そこにいるだれかと我らの未来のために【8】

【8】

 北欧由来のあの稲妻のような男  おそらく雷神トールの現世での姿  を味方につける努力をするか、口を閉ざして向こうからの出方を窺うかの主に二方向の選択で、三人で延々と議論がなされた。
 最終的には、時間を無駄にせず、コストなくすぐにでも実行できそうな手段として、なんだか気に入られているらしいトレヴァーによる懐柔がアメリアによって提案されたが、彼は長いことまばたきすらせずフリーズしたあと、弱々しくつぶやいた。「ぼくは……ぼくは……」
 ぼくはなんだというのか、その先は結局紡がれることなく、殺処分寸前の犬とおなじくらい悲し気に首を振っただけだった。
仕方がないのでアメリアは応答を待つのを諦めて、話題をすこしずらすことにした。
「迷うのもよくわかるよラビットフット。妹であるわたしもクラウスのセクシャリティをはっきり知らないから、それが最善かどうかはなんともいえない。彼ってときどき、本気か冗談かわからない態度をとるの」
「男も女もそれ以外も虜にしてそつなくこなすタイプでは?」完ぺきからは程遠い自身の恋愛キャリアから話がそれたことに安心して、トレヴァーが息を吹き返した。
「わたしは彼は完全にゲイだと思う。女性のことも大事にするけど、恋愛には発展しないようにうまくやるタイプに見える」男も女も無性別の人ともまあまあうまくやるタイプであるKが、ある程度の自信をもって請け負った。トレヴァーさえ心を開けばすんなりと恋愛に発展しそうにも思えるという私見のほうは黙っていた。わざわざ口にするまでもないことなので。
「ラビットフット、兄のことどう思う?」
「どうって……そうだなあ」どうもなにも、彼の氷の張った湖面のような青みがかったグレーの瞳に落ちて行ってしまいそうだった。だからといってそこに冷たさはなく、逆にとんでもなくホットで、これは気持ちがない相手の前では決してシャツのボタンを外さない彼にしてはかなり珍しいことで、品格もなにもかもかなぐり捨てて言うなれば、要するにいますぐにでも寝たいのだった。「アメリアのお兄さんってこともあって、いけてるのは間違いないけど、あんまりぼくのタイプではないかな。もっと保守的なほうが好きなんだ。たとえば、クラシックなスーツとネクタイが似合うような」
「クラウスがスーツ姿で現れたら?」Kが訊いた。
「即、個室を探す」クソ、本音が出てしまった。トレヴァーは心の中で自身の失態に対して思いつく限りの悪態をついた。普段K以上には使わないようにしているFワードすら惜しげもなく。
 これは正確には一目惚れではない、単なる性的欲求だとトレヴァーは気づいている。だが、彼がそう簡単にだれかと寝たいと思うような人間でないことを考慮すれば、これはもうほとんど、相手に対する好意だといってしまってよかった。
「あなたは問題なさそうね。クラウスの相手がラビットフットだったら、すごくうれしいなあ。ちなみに彼はスーツもタキシードも完璧に着こなすよ。もう想像済みだろうけど」
「喜んでもらえてぼくもうれしいけどさ、最悪の場合、史上最悪の悲恋で終わるよ。ワルシャワでの恋なんて一瞬で吹っ飛ぶような重い別れで。ところで彼の好みはアルマーニあたりだろ」
「さすがによくわかってるね。その、彼はアルマーニが好みって部分がね」アメリアがウインクをした。
 光沢のある、高い位置でウエストを絞ったブラックスーツがすごくよく似合いそうだ。イギリスのトラディショナルでかっちりした着こなしよりも、イタリアの緩めで遊び心のあるスタイルが彼には合っている。そういうところも好みではないはずなのに。
 自分の予想の正しさにうなづいたところで、ケータイがチャイムを鳴らしてきた。テキストが届いていて、それはジェイミーからのようだった。写真もついている。早速開いて、文章も読んで、念のためその工程をもう一巡繰り返して、トレヴァーは目を丸くした。
「こ、これは、どういう……」
「どうしたの?」
「えっと、ジェムのプライベートケータイからなんだけど」
「ジェムのケータイから?」
 Kとアメリアが両側からトレヴァーの手の中を覗き込み、揃って仰け反った。
「あらまあ」
「わあ、さすがお兄ちゃん」
 写真は、紫色にライトアップされたクラブらしきところでカウンターに突っ伏すジェイミーを背後に、クラウス自身が入るように自撮りしたもので、タイトルは『@クラウス』文の始まりは『潰しちまった。ごめんね♡』となっていた。
 
『これから部屋まで連れていく。おれも飲み過ぎてふらふらだし、いい加減寝るから。そのまえに、こいつをカウチに放り捨ててから。
それと、きみのアドレスは直接聞きたかったから、登録はしてない』
 
