そこにいるだれかと我らの未来のために【7】

【7】

ちょっとOh gosh、なんなのふたりして」
 Kはアメリアとジェイミーを交互に見ながら、彼女にしては珍しくおおきな声を出した。
「それ、わたしたちがもうやった」アメリアが眉を下げて身を縮めた。
 グレイスと素晴らしい時間を過ごしたあと、戻ってきたマリアと話したが、情報は得られなかった。代わりに、あの家に出入りする人物がいたら即連絡をくれる手筈にしておいて、いまのところは戻ってきたのだった。
 Kが外から戻ってきて地下に降りると、見慣れない後ろ姿をしたよく知ったふたりがアメリアのオフィスのドアの鍵を開けているところだった。近づいてみるとやっぱり見知ったふたりだったのだが、たった三時間程度離れていただけですっかりイメージが変わっていた。
 ジェイミーは、伸びたところはそのままにブロンドだった部分をくすんだグリーンに染め変え、一方アメリアの髪は、肩にかからないくらいの内巻きのブロンズのボブスタイルになっていた。
 なんて可愛いの。Kの目には、背景と共に隣に立っているジェイミーなど霞んでしまった。ふっくらした完璧なハート形の輪郭を覆うつややかな髪と、ピンクのリップをつけた唇から目が離せなくなりそうだった。自分は先ほど、それなりに濃密な時間を、これ以上ないくらい素晴らしい女性と過ごしたばかりだというのに。彼女の天使が目を覚まして、レーダーのごとき正確さでベビーカメラを凝視しだしたため、金曜の夜とまではいかないまでもそれなりに。
 この世に男なんていらないんじゃない? どいつもこいつもくだらない主張しかしないやつばっかりなわけだし。精子だけ冷凍させて、纏めて火星へでも送れば? 三〇歳を目前にして、ほどよく流動的でそれはそれで心地よかった性的志向がいっきに偏ってしまいそうだった。だからといって、とりたてて支障もなさそうだけれど。
「時間が空いたから髪を染めに行ったんだ。元の色に飽きてきた頃だったし。で、アメリアを迎えに戻ったら……」
ジェイミーの視線を受け、アメリアが引き継いだ。「わたしは、急に髪を切りたくなって。気分を変えたかったのと、明日、兄が来ることもあって」
「お兄さん? なんの話?」
「テキスト見てくれた?」
「ごめん、見てなかった」いろいろとあって、見ている余裕などなかった。
「やあみんな戻ったんだね! さっきリタと話して、これから興味深い展開に……ちょっとoh my goodness、なんなんだよふたりして」
 小走りにやってきたトレヴァーがつんのめるようにして立ち止まった。
「やっぱりみんな驚くのね」アメリアがくすくす笑った。
「なんていうか、タイミングにときめくよねえ」
「なんでラビットフットがときめいてんのよ」
「早くくっつけばいいのに!」トレヴァーはくしゃみをする真似をしながら言った。
「急かすんじゃないの。で、お兄さんが来るって、アメリア?」
「そうなの、明日……」
「ところが、もう来てるんだ」
 廊下の暗がりのなかから、満面の笑みを浮かべた男がゆっくりと歩いてきた。
 はち切れそうな胸板にめいっぱい伸ばされたライトブルーのTシャツの上に、ファーのついた光沢のあるダークグレーのロングコートを羽織り、ぴったりしたブラックパンツの腰に巻かれた鋲のついたベルトは二重になっていて重々しい。こういった服装を好む人がよく履いている例に漏れず、さも当たり前のようにパンツの膝の部分は破れ、左側などは太腿部分からも素肌がのぞいているが、それでいてすこしも見苦しくないのだった。タクティカルブーツの踵はシルバーで覆われ、そこそこの厚さの板切れくらいなら軽く粉砕できそうだった。
 飛行機の搭乗ゲートを通過するのに半日はかかりそうなたくさんのブレスレットと指輪、そして高価そうな時計までもを身に着けているせいか、ところどころに薄いブルーのメッシュが入ったシルバーの豊かな髪のせいなのか、いつもは薄暗い廊下が隅々まで明るく照らされている気がする。スーツケースはリモワ製の落ち着いたゴールドで、それもまた眩しさの一因なのは間違いなかった。高級感の面でも色味の面でも。
「アメリア、おれの可愛い妹。元気だったか?」
 すこしフランスアクセントのある英語を話す男の声は意外にも軽くて柔らかかった。彼はお菓子の自動販売機のあたりで一度くるりと回転し、両手を広げてウインクをした。放牧されたスーツケースが壁に当たって、せつなげな鈍い音を立てた。
 彼の纏う、王宮の夜のパーティーでのみ出会えそうなとんでもなく格式の高い香りがあたりを満たしたせいで、トレヴァーはどこの香水を使っているのかを尋ねたい欲求を、舌を噛んで抑えなければならなかった。
