そこにいるだれかと我らの未来のために【14】
【14】
グレイ・ウォーカーは最初からクラウスの情報屋だったわけではなかった。あの大男はまずラース・セーゲルストレームに雇われていた。元々ⅮEA(アメリカ麻薬取締局)に在籍していて、潜入捜査を得意としてきた腕を買われてのことだった。
ラースが、潜入のプロを探しているときに、とある伝手からまず対象者のパートナーを紹介された。
グレイ・ウォーカー初めて見たとき、あの巨体で周囲に溶け込めるものなのかとラースは少々不安になったようだ。行先は戦場や場末のバーではない。ただの企業なのだ。これでは却って目立つのではないか。はっきりと口にしないまでも、表情がそう物語っていた。
だがグレイ・ウォーカーはこれまでに、失敗はただの一度だけしかしたことがなかった。しかもそれすら、正体がばれたわけではなく、瀕死の重傷を負ったために退却を余儀なくされただけだった。
あの顔の傷は、そのときに起こったことが原因だった。
どこかの間抜けが、覚醒剤を作っているところで煙草をふかしたのだ。換気がじゅうぶんとは言い難かった山間部の元狩猟小屋は跡形もなく吹き飛び、咄嗟にスチールデスクを倒して盾にしたグレイ・ウォーカーだけがどうにか生き残った。麻薬組織の製造グループのメンバーがひとり残らず血と肉と化したため人目をはばかる必要がなくなった彼は、DEAとの通信手段を隠しておいた場所まで文字どおり這って行き、救出を要請した。製造所がなくなったことを夢にも考えていないはずのバイヤーはすぐにでも戻ってくるはずで、それまでに姿を消しておきたかった。
三〇分ほど苦しんだあとでようやく仲間が助けに来て、いちばん近くのダイナーの駐車場に待機していた救急隊に素早く措置されたが、そのときにはもう怪我を負ってからゆうに一時間が過ぎていた。左脚は骨折していて、顔の左半分が裂けていて、頭部の火傷はひどいにおいがしていた。脚と顔に刺さったすべてのガラス片が取り除かれるあいだじゅう、彼はモルヒネの投与を許さず、パートナーにこれまでの経緯を報告した。組織は、少数だが純度の高い麻薬を作成していたことで、その地域の大物に目をつけられつつあり、彼の潜入がこのまま続いていれば大規模な流通ルートを拿捕できそうだった。パートナーにバイヤーを必ず確保することを約束させるまで、グレイ・ウォーカーは一度も気を失わなかった。
そのあと、爆発によって死んだことにして彼を退却することで問題ないと、本部と合意がなされた。長い入院生活の末、ようやく動けるようになった頃には、彼のDEAでのキャリアは終了していた。
でかいだけの男なら世界中いくらでもいる。荒々しい場所だけでなく、最新の設備を備えた研究所や、ガラス張りの真新しいオフィスに潜入したこともある。さらに彼は腕っぷしが強く、用心棒としても雇われることができたため重宝したが、顔の傷は隠しようがない。目立ちすぎるため潜入捜査は続けられないだろうと、彼の入院中に本部が決定したのだ。内勤を薦められたが、性に合わないことはわかっていたため断っていた。だからもう、抜けるしかなかった。残念ではあったが、そりゃそうだろうと結果を受け入れたのだ。
チームはちゃんとバイヤーを捕まえた。そして、地域のボスへもたどり着いてきっちり一網打尽にした。その功績を称えられてからの退職となった。
パートナーから贈られた花束の赤いバラのひとつを、グレイ・ウォーカーはむしゃむしゃと喰ってみせて皆を笑わせた。顔の傷の見た目はあまりに痛々しく、それを伴って自分が去ることをだれにも同情されたくなかった。
グレイ・ウォーカーはその後、安全を求め、人目を避けて過ごした。身体と同じく、心にも重大な傷を負っていたせいで。
ほとんど家から出かけず半年が過ぎた頃、それまでもときどき連絡をくれていたかつてのパートナーを通じて、ラース・セーゲルストレームが接触してきたのだった。
顔を隠していても構わず、人と会話をすることなく日本のとあるビルの掃除を毎日するだけで、じゅうぶんな金額の給料がもらえる仕事とのことだった。そんなうまい話があるものかと訝しむグレイ・ウォーカーに、パートナーはもちろんこれは潜入捜査だと告げた。そのメンバー全員の日常を監視し、週に一度、報告してほしいという内容だった。
それから彼は、ラース直筆のサインつきの秘密保持契約書と、仕事依頼の書かれたA4の用紙を渡された。組織の仕事そのものについては現時点で明かすことはできないが、潜入しているうちにわかってくるはずだとも書いてある。わかったからといって他言していいわけではないということも釘を刺してある。そんなことは基本中の基本だが。
日常の暮らしぶりを知りたいメンバーのうち、すくなくともふたりは銃を携帯しているようだった。だがビル内で抗争が起こるわけではないし、掃除をして過ごすだけのため命にかかわる危険度はかなり低いうえ、潜入の経験を生かせる。勤務地は依頼者自身の組織ということもあり、万が一正体が露見したとしても咎められることもない。