「ほらやっぱり」Kが画面にうなづきかけた。「クラウスは少なくとも男性が好きで、しかもラビットフットにかなり興味をもってる。ジェムにじゃなくて」
「やだあ。すごいアピールだなあクラウス。わたしだったらこれ、かなりうれしいよ。ジェムは気の毒だったけど」
「やり口があんたと似てる気がするよ、ラビットフット。気が合いそう」
 まさかジェイミーの動きを封じるとは、信用を得ようとする手段が、かなり通常とかけ離れている。笑いを封じ込め切れていないKの腹筋が、人知れず震えた。
「きみがレイプ魔だったらむしろ好都合なんじゃない? って返すべき?」
「なんてこと言うのよ」ほらやっぱり思考が似てる、とKは思った。
「そうだよ、もっと素直になって」
「だって……こんな、こんなことは……」
 想定外すぎる。
 わざわざこんなメールをよこしてくるなんて、クラウスがジェムを連れて部屋を出ていくとき、ぼくがすごく傷ついて見えたってことだろ? ていうかこっち見てたのかよ! 背中にも目がついてるのか。やっぱり神そのものなんじゃないか。雷神がデンマーク出身だったかどうかは知らないが、少なくともフランス人とのハーフではないはずだったが。彼は、ついでに浮かんでしまったクリス・ヘムズワースの輝く笑顔のイメージをそうっと丁寧に脳裏から押し出した。
 トレヴァーはもう、自ら穴を掘ってでも埋まってしまいたいくらい恥ずかしかった。無意識とはいえ、ジェイミーに嫉妬した。少なくともクラウスにはそう受け取られたのだ。
「アメリア、どのハーブを齧ったら安らかに死ねる?」トレヴァーはうろたえてきょろきょろとあたりを見渡した。
「ここにあるものは全部、あなたの健康を助けるものばかりよ。残念ながらね」
「ぼくはどうしたらいいんだろう。いまの立場を考慮した上で、って意味だけど」
「自分の心に従えばいいんじゃないかな」アメリアは両手を胸に当てて、慈悲深いしぐさで目を伏せた。その姿は、氷山を滑落している真っ最中の人すらも、瞬時に癒しを得そうだった。
「少なくとも彼は、初対面からいきなり目当ての男のところに泊まろうなんていう品のなさは見せなかった。わたしはいい人間だと思う」
「待って待ってふたりとも。ぼくが訊きたいのは、組織のために、クラウスを信用していいのかってことだよ。人としてじゃなくてさ」
 Kとアメリアは顔を見合わせた。
「もしかしてあんた、ややこしい立場に立たされてる、ラビットフット?」
「さっきからそう言ってるじゃないか」トレヴァーは心底びっくりした。人類がこんなに察しが悪ければ、自分はいますぐにでもどこかの小国を制圧できるのではないだろうか。「アメリアの次に複雑な立場だよ」
「わたしの能力がうまく機能していないことさえばれなければ、だいじょうぶでしょ?」アメリアはさっぱりと吹っ切れた笑顔を見せた。「だから、黙っておけばいいよ。つまり、作戦なんかなくして、とりあえず様子見ってことで。もしわたしのことが知られてしまって、クラウスがこっちよりも両親の利益を優先する気配があれば、そのとき改めて考えましょ」
「ほんとうにそれでいいの? きみのメンタルをいちばんに心配してるんだよ?」
「みんながいるからだいじょうぶ」アメリアは両手をこちらに向けた。「二年ぶりのラビットフットの恋愛のほうが大事よ。わたしたちにもたまにはときめかせて」
「違う。二年じゃなくて、一年と一〇カ月とにじゅう……えっと、あれ?」
「決まりだね、ラビットフット」Kがトレヴァーの背中をぽんと叩いた。「いますぐその無駄に手入れの行き届いた美しい人差し指を動かして、なにか気の利いた返事を送りなさい」
「わかったよ……」
 トレヴァーは五ほど考える努力をしたが、混乱しきっていてまったく無駄だった。脳内にはよくわからない光があちこちで瞬き、耳の奥がひどく熱かった。
 タイプじゃないんだ。だけど嫌じゃない(まず第一に、あの胸板を無視できるゲイがどこにいる?)。でも組織が。リタ。アメリア。ジャレド(元カレ)の優しいまなざしと長いまつげ。そしてなぜかふたたび浮かぶクリス・ヘムズワースの笑顔。
  彼の頭のなかに、いくつもの声と顔が、脈絡なく現れては遠ざかっていく。
 アドレスを直接聞きたいというのは、もう一度会いたいということだ。自分だって会いたい。会って、彼という人間をもっとよく知りたい。せめて愛用している香水くらいは教えてもらいたい。“リトル・ラビット”のリトルの発音が妙に耳に心地よかった。もっとほかの“L”も聴きたい。だけどもしうまくいかなかったら?
「あああもう、なんなんだよ!」
 なにか起こるとか起こらないとか、すくなくとも悩むだけの価値のある相手ではあるということか。
 彼は無駄に美しい人差し指を、画面の上に走らせた。天才画家が、感性の赴くままにキャンパスに筆を走らせるかの如く。そして、これ以上怖気づかないうちに送信ボタンを押した。
「送った」トレヴァーはなぜか若干、息切れしていた。
「なんて送ったの?」
 トレヴァーは文面を見せたくなどなかったが、興味津々の四つの目にじっと見上げられて、胸に伏せていたケータイの画面を、仕方なく差し出した。
 
『日本の夜を楽しんでるみたいでよかった。また近いうちに会えると嬉しい。
追伸:ジェムは酔うと寝ながら吐くから、横向きに寝かせてやってくれ』
 
「なにこのセンスのなさ」
「あなたの中で、堅苦しさとおばあちゃんがタッグを組んでるね」
「しょうがないじゃないか! 展開が、あまりに急で」トレヴァーはほとんど泣きそうだった。こんなに動揺させられるなんて、ロンドン支局時代に、アパートへ帰ったらつきあっていた男にトースター以外の家財一式を持ち逃げされたと知ったとき以来だった。不意打ちもいいところだ。
「ジェムって寝ながら吐くんだ。なんか可愛いねえ、赤ん坊みたいで」
「ええ……? アメリア……」自分よりもどうかしている人間がこんなに近くにいるとは。トレヴァーは言葉を失った。
「えっ、なに?」
「“heard Japan”に正気の人間なんてひとりもいないよ。ひとりもね」
 Kは急に空腹を覚え、端っこの干からびたトーストの残りをちいさく齧った。



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