「クラウス! お兄ちゃん!」
 アメリアは兄の元へ駆けて行って、きょうだいはしっかりと抱き合った。コートの中にアメリアが埋もれ、そのまま別次元へ消えて行ってしまいそうなくらい、まさに身体全体で包み込むハグだった。
「ほんもののクラウスだ。会いたかったよ!」
「相変わらず美しいな」
「ありがとう。あなたこそゴージャスね。もっとも、デジタルを通してでも信じられないくらい眩かったけど。スカイプで話しながら暗い廊下を歩くとき、ライト替わりにしたくらい」そしてアメリアは、腰にしっかりと腕を巻きつけたまま振り返り、兄に皆をこの上なく簡略化して紹介した。久しぶりに会う愛してやまない兄と、早く会話を再開したくてたまらないというように。「兄のクラウスよ。KじゃなくてCで始まって二番目にLがくるクラウス。クラウス、わたしの同僚たち」
 クラウスのスペルは一発で浸透したものの、“同僚たち”のことは名前を口にしてももらえないようだった。紹介された同僚たちのほうも、自ら名乗ることを忘れていた。アメリアの兄のファーストインパクトがまだ去っていないのと、これほどまでに歓びに満ちたアメリアを初めて見た驚きと、それぞれの、表に出すのはやや憚られる感想を噛みしめるのに忙しくて。
 やけに派手なキリストだな、とジェイミーは思っていた。それは胸元に光る華奢なシルバークロスのネックレスのせいかもしれないし、完全に否定ができない現象として、オーラがあふれているのが可視化できているのかもしれなかった。
 おれはこの男の前にひざまづくべきだろうか? アメリアの愛する人に嫌われてしまって悲しませたくないし。彼女を板挟みにすることは、なにをおいても避けるべき事柄なような気がするのだ。
 他人に媚びることなど考えたこともなく、空気を読む、などといった文脈は彼の辞書には載っていないのだがそれでも、ジェイミーはそれらしきことを生まれて初めて思考にのぼらせたのだった。
 トレヴァーはここでなぜかほんとうにくしゃみをして、まぶしそうに目を瞬かせた。男の羽織っているコートが埃っぽいのでなければ、無意識のうちに多少は見惚れていたのかもしれないが、いまはそれよりも香水の銘柄のほうが気になって仕方なかった。
 チームの敵かもしれない人物とはいえ、少なくとも香りのセンスはよさそうだ。さらに冷静になり、こうして離れたところから全身を眺めてみると、身体を鍛えているし、身だしなみにも気を遣っているようではないか。あのいかにも腰に悪そうな重たげなバックルのついたベルトはいただけないが、そのほかはまあ、自分のタイプではないことを考慮したとしても、見ていられないほどでもない。
 いやどうだろう、むしろ全然、悪くないのでは?
 恐ろしくホットなきょうだいね。彼らの誕生の奇跡にKは思わず心の中で十字を切った。多くの日本人のイメージにたがわず、年末年始と試験の時くらいしか神の存在を思い出さない無神論者の身でありながら。
 セーゲルストレ―ム家の長男クラウス・セーゲルストレームが、ありがたいのかありがた迷惑なのかはわからないが、一日早く“heard Japan”に降臨したのだった。
 全体的な色味はシックなのに、必要以上に派手に見えるのはどうしてかというと、きっと顔が、表情が華やかなのだ。それでも本人は、頬にうっすら生やした髭を剃るとやや子どもっぽく見えてしまうことを、少々気にしているのだが。
「ところで、死ぬほど腹が減ってるんだけど、あのパンらしきものは食えるのか?」
 販売ケースを示した人差し指の爪はピンクに塗られていて、真ん中にちいさく、黒いハートが描かれていた。
「せっかく遠くから来たのに、初めての食事があんなものじゃ駄目よ。わたしの部屋へ行こう。ルブロとバターが常備してあるから。もちろん、ルアパックバターよ。取り寄せてるの」
「さすがだなアメリア。おれはラクリスを持ってきた。懐かしいだろ? 新幹線で半分食っちまったけど」
「ほんと? うれしい」
「いま、ラクリスって言った? 薬とゴムを混ぜたみたいな味のするあれのこと?」トレヴァーがKとジェイミーを振り返った。
「イギリス人に味のことをとやかく言われたくねえな」
 アメリアの部屋へ向かいながら、クラウスが肩越しににやりと笑った。全体的な印象は真逆だが、形のいい唇が無邪気に重力に逆らって目尻を押し上げる横顔は、確かにアメリアと似ていた。
