そこにいるだれかと我らの未来のために【12】
【12】
「その、ジェムの下半身の描写はいらなかったかもしれない」
Kは敢えてジェイミーを視界に入れないようにしながら、デクランの優し気に垂れた目元に眼球を固定した。大地が揺るごうとも、ここから視線を動かさない覚悟だった。デクランの職場から“heard Japan”に移動するにあたり、現在のジェイミーは当然衣服を身に着けていたのだが、そういう問題ではなかった。好奇心が幅を利かせて、実際に描写された箇所が描写されたとおりなのかどうかを確かめたくなるのがいやだったのだ。
「どうして? それはもう美しかったよ。タツノオトシゴとかクラゲとか、リアルすぎずメルヘンすぎず、ジェムのセンスは素晴らしくて、ぜひ共有したかったんだけどね」
デクランが不思議そうな顔をして首を傾げた。彼のしぐさはいつでも、微風になびく柳の枝のようにしなやかで自然だ。きっと太極拳の動きをやってみたら美しいことだろう。実際にやったことがあるかどうか、Kはいつも聞きそびれてしまうのだが。
「いっそヌーディストビーチにでも行って見せびらかしたらいい。写真を撮られる覚悟が必要だけど……もしかしてぼくはいま、不適切な言動をしてる?」
「OKわかった。わたしにはどうでもいい。仲間の下半身事情なんて知りたくないのよ。特にほんもののその部分の様子なんて。それを使った経歴ならともかく……どうしよう、わたしもいま不適切な発言をした気がする」
Kが頼めば、ジェイミーはそこを見せてくれるだろう。そうしたら一生頭から離れなくなる。もしこの先、彼がアメリアと寝たなどという話を聞いたとき、彼女の反応を想像して笑わずにいられる自信がなかった。いまですらすこし笑いそうになってしまっている。アメリアはその芸術にたいして歓声をあげるのだろうか。
「褒めてもらえてうれしいよデクラン。サンゴとかホタテもいただろ。深海のイメージだったんだ。その、アリエルに恋をしていた頃の想い出として」
「なんでアリエルを彫らなかったんだい」
「なんでアリエルを彫らなかったのよ」このとき、彼女はとうとうジェイミーを見た。ついでに問題のあたりへも一瞬だけちらりと視線をやってしまって、自分に向けて舌打ちをした。
「そんな冒涜がまかりとおるとでも思ってるのか」ジェイミーは自分のお腹の下あたりに顔を向けた。初恋の相手をこんなあわただしい場所に住まわせるなんて、できるわけがない。なにより自分が落ち着かない。こと、叶わなかった初恋以降の恋人と寝る際には、どちらの女性に対しても失礼になってしまう。
「初恋の想い出は、心の一角に淡く残っている程度でいいんだ……」
ジェイミーは眉間に皺を寄せてゆっくりとうなづいた。その青白い横顔からは、たったいま新しい概念を披露した哲学者に近い貫禄と悲哀がうかがえなくもなかった。
初恋の相手が心の一角などではなく、身体の結構なスペースを確保しているという事実については、だれも触れなかった。
「わたしは、どこだったかにパックマンがいることを知ってる」デクランに張り合うつもりはまったくなかったのだが、思い出してしまったものだから、言わずにいられなかった。「ここで着替えをしてたときに見たような」
「右の尻の上あたりだ。あの足っぽいのが生えた赤いやつも一緒にいる」ジェイミーがやや嬉し気にうなづいた。「酔った勢いで彫った割には、可愛くできてただろ」
何歳だったかの誕生日の夜、酔っぱらって馴染みの彫り師をたずねた彼は、ズボンを半分おろしながらこうリクエストした。『パックマンと、なんかよさげな相棒を記念に。なんのって、おれの誕生日だよ。だれかテキーラを持ってきてくれ。消毒代わりに尻にかけて、あんたたちも盛大にやってくれ。おれのおごりだ』
そして当然ながら、このときの会話を彼はほとんど覚えていない。
「興味深いなあきみの身体は」デクランが目をおおきくした。
「なぜかしら、そのセリフも誤解を招きかねない気がするの」
「ところで、こういった話をいちばん茶化しそうなやつはどこへ行った。べつに会いたいわけじゃなく、リアルタイムで対処したい。あとで人づてに聞いてからやって来られても鬱陶しいし」アスピリンとアドレナリンのおかげでアルコールもだいぶ抜けて気分もましになってきたジェイミーは、ようやく意味のある長い文章を操るようになってきた。
