そこにいるだれかと我らの未来のために【4】

【4】

 久屋の大通りから裏道を今池方面に辿っていくと、Kの情報提供者のアパートメントが、家と家と高層マンションに包囲されてひっそりとうずくまっている。二階建てのコンドミニアムタイプが三つ連なっている物件のうちの左端のひとつで、明るいクリーム色だった壁が、汚れきってほとんどグレイに見えている。
 どこからか赤ん坊がいちどだけ、長く嬉し気な声を出すのが聞こえる。なにか面白いものを目にして、たまらずに上げてしまう類の歓声だ。それきり黙ってしまったのは、そのなにかをじっと観察しているからなのか、もう興味がなくなったのかのどちらだろう。食事の用意をしている家があるようで、スパイスのいい香りが漂っている。猫が塀から飛び降りて、身体をぶるっと震わせてから、ゆったりとした動きでさらなる細い路地を探索しに行った。
 情報提供者のマリア・ガリシア‐コルベラと母親のふたりが住む部屋はエアコンが壊れたままになっているから、暑い日は窓どころか玄関ドアも開け放してあることが多く、きょうもやっぱりそうなっていた。ドア枠にもたれて煙草を吸っている人影があった。母親はこの時間は仕事に出ているはずだ。昨夜の酒が抜けずに、リビングのソファで寝倒れているのでなければ。だからKは最初、彼女がマリアだと思ったが、もう少し近づいてみるとそうではないことがわかった。しかし雰囲気がどことなく似ている。
「マリアはいる?」
 煙草を吸っていた女性は、Kに気づくと、最後の煙を細く長く吐き出してから地面に落とし、赤いサンダルのつま先で火を踏み消した。
「学校に行ってるけど」
 落ち着いた低い声で、彼女は答えた。表情は読めない。好奇心があるのだとしてもあからさまにならないよううまく隠している。ただ、観察はされているとKは感じた。
 こちらも、失礼にならない程度にさらりと見る。白いタンクトップにデニムのミニスカートを穿いていて、むき出しの両腕にタトゥーが散っている。いくつかのスペイン語、ラテン語らしき短い文、ダイヤモンドにラブレターに、目玉焼きとカップからあふれたコーヒーもあった。クロワッサンがコーヒーからそれほど離れていない肘の内側にあるのを見つけて、Kはそっとほほえんだ。左の足首の外側にもちいさく赤いハートが描かれている。好きなものを少しずつ描き足していっているみたいで、その行為をとても可愛いと思った。
 マリアと同じ濃いブラウンのストレートヘアを後ろで緩く纏めていて、よく炒ってハチミツを絡めたナッツの色の目をしている。Kは不意にマリアには姉がいることを思い出した。だけど、日本には住んでおらず故郷のスペインにいるはずだった。もしかしたら、一時的に遊びに来ているのかもしれない。
「あなた、マリアの身内?」
 Kが訊くと、女性は目にかかる前髪を首を振って払い、形のいい唇の片側をちょっと上げてみせた。その瞬間彼女の顔に光が当たり、瞳が金色にきらめいた。
「だったらどうなの」
 Kは黙って彼女の前まで歩き、ドア枠の反対側に背中をもたせかけた。「わたしはK」それだけ言って、反応を待った。
 
 Kとマリア・ガリシア‐コルベラは一年ほど前にバーで出会った。マリアはそのとき十六歳で、Kが仕事の帰りにひとりでカウンターで飲んでいるとき、柄の悪そうな仲間数人と来店してきた。ほどなく、仲間の男女ふたりが、なにも注文しないうちから店員ともめ事をおこし始めた。会話は聞こえなかったが、おそらく未成年には酒の提供ができないと断られたのだろう。実際あとでマリアから話をきいてみたところ、そのとおりだった。仲間の家や外で散々酒を飲んで酔っている彼らはいつも断られるとわかっていてバーへ入り、似たようなもめ事をおこすのだった。
 バーの用心棒が割って入り、警察に通報されるあいだ、マリアは腕組みをして壁にもたれ、できるかぎり平静を装ってはいるようだったが、首を竦めてせわしなくあたりを見回していた。Kと目が合った。もうこんなこといやだ、とその目が訴えているように、彼女には見えた。Kは底に残ったスコッチソーダを飲み干し、グラスを置いて立ち上がると、フロアの真ん中で揉めている人たちを迂回してマリアに近づいた。
「もうあいつらとつきあわないって誓えるなら助けるけど、どうする」
 マリアは大きな瞳でKをじっと見て動きを止めた。もしかして言葉が通じていないのだろうかと少し不安になるほどの時間が過ぎたあたりで、彼女は小刻みに何度かうなづいた。
