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捨て犬男とノラ猫女:Apr.4

賢太は立ち上がると、美弥子の手を放し、頭を下げた。美弥子は頷いて賢太から離れ、両手を軽く挙げた。銃を向けられた人間がとる、あのポーズ。

「私のこと怖いって思ったんでしょ。変な物隠してるんじゃないかって……私、悪いことはしてない。それは誓える。神様は信じてないから誰に誓うのかはわかんないけど……あそこに隠してるのはアイデンティティーみたいな物って言えばいいかな。ちょっと事情があって家には置いておけなくて。この前は、それが必要になったから取りにきたの。でもちょっと考え中っていうか……ごめん、ワケわかんないよね? でも嘘は言ってない。信じてもらえなくても、これが本当のことだから、これ以外に言いようがない……こちらからは、以上です」

美弥子は両手を挙げた姿勢のまま、賢太から目を逸らさない。口はきゅっと噤まれ、以上です、と言った通り、それより先を話すつもりはないらしい。

――何だよアイデンティティーって

その言葉の意味を、賢太は知っている。精神的なものもあれば、物質として手に取れる物もある。隠しているのならば後者だ。まともなものだとすれば、屋根裏に置いておくような真似はしないはず。

怪しい。その気持ちは拭い去れない。しかし美弥子の表情を見る限り、本当に、嘘はついてなさそうだ。

――ホントって証拠はないけど、嘘って証拠もないんだよな

賢太は優れた洞察力を備えているわけではない。しかし人を信じる力は、それなりに備わっている。

美弥子に対し、手を下ろして、といったジェスチャーを見せ、賢太は畳に胡坐をかいた。ベランダに打ち付けた尻に痛みが走り、思わず顔を歪める。美弥子は一瞬表情を変えたが、言葉は紡がず、賢太の動きを待っているように見えた。

「えっと……危険な物じゃないのは信じます。もし万が一そうであっても俺は触れていないし、引っ越してきたばかりだし、まあ……無関係ですから」
「ありがとう」
「あ、いや」

ありがとう、と言われるような答えを返したつもりはなかった。どちらかと言えば薄情な物言いだったと思う。しかし他に言いようがなかったのだから仕方がない。賢太は長く息を吐いた後、右手を前に差し出し、美弥子に座るよう促した。

ストン、と素直に座り込んだ美弥子。うつむき加減で、涙ぐんでいるようにも見える。

――やめろよ……こっちだよ泣きたいのは

賢太の鼓動は妙な加速を始めた。不慣れなのだ、こういった状況は。不慣れどころか、小学校で女子をうっかり泣かせてしまった時以来で、どうか大声で泣くのだけはやめてくれと祈るばかり。

こういう時、男という性質を持っているのは非常に不利だ。女は泣いたら優しくされるのに、男は情けないと言われる。悲しみや悔しさ、不安といった感情は、男女平等のはずなのに。

美弥子が涙を零してしまう前に、この場を丸く収めたい。賢太は立ち上がり、紙パック入りの麦茶をグラスに注いで、美弥子のそばに足を進めた。平皿の上の紙コップを持ち上げる。

紙コップは、溶けた氷の重みだけのように感じた。しかし念のため、美弥子に問いを投げる。

「これ、もういいですか?」
「うん」
「あ、えっと、普通の麦茶ですけど、良かったら」
「ありがとう……いただきます」

美弥子は賢太の手からグラスを受け取り、両手で包み込むように持った。ゆっくりと口元に運び、ふた口ほど飲んで、平皿に置く。

その様子を視界の端に入れながら、賢太は台所で自分のために麦茶を用意した。これがとてつもなく美味しい飲み物なら、美弥子は美味しいと感激し、簡単に笑顔になるかもしれない。そんなことを思いながら。

「麦茶って、なんか懐かしい……美味しいね」

意外な反応。望んだものと、そうかけ離れていない感想を受けて、賢太は思わず視線を振った。その先で、美弥子は笑みを浮かべている。

賢太は、胸を圧迫していた緊張が一気に去る感覚をおぼえた。安堵するとはこういうことなのだ、と強く実感。長い長い息が漏れて、うっかり涙腺が緩んだ。

美弥子は麦茶を飲み干した後、今度は脚立を持ってくるね、と言って、部屋を出た。

あの夜と同じように、金属製の外階段が音を奏でる。それは、美弥子がこの部屋だけに現われる幻などではないと教えてくれる。それでも賢太は、響きが消えてすぐ、外に飛び出した。

住宅地を縫って巡らされた生活道路に、美弥子の姿。ひとつに括られた黒髪が揺れている。赤いスリップオンを履いた足は止まらずに進む。振り返るそぶりは見せず、美弥子は住宅の影に消えた。代わって住宅の影から猫が飛び出した。黒猫。遠目でも痩せているのがわかった。

――化身? なワケない。ファンタジー脳は卒業だろ

ドアを閉め、施錠して部屋に上がる。

ファストフードの脂っぽい匂い。段ボールテーブル。二人分のグラス。確かな現実が目の前に。

美弥子のいた痕跡を確かめた後、賢太は天袋を見上げた。美弥子は本当に脚立を持ってくるのだろうか。ケンケンに預けたものがあるかどうか一応確認してみる、と言っていたが、確認する理由は、なんなのだろう。

――別に、俺には関係ないし

きてもこなくても構わない。賢太はそう思いつつ、きても嫌ではない、と考えている自分に気づく。

誰かの秘密が部屋の中に隠されているなんて、考えようによっては楽しいかもしれない。もう少し、あの図々しくて不思議な女のミステリーに付き合ってみるのも、悪くないかもしれない。

――って、ドラマじゃあるまいし

失笑して、目薬を開封。クールなさし心地、のフレーズに嘘はなく、鋭い爽快感に目をきつく閉じる。目じりから溢れたのは余分な目薬か、それとも涙か。

ふと笑いが漏れた。それが意外で、また笑いを追加し、賢太はベランダの窓を開け放ったまま、段ボールテーブルの上を片づけ始めた。


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