 それはそうと、やっぱりトレヴァーのことはだれが見てもイギリス人だと認識されるのだった。明日王室に招かれてもそつなく対応できるであろうこと間違いなしの、南イングランド地方をベースにした嫌味なほど完璧なブリティッシュ・イングリッシュのせいかもしれなかったが。
「待ってくれ。クランペットの悪口だけは言わせないぞ」
 
 薄く切ったルブロにバターを塗ってスライスチーズかオレンジ、もしくはその両方を乗せたものがふるまわれた。アメリアは、せっかくなのでほんとうはもっといろいろトッピングをしたかったのだが、冷蔵庫に食材がほとんどなかったのだ。明日までにいろいろとそろえようと思っていたのに誰かさんがフライングするから、と彼女は楽しそうに文句を言っていた。
 イギリスの食べものをけなされるのは許しがたいが、デンマークのバターは塩気が効いていておいしかった。これならきっと自分の家族も気に入るに違いない。特に父親は、味の濃い食べ物が好みだから。トレヴァーが思い浮かべたのは当然あの、、父ではなく、この、、父だ。あの父親は顔すら思い出せないし、食の好みなど知る由もない。
「もっと早く分けてあげればよかった。好き嫌いの多いラビットフットにこんなに気に入ってもらえるってわかっていれば」
 検視室の隣は事務室になっていて、そこはもうほとんどアメリアの住処だった。いまはトレヴァーとKが並んで座っているラベンダーカラーのソファと、真っ白なテーブル。衝立代わりの本棚の向こうの窓辺にはリクライニングチェアがあり、それは小柄な彼女にとってはベッドとしても機能していた。
 シンクは検視室にあるし、冷蔵庫もクロゼットも完備されていて、この階の別の部屋にはシャワーブースまである。あとここに足りないものは、電気ポットと電子レンジ以外の調理器具だった。電気コンロを設置したら、きっと永遠に自分のアパートメントへ帰らなくなるだろうと、敢えて買っていないのだ。
「前にぼくがここへ遊びに来たときは、手作りのスコーンを用意してくれただろ? しかもミルクティーと、ジャムとクロテッドクリームまでつけてくれて」
「あれなら間違いないと思って」アメリアは眉を下げて照れくさそうに笑った。
「実際のところ、すごく嬉しかったよ。きみはほんとうに優しいね、アメリア」
「おまえらつきあってるのか、もしかして?」
 事務デスク用の革張りの椅子に踏ん反り返ったクラウスが、これ以上ないくらい目を細めて愛する妹とすかしたイギリス野郎を交互に指さした。
 こいつらイギリス人は、ナポレオンの時代からちょいちょいちょっかいをかけてきて、その上おれの妹にまで手を出そうというのか。
 トレヴァーはスーツの襟を正して胸を張った。ついでに心持ち顎も上げてみせた。少しでも胸板が分厚く見えるように。
 クラウスは半分フレンチのくせに、どうやらヴァイキングの血が濃く流れているらしい。小さな島国であるイングランドの美しい教会が海からの襲撃でどれほどぼろぼろになったか。もうこれ以上奇襲攻撃を受けてたまるものか。祖国を守らねば。
 それとも、フランスの血がイギリスを毛嫌いしているだけなのか。ぼくらがあまりにも“フランス的”でなさすぎるという理由で。
「それはないよ」と、検視室からもってきた丸椅子にちょこんと腰かけているアメリアは、一触即発の雰囲気を察したわけでもなく、ただ楽しそうににこにこしていた。「彼はわたしをそういうふうには見ない」
 それはそれで気に入らないといった顔つきで、クラウスは眉間に皺を寄せた。忙しい父親に代わって面倒を見てきたせいか、彼は妹にたいしてというか、妹のパートナーにたいして、なかなか面倒くさい視点を持っているようだった。
「アメリアは魅力的だよ、すごくね。だけどぼくは、女性には興味がないんだ。きみの考えているふうには」
「わたしたちは親友なの。だよねラビットフット」アメリアが軽く握った手を伸ばす。
「そう。親友として、仲良しなんだ」トレヴァーはそこに自分のこぶしをあてて、にっこりした。
「ああ」と、クラウスの表情がわかりやすく晴れやかになった。ヴァイキングの時代は過ぎ去り、ヒュッゲが訪れた。それがずっと定着してくれていれば問題はないのだが。ともあれ彼はそれですっかり納得し、魅力的だと言われた妹のことを誇らしげに見やった。特に「すごく」という部分が気に入ったらしかった。
 壁際のベンチシートに、ローズマリーとミントの鉢植えに挟まれて座っているジェイミーは、このタイミングでなにか発言すべきだろうか、と悩んでいた。つきあってはいないが、互いに気になっているのは確かなわけだし。しかし彼のトレヴァーにたいする反応を見る限りでは、いまはそのときではないと判断し、ひとり神妙にうなづくと、指についたバターを嘗めとった。
