そこにいるだれかと我らの未来のために【3】

【3】

 どうしても早急に助けが必要な人はこの世の中にたくさんいるはずなのに、監禁されている人だけの声が聞こえるのはどうしてなのか、アメリアにはわからない。アメリアと似た“heard”メンバーはほかにもいて、それぞれが自分とは違った状況の声を聞き分けると聞いたことがあるけれど、組織のルールで交流を禁じられているため、だれがどんな役割を担っていて、その力によってどれほどの人々が助かっているのか、彼女は知らなかった。よく調べればわかることだが、そうしようとはしなかった。なぜだか一度も考えたことがなかった。ほとんどは、ただなにも考えずに自分の役割をこなすだけ。目の前の人を助けるだけで精一杯だから仕方がないことなのだけれど、ときどきふとわからなくなることがある。ここは自分にとって転職であるため、疑問をもちにくい仕事のなかの、唯一の疑問と言っていいかもしれない。
 なぜ、聴こえる範囲が限定されているのか。
 それはきっと、助けを求める声がすべて流れ込んできたら、自分自身が壊れてしまうからだ。だからアメリアの能力はそれ以上進化せず、他者の中に似た能力が存在している。能力は、ひとりの人間にめいっぱい詰め込んで疲弊させて自らと共に破壊してしまうより、分散させることで生き延びた。ウイルスと同じように。彼女はそう確信している。
 俗にいうスーパーパワーにも指紋や虹彩とおなじように個性があって、同じ能力を扱っているように見えてもそれぞれに特徴がある。その個性が、“heard”の各支局を彩っている(はずだ。なにしろほかの能力者と接触がないものだから、もどかしいことに信じることしかできない)。
 彼女の役目は基本、上からの依頼があってから当事者の声を探り、居場所を確定する。この場合は自然に聴こえてくるものではないため、対象の声を掴むのにかなりの集中力を要してとても疲弊する。年に二回も起これば次の年はなにもしなくても生きていけるほどの大金が動くのもこのときだ。要人からの依頼がほとんどだということもあって。はっきりした金額は、チームのだれも把握していないけれど。
 もうひとつの役割は、たまたま波長が合って、助けを求める声を拾うときがある。そのときはチームの独断で助けに行く。だいたい月にふたりか三人で、ひとりもいないときは残念ながらこれまでなかった。こちらにたいしては、解決すれば基本給のほかに組織からの報酬が入る。
 彼女には地球上で窮地に立たされた人すべての声を聴くことができるわけでは当然ない。
彼女の故郷であり、いちばん初めに仕事をしていたデンマーク支局からここへ移動してきたとき、故郷で助けを求める声は聴こえなくなってしまった。きっと携帯電話の基地局のように範囲があって、それは地球上すべてを網羅するわけではないのだ。やはり、能力を存続させるための宇宙の知恵が働いていると感じられる。
 彼女は生まれ育ったデンマークを愛していた。コペンハーゲンの冷たく澄んだ空気を、真っ青な空と海を、そこで暮らす人々のあたたかな笑顔を愛していた。前後不覚になるまで酒を飲んで、早朝のバス停でベンチからずり落ちかけて眠っている彼女の叔父のような人々までも愛おしかった。
だから最初の数カ月はずっと祈り続けていた。
 どうか自分とまったくおなじ能力を持った人があの国を護ってくれていますように、と。
 もし、死者の声だけを聴き分ける人が後任だったら? 瀕死の状態で、あと数分しか呼吸が持たない人の声を聴く人だったら?
 これまでみたく助けられないことはもちろん嫌だったけど、そんな能力を持って生まれてしまった人の精神のことを考えると、胸が苦しくなってしまう。自分だったらきっと耐えられない。
 心配が募って、デンマーク支局に電話をかけたこともあったが、番号が変わってしまっていた。そのことをここの責任者のリタ・キティチャイに問い質したが、支局のメンバー同士が直接話すことはできない規則になっているのだから、移動のたびにこれまでの番号は不通になるのだという答えが返ってきて絶句した。なんていう徹底ぶり! なんて神経質な!