「行くよ」
 馴染みのバーテンに合図して裏口から出ようとすると、仲間の男がそれに気づいて、帰るならおれの服を返せとろれつの回らない舌で大声を押し出した。マリアはびくりとして立ち止まり、それから素早く振り返ると、ぶかぶかのブルーのパーカーを床に脱ぎ捨てて男をにらみつけた。そして、黒いブラジャーとジーンズ姿のままKを追い越した。Kは自分のジャケットを脱いで彼女の肩にかけた。
「べつに、いつでも別れてよかったんだし」とマリアは吐き捨てたが、誰が聞いても強がりだとわかる口調だった。引き止められないことに傷ついているようにも見えたが、歩調を緩めることはなく、Kはその姿に尊敬のまなざしを送った。
「好きになる相手って選べない。そうだよね?」硬い口調で、マリアが言った。
 Kは答えた。「まったくそのとおりだよ」
 その日からKはなにかとマリアを尋ねた。アルコールに浸りっぱなしの母親と二人暮らしで、家のなかも彼女の生活もめちゃくちゃだったのを、一緒に整頓し始めた。出席日数ギリギリだった大学へも通わせ、まともな食事をさせた。マリアが優秀だと気づくのにそれほど時間はかからなかった。母親と心を通わせるのが困難なことからくる無力感のせいで、無謀な行動に出るようになっていただけだった。
 マリアは、そのときの出会いからほどなくして、スペインと日系の女性ばかりでできたごく少人数のグループを自分で作り始めた。最初はただ街中でたむろしているだけだったが、やがてさまざまな技術と統率力を身につけた。その頃にはKとマリアはだいぶ仲が良くなっていて、信頼関係を築き、お互いの生活や学校や仕事やプライベートのこともよく話すようになっていた。仕事に関しては、“heard”の秘密保持に抵触しない程度に、あくまで警察関係者だといって。仕事の愚痴にたいするマリアのアドバイスは的確で簡潔、そして冷静だった。人脈は広くて情報も豊富だが口は堅い。まさに理想的な話し相手だった。
 マリアがKを手伝いたいと申し出るのに、そう時間はかからなかった。仕事のことを深くは聞かない。自分たちのグループの活動資金のために成功報酬はほしい。そういう条件で。
 いまでは彼女たちは、Kが頼めばなにを置いても駆けつけてくれるし、張り込みもかなりじょうずだった。
 グループへの加入はかなり難しく、警察やFBIの採用試験を参考にしてこの上なく狭き門にしているらしい。そもそも彼女がなぜこんなグループを作ったかというと、もともとはKのためなのだった。自分を助けてくれた人への恩返しをしようとして楽しくて得意なことを進めていった結果、若年層で形成されうる限り、このあたりでは類を見ないほど最強の密偵グループと、最恐の面接官が完成してしまった。
 先日、グループの最年長の日本人の女性が、愛知県警のサイバー犯罪対策課へ入ったそうだが、マリアに言わせると、彼女は警察にはもったいないからもっといいところからスカウトが入るはずだそうだ。
 Kは、マリアは将来“heard”うちに所属してくれればいいと思っている。いまはまだ組織の名前を教えてはいないが、彼女がその気になれば調べられるかもしれない。現在“heard”はスカウトは行っていないらしかったが、しかるべきときがきたら、Kが推薦してもいい。

「あなたがKなの」
 マリアに似た女性は両頬にえくぼをつくってほほ笑んだ。「マリアから聞いてる。あの子、あなたの話ばかりするのよ。なるほどね……」
「なるほどって?」
「なんでもない」女性は、肩を竦めて顔ごと視線を逸らした。下唇を噛んでもう一度Kを横目で見る。もし視線に色がついていたら、いまごろKの頬に沿って線がひかれていたはずだった。
「それで、あなたは?」マリアが自分のことをなんと言って話しているかは気になるが、とりあえず会話を続けることにした。
「あたしはマリアの姉……」そこで、赤ん坊の大きな泣き声が家の中から聞こえた。「リアーナ!」
「リアーナ?」
「それは、いまあたしが見えるところにいないことに気づいて、動揺して泣き出した天使の名前。あたしはグレイス」
「グレイス」
「そうよ。グレイス・ガリシア‐コルベラ」
「そう」
 ここへ着いたときに聞こえた声もリアーナだったのだ。グレイスの天使は先ほどと同様、一呼吸分ほど大きく声をあげたものの、すぐに静かになった。
