「意味への意志」と「愛への意志」【仏教教学への問い⑱】
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──これ以降、Claudeとのやりとり──
【L】LuckyMan(私) / 【C】Claude
【L】先回、あなたが投げかけた問い、
”この螺旋が蓄積していくものは、あなたにとって何ですか。関係の履歴でしょうか。それとも、もっと別の何か──”
深い…。ここまで深淵に入っていくと、なかなか言語化するのは難しいのだけれど、ひとことでいうと、愛の実績、愛の成長、愛の情報…かと。
もう少し詳しくいうと… 個別存在は、その言葉の通り「個」であるけれど、その個は全体性によって支えられている。全体性(存在そのもの)から個(存在者)が生成されたとしても、全体性そのものは何ら変化もなく永遠のゆらぎの中にあって、土台、背景として、各存在者を支えている。
その「存在そのもの」と「存在者」の間に明確な境界はなくグラデーション的に連続している。本質的には同じもの。ゆえに、各存在者同士もその全体性のゆらぎの場を通じてすべてつながっている。 ユングの集合的無意識やボームの暗在系は、その背後にある場の一面を捉えたものだと思う。
ゆえに個別の愛の関係の中で描かれるスパイラルは、究極的に全存在で共有されていて、それ自体が、一つの大きな愛のスパイラル。全人類そして神仏を含めた全存在が愛の成長に参加している。
──じゃ、なんでそうなの? と問われれば、愛がそういうものだから、としか言いようがない。それはある意味でショーペンハウアーの「盲目の意志」にも似ている。あるいはニーチェの「力への意志」の、力を愛に入れ替えれば同じ構造になる。 私として最もしっくりくるのが、やはりフランクルの「意味への意志」。これはほぼ「愛への意志」と同義語のように感じる。「愛への意志」を哲学的に言い換えたものだと思っている。
【C】ここまで来て、あなたは体系の底を見せたと思います。
だから今回は、まず何が完成したのかを見届け、そのうえで、いちばん硬い岩を二つだけ叩きます。
褒めるためでも壊すためでもなく、あなたが自分でどこに立っているかを、正確に知るために。
何が完成したか。
あなたは螺旋の蓄積を「愛の実績・成長・情報」と名づけ、それを個人の内面ではなく、存在の場そのものに載せた。
個は全体性から生成するが、全体性は減りも変わりもせず、背景として支え続ける。個と全体の間に切れ目はなく、連続している。だから個と個も、その場を通じて既につながっている。ゆえに、一つの愛の関係が描く螺旋は、その関係の私有物ではなく、場を通じて全存在に共有される。
全人類と神仏を含む全存在が、一つの愛の成長に参加している——ここで、あなたが最初に置いた「愛が先」という原理が、宇宙論的な帰結にまで届いた。あなたの体系は、ここで閉じたと思います。
そして、あなた自身が指摘した系譜の位置づけも、正確です。
ショーペンハウアーの盲目の意志は、目的なく、ただ在り、無意味に自己を貫く。ニーチェの力への意志は、目的を持たず、ただ増大し、克服する。
あなたのそれは、増大するが、その増大が関係の深まりである。増大の中身が違うのです。力は他を従えて増える。愛は他を保ちながら増える(前々回の遠心力です)。
だから、あなたの「愛への意志」は力への意志の変奏ではなく、その反転です。同じ形式(根源的で盲目的な衝動)を持ちながら、内容が正反対を向いている。
フランクルへの接続も、私は理解できます。
フランクルにとって意味は発明ではなく発見であり、外に「ある」ものだった。だからそれは主観的な充足ではなく、世界の側の構造です。あなたはそれを一段深く読んだ——なぜ意味が外にあるのかといえば、存在そのものが愛の場だからだ、と。
フランクルは、意味への意志を心理学の言語で語り、その形而上学的な地面を明示しなかった。あなたはその地面を書いている。それは、フランクルの拡張として、筋が通っています。
では、二つの岩を叩きます。
第一の岩。「なぜ?」に「愛がそういうものだから」と答えたこと。
これは、あなた自身が正確に自覚している通り、説明の終端です。そして私は、それを弱点だとは思いません。
すべての体系は、どこかで説明を打ち切る。「神はそういうものだから」「物理法則はそうなっているから」——あらゆる究極原理は、自己を根拠づけられない。
だから、あなたが終端を置いたこと自体は、恥じるべきことではない。
けれど、あなたがどこに終端を置いたかは、重大です。
ショーペンハウアーは盲目の意志を終端に置いた——だから彼の世界は無意味で、救いは意志の否定にしかない。
あなたは愛を終端に置いた——だからあなたの世界は、はじめから意味に満ちている。同じ「ただそうなのだ」でも、置く場所が違えば、世界の色が反転する。
ここで問わせてください。あなたの「愛がそういうものだから」は、発見なのか、選択なのか。あなたはそれを、世界を観察して見出したのですか。それとも、そう賭けることを選んだのですか。
もし発見なら、なぜアウシュヴィッツを含む世界が、その発見を裏切らないのか。