 アメリアはその後さらに数週間、“heard”とリタを恨んで過ごした。口を利かないというのは大人げない気がしたので、せめて話すときは頑なに目を合わせなかった。
 幸いリタはそれを敏感に感じ取ることができる人間で、もっといいことに、慈悲深さも持っていた。ある日の夕方、アメリアが上げた報告書について地下に確認に来たとき、リタは彼女にこう告げた。
「そういえば、あなたの疑問は解消されたと保証するわ」
 報告書の詳細を確認することも終わり、部屋を出ていく直前だった。
「どういうことですか?」
「ちゃんと生きているうちに助けることのできる能力を持った人が後任についてる」ふたりきりだというのに、だれかに聞かれていると困るみたいに、リタは声を潜めていた。「あなたが、その人と話をすることができないことに変わりはないけど」
 そして、さらに続けた。
「わたしも、祖国を出たときはかなり苦しんだから、戸惑いはよくわかる。でも、いつだって助けられる人が助けられる相手を、なんとかしないといけないのよね」
 そのひとことでどれほど安心できたか知れない。それからようやく彼女は上司の目を見て会話をすることができるようになった。リタは所長という立場もあって規則を守っていただけなのに、八つ当たりをしてしまったようですこし恥ずかしくもあったため、翌週は必要以上に頻繁に彼女のオフィスを訪ねた。リタはそんなアメリアをいつだって受け入れ、週末にはチョコレートシェイクとフレンチフライで出迎えてくれて、ふたりは改めてちゃんと仲直りをした。
 だがいま、別の不安が心を覆いつくそうとしていた。
 いま聴こえているこの声はいったい誰のものなのか?
 その子を救うことはできるのか?
 もし、わたしのパワーが、死者の声だけを聞き分ける能力に変異してしまったのだったとしたら?
 これまでずっと、チームで助けられる命のためにがんばってきたのに。今後、たとえば死者の魂を辿って犯人を捜すことを生きがいになどできるだろうか。命を助けられなかったことにばかり意識が向いてしまうのでは?
死者の供養だって大事なことのはず。でも、いままでは生きている人を救えたというのに……
「だいじょうぶか、アメリア?」
「えっ?」
 運転席のほうを向くと、ジェイミーが信号が変わるのを気にする合間に、彼の声と同じくらい重くかすれた視線を向けてきた。
 いつだったかKが彼のことを、皮肉屋の子どもだと言っていたことをふと思い出す。
 楽しくても表情があまり変わらず、真面目な顔できついジョークを飛ばす。特にトレヴァーにたいしては辛辣極まりない。きっと周りからは誤解されるでしょうね、と仕事上がりにふたりでバーで飲んでいて、笑ってそう表現しあった。だけどそんなことはまったく気にも留めないでしょうね、とも。
 じつは彼女は、そのときにジェイミーへの気持ちをはっきりと自覚したのだった。それまでは、近くて遠いただの仕事仲間だと割り切っていたのに。 突然デンマークを離れることになったショックがまだ尾を引いていていた。大切な人を失うことを恐れるようになっていて、他人とはできるだけ距離を保っていようとしていた時期でもあった。だけど“heard Japan”のメンバーの魅力には抗いがたく、Kとふたりきりで飲みに行く気になった矢先のことだった。アメリアは自分の気持ちに動揺した。とくに指先が、両手で包み込んだグラスをせわしなく弾いていた。
 Kはそのとき、光の加減で紫がかってみえる深い黒の瞳を静かにこちらに向け、なにかに気づいたようだったが、なにも気づかないふりをしてくれていた。確実に。
 不規則で秘密の多い仕事をしているせいか、メンバーはいずれも自然に外の世界と距離を置きがちなのだが、なかでもジェイミーは明確な線を引いているように思えた。ときにはメンバーとすらも。だけど彼はいつでも親切だったし、必要以上にパーソナルスペースへ入り込んでこないその距離感も、彼女には心地よかった。
 だいじょうぶ、と言いかけ、アメリアは結局なにも答えずに肩をちょっと上げてみせた。皮肉屋の子どもは、髭に覆われた口先を尖らせ、彼女と同じように肩を軽く上げた。そのしぐさは、母親に遊びに行くことを禁じられたことを悲しがっている少年のようで、アメリアは身体の力がふっと抜けるのを感じた。