「彼は午前中有休を取って」Kがちらりとデクランを見上げる。「デートっぽいことをしに行ってる」
「デートだって? この非常時にか」
「それっぽいこと、だってば」
「同じことだろ」
「微妙に違うらしいんだよ。ラビットフットに言わせると」
カウンセリングルームでの対決のあと、デクランとジェイミーはキムきょうだいを、ふたりの視界を遮った状態でここへ連れて来た。放っておける状態ではなかったし、能力の暴走がアメリアの問題 いまや彼女ひとりだけの問題ではなくなってしまったが と関係しているはずだと思ったからだ。
助けを求める人の叫びを受信するアメリアの高感度のアンテナが、リョウヘイの死の衝撃によってイザベルが心を解放したせいで、Kやほかの人より早く不具合を起こしてしてしまっていたのかもしれない。解決策を練るあいだ、ふたりには目の届く範囲にいてもらいたかった。
それに、リタが出張中はデクランがここの責任者となるため、出勤はしておきたかった。すくなくとも初日くらいは。
いまイザベルはアメリアと共に、八階のおおきな窓のある部屋で、景色を見ながらおやつを食べている。一方リョウヘイは一度は回復しかけたものの、再度ジェイミーからの適度な暴行を受けて身動きが取れなくなっている。一度目よりも長い時間そうなるように且つ誤って祓ってしまわないように、ジェイミーがうまく加減した。そして同じく八階の、窓のない鉄格子つきの個室に閉じ込められている。
霊体に鉄格子など効き目はないが、重要なのは動きを封じているという点だ。このままあの世へ送ることなら、デクランは心をつうじて可能な限り、ジェイミーは武力行使で強制的にと、それぞれ可能ではある。だが現在それほど広くない範囲で起こっている能力の暴走が、イザベルとリョウヘイを無理やり引き離すことによって収束するのか拡大するのかがわからないため、処置は保留にしている。いずれにせよ、あの男には姉から離れる気はないはずだから、逃げられる心配はしなくていいというのがデクランの見立てで、いまは隔離の措置のみが取られているというわけだ。
アメリアがイザベルを連れて八階へ上がっていく際、トレヴァーが午前中は有休を取得していることを皆に告げた。そのときジェイミーは、リョウヘイを個室に閉じ込めておく準備で忙しかったため、トレヴァーの行方をまだ知らないのだった。
「とうとう恋人ができたんだね」デクランがうれしそうに手を叩く。「長かったなあ。あれほどの魅力がある人物にしては。前の相手とのことで悩んでたみたいだったけど、ようやく次のステップへ進めたようで、ぼくもうれしいよ」
「恋人って表現は、不適切だって怒られるよ」
「怒るっていうのは、ますますいいね。関係を真剣に考えてるってことだ」
「うん」Kは感心した表情をした。「確かにそうかも」
「あいつの魅力云々については置いといて」ジェイミーが懐疑的に腕組みをした。「そのデートとやらは、揺動作戦かなんかなのか」
「昨夜送ったメールの内容を理解できる頭が残ってて安心したけど、ちゃんとひとりのときに読んだでしょうね」
「当たり前だ。このタイミングでアメリアに会いに来るやつなんて、そう簡単に信じられるか」
「なるほど、相手はアメリアのお兄さんだね」デクランは相手がだれだかわかっても、やはりにこにこしていた。「どんな人だい、やっぱり素敵だった?」そう訊きつつ、デスクに尻を乗せて、クマの形をしたグミが入っている袋をハサミを使って丁寧に開けた。
「もう、すごく」Kは全面的に肯定した。「あのきょうだいのゴージャスさは、メット・ガラでもじゅうぶん通用する。もしかしたら、常連のセレブたちを圧倒するかもしれないレベル」
「おれはまだ信用してない」ジェイミーが口を挟む。「酷く酔い潰されたし。まあ、おごってもらったけど」
「飲んだのは自分じゃないの」
「ペースが速かった。奴は強くて、おごりだったからこっちも出てくるままに飲んだんだ」そう言って、彼は考える表情をした。「やっぱりおれのせいか」
「会うのが楽しみだ」デクランはグリーンのクマを三つ選んで手のひらに乗せ、ひとつを口に入れた。「リタはもう会ったのかな」
