そこにいるだれかと我らの未来のために【6】
【6】
「いまの状態になってしまったとき、きみはまずどう感じた?」
デクラン・ナヴァレスの適度に低く温かみのある声は、聴くものに安心感を与える。暖炉に火がついて、それがゆっくりと音を立てて広がっていくのを見ていると心が落ち着いてくるのと似て、安全で、あたたかく、守られていて、すべてだいじょうぶなのだと請け負ってもらっている信頼感があった。
十七歳のイザベル・キムは、弟のリョウヘイと一緒にこの部屋に入ってきたときには、おどおどとして落ち着きがなかった。ブランケットのようにおおきくて厚手のシャツの袖を、手を全部引っ込めたいみたいに何度も伸ばして握り直してしわくちゃにして、肩もこわばっていた。できることなら服の中に頭まですっぽりと隠れてしまいたい。そのままここから運び出されて、家に帰ってベッドの中でうずくまりたい。そういう欲求がうかがえた。
デクランはきょうだいふたりの距離感を測り、まずイザベルをデスクの前のひじ掛け椅子に、リョウヘイを窓際の、大柄な人間三人がゆうに座ることができるくらいの長いカウチに案内した。それから、弟のリョウヘイに飲み物の好みを尋ねた。アイスティーを氷少なめで。それを用意しながら、イザベルにも同じことを訊いた。
彼女はちらりと弟のほうを見やり、戸惑った様子でなんでも、と答えてから弟と同じでいいと言いなおした。次にシロップが要るかどうかを、今度はイザベルに先に訊くと、彼女は肩を上下させただけでなにも答えなかった。
「シロップ、要ります。ひとつずつお願いします」リョウヘイは、姉にそっと笑いかけた。
イザベルは、デクランと弟に交互に視線を動かして、なにか言いたそうにしていたが、結局黙ったままだった。
彼女のだいたいの特徴を知るには、とりあえずはそれで足りた。ある意味、じゅうぶんともいえた。
手の届く範囲に飲み物を置いたが、どちらも手をつけない。きっとイザベルは弟がグラスを取らないなら自分も飲まない。デクランは自分の椅子に座りながらマグカップを持ち上げ、とっくに冷めた緑茶を一口飲んだ。ふたりの名前を丁寧に呼び、挨拶をして、それから件の質問を、イザベルにしたのだった。
イザベルは市内の高校に在籍しているが、ここ数週間は通っていない。弟も同じ学校に籍があった。彼はイザベルより一歳年下で、幼い頃はふたりとも暗くなるまで外で遊び、どっちがどっちかわからないくらい泥だらけになって帰ってきたものだったそうだ。確かに顔立ちがよく似ている。リョウヘイのほうがやや女性的で繊細な風貌をしていて、優しそうにも見えた。気弱そうな態度に反してきりっとした目元をしているのがイザベルで、特徴を掴んでおかないと判別が難しい。子どもの頃は特に、近所の人からもよく見間違えられたそうだ。
父親は韓国からの移民で、日本でインテリア関係の店を起業して、現在は従業員を二百人ほど抱え軌道に乗っている。帰りは遅いが外泊はほとんどなく、家庭が第一と考えている。会社は将来リョウヘイが継ぐべきだと公言していた。
母親は日本とメキシコのハーフで、もう二十年近く、エステティシャンとして働いている。一方で栄養士としての資格を取り、十八時までには帰宅して家族との時間を持つように心がけている。郊外におおきな家を建て、飼ってはいないがときどき通ってくる二匹の猫の面倒をみている。一匹は脚を引き摺っていて、もう一匹は片眼が潰れている。
幼稚園に通う頃、リョウヘイは昆虫を接着剤で壁にくっつけてその手足をマッチの炎で焼いた。小学校に上がって少し経ってから、ウサギ小屋に犬を放った。一匹だけ連れ帰った生きたウサギを布の袋に入れて池に沈めて死なせ、それを姉のせいにしようとして失敗している。両親が激怒し、それ以来、動物への虐待がぱたりとやんだ。
これらは、事前にイザベルが送ってきたメールに記載されていた概要だった。
