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捨て犬男とノラ猫女:May 1

ゴールデンウィーク開けの平日。

連休や土日休みといった、数ヶ月まで当然の習慣であったものもなくなり、賢太はカレンダーを必要としなくなっていた。代わってバイト先のシフト表が、賢太の予定を管理している。

今日は早番。定刻通りに終了。缶コーヒーを飲みながら歩き、特に目的はなく、多摩川をのぞめる場所に立った。

ごく穏やかな流れ。水面に乗る夕陽のかけら。じっと見つめ過ぎて目にチカチカとした残像が染み着きそうになり、賢太は顔を空に向けた。

西にあるオレンジ色に、東から淡い紫色が迫る。現実に時折現れる幻想のようで、心が浮き立つ。絵具を混ぜて出そうと思っても、自分には決して出せない色。本当に美しいのは、きっとそういうもの。思って、息を吐く。川の上を通り抜けた湿っぽい風が、賢太の髪に染みついたタバコの匂いを奪って去った。

疲れた脚で、ゆっくりゆらゆらと歩き、アパートへ。住宅の角を曲がると、他人の後ろ姿が目に入った。後頭部。ひとつに括った黒髪が揺れている。

白のロングTシャツに黒のオーバーオール。ポシェットとスリップオンは、前と同じ赤色。美弥子の右腕に抱えられているのはコンパクトな脚立。歩くリズムに合わせ、タグがぶらぶらと揺れていた。

――わざわざ買ってきたのかよ

小さく舌打ちしながらも、賢太は足を速めていた。声をかけようかと迷ううちに、美弥子の真後ろに。気配を察知したのか、美弥子は階段に足をかける直前で振り返った。

「おっ! グッドタイミング。ほら、お買い得品ゲット」

久しぶり、こんばんは、といった言葉より先に、美弥子は脚立にぶら下がった値札を賢太に見せびらかす。【処分品・半額】と書かれたシールを目にした後、賢太は脚立を手に取った。美弥子を追い越し、階段を上る。

「ありがとう。小さいけど結構重たかったぁ」

鉄製の外階段。後ろから聞こえる美弥子の作るリズムは、とても軽やか。

賢太は、脚立を手にした自分の感情を処理できずにいた。

俺が持つ義理はない
でも特別嫌なワケじゃない
コイツの腕がやたら細いから
コケたら困るし
そうだ、だからだ
転んで骨折なんかされたら困るじゃないか
だから持ってやってる
それだけのこと

片手で器用に鍵を開け、賢太は無言で部屋に入った。美弥子は、お邪魔します、と言って、片手が塞がった賢太の代わりに賢太の靴を揃えた。そして自分の靴もきっちりと揃え、部屋に上がった。

脚立を台所の板間に。窓を開け風を通すついでに、賢太は外に向かって特大のため息を吐いた。背後に美弥子の気配。

「あのさ、図々しいお願いなんだけど……」

今更何を、と思いながら、賢太は美弥子に背を向けたまま口を開いた。

「ハサミなら流しの引き出しに」
「あ、うん。それもなんだけどね。テレビつけてもいい?」
「今の時間、ニュースぐらいしかやってませんよ」
「ニュースが見たいんだけど」
「あ……どうぞ。リモコンそこにあるんで」

テレビ台の上のリモコンに視線を振った賢太に小さく頭を下げながら、美弥子は小動物のような細かい歩幅で進む。

「ふうん……ニュース見るようには見えないってことね」

言って小さく笑った美弥子。賢太は聞こえなかったふりをして、ベランダに出た。

美弥子はニュースを好んで見ているような雰囲気を持ち合わせていない。それは賢太の主観で、美弥子にとっては失礼な話かもしれない。しかし、ごめんなさい、というほどのことでもないだろう。

「ハサミも借りちゃうねー」
「どうぞ」

背後でプチンと音がして、賢太は脚立のタグが外されたとわかった。チラリと視線を飛ばせば、美弥子はテレビに視線を送りながら、脚立を包み込むビニールにハサミを入れている。非常に危なっかしい。しかし手を貸すほど未熟な手つきではない。

――俺のものじゃないし、勝手にやってくれ

賢太は部屋に戻り、美弥子にぶつからないよう注意を払いながら、手洗いとうがいを済ませた。ほぼ同時に、ビニールから解放された脚立が台所に立った。ステップが三つあるだけの、背の低いタイプ。

「これ、椅子の代わりにもなるね」

美弥子は上段のステップに腰を下ろし、考える人のポーズをとる。賢太は思わず噴き出してしまったが、すぐに表情を整え、どうぞ、とジェスチャーを見せて流しを美弥子に譲る。自然とそうしてしまった自分に驚いたが、してしまった行動を取り消すのは不可能だった。

手を洗いとうがいを済ませた美弥子は、当然のように窓辺に立つと、後ろからみてもはっきりとわかるほどの深呼吸をひとつ。

「いいねぇ、こっからの眺めは」

聞こえた言葉に、賢太は耳を疑った。住宅や電柱の隙間から、ほんの僅かに多摩川が望めるだけ。正確に言えば、多摩川がある方向に開けているだけ。水面は見えない。河川敷がそこにあるという雰囲気がわかる程度のものだ。しかも比率は、

住宅その他:多摩川があるという雰囲気
9:1

評価なんて人それぞれ、特に反論すべきことでもない。賢太は美弥子の視線が離れたテレビと向かい合い、明日の天気を頭に入れる。早番の朝は晴れが望ましい。天気予報は晴れ。ベランダに射し込む夕日も美しい。予報は当たるだろう。

「ケンタくん明日は仕事?」
「え? ああ、はい仕事です」
「早番、遅番どっち?」
「早番ですけど」
「今夜は何時まで平気?」

唐突に投げられた問い。その意図するところが賢太にはわからなかった。何を言っているんだ、という心の内を読み取ったのか、美弥子はふっと小さく笑って、ポシェットからチケットのようなものを取り出した。

「じゃーん! 焼肉屋さんのクーポンです。しかも有効期限が今日までっていう超プレミアム」

プレミアムの使い方を間違っている、とツッコむ親切心は湧かない。ただ、美弥子は焼肉を食べに行く相手を探しているのだ、というのは理解できた。その上で、賢太は縦とも横とも受け取れるような、微妙な頷きを見せた。

「え? 行くの行かないの?」
「あ、いや」
「どっち?」
「どっちって……ああ、えっと、ニュース見ないんですか?」
「見てるよ、ずっと。じゃあニュース終わったら行こう」

行くとは言っていない。そうはっきり音にすればいいだけ。しかし賢太は口を噤んだまま、ハサミを片づけ、タグとビニールを分別してゴミ箱に入れた。

美弥子はニュースを見ている、と言ったが、どう見ても視線は窓の向こうに。新品の脚立は役割を果たさないまま、台所に取り残されていた。


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