そこにいるだれかと我らの未来のために【11】

【11】

 なんとなく、エレベーターは使わずに階段で一階まで降りて、フロントの女性の前を、入ってきたときと同様顔を伏せて通り過ぎビルの外に出ると、あたりはもう夜明けのオレンジと薄灰色に染まっていた。深夜にアスファルトに留まった湿った空気を、冷たい風がかき混ぜていく。
 昨日、カウンセリングを受けたあと、同じフロア内に設けられた部屋に宿泊した。早朝に目を覚まして、カフェスペースで紅茶と軽い朝食を摂っているときにデクランが来て、じっくりとイザベルの様子を見たのち、帰宅を許されたのだった。
 消えてはいないが、とりあえずは、弟という症状が出ないはずだと判断された。
 不安はないけど、完全に消えてはいないんだ、とデクランは、口調こそ軽かったが、念を押すように指を立てていた。少しでもおかしなことが起こったら遠慮せずここへ戻るんだよ、とも言われた。自分が不在でも、受付に話をとおしておいてすぐに駆けつけるからね、とあの優しいまなざしと共に。
 イザベルは急に寒気を覚え、もう一度ビルの中へ取って返そうと、身体半分くらい振り返った。もう一度デクランと話したかった。なにを話せばいいかわからないが、とにかくまだ一緒にいてほしかった。
 自分の心が弱いのだろうか。あれだけ弟に支配されてきたのに、いざ自由を得たら、不安になってしまうなんて。いや、支配されてきたからこそ、ひとりではなにもできないと思い込んでしまっているということか。行動に自信も確信もないのだ。リョウヘイのふるまいを思い出して、相対的に動くことしかできない。
『なんでそんな色を選ぶんだイザベル、こっちにしなよ』
『そんなこともできないのかイザベル。ぼくが言ってることが理解できない? そんなに難しいことはお願いしてないんだけど』
『黙ってぼくの言うことをきけばいいんだ』
 散々虐げられてきたイザベルは、すっかり彼の思うがままの人間になってしまって、いざ好きなように動けることになってもなにもしたいことが浮かばない。
 悔しくて仕方ない。どちらの方向へ歩いていけばいいかすらわからない。家に帰りたくないということだけははっきりしているけれど、それでも夜が更ける前に戻ってしまうだろうことはわかっていた。そうすることしかできないのだ。自分の居場所はあそこしかない。たとえ居たくなかったとしても。リョウヘイのことをより愛していることを隠そうともしない両親が、イザベルのことをすこしも気にかけない虚しさに耐えることになろうとも。
 わたしは、この身体を動かすことをやめるわけにはいかない。まだ。
 フロントの女性が気づかわしい笑顔でこちらを見ている。イザベルは、帰るときにデクランが言ったことを記憶から引っ張り出した。
「たとえ離れていても、ぼくがついてるからねイザベル。すこし外を歩いてみるんだ。景色を見て、カフェにでも入って、ひとりの時間がどんなものか知ってみるといい」
 外を、歩く。
 これまで歩いていたとき、傍にはいつも弟がいた。そこにいなくても、気配を感じた。だけどいまは、ふたりのあいだには距離がある。なにしろ片方は死んでいるのだから。とにかく一旦、ここを離れよう。
 イザベルはフロントの女性にぎこちなく笑みを返して、ゆっくりとターンしたときにつま先の向いた方向へと、そっと歩き出した。