『ひどい弟の影響をなんとかしてほしい』というのが彼女の希望だ。彼女は弟に虐待されていることを明確に自覚している。弟が女性をやたらと軽蔑していることも知っている。そのメールをもらった翌日、デクランは彼女に電話をし、許可を得て五〇分のセッションをした。会話をするのはきょうで二度目だが、こうして顔を合わせるのは初めてだ。電話のとき、弟は近くにはいないようだったが、いつ現れるかわからないと彼女は言った。怯えて、ほとんどささやき声で、しかし意思は強く、言葉にするのが困難なことまでがんばって伝えてくれたのだ。弟が普段、どんなふうに自分の精神を追い詰めてきたのかを全部。
それはほんとうに虐待だった。ぱっと見すぐにわかってしまう身体へではなく、心をずたずたにする、陰湿で巧妙な暴力だった。
動物への虐待も、やめたのではなく、隠すことを覚えたのではないかとデクランは推測した。衝動というのは、怒られたくらいで完全に収束するものではない。もしかしたら、近所の傷ついた猫たちも、リョウヘイがなにかをした結果そうなってしまったのかもしれない。断定することはできないが。
なに不自由なく育った家庭の子どもがなぜ、という見方を、デクランはしない。環境はその人物の概要と紐づけされてはいるが、生きものにはそれぞれ持って生まれた資質があり、それが環境と作用して生じる結果として、行きつく先は無数に存在する。人は良くも悪くもどうにでもなりうる。先入観がなにより怖い。デクランは常にそう考えている。
「どうって」
イザベルはシャツの袖を握り直し、カウチの上で身を竦ませた。ちいさくちいさく丸まって、そのまま化石になるか、消えてしまえないかと願っているようだった。自分に起こっている出来事や感情をしゃべらずに済むならなんでもいいと思っているのがありありと窺えた。
「わからないけど……ショック?」
どうにか答えたその声は、弱々しく震えていた。顔の半分を覆うほど伸びた前髪をときどき鬱陶しそうに首を振って払っているが、決して顔を上げようとしない。
「ショック」
デクランは柔らかく肯定的に繰り返した。彼女を理解するためにできるだけ自発的に話させたかった。それにはまず怯えた亀を甲羅から引っ張り出さなくてはならない。目の前にいるのは自分を食べようとしているキツネなどではなく、助けてくれる人物なのだと理解されなくてはいけなかった。今回の事態の危険度と緊急性を考慮すると、できればこのカウンセリングの持ち時間五〇分のうちの、できる限り前半に信用を得たかった。次回に持ち越しなどはあり得ない。きょう心を掴まなければ、イザベルがここへ来ることは二度とない。
彼がスーパーパワー保持者専用のカウンセリングルームを日本で始めたのは、だいたい三年前だった。それまで彼はメキシコに住んでいたのだが、旅行で訪れたこの地に惹かれ、直感に従って引っ越してきたのだった。七年連れ添った妻と別れ、一人娘の親権も失ったばかりだった。打ちのめされてはいたが、悲観はしていなかった。娘と一緒に暮らすことはできないが、連絡を取ること、会うことを禁じられてはいない。だが元妻にはもう新しい相手がいた。当時娘は三歳。板挟みにしたり混乱させることはほんの少しも望んでいない。彼は娘が自分に会うことを望むときにはなにをおいても駆けつけることにして、身を引いた。そして、新天地を求めた。娘はいまでは父親がふたりいることをちゃんと理解している。
やがて、リタ・キティチャイと出会った。彼女はクライアントとしてデクランの元を訪れていたが、ほんとうの目的は別にある気がしていた。彼のことを最初から知っていたような態度も垣間見たし、こちらの生活や家族構成を探る類の質問もされた。ときどき、どちらがカウンセリングを受けに来たのかわからなくなるほどだった。
彼女のカウンセリングを初めて数カ月経ったときに受けた誘い文句は、決してデクランの予想に反するものではなかったが、彼は驚いたふりをし、その日のうちに食事に誘った。ほんとうはすでに心は決まっていたのだが、ディナーまで考える時間がほしいと言って。
