捨て犬男とノラ猫女:Aug.1
美弥子に謝る機会が来ないまま八月に突入。賢太は、もう二度とごめんと言えないのではないかと考えていた。それでも、部屋にいれば呼び鈴の音に過敏になり、街に出れば美弥子に似た誰かを目で追ってしまう。忘れられるのは、フロアで忙しく走り回っている時だけだった。
学生のバイトは八月いっぱい夏休み。盆の時期は、ほぼ全員が帰省してしまった。穴埋めはフリーターの役目。賢太、篠田、森川は、六連勤の最終日。いつもは笑顔の森川も、さすがに疲れたといった面持ちだった。
早番の時間帯だが、土曜の遅番と同等の混み具合で、出玉も多かった。盆の時期にこんなに出すなんて馬鹿なんじゃねえの、と森川は零していた。賢太は意味がわからなかったが、森川がそう言うのだから、ここは他の店とは違う試みをしているのだろうと理解した。
そろそろ遅番のメンバーがフロアにやってくる。賢太は何度もスポーツウォッチに視線を落としていた。疲れた。早く帰りたい。早く、早く。コースの向こう側にいる森川も、同じ行動をとっている。みんな考えている事は同じ。賢太がランプ対応をして歩き始めると、中年男性が森川に近づいていくのが見えた。
男は確実に苛立っていた。森川に詰め寄り、何度も台を指さして、何かを訴えている。森川は、少々お待ち下さいといった様子で、インカムのマイクを口元に寄せた。
『社員の方、どなたか取れますか?』
フロアには二人、社員がいる。カウンターに入っている女性社員が、すぐに反応を示した。森川は、口調を速めた。
『すみません何かコーヒー頼んだのにまだこないとか言ってるんですけど、コーヒー屋さんって今休憩中ですよね?』
すぐに、少々お待ち下さいとの返事。男はまた、森川に突っかかっていく。森川が、まあまあと場を収めようとしているところに、女性社員がやってきた。森川は深く頭を下げ、社員の後ろに。男は女性社員に再度クレームを伝えている様子。しかし、女性社員が丁寧に頷きを見せると、いいよいいよ、といった風に笑い、遊技台の前に戻った。
賢太はコースを巡回しながら、その様子を目に入れていた。女性社員と入れ替わるようにコーヒー販売の若い女がやってきて、男に何度も頭を下げた。男は笑っていた。
終礼が終わると、いつもは一服をする森川が、一番に休憩室を出て行った。賢太は後を追うつもりはなかったが、結果そうなった。ロッカールーム手前の踊り場で、森川はひとり、タバコをふかしていた。
「大変だったね。変な客に当たっちゃって」
「ホントだよ……コーヒー出し忘れたのは俺じゃねえっつーの!」
「コーヒー屋さんもインカム付けて欲しいよね。俺も前に、まだかって、怒られたことあるし」
「だよなあ。でもいいよな、ああやって可愛くゴメンナサアイって言えば許してもらえんだからさ。俺だってちゃんと説明して、頭まで下げたんだよ!? 俺も上目づかいでスミマセエンとか言ったら許してくれんのかっつーの」
「ますます怒るよ」
「間違いない」
森川は、笑いながら煙を吐いた。
「いや、まあ、可愛く言ってくれたおかげでアイツの怒りが収まったんだから、ありがたいんだけどさ……でもムカつくよなあ。女ってやっぱ得だな。俺も結構甘い顔しちゃうしなあ……気を付けよう。でもモテないだろうな、ある程度甘い顔しないと」
賢太は、縦とも横ともとれるような、曖昧な首の動かし方をした。女だから男だからという考えは、好きではない。しかし、時に自分も森川と同じように考えてしまう。
もし美弥子が男だったら、どうしていただろう。部屋に入れただろうか。入れたとしても、さっさと自分のアイデンティティーとやらを持って行ってくれと言ったに違いない。
――結局、そういう事だよな
自分は美弥子の何を知っているのだろう。名前だって本名かどうかわからない。天袋の上の大切なものとやらは、話題にも上がらなくなった。自分は一体、何をしているのだろう。美弥子を待つ事に意味はあるのだろうか。
頭の中に靄が降りて、美弥子の姿がぼんやりとし始めた。それでいいのかもしれない。賢太は森川が吐き出す煙を、ひたすら目で追った。
疲労困憊なのは確実なのに、森川は呑みに行こうと言い出した。部屋に帰れば美弥子を思い出す可能性が高いと判断し、賢太は森川の後を追った。篠田は、絶対無理死んじゃう、と言い残し、よたよたと駅に向かって行った。
