そこにいるだれかと我らの未来のために【2】
【2】
“heard Japan”本部へ戻ると、三人はまず、オフィスのある七階へ、エレベーターで上がった。そこはもう一つ上の階と吹き抜けになっていて、ボタンには八階の表記はあるが押すことができない。
やたらと狭苦しいフロアに降り立つと、だれもいない受付とフェイクの観葉植物が、会社ってこういうものでしょ、といった風情で備えつけられている。受付にはだいたいあるはずの電話も、左右に伸びる廊下も案内板もなく、エレベーターを降りた正面がいきなりノブのないドアになっていて、登録されている人間の顔認証でなければ頑として開かない。うっかり迷い込んだ人は回れ右をして再度ボタンを押すしか選択肢がないようになっている。圧迫感があって閉じ込められた感じがするので、長居したくない雰囲気がある。
ドアの左上に設置されたカメラで顔認証をパスした面々のためにごくかすかな音を立ててスライドドアが開くと、高い天井と、明るくて開放感のあるオフィスがご褒美のように待っている。壁に沿ってつくられた階段は回廊状態になっていて、その八階部分には真っ白なドアや大きめの明り取りの窓がぐるりと並んで、リゾートホテルのエントランスにありそうな作りになっていた。
あまり動きのない八階とは違って、七階は雑然としている。奥側の壁際におおきくて古い型の印刷機が三台、等間隔に設置されていて、その間をデスクとコンピューター類が埋めている。手前側の壁には薄型のディスプレイモニターが四つ取りつけられているが、ジェイミーとトレヴァーがゲームをする以外の用途で使われたことはいまのところない。そこに向かって長いデスクが二列並び、座り心地はまあまあのオフィスチェアがいくつか点在し、そこかしこに、本やラップトップやお菓子が散らばっていた。
ジェイミーがよく座っているあたりには家族の写真立てが、瓶入りのチェリー味のキャンディはKのお気に入りの窓際の席に置いてある。トレヴァーの好みの場所には、ジェイミーの歴代ペットの写真がなぜか飾られている。
ビルの一階の案内板には『s・o・l・oデータ解析』という名前が刻まれている。だがそれは、全世界に散らばる組織“heard”の存在を隠すためのニセ会社の名前だ。読み方はメンバーにもわからない。問い合わせはいまのところゼロ。間違い電話すらかかってこない。一階でエレベーターを待っている人たちがときどき、いったいなんのデータを解析している会社なんだろう、と首をかしげる程度の存在感しかなく、しかもそれはエレベーターに乗って目当ての階のボタンを押すまでのあいだまでしか持続しない。もうすこし好奇心が続いた人のために、WEB上には一応ホームページが作られている。どこをクリックしてもほとんど“準備中”ばかりのサイトが。
“heard”とは、主に誘拐・監禁、そしてときどきはDV事件の、早期解決のために結成された組織である。
有事の際には警察関係者と名乗ることもあるが、“heard”自体が実際にどこの組織の分派なのかは、メンバーにも明かされていない。つまり、能力のある人物が民営会社としていきなり設立したのか、どこかの大型組織が設営にかかわっているのかといった、歴史的背景はだれも教わっていない。
“heard”は世界各地にいくつか存在はしているが、いくつあるのか、どこにあるのかすら、だれもはっきりとは知らない。役職者は知っているのだろうが、現場に出る人間には情報を与えられていない。
しかしここジャパン支局では、とくに組織の全貌に興味のないのんきなエージェントばかりが集まり、疑問が持ち上がったことはない。皆事件が、できればだれもが無傷で解決しさえすればそれでいいという考えかたをしていて、そこも気の合うところだった。
そもそも、どこの国に本部があるのかも不明だ。たまにメンバー交代が行われるとき、ああそんな場所にもあったのか、と驚くくらい、各組織間での交流がないくらいなので。小規模な人員交代や補充はままあれど、五年前に一度と、一年半前に大規模な組織編成が行われて以来動きがなく、きっとどこかの国に本部を構えているであろうトップの一握りが、この組み合わせにいまのところは満足しているのだろうと思われた。
Kと、いまここにはいないデクランは“heard Japan”からの新規メンバーで、トレヴァーは母国からポーランドに飛んでいまここにいる。ジェイミーとアメリアはそれぞれ二か国目で、所長のリタはきっともっと多くを経験しているだろう。