レストランで、彼女とともに“heard Japan”の責任者に名を連ねることを、カウンセリングルームの継続を条件に受け入れた。リタはそれを承諾し、本部へ話をとおすと言って嬉しそうにワイングラスを掲げていた。
じつはデクランは、彼女を数回カウンセリングしたときから、一緒に働きたくてたまらなくなっていた。守秘義務があるため安心して語られる仕事の内容はもとより、リタ・キティチャイという人間の魅力に興味を覚えた。少しずつ自分を信頼させ、売り込んでいった自覚もある。だがそれは彼女を騙したわけではなく、お互いに目的を知った上で、納まるべき場所へ納まるべきときに納まるように話を進めていっただけにすぎない。時間をかけて、ゆるぎない関係を築いたのだ。自分のスキルを余すところなく使って。
あとで聞いた話だが、“heard”の所長には、現地でひとりメンバーを勧誘できるという特権があったらしい。リタはそれならば是非ともカウンセラーを引き入れたいと希望していて、デクランが抜擢されたというわけだ。
「びっくりした。だって」イザベルはちらりと弟へ視線を向け、またうつむいた。身体じゅう虫が這っていて不快なのだとでもいうように、ゆっくりと上半身を捩っている。「わかんない」
デクランはそれでいいというようにうなづいた。
「じゃあ、ぼくからひとつ、興味深い話をしよう」デクランは脚を組み、軽く両手を広げて見せた。
「リョウヘイはきっと両親に可愛がられて育ったんだろうね。きみたちの両親は男の子がほしかったものだから、もしかしたら、イザベルが放っておかれたようにみえた時期もあったと思う。頭のいいリョウヘイはそれを早い段階で感じ取っていた。ここはどうやら男が大事にされる世界らしいってことをね。きみは……」デクランはリョウヘイをつつくようなしぐさで指さした。「両親の関係性を注意深く観察した。父親の我儘のほうがとおりやすいこと、父が強い声を出せば母も姉も黙ることなどを。男というものはねイザベル、太古の昔から、女性は男性に従うものだ、主張をするものではない。控えめに、かわいらしくあれ。そうしていないと、だれにも見向きもされない、けっして愛されないぞ……という酷い暗示をかけてきたんだ。女性が自分自身の強さと独立心に気づかないように巧妙に。きみの家庭は、残念ながらその慣習が強く残る場だったんだね」ここでデクランはお茶で唇を湿らせ、リョウヘイの笑顔の裏に苛立ちが表れたのを確認すると、おもむろに立ち上がってふたりの視線を惹きつけた。
「じつのところ人間というものは、柳のように強くしなやかで簡単には屈しない芯のある魂を持っている。それを何度も何度も踏みつけて元に戻らないように小細工するのは楽しかったかい? そんなに彼女に執着せず、品性を磨けばよかったのに。他人を自分の手足のように動かすことに費やす時間がそんなにあったのなら。きみ、暇だったろ」
なめらかな早口で語られる、デクランのあからさまに挑発的なセリフに、イザベルは笑ってもいいのかどうか決めかねたといったふうな吐息を漏らした。
「面白いことを言いますね」ようやく口を挟む隙間ができ、リョウヘイは大きく一度手を叩いた。その音は、小麦粉がいっぱいに入った袋のなかで鳴ったようにくぐもって聞こえた。「そもそもぼくは強い女性とやらに出会ったことがないのですが。彼女たちはなにひとつ自分ひとりではできないんですよ。男が傍にいてやらないと自分の好みさえわからない。だからぼくが導いてあげてるんです。すこしでもましに見えるように。ああ、怒ってヒステリックにがなりたてる女はいたけど、それは強さではないし。あなたはほんとうに、男に管理されずにひとりで生きている女性を見たことがあるんですか?」