ずっとこのまま家にこもっているわけにもいかないし、海外へ移り住んでも構わないのではないか、と彼は考えた。留守がちだったこともあり、家には恋人はおろか、猫一匹いなかったことが幸いだった。追い出す手間が省ける。両親とももう一〇年以上会っていなかった。
いいか、どうせおれにわざわざ会いに来たがる人間など、パートナーくらいしかいないのだし。
それに彼には仕事も家庭もあるから、ほんとうはこんな辛気臭い顔など見たくもないだろう。職場を離れたあとまで、罪悪感で繋がっていたくなかった。
謎は多いが、彼らの組織はDEAに近からずも遠くないことをしているという説明でとりあえず納得するしかなかった。パートナーの持ってきた秘密保持契約書にもサインした。頭の火傷が膿んでいくほうは食い止められたが、このままなにもせずに心根のほうが腐っていくのは嫌だったこともあって。
その場で読まされた仕事依頼内容の書かれたほうの用紙は、彼が覚えたことを確認するとすぐに細かく破られ、トイレに流された。そしてそれと引き換えに新品のケータイを渡された。連絡先はふたつ。ラース・セーゲルストレームとその妻ミシェルだった。そこへパートナーが自身の番号を内緒で追加していたが、結局一度もかけたことはない。
グレイ・ウォーカーはその週のうちに住んでいた家を引き払う手続きをし、荷造りの合間にラースの部下を名乗る人物から、飛行機の片道分のチケットと現地での住処の契約書類、それとまとまった金額の現金が届けられた。潜入先で身元を確認する者もいないので、パスポートは自身のものを使えばよかった。ただし運転免許証だけは、本名のものと偽名で作成されたもの、二枚を渡された。念のため、現地の偽造屋の連絡先と共に。いまや世界中移民だらけで、外国人といえどもパスポートを求められるケースはほとんどないからそれでじゅうぶんだった。おおきな面倒ごとさえ起こさなければ。
飛行機の座席はビジネスクラスで人も少なく、潜入捜査の際に一晩中大型のバンででこぼこ道を移動した経験に比べれば、桁違いに快適な旅だった。だが、ラース・セーゲルストレームの影響は未だ計り知れず、不安は拭えない。それでも空の上まで来てしまった。いまは信頼して彼の掌の上を進むしかなかった。サインをしたあとに一度電話で話したときの声と、インターネット上に出ている情報以外のことはほとんど知らないとはいえ。
ネットには、貴族の血筋で、遺伝子工学研究所と牧場をいくつか経営しているという、この仕事とは関係のない当たり障りのない情報しか出てこなかったが、驚きもしなかった。裏側を徹底的に隠すのがうまいのはなにも彼らだけの特権ではない。
食事のあと、ラースからメールで届いた、潜入先のメンバーの写真をじっくりと見た。写真と共に初対面の自己紹介程度のプロフィールと簡単な注釈がついていた。サイコロジストで能力保有者のデクラン・ナヴァレスとは可能な限り接触を避けなくてはならないが、そのほかに気をつけないといけない人物はとくにいなかった。それぞれがなんらかの訓練を受けた形跡は窺えるものの、だれひとりとして悪人には見えない。ひとり、笑顔からにじみ出るパーソナリティが、彼の経験に基づく第六感に引っかかる人物がいたにはいたが、理由もなく危害を加える類の危険人物というわけでもなさそうだった。なんだか違和感があるという程度で。
名前からして、アメリアがラースの娘なのは明らかだ。そして彼の言う監視とは、主に彼女にたいしてのものだろうとも予想がついた。当然だが、わざわざ指摘をするつもりはない。
ビル全体の雑用係として潜入して二週間が経った頃にはこの組織がなにをしているかを彼は正確に理解した。確かに、DEAと根底は似ている。どちらも大儀のために悪と戦う組織だという点においては。
“heard Japan”のメンバーは気のいいやつらで、グレイ・ウォーカーがどこに雇われているのかをなんとなくわかっているようでもあったが、暗黙の了解としてだれも必要以上には接触してこなかったことが楽だった。顔の傷のおかげで、心に痛手を抱えた無口な掃除人を演じやすかった。実際、ほとんどそのとおりだったわけだし。
ある日、地下の自動販売機に頭痛薬を補充していたときにエレベーターが開き、トレヴァー・マクドネルがひとりで降りてきた。きっとアメリアを尋ねていくのだろう。彼らは仲がいい。彼はいつもは黙ってとおり過ぎるのだが、なんの気まぐれだったのか、その日初めて声をかけてきた。どうにも我慢ができないといった様子で、必要以上ににこにこしながら。
「やあ、グレイ・ウォーカー」と。
グレイ・ウォーカーと呼ばれた彼は、ちらりとトレヴァーの胸のあたりに目をやったが、それ以上は特に反応せずに薬の補充にいそしんだ。
