そこにいるだれかと我らの未来のために【13】

【13】

 ブルスケッタは元々好物。ポルチーニ茸と生ハムのピザは、その種の茸を初めて食べることもあって恐る恐る口に入れたけど、繊細であたたかみのある滑らかな香りが鼻孔から脳を満たし、思わず感嘆の声がもれた。トッピングされたポーチドエッグの黄身がとろけて、ポルチーニの独特の風味をまろやかに包み込んでいる。
 意外だったのが、チョコレートソースのかかった鴨肉のローストが最高の味だったことだ。スライスされた絶妙のミディアムレア加減の鴨肉はさっぱりした肉とは言い難く、バルサミコソースを合わせたものならトレヴァーも何度も食べたことがある。アルコールがメインの食事のときは必ずといっていいほど注文する。だけどチョコレートと一緒に食べるのは初めてだった。どこかの店のメニューで見たことがあった気がしたが、口にした記憶はない。食に関してあまり冒険しない彼にとっては魅力的な品ではなかったのだ。こうやって出されなければ、一生食べなかったかもしれない。
 トレヴァーは結局、昨夜はほとんど眠ることができなかった。ここへ来たときも気持ちはいつもより沈んでいて万全の状態とは言い難かったのだが、クラウスがワイングラス片手に料理をしている姿をカウンターに座って眺めているときから徐々に回復し、この料理でほぼ完全に元気を取り戻した。
「気に入ったか」クラウスがフォークの先で皿をつついた。添えられたクレソンが揺れる。
 オークの無垢材を使った、ゆうに八人は食事ができるテーブルふたつのうちの一方に、トレヴァーとクラウスは向かい合っていた。トレヴァーは椅子に座って、クラウスは立ったままテーブルに手をついて身を乗り出して。
キッチンは明るく、奥の方にピザ用の窯があって、なかではまだ薪が燃えている。地下にはワインクーラー兼食料保管庫があり、さきほどピザが焼けるのを待つあいだにそこへも案内してもらった。
 トレヴァーの背後にはとても座り心地のよさそうな濃いグリーンのソファを使ったボックス席が三つ、あとはキッチンをL字型に取り囲むカウンター席と、通りに面したカウンター席がある。それほど大きな店ではない。品がよく落ち着いていて、トレヴァーの好みといえた。いまは入り口の扉以外の窓にはロールカーテンが降りているが、仕事帰りにひとり、ハイスツールに掛けて本でも読みながらワインを飲めたら至福だろう。
 高い天井でファンが回っている。開店前のため当然ながらフロアに人はおらず、スタッフにも時差ぼけ解消のために休みを取らせたそうだ。音楽もなく、通りから一本奥まった立地のせいもあって、その羽音が聞こえそうなくらい静かだった。
「すごく気に入った。もう一切れ食べさせてくれ」トレヴァーはナイフで鴨肉を半分に切り、クレソンと一緒にフォークに刺して口に入れた。噛み終えて飲み込むまでうっとりと目を閉じ、次に開いたとき、思ったより近くにクラウスの美しい色をした瞳があってすこし驚く。「このチョコレートソース最高」動揺を表層に出さないように気をつけながら彼は言った。
「いまのワード、もう一度言ってくれないか」もうすこしでなにかひらめきそうな科学者の表情でクラウスが指を振る。どうしてもいますぐに検証したい問題があるといった雰囲気で。
「最高ってとこ?」
「違う。そこじゃない」
 トレヴァーは察した。「チョコレート」
 クラウスは椅子に崩れ落ちて、頭を抱えて唸った。「毎朝その言葉で起こされたい」
「“ラテ”と“ビスケット”も個人的には魅力的だと思うけどね。録音すればいい。協力は惜しまないよ」トレヴァーは紅茶カップに口をつけながら提案した。ほとんど冗談だったが、万が一そうされても構わなかった。声にならほかの部分よりはまだ自信があることもあって。
「直接ささやいてくれないか」