 そのとき、膝の上に乗った彼女のバッグのなかからちいさな電子音が聞こえてきた。
「出ないのか」バッグを開ける気配がないものだから、ジェイミーが訊いた。
 アメリアは、刺激を与えたら噛みつかれるとでも思っているかのように、自分の赤いハンドバッグに手をかざしたまま固まっている。「どうせママよ。さっきからかかってきてるんだけど、話したい気分じゃぜんぜんない」彼女は両手でドームをつくり、バッグに見えないバリアを張ったようだった。それでも着信音は止まない。
「落ち込んでると気づかれる? おれの母親はすぐに見抜く。表情でも声でも」
「母とは感情の話はしないの。でも、万が一にでも、落ち込んでることを見抜かれたくない。人を助けられないっていう説明なんてできないでしょう? わたしの仕事、解剖医って話してるから」
 ジェイミーは驚いた。「解剖医?」
「能力のこと、両親は知らない」
 どうして、と疑問が喉まで出かかったが、ジェイミーは留まった。家族の事情はひとそれぞれだ。自分の基準があたりまえではないと、家族と一緒にアメリカ中、そして世界中を旅したおかげでそれなりに理解できているからだ。だから、そうだったのか、とだけ答えた。
「ねえ、やっぱり話をさせて。母じゃなくて、わたしの兄のことなんだけど。あなたさえよければ」電話の音が止むと、アメリアは話題を逸らした。母親のことを話すよりずっと簡単な方向へと。
「もちろん」
「みんなに伝えるのを忘れてたんだけど、兄が来るの」
「オーケイ」まったくの不意打ちの会話の内容に、ジェイミーがゆっくりとうなづいて思考を方向転換させる。「いつ来るんだ」
「きょうの夜、東京に飛行機が着く予定。彼はずっとこっちに来たいって言ってて、それでとうとう、自分のお店を日本でオープンすることになって、それで……ああ、彼はシェフなの。最初はパティシエだったけど、いまはシェフ。そして日本のお店のプロデューサー。軌道に乗せるまで、とりあえずは一カ月くらいこっちにいるみたい。そのあとは知らない。コペンハーゲンにもパリにも彼の居場所はあるから。いろんなところで、すごく美味しいものを提供してるの」
 息を吸うと、かすかに胸が震えてしまった。涙が出そうになり、急いで窓のほうに顔を向ける。呼吸を整え、彼女はいつになく喋った。そうすることで、乱れた心を整頓していた。
「家族でわたしの能力を知っているのは兄だけ。だからずっと仲がいいの。そして彼は、すごくってわけじゃないんだけど、すこしだけ心配性なの。だから今回、わたしに会えることをとても楽しみにしてる。わたしって、人とコミュニケーションを取るのがそんなに上手じゃないんだけど、兄にならいろんなこと相談できて……うん、そう、そんな感じ……それで……えっと、それで……」
 ジェイミーはアメリアの脈絡のない話を黙って聞き、続きを待っている。彼はこんなにたくさんの言葉を話すアメリアを見るのが初めてだった。驚きと新鮮さが話の内容を理解するのをわずかに阻む。好意的な胸の疼きも合わさって。
 アメリアに能力の話ができる相手がいてよかった、と思った。彼女がいつ能力に目覚めたのかはしらないが、とくに幼い頃や思春期ならば、変化への負担が大きかっただろうから、信頼できる相手が傍にひとりでもいることは重要だと思うのだ。
「わたし、会話が下手で……ああ、どうしよう」アメリアは両手で顔をあおいだ。
 一本のろうそくを吹き消す程度の短い吐息と一緒に、彼女を励ますように座席の肩の部分にそっと手が置かれてから離れていき、そのしぐさが彼女にもう何年も直接会っていない兄の顔を思い出させる。彼はクールで友だちも多く服装も個性的で、ひとりで静かにカウンターで飲むタイプではまったくないのだけれど、それでも真剣にならないといけない場面は心得ている人だった。いまも変わっていなければ、だけれど。人づきあいが派手で破滅的なところも含んでいるから、現在どうなっているのかわからないけれど。
「ちゃんと伝わってる。それで?」
「それで……彼は、今夜は空港近くのホテルに泊まって、明日、職場に来るって」
「職場に?」
「兄が来るって言うなら絶対なの。大変、新幹線ちゃんと乗れるかな。改札を通る兄の姿が思い描けない。飛び越えるところなら簡単に浮かぶのに。こっちにたどり着く前に捕まったらどうしよう」