 ひとりだ。まだ、ひとりだ。涙が出そうになって、すこしだけ両手で顔を覆った。熱い吐息を吐き出し、新鮮な感覚が胸を満たしていくのを感じる。ひとりだ、ひとりでいられてる。靴音がアスファルトを叩く音がひとつしかない。あとは聞きなれない他人のリズムだけで、そこに自分だけの足音が絡まっては解けてお互い遠ざかっていく。かかわりとも呼べないくらいのささやかなすれ違いが心地よかった。目の前の信号が赤に変わろうとしていて、停まろうかと思ったがこのリズムを崩すのが惜しかったので、横断歩道は渡らずにビルの角を曲がって更に歩き続けた。
 これから出勤するらしい急ぎ足の人を避ける。すれ違う。ショウウィンドウを横目で眺める。あちこちに顔を向けてみる。こんなにきょろきょろしているせいで、ときおり人に怪訝な顔をされたが、それすら嬉しかった。ささやかな自由を感じた。だって、自分で判断して行動した結果なのだから。
『あの男、こっちを見て笑ってる。イザベルが変な歩き方をしてるからだよ』
 彼の見栄と嫌がらせのためにサイズの小さなロングスカートを買わされて、歩くのも苦労していたときにそう揶揄われた。『ぼくも両親も、一緒に歩いてて恥ずかしいから、痩せなよみっともない』とも。
 駄目だ。過去を思い出してはいけない。リアルにリョウヘイの声が浮かんできたような気がして、恐怖にかられた。つられて早足になってしまい、逃げるように次の角を曲がる。呼吸が乱れ、そこに別の呼吸が重なって聞こえる。
『ひとりでどこへいくんだいイザベル』
 イザベルは悲鳴を飲み込んで走り出した。次の角を曲がって、もう一回曲がればカウンセリングを受けたビルの通りに出られる。デクランがまだいるはずだ。彼に会いたい。でも同じくらい、もうこれ以上会ってはいけないとも感じた。
『きみはまた誰かに依存するわけだ。相手がぼくじゃなくなっただけで』
 依存? そうじゃない。あんたを完全に消してもらいたいだけ。
『ぼくは消えたりしない。そう言ったろ? ぼくが消えるまでさっきのあいつにつきまとう気かい? またそうやって、みんなに迷惑をかけるわけだ』
 うるさい。消えろ、消えてよ。
 あとすこし、その角を曲がればビルの前に出られる。リョウヘイから解放される。
 でも、やっぱり……
 イザベルの歩みは唐突にゆっくりになった。
 彼女は弟にただ消えてほしいのではなく、自分の気持ちをわかってもらいたかった。いままで彼が姉にたいしてやってきたことを、ほんのすこしでいいから申し訳なかったと感じてくれたらいいと願っていた。
 ほんとうは、自分の心が解放されるよりもまず、彼に己の中の悪と向き合わせて、罪を認めさせたい。
 その願いを叶えるのに、デクランの存在は助けになってくれるのだろうか。
 急にスピードの落ちたイザベルにぶつかりそうになった男が、追い越しざまにこちらを睨む。その目が一気に真っ赤になり、血がほとばしった。彼は悲鳴を上げて両目を押さえてくずおれた。
 イザベルは、完全に脚を止めかけたが、男の泣き叫ぶ姿が恐ろしくて避けて走り去るしかなかった。すこし進むと今度は女性とすれ違った。自分と同じアジア系の少女で、うずくまる男性に駆け寄ろうとした途端、制御の利かないヘリコプターのように高く飛び上がってから、急激に失速して地面にたたきつけられた。
 なにが起こっているの?