「待って、きみって」咳き込んだトレヴァーは片手で胸を押さえながら、もう一方の指を立ててみせる。カップは落としてしまわないように一瞬前にすばやくソーサーに戻した。結構な音をたててしまったが、割れなかっただけましだった。「ものすごく……あれだ、ストレートなんだね」
「おれは完全にクィアだ」
「違うって。いや、ぼくだってそうだけど、そういう意味じゃなくて……からかってるだろ」
「まさか!」クラウスが身を起こして両腕を広げた。きょうは香水をつけておらず、グレーのエプロンからはかすかにクローブとシナモンの香りがした。「自分の引力がどれほどのものか、理解してないのか」
「そっちこそ」信じられないほどの引力スーパーマグネティック、という言葉が浮かんだが、かろうじて声に出すのを封じ込めた。「かなりの……ものだよ」
「それには気づいてる」クラウスがにやりと笑う。
「もうだれかとくっついてるとか?」
「おれはだれのものにもなりたくなかった。昨日までは。だからそれはない」
 トレヴァーは彼の視線を避けてピザを見た。黄身が固まってしまう前にもう一切れ食べたかった。たとえ帰りにベルトの穴の位置をずらすことになろうとも、味わう価値のある食事だった。
「食えよ。答えは求めてない」
 トレヴァーはピザを一切れ自分の皿に移し、ナイフで切って食べた。「なにか言いたい気もするんだ」
「残念だけどな、感情を言語化するのがうまいタイプとは思えない。それはおれに任せとけ」クラウスはブルスケッタをばりばりと噛み砕いて、白ワインで流し込んだ。「出会った瞬間からきみに夢中なんだ。昨日も、さっきの地下でも、キスしたくてたまらなかった。なんならここでも。この瞬間にも。おまえと……」口調がきつすぎたと感じたのか、クラウスが一旦息継ぎを入れ、立てていた人差し指を折り曲げつつ柔らかめに言い直す。「きみと会ってから過ぎ去った時間すべてでそう思ってる。きっと明日も同じことが頭をよぎるだろうな。おれはおかしいか?」
 おかしくない、と反射的にトレヴァーは思った。だからぼんやりしたままでありながら首を振った。彼の衝動を否定などできるはずがなかった。自分も似たようなことを考えていたのだから。
 それにしてもなんという言葉だ。
 気持ちを、赴くままに表現できたらどれだけ素晴らしいだろう。ロマンチックな言葉ひとつ浮かばないトレヴァーがここまで心を動かされたのはいつ以来だったか思い出すには、父親が自分を棄てたと知ったときまでさかのぼらなくてはならない。まったく真逆の感情とはいえ。
「クラウス、ぼくは……」
「言っただろ、答えなくていい。目を見ればわかるよリトルラビット」
 胸に一発、弾丸をくらったみたいだった。
「ぼくはそんなに“リトル”ってわけじゃないはずだけど」トレヴァーはどうにか態勢を整えようとして、あまりにもつまらないことを返した。
「おれの目には、子ウサギみたいにキュートに映ってる」
「いや、駄目だ待って。ちょっと、ぼくはその……こういうのは……嫌ってわけじゃないんだけど、急すぎてついていけないよ」
「おれはゆっくり進めるのが苦手なんだ」
 なにか言わないと。言葉を繋げないと。トレヴァーは沈黙が訪れるのを恐れた。いまのふたりの距離感を恐れた。美しい料理と紅茶が飛び散り、床で皿が割れ、シャツのボタンが引きちぎられる未来を恐れた。このままではそうなってしまう、、、、、、、、。彼自身がそう望んでいるからというだけではない。人の心は動かせない。だけど確信があった。根拠はいまや万物に宿っていた。
「ぼくのことを、アメリアの彼氏だと思ったくせに」
「そうきたか」クラウスは肩を揺すった。「時間稼ぎだろ」
 トレヴァーは椅子に深く凭れ、首を傾げながらシャツのボタンを上からなぞるように胸を撫でおろした。さあ、どうだろうね?