「いまのできみのお兄さんがどんな人なのかが、だいたい掴めた」どっちが心配性なんだか。ジェイミーは、軽く声をあげて笑った。「リタは知ってるのか?」
「もちろん。リタにはもうずっと前から伝えてあって、みんなには話を合わせてって言わないといけないんだった。やだ、どうして忘れてたんだろう」
「いま、電話するか?」
「ううん。“heard”のメッセージアプリを使う」
 アメリアは、足元に置いた、というよりいつのまにか膝から滑り落ちてしまっていたハンドバッグを拾い上げ、組織から支給されているタブレットを取り出してアプリを開いた。母親からの着信がたくさん溜まっているはずのプライベートのほうは、当然無視をした。
「どのくらい会ってないんだ」
「直接はもう二年、ううん、それ以上かも。ビデオ通話とか使ってるから顔は見てるけど」
「どんな人か、もっと教えてくれ」ジェイミーは、アメリアにもっと話してほしかった。思いつきのまま喋る彼女の言葉の抑揚に表れる色彩が好みだった。音の揺らぎと閃きの合間に零れるかすかな火花が。彼女の内側からあふれる感情は美しかった。
「ええと、彼は九歳年上で、性格も見た目もわたしとは真逆。肌の色も違う。父はフランスの白人女性と別れたあと、フランスの黒人女性であるわたしの母と再婚した。父親のフランス好きは置いといて、兄はなんていうか、稲光みたいな人。彼の気性は、ほんとそう。稲妻そのもの。わかるかな」
「いまならすごくわかる」
「わたしの母とは距離を置いているけど、わたしにたいしてはちょっと過保護で、でもそれを知られたくないって思ってる。日本にお店を作ったことに、わたしに寂しい想いをさせないためっていう理由も含まれてることを悟られたくないみたい。毎週末に必ず電話をかけてくるけど、いつも一方的に自分の話をして、眠くなったら切ってしまう。ハイになってきただとか、好きなドラマが始まったときも切っちゃう。わたしが変わりなく無事なら、今週はもうそれでじゅうぶんだって。そういう人」
「勝手だ」
「そう、勝手なの。すごくね」
「稲妻だしな」
「そのとおり。予測不能なの」
「案外、寂しいのはあっちのほうかもな」
「ああ……そうね。考えたことなかったけど、確かにね」
 アメリアはくすくす笑い、それからメールに文字を打ちこみながらすこしだけ涙でまつげを濡らした。とても久しぶりに兄に会えることがうれしかったからかもしれないし、未だ遠くの波の音のようにかすかに、少女の助けを求める声が聴こえてくるからかもしれなかった。
 そのあいだ、ジェイミーはずっと黙ってくれていた。彼の姿は五〇〇メートル離れていても彼だとわかるくらい主張が激しいが、黙っているととても静かで、更にその沈黙はあたたかくすべてを肯定してくれているようでもあった。
 ああ、この人ってわたしの故郷とおなじ雰囲気がある。アメリアは彼のことを好きになった理由に、またひとつ思い当たった。
 アパートメントに着き、車を路上駐車して玄関まで送ってくれたとき、アメリアがドアを閉めてしまう前に、ジェイミーが口を開いた。
「心配ない。その子、見つけるから」
 アメリアはうなづいた。「わたしも一緒に」
「当然」
 ふたりは数秒見つめ合い、先に視線をそらしたアメリアが、部屋のなかを指差す。「じゃあ、シャワーを浴びて、着替えて、また合流する」
「きょうはもう休んでもいいんだぞ」
「ねえ、十七時半頃に迎えに来てくれないかな」どうしても行く、と主張する代わりにアメリアはそうお願いした。
「アメリア、あのな……」
「待ってる」
 ジェイミーは、また数秒彼女を見つめ、左側から右側へ、重心を移動させながらため息をついた。首を振り、諦めの笑顔を浮かべる。「わかった」
「じゃあ、あとで」
「ああ、あとで」
 ドアを閉め、ジェイミーの足音がためらいがちに遠ざかっていくのを聞きながら、用意ができるまで部屋にいてほしいと言えたらよかったのに、と彼女は思った。
 更にこうも。そちらの考えは決意であり、だから実際に声に出した。絶対にそうする、という意思を込めて。
「髪を切らなくちゃ」



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