郵送物の配達員がエレベーターの中で配送相手の所在を確認していることがときどきあるが、この男はそのときに乗り合わせていたのだろうか。このオフィスビルに、会社名のない個人に荷物が届くなどそうあることではないため、訳ありらしい掃除人宛てではないかと推測されたのだ。
名前を知ったのだからせっかくなので声をかけてみたくなったのかもしれない。それともこちらの反応を引き出したかったのだろうか。
じつのところ、彼の名前はグレイ・ウォーカーではない。それだけが理由なわけではないが、ラースから接触を禁じられていたこともあり、返事をしなかった。だがトレヴァーはそれで満足したらしく、嬉しそうな笑顔でうなづきながら去って行き、アメリアのオフィスのドアをノックしていた。
それ以来、トレヴァーは会うたびに挨拶をしてくるようになった。彼にだけはこちらがにこやかに受け応える姿が見えているのか、だいたいいつも返事までする。「ぼくも元気だよ、ありがとう」「そう、きょうは天気がいいんだ」などといって。
鬱陶しかった。だが、よくよく考えると、悪い気分になってはいないことに気づいて、我ながら意外に思った。
最初にメンバーの写真を見せられた際、彼の笑顔がやや大げさで作りものめいて見えたことが気になってはいたが、警戒するほどのことはなさそうだった。ただの変わり者というだけで。仲間からはラビットフットと呼ばれているが、風貌も雰囲気もどこか、機嫌のいい犬と似ている。広い庭を駆けずり回り、腹を上にして昼寝をしそうな、ヨーロッパ産の毛足の長い上品な犬だ。
アメリアからも接触されたことがある。七階の偽の受付に、一階エントランスに備えつけられた宅配ボックスから、備品の入った段ボール箱を持って上がったときだった。彼はオフィスに入ることもできたが、それをメンバーには悟られないように気をつけていた。彼女はまさにそのとき、オフィスへ入ろうとしていたらしかった。この部屋にはすこしも興味がないふうを装って受付の台に段ボールを置いて立ち去ろうとしたときに、お礼を言われた。「いつもありがとう」と。彼はあまり傷のない方の顔を肩越しにすこし傾けた。
聞こえないふりをして無視をすることもできたが、そうしなかった自分に驚いていた。
彼の住処はビルの最上階に用意されていた。家電一式は揃っているし、水圧の強いシャワーとバスタブもある。窓もついていてあたりの景色が見渡せるし、まったく不自由なく快適だった。ありがたいことに、小規模なジムスペースも作られている。
近所に二十四時間営業のスーパーもあり、深夜に食料品を買いに出かけるついでにあたりを散歩したりもした。日本は治安がよく、むやみに絡んでくる輩も、すくなくともこのあたりには生息していなかった。酔っ払いとは度々すれ違ったが。
正直言って、居心地がよかった。
グレイ・ウォーカーはきちんと仕事をした。週に一度彼らのことを尋ねられるままに報告した。任務のあったあとは、特に念入りに彼らの様子を述べた。いついかなるときも客観性を失わなかった。刺激はないが、悪くない仕事だ。
ただひとつ気になることがあった。ラースとミシェルが娘のことをデータとしてしか見ていないのは、ふた月もやりとりをすれば明確になった。
彼が口出ししないのをいいことに、やがてアメリアの能力の精度のことや、彼女の能力のもたらす恩恵 すなわち金のこと についても零すようになっていた。どうやら日本は、支出がすくなく、収入がいいほうの地域らしい。
「アメリアが安定しているなら問題ない。日本を手放すのは惜しいからな」とラースは言った。
そのとき隣にいたミシェルは、夫のすべてに賛同したわけではなかった。「そのうちあの子を、収入のすくない地域の能力者とトレードすることも考えたら? バランスは大事よ」
彼はその会話を聞いていないふりをした。
ある日、夜の散歩のときに仔猫と出会った。かなり痩せて汚れていて、泣き声も弱々しかった。ふらふらと茂みから彷徨い出てきたのだ。だれかに面倒を見てもらっているようには見えず、公園には噴水があるから水には困らないだろうが、獲物を自ら狩れるような力はなさそうだった。彼はスーパーで買ってきたばかりの食料のなかからハムをすこしわけてやった。
数日餌をやりに公園へ通い、週に一度の報告の時に猫を飼っていいかとラースに訊いた。ビルの最上階に住んではいるが、夜に一緒に散歩に行けるのはいい考えだと思ったのだが、鼻で笑われて断られた。
彼はそのとき初めて、これまでにない孤独を感じた。
彼は自室のベッドの中で猫を想い、アメリアを想った。元パートナーへ連絡をしようかとアドレスまで開いたが、どうしてもボタンは押せなかった。
命を落としかけたのに、DEAの仕事が恋しくなるなんて思ってもいなかった。麻薬組織への潜入はわかりやすかった分ある意味楽だったといえる。あいつらは自分にとって撲滅すべき敵だったからだ。
だがここはどうだ。
ここのやつらは、皆いいやつばかりじゃないか。
故郷を出てから、もうすぐ一年が経とうとしていた。
