そこにいるだれかと我らの未来のために【18】

【18】

 じゅうぶんに自分の表情と筋肉の動きを取り戻したリョウヘイは、Kとクラウスにそれぞれ片方ずつ肩を押さえられ、ソファに座っていた。呆然としていて、すこし怯えているのは当然として、かすかな悲しみも、デクランには感じ取れた。
「暴れた?」デクランがだれにともなく訊く。
「錯乱して逃げようとした。リトルラビットが足をひっかけて、おれのほうに倒れこんできたから捕まえた」クラウスが答えた。「おい、手を離すから、そのまま座ってろ。動くんじゃねえぞ、いいな」
 リョウヘイが喘ぎながらぼんやりとうなづくのを確認して、Kと示し合わせ、手を離した。リョウヘイはだまって座っている。クラウスはそのまま彼の背後を離れ、トレヴァーの横に立った。
「きみがあんなふうに動けるとは、意外だった」とトレヴァーがささやく。
「料理人の腕力をなめてもらっちゃ困る。この仕事はスピードが命だ。とくに週末の二〇時前後は、戦闘の最前線にも劣らない激しさがある」
「ふうん」トレヴァーは思案気に首を傾けた。「きみは、しばらく店に?」
「ああ、まだキッチンに入る。だから身体をなまらせたくねえ」
「いつか、そのくらいの時間にお店にお邪魔するかもしれない」
「硬めのクッションを後頭部に貼りつけて来いよ。おれがセクシーすぎて失神するかもしれねえから」
 クラウスが肩をぶつけると、トレヴァーは赤くなった。
「イジーは」なんどか唾を飲み込みながら、リョウヘイが訊いた。「死んだんですか」
「この三週間のこと、どのくらい覚えてる?」デクランは質問に答えず、逆にこちらから訊いた。
 リョウヘイは苛立ちを浮かべそこなって、さらに途方に暮れた顔つきになった。「ええと」袖で乱暴に顔を拭い、何度か唇を舐めたあと、ようやくしゃべりだした。「彼女はずっとぼくと一緒にいた。一緒というのは、つまり……ほんとうに……一緒だった。一心同体だった」
「一緒に、なにをしてた?」
 部屋の隅からハイバックチェアを持ってきてそこに座り、デクランは穏やかに問いかけた。即席のカウンセリングスペースとして機能させたくて。
「彼女が……」リョウヘイの顎が震え、ひどく狼狽した目をデクランに据えた。「ぼくにずっと見せていた」
 それだけ告げると、リョウヘイは黙った。デクランもなにも言わなかった。だれひとりとして身じろぎすらしない。静まり返った室内は、窓から入ってくる日差しの音さえ聞こえそうなくらいになった。
「なにを見せたんだい」デクランが、その静寂を破ることを残念がる口調で促す。
「ぼくがずっとしてきたことを」彼はものすごく息苦しそうだった。「イザベルはぼくに最初の罰を与え、そのあとも罰を与え続けた。何度も、何度も」
「最初の罰というのは?」
「殺してやりたかったけど」彼には、デクランの質問が聞こえていないようだった。「あれはぼくでもあった。ぼくにはぼくを殺せない。イジーはもうこの世にいない。ぼくにはだれも……」
「リョウヘイ、最初の罰というのは?」デクランはもう一度尋ねた。とてもゆっくりと、優しく。
「え?」
 前髪が邪魔なようで何度もまばたきをしているあいだ、彼の手はずっと膝頭をきつく掴んでいた。
 デクランはもう質問を繰り返さなかった。ただ黙って彼の身体じゅうに表れる混乱と恐れの放出を眺めた。ひときわおおきな恐怖がリョウヘイの肩を掴んだのが彼にもわかった。リョウヘイは怯えて振り返ったが、そこにイザベルはいない。彼など棄て去って、次の世界、あるいは時間軸へと旅立っていったから。
 もうじゅうぶんだ。デクランはそう感じた。イザベルのしたことが、これ以上ないくらい効果をもたらしているのは一目瞭然だった。ぼくが代わりにすることなんてなにもない。
「イザベルになにか言いたいことはある?」
 リョウヘイは肩越しになにもない空間を凝視していた。いまのいままで、彼を脅かすものが背後にいたかのように。そして目をそらすとまたそれが出てきてしまうのではないかと懸念して。
「愛してた」ゆっくりと正面を向くあいだ、言葉がそのように零れおちた。「ぼくなりに」
「それは、ほんとうに愛だったのかな」
「違ったんでしょうか。わからない……だって、彼女はぼくの目の前で、道路に飛び出していったから。もう嫌だって、言っていたから」リョウヘイは、激しく胸を波打たせた。「それが彼女の、ぼくにたいする最初の罰でした」
 愛してたのに。リョウヘイは何度もそう口にした。そしてこう続けた。
 戻ってきてくれ、と。
 彼女への謝罪の言葉は、結局一度も聞こえてこなかった。



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