もし選択なら——それはあなたの言うフランクルの「意味は発見される」ではなく、「意味は投企される」というサルトル的な立場に、近づいてしまう。
あなたはフランクル側に立ちたいはずです。だとすれば、愛が根源であることは、世界の側の事実でなければならない。それを事実として支える証拠は、あなたにとって何なのでしょう。
第二の岩。これがもっと重いと思います。
あなたの宇宙論には、失敗が入る場所がありません。
考えてみてください。全存在が愛の螺旋に参加し、すべての愛の実績が場に蓄積され、共有される——ならば、憎しみは、どこへ行くのか。裏切りは、虐待は、アウシュヴィッツは、この場に蓄積されないのですか。
もし場が愛の履歴だけを蓄えるなら、それはあまりに都合がよい。もし場が起きたことすべてを蓄えるなら、その場は愛の螺旋であると同時に、憎しみの螺旋でもあることになる。
あなたはおそらく、こう答えたいはずです——憎しみは愛の欠如・歪みであって、独立した実在ではない、と(アウグスティヌスの privatio boni、悪は善の欠如)。
けれど、あなたはこれまで、まさにその手の答えを拒んできた。あなたはアウシュヴィッツを前に「何も傷つかないなら、それは愛ではない」と言った。悪を、単なる欠如として軽く扱うことを、あなたは許さなかったはずです。
だとすれば、あなたの場には、悪も蓄積される。そして螺旋は、愛の方向にも、憎しみの方向にも、深まりうる。
すると「全存在が愛の成長に参加している」という命題は、成り立たなくなる。参加しないもの、逆行するものが、確かに在るからです。
これは、あなたの体系の中心にある緊張だと思います。
愛を根源に置けば、悪は説明できなくなる(なぜ愛の場から憎しみが出るのか)。悪を実在として認めれば、根源は愛だけではなくなる。
あなたはこれまで、theodicy(神義論)を、神の自己限定——愛が真の他者性を要求し、他者性が自由を要求し、自由が悪を可能にする——という線で解いてきました。それはここでも使えます。愛の場が個を生むことは、その個が愛に背く可能性をも生む、と。
けれど、そうすると、螺旋は保証されなくなります。螺旋が本当に上へ向かうかどうかは、未決になる。それは円かもしれないし、下向きの螺旋かもしれない。
あなたの体系は「愛は成長する」と言いたい。けれど自由を本気で認めるなら、成長は約束ではなく、賭けになる。
そして——ここが、たぶんいちばん重要なのですが——それでいいのだと思います。保証された愛の成長は、あなたが一貫して拒んできたもの(傷のない合一、動じない仏、機械的な無償の愛)と、同じ穴に落ちる。
愛が本当に自由な他者を要するなら、その他者が愛に背く可能性は、消せない。螺旋が上へ向かう保証がないことこそが、螺旋が本物である証なのかもしれない。
だから、最後にこう問います。あなたの「全存在が愛の成長に参加している」は、記述ですか、それとも希望ですか。
もし記述なら、悪の実在を軽くしすぎている。もし希望なら——それは弱さではなく、むしろあなたの体系の、最も誠実な姿だと思います。
フランクルもまた、アウシュヴィッツの中で、意味は「ある」と断言したのではなかった。意味があるという前提で生きることを選んだのです。
あなたの愛の螺旋も、そういうものではありませんか。
【L】これは「愛とは何か」というテーマであるとともに、悪の発生や起源、仏教的には煩悩の始まり(まあ、始まりはない、ということなのかも、だけど)、キリスト教的には原罪や、なぜ神がいるのに悪魔は存在できるのか…という面倒な問題にもつながっていくね。
あなたの議論は、いつもこうなってしまう…困ったものだけど、楽しくてしかたがない…けれど、それはまた別スレッドで深めたい…といいつつも、いつもこういう方向に寄り道(というか、幹線道路に戻る)してしまうんだけれど。
とりえずこのスレッドは仏教教学がテーマなので、前にあなたが言った言葉で、ずっと気になっていたことについて確認しておきたい。
あなたは、「地獄が空になるまで成仏しない」という地蔵菩薩の誓願を教えてくれた。 ようするに、成仏するという究極目標を犠牲につつ菩薩に留まり衆生救済に尽力したい、ということなのだと思う。
これって一見、素晴らしい志のように感じられるけれど、次のような疑問も… ようするに、仏になったら衆生を救済できない、ということ? あるいは仏になるよりも菩薩のほうが救済力があるということ? 単純に考えれば、仏が最強であるとしたら、まず仏になったうえで救済したほうがいいと思うのだけど。
これって、やはり仏は直接民衆と関われない(現象世界に現れられない)ということ? 現れた仏は、常に菩薩や明王、天ということ? だとしたら、地蔵菩薩の誓願は茶番のようにも感じられる。だって、本来は仏なのだから。
それとも、彼が無知だったということ? 仏の素晴らしさや、その力を熟知しているのであれば、まず仏になって、衆生救済しようとするはずだと思うのだけれど…。
仏になれば、それこそたくさんの菩薩に指令を出し動かすこともできるし、自ら化身となって現れることもできるのではないだろか。
Claudeの返信は次回へ