「ああ、リョウヘイ」デクランはデスクに手をついて首を振った。名前を連呼してやろうとしたが、芝居じみすぎていても逆効果になるだろうからやめておいた。「なんてことだ。なんて狭い世界に存在しているんだきみは。一歩でもいいから両親の傘の下から出てみればよかったのに。この世がどれだけ色彩豊かな女性で溢れていることか。決してぼくら男の反射で存在しているわけではなく」
「まったく馬鹿げてる。男の腕にぶら下がって、同じ女同士、自分の男を取られないようにけん制しあってる、安っぽい腕時計みたいな子たちばかりでしたよ、この世は」
「本質を見る目を養えばよかったんだ、そんな表面的なことじゃなく。きみは女性ときちんと向き合わずにただ手近な存在である姉を支配することに躍起になって、それだけで世界を支配している気になっていただけの臆病な男だろ」
デクランは、すこし早計かとも考えたが、結局リョウヘイの怒りのスイッチを押した。今回のケースは稀なので、悠長に構えてはいられない。イザベルの身の安全のために一気に畳みかける覚悟を決めた。彼女がこの部屋に入ってきた瞬間にそう決断したのだ。
「ぼくが臆病者だって?」
デクランは明確には答えず、柔らかく唇を結び、眉を上下させてみせた。リョウヘイは背もたれから完全に上体を起こし、いまにも立ち上がりそうになっている。もうすっかりいい子の仮面は剥がれているというのに、彼の尻をソファに縫いつけているのは、まだどうにか取り繕えるはずだという驕りだけだった。ぼくはまだいい子で人に愛されている。だからこの男も丸め込めるはずだという哀れで的外れなエゴだ。これまで生きてきて身に着いた癖ともいえる。人は、一度成功したことに依存する。よほどの意識改革が訪れない限りいつまでもずっと。
デクランはちらりとイザベルを見た。彼女はもうほとんど泣いてしまいそうな顔をして、弟からすこしでも離れたいみたいに椅子の背のほうへ身体を押しつけていた。喉の奥が震えてかすかな音を立てている。その姿に限界を感じ、デクランは再度リョウヘイへと意識を向けた。彼に態勢を整える間を与えたりはしない。彼女にとってはきつい時間だが、いま止めるわけにはいかなかった。
彼は問いかけた。とても静かに、秘密を打ち明けるようにひそやかに。
「ヒステリックにがなりたてる女性を見て、きみはなにをした?」そしてさらに続けた。「きみは姉の体形やセンスや表現のすべてを、心配を装って批判し続けた。違うかい? ああほら、そんなふうに、困ったような笑顔は得意だろう? 『ママ、またお姉ちゃんが隠れてアイスクリームを食べてる』『そのネックレスは安っぽく見えるんじゃないかなあ』『こんなこともできないの? あんなこともわからないの?』などなど。さあリョウヘイ、きみのいうヒステリーを露わにする相手にたいして、きみはどうふるまった?」
「宥めましたよ、もちろん。女性が感情をあらわにするなんて……」リョウヘイはちらりと姉を見て居住まいを正した。「彼女たちのためにもよくないですし。周りから変に思われるといけないので。扱いにくいというレッテルが貼られると、この社会では遣りにくくなる」
デクランの予想どおり、リョウヘイは相手を気遣う素振りの手札を使った。彼はそれを受け取り、ゆっくりと破り捨てる。
「扱いにくい、ね。人間だから当然感情は存在する。それを、見ていられないから宥めた? 女性の怒りと向き合えないくらい、きみは弱かったのかな。女性が怖かった? だから押さえつけたの? きみが言いたかったのはこういうことだよね。『優しくてか弱いぼくのママが感情をあらわにする姿なんて、到底受け入れられない』」
「なんだって!?」
「もうやめて! やめて、やめてよ!」
イザベルが耳を覆って叫んだ。リョウヘイが驚いて目を丸くしている。おそらく姉がここまで感情をむき出しにすることは今までになかったのだろう。