 駆け引きなど大嫌いだった。それを演じてしまう自分も含めて。ずっとそう感じていたことを、彼はいま自覚した。彼とは本音で接したいと思っていることも。
「もしおまえがアメリアの男だったなら、おとなしく引き下がるさ。彼女のためならどれだけ苦しんでも……仕方ない」クラウスは最後の言葉を慎重に選んだようだった。そして、椅子を前に出して座り直し、またじっとトレヴァーの目を見た。「おれのこと、信用してないんだな」
 いまの質問が、恋愛での意味だけではないことは容易に伝わった。クラウスは敢えてそういう言い方をしたのだ。トレヴァーは黙ったまま彼の瞳を見返した。
 クラウスの目が、一瞬だけ迷う素振りで逸らされて、またこちらをじっと見た。「おれは、アメリアの状態を知っている。もちろん、きみたちのここでの仕事のこともすべて」
 終わりだ、とトレヴァーは静かに目を伏せた。
 自分の魅力に自信のあるクラウスは、トレヴァーのことを簡単に落とせると思ったのだろう  ほかの男と同じように、ぼくのことを甘く見たのだ  。だが思いがけず時間がかかりそうだと踏んだのか、手の内を晒してこちらの出方を観ようとしている。
 こいつは間抜けじゃない。
 トレヴァーは無理やり仕事用のマインドに切り替えた。
「なんのことだろう」
「おいおい、こっちは全部正直に話してんだぜ。すこしは胸の内を見せてくれてもいいだろ。きみにはふわふわの尻尾だけじゃなくて、鋭い爪もついてることはわかってる。おれをほかのくだらねえ男どもと一緒にするな、、、、、、、、、、、、、、、、、、
 ぼくのことをかなり詳しく調査したらしい。トレヴァーはますます胸が苦しくなるのを感じた。ゲイだということも最初から把握していたのに、妹の彼氏だと疑ったふりをしたことがショックだった。彼はきっと、メンバー全員の私生活までもを把握しているのだろう。
「だったらぼくの答えもわかってるはずだ。きみがどれほどの男だとしても、アメリアは、ぼくのチームは、そっちの好き勝手にはさせない」
「まったく嚙み合ってねえな」クラウスは苛立たしげに首を振った。それからテーブルに人差し指を突き立てた。「そうじゃない。いいか、確かにおれは父親から“heard Japan”の様子を見てこいっていう指令を受けた」
 ほらやっぱり! と身を乗り出したトレヴァーの下唇の端に、間違ってあたってしまった程度のほんのかすかなキスをクラウスがしたものだから、彼の頭は瞬時に真っ白になってしまった。
 いま、なにが起こった?
 腰を浮かせていたクラウスは、いまはもう、なにごともなかったかのようにテーブルに両手を乗せて椅子に座っている。
「聞けリトルラビット。この店の出店はすでに決まってたから好都合だって、父親からははっきり言われたんだ。アメリアの母親からは、もしなにかが起こっているのなら彼女を連れ戻せとも。なあ、おれだって利用されてるんだ。ことと次第によっては“heard Japan”が解体されることも視野に入ってるのは予想できる。いざとなったら、アメリアだけを逃がしてほかの支局を守るためにここを犠牲にする気だ。だけどな、おれがそんなことするわけないんだ。あいつの居場所を奪えるわけがない。それに、おれが言いたいのはつまり、こうして面と向かって会う前からもうすっかりきみのことを……わかるだろ?」
 それこそすぐに信用できるはずはなかった。嘘をついているようには思えないが、だからといって彼の言葉すべてを鵜呑みにしていいというわけでもない。
 彼はいつから状況を完全に理解しているのか? セーゲルストレ―ムはアメリアの不調までは知らないはずなのに彼は知っている。内部のだれかが彼に情報を流したのか?
 リタは彼と話をしたのだろうか。ほとんど時間がなかったはずだが、エレベーターに乗せる前になにかけん制するようなことをほのめかして刺激したせいで、いまこんな会話になっているのだろうか。たとえば、アメリアのことをほんとうに愛しているかどうかを訊いたとか。それが彼を焦らせた?
 疑問はたくさん浮かんだが、クラウスにチーム内部の正確な情報を渡したのはだれなのかが、彼のいちばん訊きたいことだった。しかし口から出た言葉はまったく別のことだった。
「いま、キスした?」
「えっ」クラウスは戸惑った。トレヴァーをはじめ“heard Japan”のメンバーの詳細の書かれた資料に目をとおしてかなり細部まで理解していたつもりだったが、どうやら彼はクラウスが考えているよりもずっと素直な性格をしているらしい。おそらく恋愛に関する部分が、どうにも取り繕えないほどに。「おれの話を聞いてたか?」
「一言一句漏らさず。けど、しただろ。あれは、確実に起こったことだよね?」
 クラウスはため息をついた。なんだか自分のしたことが急に恥ずかしくなった。「悪かった。あとで訴えてもいい。それより……」