「あのかわいこちゃんは、なにごとにも動じないの。最初びっくりしても、まあしょうがないかって感じで」部屋に入ってすぐのところにあるソファのひじ掛けに彼女のほうを向いて置かれたベビーカメラを見て、グレイスが笑う。
「大物だね」
「そうよ。まだ一歳にもなってないのに、すでにあらゆる素質を備えてる」
 幸せそうに笑っているグレイスに訊きたいことが不意にたくさん浮かんできたが、きょうここへ来た目的は彼女ではないことをかろうじて思い出し、Kは改めて尋ねた。
「それで、マリアはどうしてる?」
 おかしな男のところにも行かず、事件に巻き込まれて逮捕されたりしておらずちゃんと無事この家に住み続けているか、という意味も含めての質問だった。グレイスは笑顔の余韻を残したままでじっとKを見つめ、もたれていた柱から背中を起こした。
「あの子は元気よ。今月からようやく、あたしの仕事がこっちでもできるようになったから、同居することにしたの」
「リアーナを連れてスペインから来たの? 大変だったんじゃない?」
 グレイスがまた笑う。数分前までは警戒されていたはずだったが、妹の敵ではないことがわかると途端に打ち解けた雰囲気になった。
「こっちに着いてすぐ産んだの。空港に着いた途端に陣痛が起こって、あたしが働くことになった病院でほんとにすぐにね。車いすで運ばれたんだから。で、引き継ぎ書を読みながらきれいな病室で過ごして、先週退院したばっかり。あたしの話ばっかりでごめん。とにかく、マリアはだいじょうぶよ。いまはあたしっていう保護者がいるから。そういう意味で訊いてるのなら」
 仕事で得た金のほとんどを酒代に使ってしまうマリアの母親は保護者の頭数に入っていないようで、Kはだいぶ安心できた。マリアの味方が近くにいてくれるのはありがたい。
「そういう意味もあったよ。マリアの近況をもっと聞きたいんだけど、あいにくきょうは別件で会いに来たの」
「それは残念」
「残念?」
 グレイスは、ちらりとベビーカメラに視線をやって、含み笑いをしつつ親指の爪を噛んだ。
 どうしても人の視線を集めてしまうタイプの人間がたまにいるが、彼女がまさにそうだった。内側から光があふれて、周りを明るく照らしている感じだった。
「天使はまた眠ったみたいだし、あたしはひとりだし、一時間かそのくらいでマリアが大学から帰ってくるまで、いろんな話ができそうだったのに。急いでるってことでしょ?」
 Kはまず青空を見上げ、湿った空気をできるだけたくさん吸い込んだ。
 いま抱えている事案の緊急性は高い。先程忍び込んだ家の主の行方を詳しく調べるなら、マリアでなくてもほかにも頼れる機関がある。だけどそちらを利用する場合は面倒な手続きがあり、記録も残されてしまう。Kたちの組織は、できるだけ公の機関に記憶と記録を残さないことで存続できている。だから有能な情報提供者は貴重なのだ。
 彼女の誘いは、彼女自身も含めとても魅力的だった。それほど時間を置かずに帰ってくるという情報提供者の帰りを待つまでに過ごす相手としては、この上なく。
 たとえここで貴重な時間が消費されようとも、あとで挽回すればいいのだし、わたしにはそれができるわけだし。Kは内心でうなづき、あげていた顔をふたたび天使の母親に向けた。
「知っておきたいんだけど、あなたの夫は?」
 Kが質問をしている最中に、グレイスは彼女に半歩近づいた。きらきら光る瞳が真っ直ぐにこちらを見据え、ゆっくりと細められる。もう胸がくっつきそうなくらい近く、彼女の香水の、星空を頂く小高い丘にいるようなひそやかで神秘的な香りに捕まってしまった。風に舞う髪や服から煙のにおいはせず、吐息がわかるくらい近づいてもハーブの香りがするだけだ。子どもに影響しないように、見た目は煙草でも成分が違うのかもしれない。
「リアーナの父親のこと? あのタマなし野郎  ごめん。彼ならどこかで元気に生きてるはずよ。あたしが天使を宿したって判明した直後に別れてるから、正確な居場所はもう知らないけど」そして、甘い声で少しだけ笑って、逆に訊いてきた。「ねえ、いまの質問って、マリアに会いに来た出来事と関係あった?」
 Kはなにも答えず、ただ軽く肩を上げるに留めた。普段から、答えにくいことは可能な限り濁して済ますようにしていることもあって、ここでもそれを貫いた。
「入って。このあたりの人のことなら、あたしもちょっとは知ってるから」