「それなら話はべつだ」クラウスが鷹揚に両手を広げた。椅子の背もたれが、遠くからの歓声にも似た音を立てて軋んだ。
「ぼくたち、問題ない?」
「ああ、まったく問題ねえよ、リトルラビット子ウサギちゃん
 そして彼は、少し長めのウインクをよこしてきた。意味ありげに唇の端を舐めながら。
 要所要所で厚く見えるよう張っていた胸板が、肺から吐き出された息によって一瞬でフラットになった。そんなふうに呼ばれたことがなかったトレヴァーは、きっと怒るべきところだっただろうが、脚を組み替えたりスーツの裾を気にしたりしているうちにすっかりタイミングを逃したため、裏返りかけた声でオーケー、と答えるだけにとどまった。視線はふわふわのピンクのラグの端っこに逃げたままで。
「この人たち、なにか起こる?」Kがアメリアの座っている椅子をつつく。
「わ……からない。クラウスって、いつもたくさんの人たちとつるんでて、そういえばちゃんと恋人を紹介されたことってないなあ」
「バニーよりはまし。バニーよりはまだまし……」引き攣った笑みを浮かべたトレヴァーは、爪を噛みながらぶつぶつ言った。
 ぼくは、飛行機を爆破する道を選べばよかったんだろうか。組織への忠誠心と降って湧いた彼への興味のはざまで、彼は引き裂かれてしまいそうだった。
「ところで、よくここへ入って来られたね。誰がお兄ちゃんを案内したの?」
「ああ、小柄な女性だった。リタっていったかな。ラストネームも聞いたけど、おれには発音できそうにない」
「所長か」Kが呟く。「確か、きょうから出張だったはず」
「ちょうど出るとこだったんだろ。おれと同じようにスーツケースを転がしてた。エレベーターに乗せてくれて、それでここへ……」
 話の途中で、いまこの場で全体像が把握できているのは自分だけだ、とトレヴァーは突然気づいて、口をつけていたカップから紅茶を少々噴出した。色男のウインクなどに動揺している場合ではないのだ。
 さっきあと五分でいいから時間があれば、ジェムとKに説明できたはずなのに。さらにもう五分あれば、彼らと一緒にアメリアを説得できたかもしれないのに。
 メンバーに隠し事はしたくなかったし、リタが駄目だったとしても、自分たちならアメリアの気持ちを変えることができたかもしれず、その可能性を一度は試しておきたかった。
 それが叶わなくなったいま、アメリアの不調を、どうやったらクラウスから隠せるだろう。話に夢中な周囲に隠れてさりげなく口元を拭きながら、トレヴァーは考える。アメリアにセーゲルストレーム家の立場を知らせたいが、酷すぎるだろうか。いままでずっと、両親の創った会社でなにも知らずに働いていたという事実を、家族でもない人物から聞かされたいだろうか。これほどまでにおおきな家族間の隠し事は、平常時だって受け止めきれるかどうかわからないのに。やはりじっくり時間をかけるべきだ。
 ぼくに、時間を戻す能力があったら……。時空を操る能力の事例は耳にしたことすらなかったが、トレヴァーは是が非でもいますぐにそれを身につけたかった。
「いや、そんなことは無理だ」
「なに? どうしたのよラビットフット」突然声をあげたトレヴァーに、Kが隣でびっくりする。
「普段着慣れない服での張込みをしたせいで、疲れてるの?」アメリアは、ついそう口から出てしまったことにたいして、ほんのかすかに悔やむ表情をした。能力のことを話してはいるが、組織のことは内緒なのだ。兄に伝えているのは、自身が警察の解剖医という設定だ。仕事のことで聞かれてはまずい内容を喋ってしまっていないかを脳内で反芻して確認する間を取ってしまったが、「すごくいやがってたよね」と彼女は懸命にもどうにかそう締めくくった。
 この方向性は悪くないかもしれない。アメリアはいいパスをくれた。
 トレヴァーは気を取り直した。このまま仕事の話へもっていくのだ。クラウスがここでどう会話に加わるかで、彼の立場がある程度はっきりする。冷静に、さりげなく様子を見るべきだ。
「そうだね。普段はあんな格好しないから、居心地はよくなかった。まあ、今回は撃ち合いみたいなおおごともなく、けが人も出なかったから、ぼくの努力が無駄にならずに済んだけどね。待機するほうも大変だっただろ? きみの心労も、すこしでも減ってくれていたらいいんだけど」
 ところでぼくは刑事に見えるのだろうか、とトレヴァーはすこしだけ気になった。
「気遣いをありがとう」兄がいるのにわざわざ仕事の話を続けようとするトレヴァーを訝しみながら、アメリアも調子を合わせようとした。「わたしは、えっと……」