イザベルは極端に男性の罵声が恐ろしいのだ。確信があったわけではなかったが、リョウヘイのわざとらしいまでに柔らかな物腰とイザベルの怯えようからして、弟が彼女を精神的に支配する手段として用いたのは、暴力的な態度で怯えさせることから始めて恐怖を植えつけ、ときとして柔らかい態度で接し、彼女のすべてをやんわりと否定して徐々に自信をなくさせていったことだとデクランは見立てた。否定しておいて、皆が離れて行っても自分だけは傍にいてあげられるのだと言い、共依存関係へと持ち込んだ。その結果が、いまのこの緊迫した状況だ。弟を怒らせないためにイザベルは彼の言うことを聞くようになったのだ。
デクランにはこのきょうだいの間に細くて透明な糸が見えていた。ピアノ線のように強く、クモの糸のようにしつこく絡みつく糸が。
「あの、ごめんなさい。でも聞いていられなくて」イザベルは喘ぎながら続けた。ほとんどささやき声で。「こんな……こんなにひどかったの?」
「どういう意味だい?」
「イザベル、こんなところで大声を……」
デクランの問いは、リョウヘイがとがめる声で遮られたが、先へ進められるチャンスでもあった。「いいんだよイザベル」デクランはにっこり笑った。「どんな気分?」
「気分……」
「悪くない?」
「うん」イザベルの表情は、ここへ入ってきたときよりもだいぶ柔らかくなっていたのだが、それもリョウヘイに視線を転じるまでだった。彼に睨まれ、彼女はうつむいた。「すみませんでした。取り乱して」
困った関係だね、とデクランは内心肩を竦めた。この若さでこんなにも女性を軽視して、しかもそのことを隠そうともしないなんて。
若さなどもしかしたら関係ないのかもしれない。人は生まれてからかかわる人間すべてから影響を与えられるが、どのふるまいいかたを選んでどれを捨てるかを決めるのはその人自身だ。リョウヘイはただ、男性優位の楽な部分を、深く考えずに受け入れてしまっただけなのだろう。そのことをデクランはとても悲しく、奇妙で、そしてもったいないと感じた。
結局のところ、彼は女性に甘え切っている。セラピストとしてこういう意見を持つことで、カウンセラー失格と言われても仕方がないが、このタイプのケースはほんとうに、反吐が出る。デクランは笑顔でうなづきながらも、腹の底でそう毒づいた。
こんなときには“heard”のメンバーがいっそう恋しくなる。彼らには個々の性質しかなく、性別や立場としてのふるまいを押しつけられることを鼻で笑う度胸もある。そして、それぞれが自分の信じる愛をもっている。そういうところに身を置きたかったから、デクランはリタに自分自身をプレゼンしてきたのだ。
騙されたなんて言わないでくれよリタ。ぼくはじゅうぶん役に立っているだろう?
片手を腰に当て、もう片方の指先をデスクに伏せさせたリタが、出来の悪い生徒にたいしてこれからどうしてやろうかとでもいうように緩く首を振る姿を思い浮かべ、デクランは自分の心を優しく甘やかした。これから告げる事実によって、イザベルが怖がって逃げていってしまうなどといった展開を避けるために、己を集中させる餌としても。
「イザベル、ここはきみにとって安全な場所だ。なにを言ってもぼくはジャッジしないし、きみを救うためにできるかぎりのことをする。そのことをどうか信じてほしい」
イザベルはかすかに震えながら顔をそっとリョウヘイに向けようとした。
「イザベル、こっちを見て。彼じゃない、ぼくを見るんだ」
「は、い」
視線が、小刻みに揺れて宙をさまよった。
「イザベル、そいつはインチキだ。ここを出ていけ」
「ぼくを見るんだイザベル。彼の言葉に耳を貸さなくていい」