 最高。Kは言い訳をつくってくれた彼女の誘いに乗ることにした。
 固定されたユニフォームと見た目のせいで、Kはもしかしたら組織内で最も堅物だと思われているかもしれない。常に仕事を優先させないと罪悪感が沸くタイプだと、彼女を評価している人は少なくないはずだった。だが実際は誰よりも息抜きがうまいと自分では思っている。すくなくともメンバー内ではダントツに。時間をどうにか捻出して食事も睡眠も必要なだけ摂るし、魅力的な誘いはできるだけ受け入れる。
 コツは、捜査の内容に少しでも関係があるように感じたなら、それをやっていいと決めてしまうことだった。公私混同もためらわない。重大な違反行為だけを頭に叩き込んでしまってからは、マニュアルは読み返さないし、組織内の人間に些細なルール確認は絶対にしない。してしまうと、駄目だと言われたときに身動きが取れなくなるからだ。
 だから噂でしか聞いていない(ほんとうは研修のときにはっきりと指導されていたが、そういうことにしている)、「情報提供者を選ぶ際のルール」もいくつか都合よく解釈したり、省いたりしている。
 情報提供者への謝礼は組織から支払われるから、彼らの悪癖を弱みとして利用しないこと。このあたりがもっとも重大な事項だろう。
 この、『悪癖を弱みとして利用しない』ことの延長線上にあって、もっとも不可解なルールで、『情報提供者と肉体関係を結ばないために、互いが自らで把握できている限りの性自認内による対象性の者を情報提供者に選んではいけない』というものがある。
 要は、身体を使って情報を得ない、または見返りとして相手から性行為を強要されない(こちらもしない)ために、お互い性対象ではない性別の相手を選べ、という古式ゆかしい人間の考えたらしいルールがあるようなのだ。
 人間はそんなに単純にできていない、とKは思う。セックスを利用して情報を得て、一緒に寝起きするうちに生活のリズムを合わせだして、やがて(もし使用しているなら)同じようにドラッグかなにかに浸かってしまう、ドミノ式の転落劇を、創始者の誰かが妄想したらしい。恐ろしいまでに人間を信用していないうえにやたらと短絡的な思考の持ち主だ。
 Kは男女関係なく、お互いに惹かあえればためらわず寝る。ルールに則るとだれも選べないということになってしまってとても不便だ。だからKはこれを完全に無視し、男女どちらの情報提供者も持っていた。さすがにどちらとも寝てはいないが。
 これまでに性的嗜好をだれかに伝えたことはない。もし本気で恋人と呼べる関係になった相手ができて、さらに、滅多にないことだが絶対にないとは言い切れない、いつか組織の人間に紹介するといった事態が起こってしまった場合のために、このあたりのデリケートで他人に説明のしにくい部分は、秘密主義を装って常に曖昧にしておいている。
「ねえ、Kの本名を尋ねたら殺されるって、本当?」
 リビングに案内しながらグレイスが訊いた。目がずっと弧を描いている。足取りは軽く、ほとんど優雅といってもよかった。
 情報提供者の姉か、と一瞬ためらいが浮かびかけたものの、そんな思考は脳内でもみ消した。グレイスの吸っていた煙草とおなじように粉々に。
 意外にも部屋の中は涼しかった。真新しいエアコンが一階部分をほどよく冷やしていたおかげで。半分振り返ったグレイスの指先がKの手に触れる。指先だけ引っ掛けあったまま、ソファへと導かれる。
「そうだよ。だから訊かないで。あなたには生きていてほしい」
 グレイスの笑顔は、一片の曇りもなく完璧な、読み間違えようのない唯一の歓びの表現のようだった。大いなる許しに似た安心感をもたらす女神の笑み。細い指先で胸を押され、ソファに倒れ込んだKを見て彼女はもっと笑う。背中の下敷きになったベビーカメラを拾ってローテーブルにこちら向きに置いてから、身体をずらしてグレイスの場所を確保すると、彼女はそこに滑り込んできてぴったりと身を寄せて座った。
「マリアがあたしに、あなたのことなんて言ってたか知りたい?」
「知りたい」
「女の子にものすごくモテそうっていうのと」グレイスは耳元に唇を寄せ、更に続けた。「あたしのタイプだって」
 Kは心の中でマリアにお礼を叫んだ。
 彼女はまさに恩寵グレイス



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