「なあアメリア」クラウスが妹の手にそっと自分の手を重ねた。「おれがいるときは、仕事の話はなしだ。さあ、きょうは顔を見せに来ただけだからもう行く。いますげえ眠くて……明日、ちゃんと起きて、店を見に行かねえと」
 なんてことだクライスト、まったく読めない。トレヴァーは歯軋りをした。
 こちらの仕事に興味をもたれないのはよかったとして(この地下の造りについてもまったく疑問を持っていないようだし)、アメリアの状況すらすこしも気にしていないようだ。あくびをする様子も、ただの時差ぼけの人のように見える。腹がいっぱいになったら次は睡眠欲を満たしたいという、じつに素直なただの旅行者のように。
「そうね、わかった。ところできょうはどこへ泊まるの。アパートメントの契約は明日からじゃなかった?」
「ああ、それならなんとかするから。ヘイMGK、おまえひとり暮らし? おれが寝られるベッドはあるか?」
 クラウスが頭を仰け反らせて、ジェイミーに向かって指を鳴らした。
 ジェイミーは念のため、MGKと呼ばれたのが自分ではない可能性を考慮して左右を確認してみたが、この付近で呼吸をしているのは、自分以外には可憐なハーブたちしかいなかった。おそらくそれらは、信頼できる彫り師と友だちというわけではないはずだ。
「おれ?」ジェイミーは自分の鼻先を指差した。
「そう、おまえだ。連れてってくれ。おとなしく寝るから」
 クラウスが伸ばした手を上下に振っている。眠くなった子どもが、親に抱き上げられてベッドへ連れて行ってもらうことを求めるときとおなじしぐさで。
「え……」まったくの不意打ちに混乱したジェイミーは、全員の顔をゆっくりと見渡した。特にぽかんと口をあけたトレヴァーへは、ひときわ念入りに視線を留めた。なんでおまえの部屋じゃないんだ、という意味を込めて。さらに彼はメンバーに向けていったいこれはどういうことなのだ、と視線で訴えたが、誰からも有益な応答はなさそうだった。
 おれの部屋に連れて帰らなければならないのだろうか。ジェイミーは眉間に皺を寄せて数回まばたきをした。こんな、存在しているだけでシャンデリアも恥じ入りそうな人間が入ってきたら、隅々まで照らし出された部屋の家具たちが、恐縮して七パーセントほどサイズダウンしそうなのだが。
 ところで、カラフルな皮膚をもつジェイミー自身は自分の姿を派手だと思ってはいない。どこへ行っても、身体に施した何らかの色味が保護色として働き、周囲に馴染んでいると認識している。自分が浮いて見えるのは、一面の雪国だとか、氷とシロクマくらいしかいない真っ白な場所だろうと想像したことならある。ときどき、着ている衣服がきょうは派手かもな、などと考えて、任務の前に地味な色の服に着替えたりはする。フューシャピンクのセーターを着ていたときなどはとくに。
 彼は色彩がたくさんあふれている状態が好きで、皮膚を彫るときの感覚にもわりと好意的で、隙間があると埋めたくなる性格をしている。ただそれだけなのだった。
「でもまだ勤務時間……」
「タイムデータは代わりに入力しておくよ」
 裏切者め。ジェイミーはKを睨んだが、それより僅かに早く彼女は、主に笑いをこらえるために顔を背けていた。
「おれのベッドでよければ……いやつまり、おれはカウチでも寝られるから」ジェイミーは仕方なくそう答えた。それ以外になんと言えばいいのだ。
「決まりだな」にやりと笑ったクラウスは、ひじ掛けを叩いて勢いよく立ち上がった。反動でキャスターつきの椅子が壁にまで滑っていくほどだった。それから彼はスーツケースをごろごろと引き摺り、まだちゃんと状況が把握できていないながらも席を立ったジェイミーの肩に腕を回した。まるで百年前からの大親友かのように頭にキスをしてから、音がするほど強く肩を二度叩いた。
「顔にはタトゥー入れねえの? MGKが入れたら入れるか?」
「べつにMGKを意識してるわけじゃない。だけど、顔に入れようとしたら止めてくれるよう、皆には頼んである」
 ジェイミーはなおもKと目を合わせようとして失敗した。もうすでにクラウスによって出口のところまで引き摺られていたせいで。それ以外にも助けを求めるためにだれかと視線を合わせたかったのだが、物理的にも心理的にもまったく無理だった。
 そうこうしているうちに部屋から出てしまった。矢継ぎ早に質問を浴びせるクラウスと、それに律儀に答えるジェイミーの声が遠ざかっていくのを、残された者たちは神妙な面持ちで聞いていた。
「おまえの言う顔って、どこまでが顔だよ」
「そうだな……おれ的には、こめかみは頭に入るけど、どう思う」