「会ったみたいよ。昨日の夕方に、彼、地下に来たの。リタにエレベーターに乗せられたっていってた」
「へえ」ともうひとつクマをもぐもぐと噛み、ふと動きを止めた。「それって何時ごろ?」
「十八時くらい。半にはなってなかったはず。だよね」
Kがジェイミーに確認すると、彼もうなづいていた。
「それは問題かもしれない」最後のグミを口へ放り込み、ポケットを探る。
「どういうこと」
「イザベルのカウンセリングが終わったのが昨日の十八時少し前で、そのあとすぐにぼくはリタからの電話を受けている。……ほらやっぱり、十八時三分」デクランはケータイの履歴をこちらに向けた。「出張前にこちらの友だちとディナーをしていたらしくて、明日からチームを頼むっていう内容だった。リタのいた場所はセントレアのレストランで、デザートが運ばれてきた頃だった。最後のワインと共に」
「リタが同時にふたつの場所に存在できる能力を隠しているのでなければ」Kはジェイミーを見た。「あの男はどうして地下に入って来られたんだろう」
「どこでどのボタンを押せばいいのかを正確に知ってたんだろ。本部と繋がってるやつなら当然のことだ」
デクランはKとジェイミーに交互に視線をやった。「助けに行くべき? それとも、彼の強運に賭けてみる?」
「行くしかないでしょうね。ラビットフットの幸運は、恋愛方面は常に圏外らしいから。彼はいまクラウスの店にいるはず。料理の試作でブランチって聞いた」
「ぼくはここにいても?」
Kはすこし考えた。「よければ一緒に来てほしい。もしもの事態になったとき、わたしとジェムを制御する人間が必要……クラウスに殴りかからないようにね。それに、彼の本心を読んでもらうことになるかもしれない。わたしたちのかわいいうさぎちゃんの身の安全のために」万全を期したいKは改めて言いなおした。「今回、すべてに於いてあなたの力は必要」
「なるほど」
「あいつの男運の悪さはマジで笑えない。マジで。アメリア!」ジェイミーが指を立ててまで協調して、八階の回廊部分へと声を張り上げた。
「どうしたの?」ほとんどすぐに部屋から出て手すりに乗り出したアメリアの背後に、心配そうな表情で両腕をこすっているイザベルの姿が見えた。
「これからラビットフットの様子を見に行くから、リョウヘイを、あー、どうしよう、もう一度殴るべきか」
「いや待って、ぼくが、うーんそうだな、ちょっとグロテスクな状態にして放置しておくから、絶対にドアを開けないように」
デクランが指を鳴らした直後、端っこのドアの中から、口を閉じたままでできる限り最大限にヴォリュームをあげたときの悲鳴が聞こえた。それを聞いたイザベルが飛び上がって部屋の中へ取って返した。
「ねえこれって、わたしたちに起こってることってもしかして……」アメリアは手すりから身を乗り出して、エレベーターへ向かう同僚たちを視線で追いかけた。イザベルに気を遣ってあからさまには言わないでいるが、彼らきょうだいの影響を受けていることを仄めかしているのは明らかだった。
「あなたの思ってるとおりのはず。ラビットフットのデートの邪魔をしたあとで、対策を考えよう」
アメリアは息をのんだ。「クラウスがなにかしたの? わたしはどうすればいい? ねえ!」
スライドドアを潜り抜けて行ってしまった彼らからの返答はない。だがすぐにまたドアが開いて、デクランが小走りに戻ってきたかと思いきや、グミの袋を掴んでアメリアに向かって微笑みかけた。「心配ないよ、単なる認識の齟齬のはずだから。イザベルをよろしく」
「わかった。気をつけてね」ぜんぜん納得などしていなかったのだが、彼女にはそう返事をする以外に選択肢がなかった。
「アメリア、だいじょうぶ?」イザベルが部屋の中から呼んだ。
「うーん……」まあ、心配したところで、いま自分にできることはなにもないわけだし。アメリアは勢いをつけて手すりから離れた。皆を信じるしかない。皆というのは、兄も含めてのことだ。
どうかだれとも敵対などせず、すべてうまく納まりますように。
「たぶんね。ああ、お茶冷めちゃってるからもう一杯淹れるね。あとは……時間かかりそうだから、ピザでも注文しようか」
アメリアはドアを閉め、リョウヘイのうめき声もそこで聞こえなくなった。