『能力の暴走だ』リョウヘイの声が可笑しそうに震える。『ぼくが傍にいないと、いつもみんなに迷惑をかけるんだから』
「あたしのせいなの? これ、あたしがしてるの?」
『きみのせいだ。きみがぼくを殺したせいで、おかしな能力が目覚めたんだ』
「違う! あたしはあんたを殺してない!」
『きみが殺した。近所の猫を痛めつけたのも、ウサギを池に沈めたのも、みんなきみのせいだ』
「そんなことするわけない! あたしは……」なんと言おうとしたのか、ふと頭が空白になった。「あたしは……?」リョウヘイがこれまで以上に近くにいるような、もう二度と会えないところに行ってしまったことを初めて自覚したような、ちぐはぐな気分が空白のなかにいくつか浮かんでいた。「そんなこと……してない」ぼんやりとしたまま呟き、彼の言葉(それとも脳内で自分自身を責めているだけ?)を振り切りたくてイザベルは最後の角を勢いよく曲がった。浮かんでくる言葉が。イザベルのものなのかリョウヘイなのかがわからくなりそうで、怖かったのだ。まったく周囲に気をつけていなかったせいで、急に目の前に現れた人物を避けることができなかった。
「おい、危ねえぞ」
 イザベルを抱きとめた男性は、怒りよりも驚きで目を見開いていて、次の瞬間には心配そうに眉を顰めた。「だいじょうぶか? 真っ青だぞ」
 けれどイザベルには男の顔色こそが心配になるほど真っ白に見えた。彼もなんらかの能力を持っていて、いまにもそれが暴走して、爆発してしまいそうでもあった。
「あたしから離れて」
 咄嗟に距離を取ったが、男の顔色は相変わらずよくないまま、しかしなにも起こらないようだった。きっとスーパーパワーの持ち主ではないのだ。ただ顔色がとても悪いというだけで。
「ぶつかってごめんなさい」イザベルは急いで頭を下げてふたたびビルを目指そうとしたが、あちこちで上がる悲鳴にふと我に返った。
「なにが起こってるんだ」アップルグリーンに染められた髪に指を突っ込みながら、男があたりを見渡した。
「能力の暴走」イザベルが呟く。
「なんだって?」
 勢いよく振り向いた男は、一瞬なにか言葉を発するのを留めたような間を持ったあと、突然上体を曲げてその場に激しく嘔吐した。イザベルが悲鳴を上げて飛び退くと、彼は手先で謝ってから顔を背け、植え込みに向かってもう一度吐いた。
「嘘でしょ、あなたも?」
「違うんだ」タトゥーだらけの手の甲で口元を拭い、男が喘いだ。「おれのはただの二日酔い」
「二日酔い」
「の、特別酷いやつ」
「そうなんだ……」
 男は両手を膝にあて、ゆっくりと呼吸を整えた。合間に、「あの悪魔」や「寒い国から来たやつ半端ねえ」などといった悪態を差し挟みながら。
「おれはなにもかも話しちまった気がする。仕事のことじゃなく、ある女性のことを。しかも話した相手はその子の兄貴だ。それってまずいよな」
「ええと、あたしに訊いてるの?」
 男はふとこちらに視線を向け、目の前にいるのがティーンの女の子らしいということをしっかりと認識したらしく、両手で顔を覆ってその場で回転しながら、自分自身に悪態をつきはじめた。
「あーくそ、頭が働かねえ。悪いんだけど、水かタブレット持ってるか?」
 イザベルはバッグから未開封のペットボトルを取り出して渡した。カウンセリング開始前にフロントでもらったが飲まなかったものだ。男は水をひとくち含んで口をゆすいで吐き出し、今度はごくごくと勢いよく飲んだ。それからラベルに気づいてちょっと眺めていた。そこにはなにか文章が書いてあるわけではなく、笑顔のお日様とお月様が細い手を繋いでいるイラストが描かれているだけだった。それとリサイクルマーク。宣伝用に配布しているのかとイザベルは思っていたが、イラスト以外にはなにも、電話番号すら書かれていない。