「ふん、問題なくねえか? 額の生え際あたりももみあげも頭だよ。おれに言わせてみれば。ところで、トラヴィス・バーカーってどう思う」
「やめてくれ……目の下に入れたくてたまらないんだ。彼は最高にクールだろ、間違いなく」
 ジェイミーは趣味でドラムを叩く。彼の部屋にはメッシュヘッドのドラムセットとローヴォリューム・シンバルがあって、その前に座ってまずやることといったら、トラヴィスと同じようにスティックを延々と回す練習だった。彼ほど細身ではないこともあって叩きかたまでは同じにできないが、フォームを真似たことだって何度もある。彼のプレイはまるで剣を使った激しいアクションだ。彼こそが現代のサムライだ。鋭さと美しさに目頭が熱くなるほどだった。
 内緒  特にラビットフットには。にやついた訳知り顔で肩を組まれるのだけはごめんだ  だが、彼にたいしては憧れ以上の感情がある気がしてならなかった。彼の奏でる音には、ものごとを目覚めさせるなにかがある。体の奥深くを揺さぶるなにかが。自分がもし昏睡状態のときに聴いたら目覚めるところだろうが、しっかりと起きて動いているので、代わりにほかの生命にかかわる重要な部分が目覚めそうなのだった。
 単に自分が、スネアドラムの軽快な響きと振動に興奮する稀有なタイプでない限りは。
 まさかクラウスがそのことを知っているはずはないのだが、ジェイミーは思わず、練習のしすぎで硬くなった親指のつけ根の部分を爪でひっかいた。彼を引き合いに出してきたのはただの偶然か、シャーロック・ホームズなみの観察眼の持ち主なのか。単にMGKから連想してのことなのか。
 ああしまった、きょううちへ来るなら、ドラムセットを持っていることがばれちまう。ジェイミーは更にうろたえた。リビングダイニングに堂々と置いてあるのだ。彼の部屋は、バスルームを除くと、そことベッドルームの二部屋で構成されていた。間仕切りよりも広さを重視したのだ。日本の共同住宅で部屋数の多さを求めると、ひとつの部屋の面積が狭くなることもあって。
 どうしてもそわそわしてしまう。クラウスには、絶対にばれたくないことまで逐一見透かされる気がしてならなかった。
「おれはみぞおちと前腕にしか入れてないけど、ほぼ全身だろ。どこがいちばん痛かった?」
「乳首周りはやばかった」上の空ながら、訊かれたことにはきちんと答える素直な人間、それがジェイミーだった。
 クラウスはジェイミーのタトゥーに興味深々のようだったが、最後にちゃんと可愛い妹のことを思い出したらしい。彼は叫んだ。
「また明日な、スウィーティー!」
「ちゃんと寝るのよクラウス。ジェムを困らせないでね!」
「ジェムってだれ?」
「おれだよ」
 そこでとうとうこらえきれずに、Kとアメリアがちいさく吹き出した。
 アメリアが両手を広げてにこにこした。「稲妻が、ジェイミーに落ちたね」
「いったいなんだったんだ。自由すぎる……そうだ、やった! 神様ありがとう! 時間ができた。助かった」
 そしてまた今回も、トレヴァーの幸運の犠牲になったのはジェイミーだったが。
「さっきからどうしたのよ」トレヴァーの様子がおかしいことはいつものことだが、それにしてもきょうはひときわ変だったので、Kが警戒する。
「ぼくたち親友だよね、アメリア」
「もちろんよラビットフット。いったい……?」
「なにを聞いてもぼくを信じてほしい。K、きみもそうしてほしい。で、耐えられなかったらぼくを殴ってもいいよ。だけどリタとデクランには絶対内緒にするって約束してくれ」
 突然出てきた上司の名前に、Kとアメリアは真剣な表情で顔を見合わせた。
「約束する」
「わたしも。デクランには気づかれちゃうかもしれないけど、それでもできるだけ」
「よし、オーケー……えっと……」
 トレヴァーはそれでも十秒ほど頭をフル回転させた。話していい内容と話してはいけない内容、できる限りアメリアを傷つけずにすべてを共有する方法を思い浮かべ、もう一度ちいさくオーケー、と呟いた。
 そして彼はほぼすべてを話した。
 それはつまり、リタと話したことほぼすべてだ。“heard”の本部にだれがいるのか、リタの出張の疑惑と、連絡をしてきたセーゲルストレーム家側の人物のこと。クラウスがアメリアの能力の不調を知ったら、それが引き金となり“heard Japan”が、いやもしかしたら“heard”自体がなくなるかもしれないということまで全部。
 アメリアの能力が戻らなければ組織が解体になる理由は、権力者連中から金が入らなくなるからだという汚い部分だけは一旦伏せた。言わなくてもどのみち彼女たちのどちらかが同じ考え方をするだろうと踏んで。
