【連載小説】第一話「さくらと凛」ジャンヌ・ダルクの残心
放課後の道場に、乾いた竹刀の音が響き渡る。
「凛、もう一回!」
「はい」
橘さくらが、汗に濡れた手で竹刀を構え直す。
顎から滴る雫が床に弾けた。すでに三十分以上、二人は同じ打ち込みを繰り返している。
本庄凛は、正対するさくらの僅かな重心の移動を、一瞬たりとも見逃さなかった。
踏み込みの鋭さ、気合の乗り。どれも悪くない。けれど——
(……また、二拍子になってる)
足が床を捉え、竹刀が空を切る。
その二つの動作の間に、羽毛一枚分ほどの「空白」がある。
命のやり取りをする場であれば、その「間」こそが致命的な隙となる。
「さくら、止まって」
「え、なに?」
「今の打ち込み、足と竹刀の連動が切れてる。別々に動いてるよ」
「……そうかな?」
「踏み込みながら、打つ。同時。それが一拍子」
さくらが困ったように首を傾げた。
「わかってるつもりなんだけど……どうしても足が先に出ちゃうんだよね」
「踏み込みを意識しすぎ。竹刀の先から動いてみて。剣が動いた瞬間に、体全体が後からついてくるイメージで」
さくらは少し目を閉じて、その感覚を咀嚼するように構え直した。
鋭い呼気とともに放たれた素振り。
(……まだ僅かにズレがある。でも)
「今の。さっきよりずっと良くなった」
「ほんと!?」
さくらの瞳が、ぱっと輝いた。
限界まで追い込まれていても、こういう瞬間に見せる子供のような無邪気な笑顔。
それは小学校の頃から、凛の隣でずっと変わらない光景だった。
「ほんとだよ。もう一回」
再び構える。今度は——
(……出た)
足と竹刀が、呼吸を合わせたかのように一つの軌跡を描いた。
完全な「一」にはまだ遠いが、確かに動きが繋がった瞬間だった。
「今の……今のが、一拍子」
「ええっ、自分じゃよくわかんないよ。もう一回やってみる!」
さくらはそう言いながら、また熱心に構えを作る。
彼女とは小学校からの付き合いだ。小学生で共に剣道の門を叩き、中学、高校でも同じ道を選んだ。
才能という残酷な尺度で見れば、さくらは凛に遠く及ばない。
けれど、さくらは一日も休まなかった。
雨の日も、体調を崩しかけた日も、試合で惨敗して涙を飲んだ翌日も。
彼女は必ず、誰よりも早く道場にいた。
凛はそれを知っている。言葉には出さずとも、その背中をずっと、誰よりも近くで見てきた。
稽古が終わり、夕闇が差し込む部室で道具を片付けていると、さくらが不意に口を開いた。
「ねえ凛。来週の団体戦の選考……どう思う?」
「どうって?」
「私、選ばれるかな。……五人の中に、入れるかな」
凛は竹刀を袋に収める手を止め、わずかに沈黙した。
「わからない。でも、さくらが積み重ねてきたことは間違ってない。自信を持っていい」
さくらが、自嘲気味に苦笑する。
「凛って、時々そういうとこあるよね」
「……どういうところ」
「答えになってるようで、肝心なところをはぐらかすっていうか」
「……そんなつもりはないけど」
「なってるって」
さくらが、ひょいと凛の顔を覗き込んだ。
「私が聞きたいのは、可能性が何パーセントかとか、客観的な分析じゃないの」
「じゃあ、何?」
「……凛は、私に選ばれてほしいと思ってる?」
凛の指先が止まった。竹刀袋のファスナーを、半分開けたまま。
選ばれてほしいか、どうか。
そんな私情、考えたこともなかった。
……いや、違う。
考えることを、無意識に禁じていたのだ。
「部長として公平であるべきだ」という、自ら課した規律の外側に、その純粋な願いを追い出していた。
「……上達してる。だから、可能性はあるよ」
「ほら、また答えてない」
「……」
「凛はさ、自分の本当の気持ちを言うのが、すっごく下手だよね」
さくらは笑っていた。責める色など微塵もなく、ただ幼馴染の欠点を見守るような、温かい響きだった。
「……選ばれて、ほしいと……思ってるよ」
絞り出すような、掠れた声だった。
「……遅いっ!」
さくらが声を上げて笑った。
「なんで最初からそう言わないの! あーあ、凛ってば、ほんと可愛くないんだから」
「……言い方が、わからなかっただけ」
耳の付け根が熱くなるのを感じ、凛は視線を逸らした。
けれど、さくらが隣で楽しそうに笑っているから、それは決して嫌な気分ではなかった。
道場の外へ出ると、空は燃えるような茜色に染まっていた。
「ねえ凛」
さくらが竹刀袋を肩に担ぎ、夕焼けを仰ぐ。
「凛ってほんと変だよね。好きな歴史上の人物が山岡鉄舟なんて」
「何が変なの。あの人は剣の極致に挑んだ、高潔な人よ」
「女子高生が幕末の剣客を私淑してる時点で、だいぶ『普通』からはみ出してるってば。……でも、凛らしいとは思うな。死ぬまで自分を磨き続けたストイックな人が好きなんて、いかにも本庄凛って感じ」
「……さくらは? 好きな歴史上の人物」
「私? うーん……」
さくらは少し考えてから、茶目っ気たっぷりに笑った。
「樋口一葉!」
「なんで?」
「だってお札になってるし、なんか可愛いじゃない」
「理由、それだけ?」
「それだけ!」
凛は小さくため息をつき、それから、自分でも気づかないほど僅かに微笑んだ。
こういう、他愛もない時間が好きだった。
けれど、その「好きだ」という言葉さえ、この時の凛にはまだ、上手く形にすることができなかった。
選考会が来週に迫っていた。
第一話 了