デクランとリョウヘイが話すたびに、彼女は胸を激しく上下させて固まった首をぎこちなく振り向けた。デクランの背中を汗が伝った。実際に掛けられている言葉より、彼女の裡に染みついてしまったリョウヘイの声がとても強い。だがここで負けるわけにはいかない。彼は彼女の脳の内部に入り、弟との癒着部分を探った。幼い頃に受けた暴力と謂れのない辱めの記憶がびりびりと共鳴しあっている。飼っていたペットが死んだのを自分のせいにされ親から叩かれた記憶はぼんやりとしていて、イザベルが懸命に封じ込めているようだったからいまはそっとしておく。弟への警戒心、猜疑心、当然のように存在している恐怖心、ねじくれた愛情もわずかにある。そして彼女自身への戒めと後悔と罵声の隙間を縫ってさらに奥へと入る。
「いますぐ立ち上がって、そのドアを開けるんだぼくの可愛いイジー。さあ、いますぐ」
黙っていてくれないか。デクランは現実でも舌打ちをしてしまいそうになり、慌てて舌を噛む。頬がひくついてしまったが、リョウヘイに見られなかったようでほっとする。だがこの男は気づいている。まだ自分の影響力が姉の中に色濃く残っているのを。
癒着だ。癒着部分を探すんだ。
「話してイザベル。なんでもいい、いま考えていることを言葉にしてぼくに聞かせてくれ」
乱れそうになる呼吸をどうにか抑えて、デクランは身を前に乗り出した。デスクの上で片方の手を丸め、親指の爪を手のひらに痛いほど食い込ませた。
「せ、先生は、その……」
精神の中の混沌で、イザベルが必死に手を伸ばしている。デクランはそれを見逃さなかった。
癒着ではない。だがそれに近いサインだ。じゅうぶんだ。
「デクランと」
「デクラン、あなたは、その……」
デクランがイザベルの手を掴んだ途端、目の前にいる彼女の呼吸が楽になるのを感じた。
やった、つかまえた。
「弟と会話ができている」彼女は、急に声を出しやすくなったことにたいしてとても不思議そうにしながら、そう言いきった。
「ああ、できているよ」
「どうして? だって、弟は死んでる。三週間前に、事故で死んだんだよ!」
バン! と発砲音に近いおおきな音はイザベルの脳内だけで鳴った音だったが、そこにとどまったままのデクランは衝撃を受けてわずかによろめいた。それでも掴んだ手は離さなかった。きっと彼女もそれを感じ取れているに違いない、イザベルはようやく真っ直ぐにデクランを見て、そうだよ、死んだんだよ、と安心して呟いた。一呼吸も待たずに、見開いた目から涙があふれた。弟を怖がることなく発言できたのだ。ソファの上のリョウヘイの姿が、怒った顔のまま一瞬ぼやけた。彼女の脳内の霧がすこしだけだが晴れた。
だいじょうぶ、ぼくはもうきみを見つけた。デクランはそっと彼女の手を放し、カオスの中にいる小さな頃の姿をしたイザベルを指さしながらウインクをした。ちゃんときみが見えてるんだよ、と。少女はにっこり笑ってうなづいた。そして、こちらにすこし近づいて、口の動きだけが『あたしを、ぜんぶ、たすけて』と言った。デクランがそれにうなづいてみせると、もっと上、天の方へ向かって走って行った。まずは過去の修復への足がかりができた。これですべて完了というわけではもちろんないが、癒しの道すじさえ作ることができれば、傷を負った彼女たちはそこから徐々に解放されていく。
完全に現実に戻ってきたデクランは鼻の下についた微量の血を親指で擦り取った。念のためティッシュを取って鼻に当て、それ以上の出血がないことを確かめる。久しぶりの感覚だった。激流のような精神内に侵入したときはいつもこうだ。それでも、いちいち失神していた若い頃よりもだいぶ耐性がついてはいたが。
それにしても彼女の内部は凄まじかった。ほとんどカオスと言ってしまってよく、トラウマに対応するために多くの人格が生み出された形跡が見えた。実際、数人の人間をばらばらにして、記憶と負の感情を接着剤にして適当にくっつけられたみたいだった。
「普段のぼくは、クライアントにたいしてこんなふうに説教じみたことを垂れたりしない。だけど今回は、きみときみの弟に感情を出させて、この世との距離感を測りたかった。彼にはどうやら実態がない。だけど、意思の疎通に問題はない。興味深いね」