「解体って、どういうこと? わたしの能力のために、どうしてそこまでするの」案の定、アメリアがいちばん最初にそこを突いた。
「金でしょうね」Kが一瞬でトレヴァーと同じ理由にたどり着いた。「上層部から依頼のあるケースの被害者は、ほとんど権力者なわけだし。政治家、官僚、社長。それ以外見たことないよ」
「組織を存続できるお金が入ってこなくなるからってこと? だったらここを出てしまって、どこかの一軒家を買って、わたしたちだけでやればいいでしょう? そんなにたくさんのお金なんて必要ないし、助けるべき人はもっといる」
 彼女は独立して人助けを続けたいのだった。金があるなしにかかわらず。
「そうできたらいいんだけど」Kがはっきり言い切ったのなら隠す必要もない。トレヴァーも自分の考えを披露した。「たぶん“heard”は、金持ちから献金を受けてるうえ、その金を使ってほかの組織の口を封じてる」
 警察その他三文字や数文字のアルファベットで略された各組織の。
「こちらが事件を解決してるのに、お金を払ってるの? 最終的には警察とかFBIとか、公になってる組織の手柄になるのにどうして?」
「考えてみてよアメリア」トレヴァーは唇を舐めた。ずっとわかっていてだれも口にしなかったことを口にすべきときが来た。
「ぼくらはかなり好き勝手やってる。誘拐犯が毎回無抵抗ってわけじゃない。ジェムとKは銃だって携帯してるし、それを使ってもいる。ただ“heard”っていう組織に所属してるから罪に問われないだけだ。そういう特権ぜんぶ、金で得てる」
「だから組織が解体されて特権がはく奪されたら、わたしたちは用なしってわけだね。好き勝手やりすぎてることを良く思っていない反対派に告発されたら、ここぞとばかりに刑務所行きにされるってこと。最高じゃない」
「能力が戻らないわたしももちろん用なし」
 身内であるアメリアは、逮捕は免れるだろう。だが、しばらくの間表に出られなくなってしまうはずだ。力が元に戻らなければ、一生ということもあり得る。もとに戻ったところで、その頃には“heard”は存続しておらず、彼女は別の組織に吸収される。
 アメリアたち人探しの能力は、各組織が喉から手が出るほどほしがっている。“heard Japan”が醜態をさらせば、本部は一気に攻め込まれて能力者を奪われるし、そのために組織同士で紛争が起こる。結果、能力者はどこかの大型の組織に組み込まれて、「部」や「課」といったピースで括られて、自由度が格段に下がる。
 そうさせないために手綱を引いて、危ういバランスを保っているのが、セーゲルストレーム家なのだ。
 セーゲルストレーム家は、こちら側とおおきな部分では利害が一致していて、トレヴァーもそこは理解している。ただ、アメリアへのやり方が気に入らないというだけで。
「わたしたち、派手にやりすぎてる? “警察関係”の肩書を、乱用しすぎてたかも」
 Kは、いままで確保してきた被害者たちとぶちのめしてきた加害者たちを、白い壁に順番に映し出していた。声を上げて泣く力もなくなって汚れた床にぐったりと横たわる幼い女の子とか、ショットガンから放たれる鉛の玉に肩をえぐられながらも、突っ込んでいって首の骨を折ってやった変態野郎のことなどを。
「せっかく与えられた特権は使えるうちにフル活用すべきだよ。実際ぼくたちはうまくやってる。それでもときどきは悲しいことが起こることは免れないんだ。幸運の神がついてるぼくが言うんだから間違いない」
 トレヴァーも思い出していた。鉄パイプでお気に入りのカフスボタンを弾き飛ばされつつも、吸い込まれるように手に掴んだ釘打ちステープルを、振り返りざまにそいつの尻に打ち込んでやったときのことを。
「それに……これ以上怖がらせるつもりはないんだけど、じつはずっと以前、人質救出後に価格の再交渉が行われるときがあるっていう、品のない話を聞いたことがある。それを行うのは本部の人間だ。彼らはときには現地まで出向いていくらしい。で、ここからはぼくの勝手な想像だけど」とトレヴァーが前置きをする。「誘拐された理由には身内の不祥事も含まれることがあるから、皆世間には隠したい。その、公表されたくない各国の要人たちの抱える秘密を、“heard”はなんらかのかたちで持ち帰っているんじゃないかな。ときには、金そのものよりももっと重要な情報を。それ以外に、解決後にわざわざ現地に来てまで価格の再交渉をする理由がない」
「“heard Japan”ひとつの機能不全で、金と情報の両方を手に入れる機会を、失うわけにはいかないってことね」Kがあとを引き取った。