「デクランに会った?」唇にほんのすこし色を取り戻した男の目が、心なしか鋭くなった。
「彼を知ってるの?」
 男はそれには答えず、イザベルの背後をちらりと見やって、またペットボトルに意識を向けた。
「これ、デクランの娘さんが描いた絵をラベルに使ってるんだ」
「へえ、そうなんだ」
「ああ」それからなにか考えている様子でぐるりとあたりに首を巡らせ、イザベルにうなづきかけた。「事情はわかった。たぶん」
「そう?」
「ああ」
 男はまたイザベルの背後を見た。今度は見たというより、睨んだ感じだった。目を合わせていない彼女ですら委縮するくらいの強い視線で。
 イザベルは、胸の奥から絶望に近い感情が沸きあがってくるのを感じた。もう間違えようがない。リョウヘイがそこにいるのだ。声だけでなく、とうとう姿を現したのだ。
「そういうことなら、一緒に行くか」男の目つきが和らぎ、一変気楽な様子でイザベルに微笑みかけた。
「どこへ?」
 男は上を指さした。正確には、ふたりの隣に佇むビルの中、デクランのカウンセリングルームの方向を。
「おれはジェイミー。デクランの仕事仲間だ。問題なければジェムと呼んでくれ」
「あ、あたしはイザベル。よろしく、ジェム」
 そのとき、サイレンを鳴らした救急車と消防車、無音のパトカーが先を争って場所取りをするみたいに通りの向こうに停まった。パトカーから制服警官が降りてきて、イザベルとジェイミーに手をあげてみせた。この混乱の原因を知っているか、と訊きたげに。ジェイミーがイザベルを庇うように前に立つと、青っぽいグレーのセダンが道路の真ん中に急停止した。そして、濃紺のスーツを着た五〇代くらいのアジア人女性が素早く降りてきてあいだに入った。彼女は化粧をしておらず、眉を両方ともと、薄いパープルのショートカットの左側の髪を剃りあげていて、そこに日本の陰陽と似ているがすこしちがう文様が描かれている。
「いい柄だ」ジェイミーは考えるより先に彼女の頭へとうなづきかけていた。
「ありがとう。あなたのハチドリも素敵ね」女性はすこし驚いたようだったが、丁寧に続けた。「夫がマオリの人で、これは彼らのシンボルのひとつなの。このスタイルはわたしの趣味だけど」
「よく似合ってる」彼は一目で彼女のスタイルが気に入っていた。なるほど、頭皮に彫るという選択肢がまだ残っていたか、とも思った。
「わたしは県警のヨシザワ。ここはあなたの管轄、ミスター?」
 名前は呼ばれなかったが、明らかにジェイミーがだれだか知っている様子だったため、彼は素直にうなづいた。「そうだ」答えながら、そういえばリタからヨシザワという名前を聞いたことがあることが記憶の奥底から甦ってきた。リリ・ヨシザワだ。県警の殺人何課だったかのトップだったはずだ。それならば当然、“heard Japan”の内情を把握している。
「怪我人だけ搬送するわ。それでいい?」
「ああ」
「その人はだいじょうぶ?」
「おれの連れだ。彼女は偶々居合わせただけだから、問題ない」
 警察の登場にすっかり怯えたイザベルには、ジェイミーの視線が頼もしかった。
 ヨシザワはイザベルをじっと見つめ、その視線を慎重にジェイミーに移した。「わかった。あなたに任せる」
「ありがとう」
 ヨシザワは消防隊と救急隊にそれぞれ指示を出し、パトカーを撤退させた。最後にもう一度ジェイミーたちにうなづきかけると、自身も車に乗り込んだ。
 イザベルは何度か彼女の視線を感じながら、ジェイミーに促されてビルへと急いだ。彼女は能力者を識別する能力を持っているのかもしれないと感じた。当然リョウヘイのことも見えている。ここで起こったことを予測されないうちに、たとえ主導権がこちらにあるとしてもさっさと姿を消したほうがいい。
「ねえ、あなたっていったい……」イザベルはジェイミーを見あげる。
