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捨て犬男とノラ猫女:May 2

二人が部屋を出ると、空はだいぶ夜の様相となっていた。生温かい風に、どこかの家で作っている料理の香りが混ざり込んでいる。

「これ玉ねぎ炒めてる匂いじゃない? 今夜はカレーかな?」

カレー以外にも玉ねぎを使う料理はある。しかし賢太の頭にも、カレーが思い浮かんでいた。これから焼肉を食べると言うのに、誰かの家のカレーを羨ましく思う。

――しばらくレトルトしか食べてないもんな

賢太はキーマカレーが好きだ。こんがりと焼けたナンにたっぷりとつけて食べるさまを想像すると、唾液が溢れそうになった。

「ケンタくん焼肉、好き?」
「ああ、まあ嫌いではないけど、あんまり行かないんで」

誘っておいて今更好き嫌いを聞くのはどうなのだろう。完全に順番が違う。

――変なヤツ……

美弥子という女は、屈託ない笑顔でグイグイと人の領域に踏み込んでくる。しかし出て行く時は、あっさりと去っていく。

会うのはまだ三回目だが、焼肉を一緒に食べても、それは本当に【ただの夕飯】で、その後特別な関係になったり、美弥子が部屋に居座ったりするという可能性を感じない。美弥子は、自分の目的を果たせば、余韻も残さず帰って行くのだろう。

――良い身分だよな……どんな暮らししてるのかなんて知らないけど
 
素性を事細かに知りたいとは思わない。しかし美弥子は、自分よりも自由に生きている。賢太はそう感じ、嫉妬に似た苛立ちを覚えた。左を歩く美弥子との間に、距離を作る。

「私さ、春が好きなんだけど、五月が一番好きなんだよね」

賢太の動きなど気にしていないように、美弥子は独り言のように放つ。

「三月ってまだ寒かったりするじゃない? 天気も不安定だし。四月は浮かれてるって言うかワクワクし過ぎじゃない? 新学期とか進学とか就職とか。だから五月。春がやっと定着して落ち着いてる感じ。日差しもぽかぽかだしね」

相槌も打たず、賢太はただ、美弥子の言葉を耳に流し入れていた。

賢太の中で五月と言えば、五月病だ。メジャーな病じゃないか。今年は幸いかからずに済んでいるが、中高大と、まるで模範のように五月病を患っていた。明るい日差しも、ぽかぽかとした陽気も憎らしかった。季節が廻らなければいいのに、とまで考えたこともある。

――コイツ超前向きなんだな、きっと……

会ったのが学生時代じゃなくて良かった。美弥子が同じクラスにいたら、毎日その姿にイライラしただろう。明日のことなんて考えていない。今楽しければそれでいい。カラッカラの笑顔を無防備に見せる女子は、学生時代の賢太にとって嫌悪の対象でしかなかった。

「でもすぐに梅雨入りだね」
「まだ早い。沖縄じゃあるまいし」

答えるつもりで美弥子の話を聞いていたわけではないのに、言葉が口から滑り落ちた。しかもかなり冷たい口調のタメ口。

「でも時間ってあっという間、ホントにあっという間に過ぎるよね。今だってほら、今が今過ぎたんだよ!」

賢太の冷ややかなツッコみなどなかったかのように、美弥子は大きく目を見開いて熱弁。

――今が今過ぎたって……当たり前だからそんなの

当たり前。確かにそうだが、普段それを気にかけて過ごしているだろうか。気にかけていたら、何も手につかないのではないだろうか。

今あれをやろうとしたのにできなかった、今あれを言おうとしたのに言えなかった。そうやって毎秒毎秒悔しい思いをするぐらいなら、時の経過を忘れるほどの忙しさに飛び込んでいたい。

――何なんだよ。余計なこと考えさせるなよな

賢太は自分にも聞こえないのではないかというほど小さく、舌打ちをした。

チラリと左に視線を落としたが、美弥子は賢太の様子を気にかけるそぶりを見せず、スマートフォンをいじっている。信号待ちを利用して店の場所を検索しているようだ。

「店の場所、調べてないんですか?」
「んー……チェーン店だからどこにでもあると思って」
「店の」

名前は何ですか、と賢太が言葉を繋げる前に、美弥子は焼肉屋のクーポンを賢太に差し出した。店名に覚えがある。最寄り駅の北口にある雑居ビルに看板があったはず。

「とりあえず駅まで行きましょう」
「知ってるの?」
「信号、青ですよ」

賢太は美弥子より先に足を動かし始めた。そもそも一緒に歩くような関係でもない。歩幅の違う相手に合わせて歩く必要もない。

「待って待って一緒に行こうよ。北口って駅の向こう側だよね? あっちはあんまり詳しくないからさ」
「場所、わかってるんですね?」
「一応、確認だよ」

美弥子はスマートフォンの画面を賢太に見せる。焼肉屋までの地図が映し出されていた。ここだよね、と言いたげに、美弥子は視線を送ってくる。賢太がため息交じりに頷くと、美弥子は笑って、ポシェットにスマートフォンをしまい込んだ。


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