゃなきゃありえない。トレヴァーのほうじゃなくて」
「それは……」Kは口をあけたまま、アメリアと顔を見合わせる。だれも一度も口にしたことはなかったけれど、だれもが内心思っていたことだ。「わかってなかったの?」
「どういうこと、K、なにか仮説がある?」
「仮説じゃなくて確信なんだけど、あんたの幸運は能力じゃなくて、あんた自身のものだってことなら、ずっと思ってた」
「わたしもそう。“ラビットフット”はトレヴァーのオプションじゃなくて、あなたそのものだって、ずっと感じてた。それについて話したことはないけど、きっとほかのみんなも同じ意見のはずよ」
「なんだって!?」勢いよく振り返ったせいでステアリングがぐらつき、車体がおおきく蛇行した。
「前見て、前」アメリアが身を乗り出して、トレヴァーの頭を両手で以て正面に向かせた。「やだ、すごい汗。言っちゃいけないことだったかなあ、これ。種明かししたら失われちゃったりしない?」
「これしきのことでブレないでしょ。それに、負債はジェムと、トレヴァー自身のこれまでの恋愛経験がすべて請け負ってるから」生まれたときの経験も、とはさすがに口にできなかった。「どっちかっていうと、気の流れに近いんじゃないの。逆に多く払い過ぎた分を返してもらってるのかもしれないし、わたしたちにも還元されてるから、人助けにもなってるし」ダッシュボードからウエットティッシュを取り出しながら、Kが肩を竦めた。
「あっわたしもそう思ってた~。気が合うねえ」Kからもらったウエットティッシュで手を拭きながら、アメリアがくすくす笑った。
 それなら、クラウスとのことはあまり期待しないほうがいいな、とトレヴァーは唇を噛んだ。そして、まず彼のことが浮かぶなんてどうかしてる、と自分自身にがっかりした。
 自分はこの“能力”のおかげでいまここにいるのだと信じていた。それがじつは自分自身を取り巻く自然現象だったということは、彼の心には重く響きすぎた。トレヴァーはラビットフットを演じているつもりでいたのだ。それがまさか、自分がすべて丸出しになっていたなんて。これが己だったとは。
 というより、自分とはなんなのだ。アイデンティティはどこにあるのか。
  “heard”にスカウトされたのは、“ラビットフット”以外の理由があってのことなのか。
 ぼくは、いったいだれなんだ?
 ステアリングを握る手にべったり汗をかいて、視界がちかちか点滅しているようになっている。青信号の続く、見える限りほかに車が走っていない道をなめらかに走行しながら、トレヴァーはほとんど震えていた。試しに街路樹へ突っ込んでいったらどうなるだろう。いまはだめだ。どうしてもやりたいのならひとりのときに実験するしかない。
 いや、ばかなことを考えるのはやめてとりあえず寝よう。ふたりを無事送り届けて、必要ならば明日は午前中有休を取って、なにもかも忘れて死んだように寝よう。
 いまできることはそれしかない。


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