「きみはなにも知らないほうがいい」ジェイミーは答えた。「信じてくれ」
 
「これはまた、興味深い組み合わせだ」
 ドアを開けて廊下に佇むふたりの姿を交互に見やったあと、デクランは心底楽しそうに顔を輝かせた。
「デクランごめんなさい。また彼が」イザベルはまだ背後にいるであろう弟の気配を感じつつ、シャツの袖を両手で握りしめた。
「そうか、思い浮かべてしまったか。シロクマ理論ってあるよね。思い浮かべてはいけないと言うと余計頭から離れなくなるってやつ。だから敢えて気楽な感じで別れたんだけどね。あれ、青いゾウだっけか……まあいいや。どうぞ」
 キムきょうだいを先に部屋にとおしたあと、彼はジェイミーにほほえみかけた。空っぽになったペットボトルをちらりと見て、顔色を覗き込んで、天を仰ぐしぐさで少々の非難を示す。「きみはあっちだ」と、カウンセリングルームの奥の方にあるプライベートスペースを指した。そちらには、ミニキッチンのほかにバスルームもある。「タオルと新しい歯ブラシは脱衣所、アスピリンは冷蔵庫の上の棚にある。ベッドルームは入室禁止だよ。吐くならトイレでどうぞ」
「どうも」
「ところで、間違いないね?」デクランは、ジェイミーが横を通り過ぎようとしたときに小声で訊いた。
「間違いない」ジェイミーは頭痛を堪えてうなづいた。全身からアルコールのにおいを発しながら。「それに、気づいてると思うけど、外がおかしなことになってた」
「ふうん」デクランはしばし、宇宙の外側の音を聞き分けるみたいに耳を澄ませて、なにかのあちら側を上から覗き込むしぐさをした。「きみの領分だったか」
「おれたちふたりの、だろ。おれは確かめるために二日酔いの身体を引きずってここへ……」ジェイミーは「二日酔い」という言葉によって引き起こされた吐き気を力づくで抑え込んだ。「とにかく、触れるまでもない。絶対に確実だから」
「頼りになるなあ相棒デュード。シャワーも使っていいよ」
「助かる。じつはあんたから連絡をもらうまで寝てたんだ。ほとんど死んでたといってもいいな。半分……いや半分以上、殺されてたんだ」ジェイミーは真剣な顔でひとりうなづくと、痛む頭と胃の不快感を抱えてふらふらと奥へ消えていった。
「なにがあったんだか」デクランは肩を竦めるしかなかった。
「あたしはとんでもない馬鹿だね」おおきなソファの前で身をひるがえし、イザベルはデクランに向かって素早く両手を広げてみせた。
「いやいや、これは完全にぼくのせいだ」
「いやきみのせいだよイザベル。きみが愚かにもこんなところへ来たせいで能力の暴走まで起こしたんだ。どう責任を……ぐっ」
 リョウヘイが急に顔を覆って前のめりになった。イザベルが振り向くと、口を失ったリョウヘイが目を白黒させていて、彼女は短くかすれた悲鳴をあげた。
「きみは黙っていてくれ。ぼくはいま、イザベルと話してるんだ」
「これ、これって、なんで……」リョウヘイの姿に怯えたイザベルが、弟から離れてデクランに近づこうとしてふと動きを止める。
 いまはちょっと、どっちも怖いかもしれない。
「だいじょうぶだよ。ぼくは実態のないものにたいしてだけ、、は結構強いんだ。正体がわかれば対処法もはっきりする。触ることはできないが、魂を精神としてだけ見れば、こんなふうに簡単な影響を及ぼすことはできる。さあ、座って」イザベルをおおきなソファに導くと、彼女はまだ信用できないといったふうに、隅っこに丸まって座った。
 頬とおなじくらい滑らかになった口元をひっかきながら右往左往していたリョウヘイは、やがて諦めたらしくひとりがけのソファにどかっと腰をおろしてデクランをじっとりと睨みつけた。視線の力で火をつけられるならそうしていただろう。幸い、デクランにとっては非難の視線など痛くもかゆくもない。
