同じ月の下に選ぶ者たち 第十ニ夜「名を借りる夜、月を失う朝」(妄想歴史会話劇)
夜の私邸。
ハリエット・マーティノー女史のドローイングルーム。
厚いカーテンの向こうで、月は雲に滲んでいる。暖炉の火が揺れ、テーブルにはグラスが三つ。
マ「堅い話は禁止よ、今夜は」
エリザベス・ギャスケル夫人が笑う。
ギ「それは助かるわ。最近はどこへ行っても難しい顔ばかり」
ジョージ・エリオット嬢はグラスを揺らす。
エ「顔が難しいんじゃなくて、名前が重いのよ」
マ「名前は重くていいの。軽いと残らないわ」
軽い笑い。氷の音。
誰が売れているか、誰の文章が浅いか深いか。
名前がいくつも卓上を行き来する。
ギ「でも結局、覚えられるのは名前よね」
エ「入口としては、ね」
マ「識別には必要よ。名前がなければ棚に並ばない」
エリオット嬢が少しだけ肩をすくめる。
エ「棚に並ぶための名前、ね」
一口飲む。少し早い。
エ「通る名前にすれば、通る」
ギ「……あなたのこと?」
エ「誰のことでもあるわ」
グラスが空く。マーティノー女史が無言で注ぐ。
マ「合理的ではある。内容が同じなら、通る名前を使う方が早い」
エ「“通る名前”ね」
言葉を舌で転がす。
エ「ねえ、それで褒められたとき――それ、誰なの?」
ギ「書いた人よ」
エ「書いたのはね、書いたのは、そう」
うなずく。何度も。
エ「でも褒められてるのは、その名前でしょう?」
マ「識別の問題よ」
エ「識別、識別ね」
くすくす笑う。
エ「便利な言葉。全部それで片付く」
一気に飲み干す。少しこぼれる。
ギ「少し、早くない?」
エ「遅いくらいよ」
笑う。少し遅れて。
エ「だってね、女の名前で出したら最初から読まれないのに」
エ「男の名前にしたら、“深い”って言われるの」
ギャスケル夫人が小さく息を呑む。
エ「深いのは、どっち?」
間。
エ「私?それとも、その名前?」
暖炉がぱちりと鳴る。
マ「読者の期待が変わるからよ」
エ「期待に合わせて、私は変わったの?」
マ「あなたは変わっていない」
エ「じゃあ、あの名前は誰?」
沈黙。
ギ「あのね……メアリー」
ギャスケル夫人は言った後ではっとした。
エ「……それ、久しぶりに聞いたわ」
少し笑う。
エ「でもね、それで呼ばれても――」
エ「もう、どこにいるか分からないのよ」
エリオット嬢が少し身を乗り出す。
エ「ねえ、もし――」
グラスを揺らす。光が歪む。
エ「違う名前で呼ばれ続けたら」
間。
エ「ずっと、その名前でしか見られなくなったら」
笑う。今度は乾いている。
エ「それでも、それって私なの?」
ギ「……あなたよ」
エ「ほんとに?」
間。
エ「ねえ、じゃあ――」
指で卓をなぞる。
エ「私がいなくなっても、その名前が残ったら」
エ「それで十分?」
誰も答えない。
エ「私、どこにいるの、それ」
静かに落ちる。
その一言で、空気がわずかに沈む。
ギャスケル夫人とマーティノー女史が顔を見合わせる。
ギ‐マ「「こんな娘だったの?」」
軽く、しかし確かに。
エリオット嬢は吹き出す。
エ「ひどいわね」
ギ「だって、あなたいつももっと――」
マ「整っているもの」
エ「酔ってるのよ」
グラスを掲げる。
エ「名前を変えるより、正直でしょう?」
マーティノー女史が静かに言う。
マ「名は社会の側にあるわ」
エ「……」
マ「あなたは変わっていない。ただ識別が変わるだけ」
エ「それで十分に扱いは変わるわ」
マ「社会とはそういうものよ」
ギャスケル夫人が小さく息を吐く。
ギ「でも、読む人は――」
言いかけて、やめる。
エ「読む人も、名前から入るわ」
静かに言い切る。
エ「だって、私がそうだったもの」
沈黙。
暖炉の音だけが残る。
カーテンの向こう、月が雲に隠れる。
誰もそれを確かめない。
マ「結局――」
二人が見る。
マ「誰の名で語られるかが、残るのよ」
エ「誰が語ったかじゃなくて?」
マ「ええ」
ギ「……少し、寂しいわね」
エリオット嬢は笑う。
エ「でも、便利でしょう?」
グラスが小さく触れる。
エ「名前ひとつで、人生が通るなら」
誰も否定しない。
闇夜を照らす月はずっとそこにある。
月の名前は変わらない。
ただ、その名を呼ぶ者は、誰もいなかった。
↓第十三夜
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