トレヴァーはこの配属にとても満足しているメンバーのひとりだった。
以前にいたポーランド支局時代につきあっていた弁護士のボーイフレンドとは関係がうまくいかず、ワルシャワの教会の鐘の音を聴くたびに悲しみに胸が張り裂けそうになっていたから、まったく知らない土地とはいえ、遠く離れた日本への移動は渡りに船だった。もう彼とは二度と会うことはあるまい。世界は広いうえにここは日本、しかも首都ではなく中部だ。弁護士の彼とは、日本の話など一度もしたことがなかった。
正直、スーツの似合うしっかりした肩幅と、左の胸に入った繊細なイルカのタトゥーが似合う、朝焼けに輝く海のように滑らかだった褐色の肌にはまだかすかに未練があったのだが、その記憶も、毎日忙しくしているおかげでだんだんと薄れてきている……つもりで彼はいた。
じつのところトレヴァーのほうがフラれていて、ジェイミーの指摘どおり、かすかどころではなくまだ未練でいっぱいなのだが。とくに両手に荷物を抱えているときに足でドアを閉める癖と、近くの公園で仲間たちとバスケットボールをする姿が忘れられないでいる。
的確な表現かどうかはわからないが、彼は人間の作りとして全体的に強かった。そして、思いやりがあり優しかった。これはかなり重要だ。
有り余る未練を抱えた彼とは二度と会えないことをいまはよく理解していたし、メンバーとも気が合って楽しくやっているおかげで気が紛れるので、誰だか知らないが自分をここへ配置した上の人たちへはとても感謝していた。所持しているあらゆるデジタル機器に保存された想い出の写真も、消去する勇気がそろそろ出そうな気配もあった。実際に消すかどうかは別として。
なんなら誰かが部屋に侵入して、貴金属などを盗むついでにデータを削除してくれたならきっぱりと諦めがつくのに、などと愚にもつかないことを願っていた。だがそれは叶わないのだ。第一に、彼の幸運は彼自身を甘やかして堕落させる類のものではない。そして、泥棒などの輩は徹底的に遠ざけられる。万が一うっかりケータイを落としたとしても、すべてのデータはきれいに残ったまま、更にどこかしらがグレードアップして彼の手元に戻ってくるはずだった。突然手元を離れて寂しい想いをさせたことを詫びるかのごとく。
他人が彼のデバイスに触れる機会があるかどうかはともかくとして、データが消えても文句がない程度には、ようやく次の出会いを、こわごわとではあるが待てるようになってきたのだった。
おそらく世界中の支局の中でいちばん平和なこのオフィスにはだれもおらず、各々が座り慣れた席の前に一旦立って視線を交差させはしたものの、荷物だけ置いて着席することなく、アメリアを探すべくもう一度部屋を出てエレベーターに乗った。
オフィスにいないのならば居場所はひとつしかない。
ボタンには地下一階以下の表示はない。近くにいたジェイミーが、決まった順番でいくつかのボタンを押し、最後にさりげなく設置された網膜スキャナーに自らの目を晒して、エレベーターをさらに地下へと導いた。
扉が開いた先は、百二十メートルくらいの道が伸びていた。ちょうどこのビルの駐車場の長さと同じくらいの距離だ。
遠くのほうは少し薄暗く、突き当りには青白いドアが、置き忘れられたハロウィンのシーツのおばけみたいに壁にぶら下がっている。
床の素材は上のどの階ともまったく異なっていて、絨毯敷きやリノリウムではなく、ヨーロッパの住宅地でみられるような美しい石畳だった。道幅もかなり広く、自転車程度ならすれ違えるくらいある。
両サイドには玄関に使われるのと似た感じのドアがたくさん並んでおり、無人の売店もあった。クリアケースにお菓子や飲み物が入っていて、電子マネー支払機の端末と繋がっている。向かい側には薬局があり、パネルで症状、あるいは薬品名を訴えると、見合ったものが、売店のとよく似た支払機つきのクリアケースの中に出てくるようになっていた。売れ筋は頭痛薬とグミとミネラルウォーター。湿布薬もときどき消費されている。
道の真ん中にあるベンチのそばのごみ箱に、影が揺らめいていた。それは真っ黒なレインコートらしきものを着た大きな人間で、どうやらごみ箱の袋をつけ替えているようだった。
「やあグレイ・ウォーカー、調子はどう」
トレヴァーが気さくに挨拶をした。