「魂だとはいえ、なかなかつらいだろ。おとなしくしてるなら元に戻してやってもいいけど……ああ、必要ない? じゃあもうすこしそのままでいてくれ」
「魂って、やっぱり……幽霊ってこと?」
「そうであって、そうではない。幽霊というものは存在せず、魂が循環する。悪さをするのは魂に刻み込まれた強い記憶。死者は見られたいように成り果てるだけだ。まあ、単なる戯言だよ。聞き流してくれてかまわない」
「魂の……強い……」イザベルはしばらく動きをとめて、彼の言葉が身体中に染み込むのを待った。「じゃあ、もしあたしがリョウヘイをいいやつだって思ってたとしたら、彼はこんなふうに現れなかった。守護霊みたいな感じになってたってことだね」
「きみと話すのはほんとうに楽しいなあ。だったらわかるはずだけど、つらい思いをしたのはきみのほうなんだ。いいやつだって思えたかい?」
「無理ね」イザベルは首を振って即答した。
「だよね」デクランは片眉をあげた。「彼はちゃんとした霊体だ。つまり魂だね。きみの妄想の産物ではなく」
「そうなの?」
「ジェムは警戒してただろ。まるでドアの隙間から外の気配を窺う猫さながらに」
 エレベーターの中では背中をぴったりと壁につけ、リョウヘイをずっと視界に入れておきたそうにしていたジェイミーの姿を思い浮かべた。「そのとおりだったけど、それがなにか?」
「詳しい説明は省くけど、彼はぼく以上に選り分けが得意なんだ。そしてこれは余談だけど」デクランは小声で言った。「彼は霊が怖い」ウインクをして先を続ける。「いったいどんなふうに見えてるのか、訊いても教えてくれないんだけどね。力を貸してもらおうと思って呼んだけど、ひどい二日酔いみたいだね。偶然出会ってくれていてほんとうによかった。彼をきみの家へ派遣する手間が省けたよ……よし、じゃあ」デクランは音を立てて両手を合わせた。「問題の解決に向けて、またすこし時間をもらうとするか。今回の料金はサービスでいいよ。ぼくのせいだし」
「ありがとう。それでどうするの。彼を、祓うの?」
「きみたちのバランスが崩れたときの周りへの影響も気になるから、できれば強引なことは避けたい。ぼくが得意なのは、心に癒しをもたらすことだけだから、まずはそれをやってみよう」
「待って、あなたのその能力は無事なの? 外はひどいことになってたよ」
 救急車のサイレンの音に耳を傾けながら、イザベルは窓のほうに手を振った。
 どの程度の範囲に影響が出ているのかはわからないが、この現象に自分がかかわっていることは間違いないと彼女は確信していた。いままでは、なんの能力も持っていないと信じて疑わなかったのに。
「あたしは……あたしたちは、なんでこんなことになっちゃったんだろう」
「リョウヘイの支配欲がきみの潜在能力に影響を及ぼしたんだろうね」デクランはソファの、イザベルとは反対側の端っこ、リョウヘイのこともちゃんと視界に入る場所に腰をおろし、優しく語りかけた。「きっときみは、創造する力が突出してるんだろう。それを弟に潰されてきて、彼が死んだあと、反動で溢れ出てしまったんだろうね」
 リョウヘイが呆れたように視線を天井に向け、両腕を広げた。デクランはそれを完全に無視した。
「創造どころか、あたし、人を壊しちゃってる」
「暴走してるのはいまだけだ。ちゃんとバランスが取れるようになるから、心配しなくていいよ。さっき、ぼくの能力はどうなのかって訊いたよね」
「うん」イザベルは洟をすすってうなづいた。
「ぼくのなかのある部分はものすごく荒れてる。そこだけハリケーンが到来したみたいにね。だけどぼくは、それを切り離すことができる」
 デクランの内部に、彼女の能力に引き摺られて暴れ出した部分が確かにあった。だが彼はそれが全身に影響を及ぼす前に分離させて閉じ込めていた。他人の心となると難しいが、自分の内部はほとんど知り尽くしている。それでも影響を消してしまうことができないのは、イザベルの力が相当強いせいだ。
