同じ月の下に選ぶ者たち 第一夜「酔い雲に月を失う」(妄想歴史会話劇)
夜半の酒家。油の灯りは低く、卓は三つだけ。
戸の外では、雨とも太鼓ともつかない鈍い音が続いている。
盃を持つ手が一番軽いのは、
徐渭だった。
徐「薄いな」
舌で転がし、笑う。
味ではなく、この夜そのものを試しているような笑いだ。
向かいで、李卓吾は盃を持たない。
机の木目を指でなぞっている。
李「味を測るのか、己を測るのか」
徐「どっちも同じだろう」
李「違うな。味は外、己は内だ。混ぜるな」
徐「混ざってるから人間なんだろ」
言葉が落ちる。
軽くはないが、重くもない。刃物のように滑る。
隣で、戚継光が盃を取る。
一息で飲み干し、置いた。
戚「薄い」
同じ言葉。だが意味が違う。
徐「お前の“薄い”はつまらんな」
戚「酒が薄いだけだ」
徐「それだけか?」
戚「それで十分だ」
外で何かが鳴った。
太鼓か、戸を叩く音か、判然としない。
徐「なあ将軍、お前にとって“真”って何だ」
戚継光は答えない。
空の盃を指で転がす。
戚「朝、生きていることだ」
徐「つまらないな」
戚「夜も生きていればなお良い」
徐「それだけで満足か?」
戚「満足するかどうかは関係ない」
徐渭の笑いが少し歪む。
徐「それは家畜の答えだ」
李「いや、違う。家畜は問わない。彼は問うて、切り捨てている」
徐「切り捨ててるのはお前だろ、卓吾。聖人も道も全部」
李「聖人は幻想だ」
徐「じゃあ俺の狂いも幻想か?」
李「狂いは現実だ。ただし価値はない」
徐渭の指が止まる。
徐「価値がない?」
李「価値は他者が決める。お前の内面は、お前にしか通用しない」
徐「じゃあお前の思想は誰に通用する?」
李「通用しないから書く」
徐「はは、救いがないな」
李「救いなど最初からない」
戚「救いはある」
二人が同時に見る。
徐「どこに?」
戚「統率だ」
徐‐李「「……は?」」
戚「部下が乱れず動く。それが救いだ」
徐「それで人間が救われるのか?」
戚「少なくとも死なずに済む」
徐「死ぬのが怖いのか?」
戚「怖いかどうかはどうでもいい。死ねば終わる」
李「終わりを恐れているのか、将軍」
戚「終わりを前提にしている」
李「だから削るのか」
戚「無駄をな」
徐「無駄が人間だろうが」
戚「無駄は戦場では死因だ」
徐「ここは戦場じゃない」
戚「いずれなる」
雨音が一段、近くなる。
李「では問おう。人は何のために生きる」
徐「燃え尽きるためだ」
李「短いな」
徐「十分だろ」
李「将軍は?」
戚「守るためだ」
李「誰を」
戚「決まっている」
李「自分か?」
戚「違う」
李「なら虚構だ」
戚「虚構でも守る」
李「守れなければ?」
戚「次を守る」
李「終わらないな」
戚「終わらせない」
徐「それは狂ってるな」
戚「そうかもしれん」
徐「自覚があるのか」
戚「ある」
徐「なら正気だ」
李「違うな。正気とは社会が決める」
戚「社会は戦に勝てば黙る」
李「負ければ?」
戚「死ぬ」
徐「じゃあ結論だ」
誰も止めない。
徐「狂ってるのは俺で、壊してるのは卓吾で、お前はただ生き延びてるだけだ」
戚「それでいい」
徐-李「「よくないだろ」」
戚「良い悪いは後で決まる」
徐「誰が決める」
戚「生き残った者だ」
沈黙。
空が、ようやくはっきりと雨になる。
李卓吾が初めて盃を取る。
李「では、我々は何も決めていないな」
徐「そうだな」
戚「だから飲む」
三つの盃が、わずかに触れる。
乾いた、小さな音。
しばらくして、李卓吾が口を開く。
李「だが一つだけ、今ここで決めていいことがある」
徐「ほう」
戚「何だ」
李卓吾は盃を見つめたまま、淡々と言う。
李「結局――歴史に名を遺そうとする者は、皆狂人だ」
徐渭が笑う。今度は静かに。
徐「なら、俺たちは救われないな」
戚継光は何も言わず、もう一度酒をあおる。
外の音は、もうただの雨だった。
↓第二夜
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