安心価格のチェーン店に入り、生ビールで乾杯。森川はクレームの一件を引きずっていて、すぐに愚痴をこぼし始めた。ほとんどが仕事に絡むもの。いずれもが、自分にも当てはまると賢太は何度も頷いた。
だいたいの人間は、同じような想いを抱えながら生きているのだろうと想像する。毎日楽しく笑って生きている人間が、世の中にどれくらいいるのだろう。絶滅危惧種に指定されるほど少ないに違いない。
互いのジョッキが空になり、二杯目のビールが運ばれてきたタイミングで、見慣れた顔が現われた。
「ヤッホー、お疲れさーん。きちゃったよー、って言うかきてやったよ」
「おおー、ありがと! メールしてみるもんだな」
やって来たのは、小柳。小柳は、つい先程実家から戻ったと言って、ご当地限定スナックをテーブルにドンと置いた。おしぼりとお通しを持ってきた店員は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに笑顔を見せ、注文をとって去った。
「なになにー? 森川パイセンお怒りらしいじゃん。私の不在に何があったんだい? 言ってみな」
「パイセン言うな。店ではお前のほうが先輩だから」
「そうねそうね。じゃあ先輩が話を聞いてやろうじゃないの」
小柳に煽られ、森川の愚痴はヒートアップ。前の店でのクレーム話まで飛び出した。
――いつも笑顔なのに……かなり溜め込むタイプなんだな
賢太は二人のやりとりに耳を傾けながら、やはり誰もが、ストレスと不満に心を侵食されているのだと確信した。自分だけではないと心が軽くなる。
誰かの愚痴を聞いて心穏やかになるなんて、相当不謹慎なのかもしれない。しかし賢太は、この場にいて良かったと感じていた。
「私の前ではいいけどさあ、彼女の前ではやめときなよ、ウザイから」
しばらく森川の話を聞いた後、小柳は大きく笑ってジョッキを口に傾けた。【ママ】のようだと賢太は思わず噴き出しそうになる。
「ウチのバイトのみんなもさあ、ホント色々抱えてるよねえ……学生って気楽なんだなって思うよホントに」
小柳はタバコに火を付けながら脚を組む。ママ度がアップして、賢太は再び噴き出しそうになった。
ジョッキを傾けていた森川は、ビールを飲み干す寸前で顔を戻し、いやいやいやというように首を横に振った。
「そんなことないだろ、学生は学生なりに大変だよ。授業、レポート、それにお前らは制作だってあるし。勉強しながら将来の事考えながらバイトも頑張る。俺、大学生の時バイトしてなかったからね! 威張る事じゃないけど」
「マジで! そっちのほうが貴重じゃない?」
「そうそう、俺貴重なの。よくわかってんじゃん! だからきてくれたんだよなあ。ありがとうなあ、わざわざ」
「いいの、いいのよ。でもホントに、彼女の前ではやめなよ」
「だよなあ……つーかこんなの彼女には言えない。みっともなくて振られるかもしれない」
「こういう姿も曝け出せるコならいいのにねえ」
「そんなの二次元だろ」
「まあねえ……うっとおしいもんね男の愚痴って。何かこう、質が違うって言うかさ」
「どんな風に?」
「男の愚痴って濃厚な感じ? 溜めに溜めて出すみたいな。しかも酒の力を借りて。女同士だと結構気軽にアレコレ話して、最後はぎゃははって笑えたりするんだよね。男の愚痴って笑えないもん」
「何だよ、濃厚な話はキライって女ばっかなの? いないの、濃いのが好きな女の子」
「探せばいる、かなあ……まあ、いたら天使じゃね?」
「天使!? いねえって事じゃん!」
「煩悩とか捨てたら見えるんじゃない?」
「無理! 俺、煩悩の塊だから」
森川と小柳は声を揃えて笑う。賢太は、美弥子の言葉を思い出した。
私が! 私が聞くよ! 今日は私がケンタくんの話聞くから!
声を荒げた相手に向かって、美弥子は話を聞くと言ってくれた。あの時話していたら、二人の関係はどうなっていたのだろう。面倒な男だと思われただろうか。それとも、小柳がしたように、溜めに溜めた汚い感情を、受け止めてくれたのだろうか。
――もうこないよ。俺が女なら、いや男同士だって、俺みたいなヤツ絶対嫌いになる
森川と小柳は、いつの間にか台のメンテナンスの話を始めていた。森川は汚れた感情を吐き切れたのだと、賢太は羨ましく思った。