 能力の暴走はだいたい自らを破壊することが多いのに、他人の能力を引っ掻き回すことができるということは、かなりのパワーだ。昔世界的なニュースになったスウェーデンの事例にも似ている。彼女をひとりで外へ出したのは完全に失敗だった。まだ早すぎたのだ。
 霊体とスーパーパワーの融合の案件というのも厄介だ。もはや彼ひとりで解決できる問題ではないため、ジェイミーの存在がありがたかった。どうやら酒に半分殺されてしまっているらしい状態とはいえ。
 とりあえずイザベルの意識を弟から逸らして、それからどうにか威力を弱めてやらないと、このままではそのうち死者が出る。
「癒すことは、じつはだれにでもできるんだよ。ぼくはほかの人よりちょっと深入りできるだけで、スーパーパワーでもなんでもない。やりかたはそれぞれだけど、ぼくの場合は、相手の心の動きとぼくのイマジネーションを合わせて……」デクランは、イザベルの手を開いてそこに自分のてのひらを、くっつけずにただ向かい合わせた。
 こんなに距離があるのに、彼女には彼の手のあたたかさが伝わり、彼には彼女のどうしようもない悲しみが流れ込んできた。
 イザベルがふたりの手のあいだに、緩慢に視線を行き来させる。
デクランは彼女にほほえみかけた。「この手はイメージだけどね」彼は前に向けたてのひらの向きを、何度かゆっくりと変えてみせた。虫眼鏡でつくる光の角度を調整するみたいに。「ぼくと相手にとってのちょうどいい角度に合わさると……気持ちが、理解できる」ちょうどいい角度に合わさると、デクランはすべての指を、気さくに挨拶するように動かして見せた。
 ぼくはここにいて、ちゃんときみのことがみえているんだよ、と合図を送るように。
 それだけでイザベルは、なにも心配することはないのだと無条件で信じられるほどのおおきな抱擁を受けた気がした。
 そして彼女は、自分がずっと受けてきた苦しみをだれかに理解してほしかったのだということがわかった。
「きみの強さが伝わってくる」デクランは軽い身のこなしでソファから立ち上がり、今度は床に胡坐をかいてイザベルを見上げた。「強すぎるくらい強かった。だから耐えることができてしまったんだ。いままでよくがんばったね、イザベル。大変だっただろ」
 そうだよ、あたし大変だったんだよ。
 彼女は、自分がものすごくがんばって耐えてきてしまったこと、それがいかにつらかったかを、いま初めて客観的にみることができた。
 イザベルは自分自身に腕を巻きつけた。「大変だった……うん、もう、すごく大変だった」彼女はぽろぽろと涙を流した。ようやく自分のために。
 デクランはうなづいて、テーブルの真ん中にあったティッシュボックスを彼女の隣に置いた。イザベルには、ちゃんと自分をいたわり、癒す自己治癒力がある。過去の自分のために流す涙も。
 デクランは、このとき彼らの癒着が剥がれたことを理解した。まだお互いのなかには存在しているが、ぴったり張りついた部分が浮き上がったのを感知した。
 いまを逃すと時間はあまりないかもしれない。おおよそ“時間”と呼べるものすらももしかしたら。デクランの意識は床から立ち上がり、イザベルとリョウヘイのあいだに立ちはだかった。これが一時的な措置。そこに、リョウヘイに気づかれる前に静かに壁を築く。意識だけの自分の姿はだれかに  霊体にさえも  見えるわけではないから、滞りなく完了した。