グレイ・ウォーカーは屈めていた腰をゆっくりと伸ばした。彼の背はかなり高く、トレヴァーをかるく見下ろすほどだった。長身なだけでなく身体自体ががっしりとしていて大きい。いつもフードを被っているため、表情があまりよく見えないが、まばらに髭の生えた左頬にただれたような傷があるのがちらりとうかがえた。
彼は声が聞こえてきた方向へ顔を向けかけたが、返事はせず、ちょっと肩を揺すって再び掃除の続きに戻ってしまった。まったくいつものことだったので、だれも気にしない。
グレイ・ウォーカーは、だれに雇われているのかは知らない おそらく、いやぜったいに“heard”だ が、唯一、このビル全体の出入りを許されている掃除人なのだった。寝起きのヴァンパイアのようにいつも不機嫌そうで、深夜の山奥の廃墟ホテルのごとく不気味でもあり、一切愛想がない。会話は好まないらしく、だれも声を聴いたことがないのではないか。だが、少しだけ見えている口元にときどきどこか他人をばかにしたみたいな笑みを浮かべたり、たまに肩を揺すって鼻を鳴らしてみせたりもするところから、意識は外に向かって開いているらしい。どうやらこちらの言っていることをしっかりと理解もしているようだった。ただ単に、他人と喋りたくない、その価値もないと考えているのかもしれない。
それでも数人がたまに挨拶をする。そしてその奇特な人物は、彼から邪魔な野良犬かなにかのようにあしらわれるのだった。
グレイ・ウォーカーという名も、本人が名乗ったわけではなく、どこからかもたらされ、いつのまにかメンバー内に浸透していた。だれもがだれからも紹介されたこともなく、いつのまにかビル内に存在して、そしてどういうわけか人々に受け入れられてもいた。階段横の、壊れているのにいつまでたっても撤去されない自動販売機のように、諦めとかすかな親しみでもって。
「ああうん、ぼくは元気だよ。ありがとう」
奇特な人物の筆頭であるトレヴァーはいつもこのように会話を続ける。これもまた、見慣れた光景なのだった。
グレイ・ウォーカーはいっぱいにもなっていないごみ袋と、ベンチに立てかけてあったモップを持つと、左の脚をすこし引き摺りながら、のそのそとエレベーターのほうへと向かっていった。
「あいつ、このビルに住んでるって噂があるよな」ジェイミーが肩を竦めた。
「うちの組織だけでもこれだけ部屋があるんだし、ほかにだれかが住んでたとしてもぼくは驚かないな。きみたちが住んでるっていうんだったら、そこそこびっくりするけど」
「アメリアはほとんどここに住んでいるようなもの」Kが小さな声で教えた。
「ちょっと待て、夜中にグレイ・ウォーカーとふたりきりってことか?」
ジェイミーが驚いたこと自体に、ふたりとも驚いて、Kとトレヴァーは思わず視線を交わした。
「グレイ・ウォーカーは無害」とKがジェイミーに、確認するみたいに告げた。いくら不気味でも彼に限ってそれはあり得ない、わかってるよね、と。
根拠はないのだが、なぜか皆彼のことをほぼ全面的に信頼していたのだった。彼の近くで人が殺されていたら真っ先に疑うだろうが、もしメンバーの誰かが性的に乱暴されたとしたら、彼にはだれか怪しい人物を見なかったかをたずねるだろう。更には犯人の首を期待するかもしれない。だまって乱暴されそうな人物など、メンバー内にはひとりもいないという事実はこの際無視するとして。
「わかってる」ジェイミーの声は、この場合での返答にしてはあまりにそっけなさ過ぎた。
トレヴァーがさりげなくジェイミーの背後に回って視界を外れ、Kにだけわかるように濃い青の目をいっぱいに開いて、わめいているジェスチャーをしながら両手でハートマークを作ってみせた。気配を感じてジェイミーが振り返った頃には、彼は姿勢を正していた。
薬局のふたつ奥のドアは格別ほかのドアとの差はなかった。そこを小刻みにノックすると、すぐに不安げな表情をしたアメリアが顔を出した。
「K、おかえりなさい」
アメリアはKに軽くハグをすると、身体をずらして三人を室内へとおした。
淡いオレンジ色のワンピースの上にボタンを留めずに白衣を羽織って、ダークブラウンのロングヘアの毛先が幾束かもつれて外側に跳ねている。いつもは内側にきれいに納まっているのに。彼女の姿はこう呟いていた。“いまはヘアスタイルなんて気にしていられないの”。
「どうだった?」
「模型の一部を持って帰ってきた。収穫はそれだけだよ」
Kがポケットから骨の模型を取り出し、アメリアから差し出されたトレイに乗せた。