「それ、リタも知ってるってことよね?」アメリアの目はまんまるに見開かれ、いまにも零れ落ちそうなくらいだった。
「これに関してぼくが聞いたのはポーランド時代の所長からだ。あいつは、ぼくを口説くためなら“heard”すら売る気で……それはいいや。だけど、うん、リタが知らないはずはないだろうね」
「だけどいまは信用しないと。すくなくとも今回は、彼女も利用されてるみたいだし」Kはトレヴァーの意見に納得し、同意している。護るべき対象が愛するアメリアと組織だということで、力を合わせるときがきたと確信していた。
「リタは、どうにか事態を修復したいと思ってる。彼女にはぼくらよりもすこしだけ政治的な意味合いが濃いけど、ここを守りたい気持ちは一緒だから。だからクラウスにはきみの現状を話してほしくなかったんだ」
「そうだったの……」アメリアはうつむいた。兄に限って、自分を裏切るなんてありえないと信じているが、なにを考えているかが読めないところがあるのは事実だ。
 信じている、ということはそうであってほしいと願っている状態を表す言葉でもあって、心から確信しているのとはすこし違う。わたしはクラウスを信じてる、と唱えるたび、アメリアのなかで彼への疑いがおおきくなる気がした。
「わたしはここが好きだよ」Kがアメリアの肩に手を置いた。「もちろん、あなたのことも」彼女は必要以上に言葉に熱がこもらないように意識した。グレイスの魅惑的な笑顔がうっかり脳裏に浮かばないようにすることに関しても、同じくらい注意を払った。
「ぼくだって」トレヴァーが、全面的に同意のうなづきを返した。
「正直に話してくれてありがとう、ラビットフット。わたしもみんなのことが好き。両親に黙っていられたのは、なんていうか、悔しいけど……」そして、思いつくままにつけ加えた。「わたしの素晴らしい人助けの能力を金儲けと情報収集の手段にされてるみたいだし、クラウスとの絆を試されている気もするし、『調子はどう? 愛してる』って言ってくれてたのは、わたしのことじゃなくてわたしの能力を気遣ってのことだって知ってしまったけど、それでもここへ来られてよかったって思うし、みんなのことが大好き」
「どうしてセーゲルストレーム家は、アメリアに内緒にしてるの。金と情報収集に利用してるってことを悟られないため?」
「弱みにつけこんでお金や情報をむしり取るなんて、わたしが賛同するわけがないもの。だけど、それだけじゃないはず」アメリアが目を細める。「昔から、わたしが自分たちの思いどおりにならないと気が済まないのよ、あの人たち」彼女は声を震わせて、おおきく息を吐いた。「干渉されたくなかったから、能力のことを黙っていたのに、すでに知ってたなんて。しかもわたしを心配する様子はいまのところなくて、組織の存続のほうが重要だなんて、酷い」
「それはまだわからないよ、アメリア」Kが落ち着いたしぐさでたしなめた。
「ううん。パパの右腕……秘書だけど、そいつが表に出てきたってことはそういうことなの。子どもの頃から知ってるけど、すごく嫌なやつだった。パパはいつも、自分では言いにくいことを彼の口から言わせてた」アメリアは手のひらで頬に流れる涙を乱暴に拭った。「それなのに、わたしが仕事でデンマークから出ることになったときには姿すら見せなかった。どうせ父の手中にいるのだから、むしろ安心だったってことね」
「アメリア」トレヴァーがKの反対側からアメリアと肩を組んだ。「家族ってやつは、ほんとうに厄介だ」
「わたし、この仕事で自立したかったの。だから、ちょっと怖かったけど、故郷を出ることに承諾したの。ほんとうよ」
「もちろん、よくわかってるよアメリア」トレヴァーは、アメリアを横からそっと抱きしめた。いくら彼女の親とはいえ、ぼくの親友になんという想いをさせるんだ、と憤りながら。「ぼくたちみんな、ちゃんとわかってる」
「内部事情がはっきりしたところで、わたしたちの当面の問題は……」Kは肩に置いた手を背中にずらして、それからそっと離した。ああもう、どんな動きをしても後ろめたく感じる。
「わたしのお兄ちゃんね」Kの言葉のあとを引き取って、アメリアは力強くうなづいた。彼はわたしの兄だけど、セーゲルストレームの長男でもあるのだ。
 それから彼女は、中空に視線を向けて首を傾げた。
「あれ、声が止まったみたい。なんでかな」
 久しぶりの静寂のにおいを確かめるように、アメリアはおおきく息を吸い込んだ。



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