 ステップ3へ進もうとしたそのとき、リョウヘイがデクランのつくった壁であるところの、陽炎のような空間の揺らぎに気づいて突進してきた。しかし彼にはもうイザベルの側へ戻る手立てはない。デクランの本体は、突然恐ろしい形相で立ち上がった弟への恐怖と驚きでパニックを起こしかけているイザベルを宥め、意識のほうは、壁をとおしての自身への衝撃に備えるだけでよかった。彼は魂に触れることができないが、魂のほうが全力を出してぶつかってくれば、内臓を揺さぶられるおぞましい感覚に襲われる。こちらが負けてしまうと、憑りつきたい相手にしがみついて、また離れなくなる。イザベルの心に強固なバリアを作るまでのあいだ、この壁を守ることが最重要課題だ。
 しかし、難しいことでもない。多少気持ちの悪い想いをするだけで。デクランの意識は、リョウヘイからの攻撃に耐えるべく構えた。
 そのとき、プライベートルームのドアが開いて、腰にタオルを巻いただけの姿のジェイミーがすごい勢いで飛び出してきた。
 彼はたったいまシャワーを浴びたばかりで、きょう着られる服を求めて顔だけ出してデクランを呼ぼうと思ったのだ。昨日から着ていたシャツは、顔を近づけただけで吐き気を催したせいで。しかしあまりに間が悪かった。飲んだばかりのアスピリンはまだ効いておらず、頭痛に意識の大部分をぼやけさせられながらも、助けが必要な場面だと考えたのだ。いつもなら注意深く細部を観察するなどといった、日頃の訓練の成果が発揮されるところだ。しかし機能低下中のジェイミーの視界には、デクランの築いた壁が映っていなかった。
 ジェイミーは静かに見守るべきだったのに、できなかった。なぜなら彼はまだ半分以上酔っぱらっていたから。すなわち判断力が普段の半分以下にまで鈍っていたから。
 デクランは自力で対処できるはずで、まったく助けを求めてなどいなかったが、とにかくジェイミーはリョウヘイを殴った、、、
 横っ面に一発、生きている人間だったら顎を砕くほどの力でだが、魂にたいしても威力はあった。痛みこそ感じないし見た目も変わらないが、干渉ができる。動きを封じたり、強制的にあの世へ送ったりすることが彼には可能なのだ。
 リョウヘイは床に倒れ、目は開いているが麻痺したように痙攣していた。このときの衝撃で、彼の消えていた口元ももとに戻った。だが声を出せるだけの力は封印されてしまっていた。
 イザベルが悲鳴を上げて立ち上がった。デクランは分離していた意識を身体に引き寄せ、やはり立ち上がった。
「そう、彼なら魂相手にも武力を行使できる」デクランはイザベルにうなづきかけた。
 世の中には霊体に触れることができる人間もいる。だが、ぶちのめすことができる人はそう多くない。暴力に訴えるつもりはなかったのだが、これはこれで有効かもしれないな、と肯定的な気分だった。
 デクランは落ち着いた様子で、さきほどの壁をイザベルに、バリアとして移し替えた。「ぼくのほうはこれで完了。おかげさまで、かな?」
「これが『能力の暴走』の影響だって? なんて手応えだ。危うく祓っちまうところだった」ジェイミーは自分のこぶしをしげしげと眺めた。
 ジェイミーが前のめりになっていた体制を戻したとき、腰を覆っていたタオルが外れて落ちた。イザベルは当然、悲鳴を上げる権利があったのでそうした。ほんの数秒前に出したときより、ややおおきい声で。両手を握りしめ、彼の下半身と倒れている弟の両方が視界から消えるところを探してあたふたし、結局身体ごとうしろを向いてブラインドのスラットの数を数えることに集中した。
「結構きわどいところまでタトゥーをしてるんだね、きみは」デクランは感銘を受けておおきくうなづいた。
 ともあれミッションは完了した。イザベルからリョウヘイを切り離すことに成功したのだ。
 途中、過剰ななにかが起こった気もするが、結果はよかったといえる。
 主にジェイミーの下半身に関するあらたな傷がイザベルに刻まれていないかどうか、数日ほど様子を見る必要はありそうだったが。


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