「そう、ぼくは死んでる」リョウヘイが両腕を広げた。彼の声はいまや、海の家からの緊急放送のごとく、ぼやけた反響音となって部屋の隅へ広がって消えていく。
「きみは、弟に憑りつかれてしまっている気がして、困ってここへ来たんだったね」デクランは彼を無視して、イザベルに訊く。
「うん、そう。その……母がここを見つけてくれて。母の友だちが昔通ってたことがあるからって。それに、憑りつかれてる気がしてるんじゃなくて、実際そうだし。っていうのも……」
イザベルはそこできつく唇を閉じ、また開き、それを何度か繰り返して勇気をかき集めた。やがて、自分自身でも未だに信じられていないのだけど、といったふうに、言葉を押し出した。ビッグフットが大挙して山から下りてきたと告げなくてはいけないときのように。「あたしが一緒のときだけ、家族にも見えるらしくて。その、常にあたしの傍にいるのが。言葉までは聞こえないみたいだけど。それで、ほんとうに、困ってて」
「じつは、幽霊関係はぼくの専門じゃないんだ」おおきく看板を掲げているわけではないが、インターネットで根気よく検索すれば、スーパーパワー専門のカウンセリングとして丸々一年更新していないホームページが見つかるはずだった。
「そ、そうだったんだ、ごめんなさい」
「ああ、いや、馴染みのある世界の話だからだいじょうぶ。できる限りのことはするよ。霊体だと決めつけるのも時期尚早だし、彼が他人からもはっきり見えているってことは、なんらかのスーパーパワーがかかわってるっていう証拠とも捉えられるわけだしね。じゃあイザベル、改めていまのきみの問題を話そう」デクランはにっこりした。「ぼくが見極めたいのは、きみの弟が、ここに存在すべきでないのにしてしまっている彼が、肉体が滅びたあとでもまだこの世にとどまっている魂なのか、それとも……」
「それとも、あたしが創り出しているだけなのか、っていうこと?」
「きみはほんとうに素晴らしい。そのとおりだ。ぼくには思念や気が見える。生きた人間から創られたものや、死んだあとにこの世に残ってしまった魂が。だけど、それらの違いを区別するのは、ぼくにとって簡単なことじゃないんだ。それに、それぞれ対処法が異なるから、ちゃんと知っていないと先へ進むのは難しい。だから、すべてをしっかり見極める必要がある」
せっかく来てくれたのだし、できることなら是非とも解決してあげたかった。もし霊体だった場合で、デクランにもどうにもできない問題なら、外注に頼るという手も使えそうだったので。
「霊体か生きた人間の思念かに違いはあります? そんなにだいじなことなのかな。ぼくはここにいる。ここにいてきみたちと会話をしているんだ。ぼくの身体はもうこの世にないってのに!」姿の薄れたままのリョウヘイが“ヒステリックに”叫んだときだけ、彼の輪郭がくっきりして、またぼやけた。姿が薄れたからといって霊体だと断言することはできない。イザベルの脳内に刺激を与えたせいで、彼女の創り出している幻影も影響を受けているのかもしれないからだ。
「すごく重要なことだよリョウヘイ。いや待って、違うな。正直、肉体を失くしたきみの気持ちなんてぼくには知ったことじゃない。大事なのはイザベルだ。いまはだれが彼女を支配しているのか? きみか、彼女自身なのか。ぼくはそれを知りたい」
このまま放っておくと、また彼は存在感を増すに違いなかった。イザベルと一緒なら、ときには生きた人間と見紛うほどにはっきりと。だけど今後はデクランがふたりの間に割って入る。いつか完全に癒着を剥がして、彼の本来いるべき場所へと弾き飛ばしてやる。
「覚悟するんだなリョウヘイ。ぼくはある種の力を持った男で、女性の味方だ。このまま彼女につきまとい続けるのなら、きっとそのまま死んでいればよかったと思うくらいつらい思いをするだろうね」
リョウヘイの顔が悔し気に歪み、壊れかけた古いテレビのように全身が乱れ、やがて消えた。
まずは一勝。デクランはようやく詰めていた息を吐き出した。