「キスした。きみはぼくに……そうした。口を挟まれないためとはいえ」
こいつはすこしも黙らないな。「ああ、した」仕方がないので、クラウスは彼の頭のなかの滞ったところを先へと進めることにした。「そのとおり、おれはきみにキスした。話に集中してほしくて……いや、本音を言えば、したかったからしたんだ。それだけだ。おれは……なあ、おれのきみへの気持ちは、アメリアに誓って本物だ。資料を読んだときから、好きになる予感があった。許してもらえるなら何度でもするさ」
「何度でもだって?」
「ああ、何度だって……クソシット
 クラウスは立ち上がって身を乗り出して、空腹のコヨーテのようにとびかかった。そのころにはトレヴァーもテーブルに両手をついて腰を浮かせていた。
 だいたいトレヴァーのイメージのとおり、紅茶は零れ、ほとんど残ってはいなかったが料理は飛び散り、皿は足元で砕け散った。彼のいちばん上のシャツのボタンは胸倉を掴まれたせいで宙を舞いどこかへ消え、クラウスのエプロンの肩ひもはほぼ引きちぎられた。トレヴァーはとても協力的に引っ張り上げられ、それから反対側へと引きずり降ろされた。
「ところで、どこの香水使ってるの」懸命にも、トレヴァーの正気の部分が心残りを解消しようとした。「きのうの、あれ……」
「トム・フォード」
「あ~ああ」
「なんだよその、あ~ああ、ってのは」
「さあ、ぼくにもさっぱり……」
「もういい。集中しろ」
「そうだね、いまは、どうでもいい」
 椅子も調味料入れも倒れたようだったがどうでもよかった。いましていること以外のなにもかもが、彼らにとってはどうでもよかった。
「どこからつっこめばいいかわからないけど、鍵はかけておいてもよかったと思う。クローズドの看板だけじゃなくて」
 だからKたちが店に入ってきたことには、どちらもまったく気づくことはできなかった。その頃にはもうトレヴァーはクラウスの膝の上にすっかり乗っかっていて、互いしか目に入っていなかったからだ。チョコレートソースが、彼のサヴィル・ロウの店で仕立ててもらったスーツのジャケットの裾と膝の部分をべったりと汚すのも構わず。
「一応訊くけど、どういう状況なのこれは」
「ちょっと早めの昼食を取ってたはずなんだけど」トレヴァーは息を切らしながらどうにかそう答えた。
「どっちがどっちの昼飯だよ、あ?」心配して来てやったってのに、のんきにいちゃつきやがって。ジェイミーは当然のことながら怒りを覚えた。
「いつから見てたんだ」
「それ、ほんとうに知りたいの?」
 Kが恐ろしげに訊き返したので、クラウスはそれ以上掘り下げるのはやめておくことにした。
「わあ、ピンク色の綿菓子の中に飛び込んだみたいだ」デクランが両手で空気を掻き分けながら入ってきた。ジャングルの奥地を目指す探検家さながらに。手の中で車のキーが、彼とおなじくらい上機嫌な音を立てている。「心を読むまでもないね。これは紛れもない彼の本心だよ。おめでとうラビットフット」
「ええと、ありがとうデクラン」トレヴァーはまだクラウスの髪に指を差し入れたまま、いまできる限りの真剣な表情でうなづいた。「それと、久しぶり」
 デクランは笑顔で手を振った。「しばらく会わないあいだに、トレヴァーとラビットフットがひとつになったみたいだね」
「……ああ!」トレヴァーははっとした。
 自分の“能力”だと思っていたものがじつは自分自身の性質だったことを知ったあのときから、なにかがすこし変化した気がしたのだ。ものの輪郭がはっきり見えるようになったというか、空気が澄んでいるというか。
 トレヴァーはちいさく口を開けたまま、クラウスを見下ろす。
 もしかしたら、能力のおかげではなくて単にとても幸運だっただけだということを、受け入れるときが来たのかもしれない。能力が運命を操作しているのではなく、あらゆる面で恵まれていたのだということを。
「クラウス」
 呼びかけると、灰色の目がこちらを見上げた。左側の下のほうの虹彩が僅かに青が濃い。故郷の、曇り空を抱いた海のようだ。この眼がすごく好きだ。トレヴァーがクラウスにたいして感じている美は、湖や森を見て美しいと思う感覚とほとんど同じだった。
「グレイ・ウォーカーだろ、きみの情報元は」
 クラウスはその瞬間、彼自身はまったく気づいていなかったが、大人になってから初めて、子どもの頃の彼の顔でにっこり笑った。
「さすがはおれの男だ」
「だからそういうのはまだ早いって」トレヴァーは間髪入れずに否定した。
「ちなみにおれはクランペットも完璧に焼ける」
 トレヴァーは鋭く息を呑んで胸に手を当てた。
「やめて、これ以上彼を翻弄しないで」Kが止めた。
 ほんとうは、ふたりの関係性が面白かったのでもうすこし見守りたかったのだが。


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