同じ月の下に選ぶ者たち 第八夜「月光の魔法が、全て包む」(妄想歴史会話劇)
夜の緑の丘。
白い花が月光に濡れている。
リヒャルト・ワーグナーはゆっくりと歩き、
濡羽色の宵闇のドレスを纏った、マティルデ・ヴェーゼンドンク夫人はその少し後ろに立つ。
遠くで、かすかに音が揺れる。
ワ「月はいい。すべてを美しくする」
マ「美しく“見せる”だけではなくて?」
ワ「違いがあるか?」
マ「あるわ。見えているものは、変わっていないもの」
ワーグナーは微笑む。
ワ「だが人は、見えるものしか信じない」
間。
マ「あなたの音楽も、そう?」
ワ「私の音楽は、現実を超える」
マ「現実を、使って?」
ワ「素材だ。すべては」
マティルデは少し視線を落とす。
マ「人も?」
ワ「もちろんだ」
沈黙。
マ「……その人は、自分が使われていると知っているの?」
ワ「知らなくていい」
マ「どうして」
ワ「知れば、形が崩れる」
マ「あなたの作品が?」
ワ「世界がだ」
月明かりが強くなる。
マ「あなたは、創っているの?」
マ「それとも、奪っているの?」
ワーグナーは答えない。
風が花を揺らす。
ワ「奪う、か」
少し考える。
ワ「だとしても、美しくなればいい」
マ「美しければ、許されるの?」
ワ「許される必要はない」
マ「では、なぜ創るの」
ワ「そこに、美があるからだ」
マ「……それは、誰のもの?」
間。
ワ「美に所有者はいない」
マ「でも、痛みにはあるわ」
沈黙。
遠くで音が止まる。
マ「あなたは、それを音にしてしまうでしょう」
ワ「音にしなければ、消える」
マ「消えてしまった方がいいものもあるわ」
ワ「ない」
即答。
ワ「消えるべきものなど、何一つない」
マティルデはゆっくり首を振る。
マ「月は、すべてを包む」
マ「でも、消していないわ」
ワ「だからいい」
マ「見えなくしているだけじゃなくって」
ワ「それで十分だ」
間。
マ「……もし、その美しさが」
マ「誰かの上に成り立っているとしても?」
ワーグナーは静かに言う。
ワ「すべての美は、そうだ」
長い沈黙。
マティルデは月を見る。
マ「では――」
マ「あなたの音楽は、誰のものなの」
ワーグナーは少しだけ笑う。
ワ「聴いた者のものだ」
マ「創ったのは、あなたでしょう」
ワ「きっかけに過ぎないさ」
間。
マ「……あなたは、責任から逃げている」
ワ「違う」
ワ「責任を、拡げている」
風が止む。
マ「それは、分散よ」
ワ「共有だ」
沈黙。
マ「同じ言葉でも、意味が違うわね」
ワ「月の下ではな」
二人とも、同じ光を見ている。
マティルデは静かに言う。
マ「月光の魔法が、万物を包む」
わずかな間。
マ「だから、境界が消えるの」
ワーグナーは頷く。
ワ「それでいい」
マティルデはゆっくりと息を吸う。
マ「……いいえ」
小さく、しかしはっきりと。
マ「それが一番怖いのよ」
間。
マ「境界が消えたとき、何が誰のものだったのかも分からなくなる」
マ「誰が傷ついて、誰が奪って、誰が与えたのか」
マ「すべてが“美しいもの”の中に溶ければ、見えなくなってしまう」
視線は月のまま。
マ「そして、誰も責任を持たなくなる」
マ「それでも作品は残る。きっと、美しいままで」
わずかに声を落とす。
マ「……それは、赦されたことになるのかしら」
沈黙。
マ「それとも、ただ忘れられただけなのかしら」
風が、もう一度だけ花を揺らす。
マ「月は、すべてを包む」
マ「でも、何も知らないのよ」
静かに。
マ「知らないまま、美しくしてしまう」
長い間。
返事はない。
庭園の花たちは、ただ月光を浴びている。
何も知らずに、何も問わずに。
↓第九夜
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