地下室を出る際の彼らの行動は素早かった。
ジェイミーが取り出したとき同様に丁寧かつ迅速にビニールへと模型を戻し、トレヴァーができる限り剥がした跡が目立たないように元通り段ボールを梱包した。その後、ふたりを先に階上へ上がらせたKは、足跡を均して階段を上がりきっちりとドアを閉めた。入るときに開けた玄関の鍵も元通りにしたし、貼りつけた令状もジェイミーが忘れずに剥がした。
彼らが去る姿を見ている者はいなかった。模型の指を持ち出したわけだし、完全に痕跡を消してはいない。だが地下室の埃の積もり方からして、家に侵入したことさえ気づかれなければ、まだしばらくの間は家主がそこに入ることはないだろうと判断した。
「もしかしたら、ほんものの骨を使ってつくられてるんじゃないかと思って」Kは自分の言葉が、慰めにしか聞こえないことを自覚していた。
「小さな小指ね。わたしの聞いていた声と年齢は合うかも」彼女は手袋をはめた手で骨をそっと撫でて、少しだけ笑った。「徹底的に調べておく。ありがとう」
「声はまだするのか」
ジェイミーが心配そうにもともと低い声の音程を更に下げ、それにたいしてアメリアがうなづく。
「いつもとおなじように、大きくなったり小さくなったり。きっと女の子。長いときは数時間聞こえないときもある。ほとんど英語だけど、わたしにじゅうぶん理解できる程度の日本語もときどき口にする。助けて、とか」アメリアは深呼吸をして続ける「こわい、とか」
「もし、そういう子があそこにいたとして」トレヴァーは慎重に言葉を選んだ。「その子は、ハラダの子どもって可能性もある」
「そうね……彼の家の近くの病院の、年齢が合う子どもを、念のためあとで調べておくね」
その子どもが存在した場合、深刻な家庭内虐待が疑われる。実際、今までにそういうケースも少なからずあって、何人もの親が家庭裁判所送りにされていた。
「ところで、休めてる?」
ぼんやりと骨を眺めているアメリアの目の下の濃い隈を見ながら、Kが訊いた。黒蜜のような深い色の瞳にかすかな光が反射しているのと、すっととおった鼻筋にそばかすが散っているのが、デスクの横の間接照明のおかげでよく見えた。乾燥した地下にずっといるせいで、色をなくした唇が少し荒れて端っこの皮がめくれている。
Kは彼女が両手で頬を包み込んで頬杖をついている姿を思い浮かべた。給湯室の古いレンジが時間を刻むのに合わせて首を左右に揺らしているところも。あのときのような楽しさと無邪気さはいまはすっかり成りを潜めていて、Kはそれを寂しいと感じた。
「実はこれが始まった一昨日からほとんど寝てないの。とりあえず、ちょっと帰って着替えをなんとかしたい」
「それを後回しにして、一旦帰れよ。送っていくから」
ジェイミーが顎先で骨の模型を示しながら、車のキーを振って見せると、アメリアがにっこりとほほ笑んだ。
「ああジェム、すごく助かる」
話しているふたりの背後で、Kとトレヴァーが視線も合わさずにこっそりこぶしをぶつけあった。ふたりがカップルになったら、“heard Japan”内同士での恋愛は初めてで、彼らにとってはみんなでバーへ繰り出すきっかけが増えるということで、大歓迎だった。
「ふたりはどうする」
それほどついてきて欲しくなさそうに、ジェイミーが振り返った。
「わたしは、家の主のことを調べてみる。周りに住んでる人のことも知りたいし。もしかしたら対象の場所がずれている可能性も、なくはないでしょ。情報提供者に会うよ。あのあたりを縄張りにしている子がいるから」
「ぼくは現時点までの報告書をつくるよ。リタに報告しておく」
「悪いな」
トレヴァーが両手で胸を押さえて、大げさによろめいてみせた。
「悪いって、きみがぼくにそう言ったのか? ほんとに? その言葉だけで今夜は寝ずに仕事ができそうだ」
「演技派だねラビットフット」
「グレイ・ウォーカーがおまえの肩にブランケットをかけてくれるだろうよ。風邪引くなよ、ってな」
「今夜中に親密になれるかな。彼がだれと繋がってるのか、みんな知りたいだろ?」トレヴァーがみんなを順番に指差した。
「あんた、絶対家に帰るでしょ。しかもだれよりも早く」
「仕事しろよ。じゃあな」
ジェイミーは、アメリアの白衣を受け取ってハンガーにかけ、ドアを支えて彼女を先にとおした。そしてドアを閉める寸前、少々気に障るほど完璧なウインクをして、静かに出て行った。
