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【短編小説】第一話「白い花」 アニエス・ソレルの追憶(全三話)

 鏡の中に、ひとりの女がいた。

 豊かに波打つ栗色の髪。白磁のような肌。細く整えられた眉の下には、淡い色の瞳が静かな光を宿している。

 胸元を大きく開いた深紅のドレスには、選び抜かれた真珠が惜しげもなく縫い込まれていた。首元を飾る宝石は、シャルル王から贈られたものだ。

 アニエス・ソレルは鏡の前に座り、侍女が髪へ最後の真珠を挿すのを待っていた。

「まあ……」

 背後で侍女が感嘆の息を漏らす。

「今日も本当にお美しい。フランス中を探しても、アニエス様ほどの方はおられませんわ」

 アニエスは鏡越しに微笑んだ。

「昨日も同じことを言っていたわね」

「昨日よりも、今日の方がお美しいのでございます」

「それでは明日になれば、今日の私は二番目になるのかしら」

 侍女は返す言葉を探すように目を泳がせ、困ったように笑った。

 アニエスも小さく笑い、自分の姿へ視線を戻す。

 ――フランスで最も美しい女。

 いつの頃からか、人々は彼女をそう呼ぶようになっていた。

 アニエスが新しい形の衣装をまとえば、宮廷の女たちはこぞって仕立屋を呼んだ。彼女が髪へ真珠を飾れば、翌月にはどの夜会でも白い粒が揺れた。香水を変えれば、その香りを求めて商人の店へ使いが走る。

 男たちは彼女を見つめ、女たちはその視線を睨んだ。そうした熱のこもったまなざしに、アニエスはとうに慣れていた。

 美しさは、天から与えられるだけのものではない。

 肌の手入れを怠らず、自分を最も美しく見せる色を知り、衣装に合わせて歩幅さえ変える。首を傾ける角度、杯を持つ指、微笑む時に瞳を伏せる速さ。そのすべてを意識し、磨き、守り続ける。

 美とは、鍛錬によって完成へ近づけるものだ――アニエスはそう信じていた。

「耳飾りはこちらになさいますか。それとも、王より賜った――」

 侍女が鏡台の引き出しを開ける。

「待って」

 アニエスはその手を止めた。

 宝石や装身具の奥に、小さな木箱があった。彫刻も金具もない、古びた箱。宮廷一の美女が所有する品としては、あまりにも質素だ。

「それを取ってちょうだい」

 侍女は不思議そうな顔をしたが、何も言わず木箱を差し出した。

 アニエスは膝の上で、そっと蓋を開ける。

 中に収められていたのは、一輪の白い花だった。

 かつての白さは失われ、今は淡い黄褐色に変わっている。縁は乾き、少し触れただけでも崩れてしまいそうだった。

「それは……?」

「……昔、拾ったものよ」

「まあ。どちらのお庭で?」

 アニエスはそっと目を閉じた。やがて静かに目を開けると、窓の外へ視線を向けた。

「ランスよ。遠い夏の日のね」

 花を見つめているうちに、鏡に映る部屋が遠のいていく。

 磨かれた銀器も、絹の天蓋も、宝石をちりばめた衣装も消え、代わりに夏の日差しと鳴り響く鐘の音が蘇った。

 七歳のアニエスにとって、ランスの街はあまりにも騒がしかった。

 鐘が鳴り続けていた。

 家々の窓には色鮮やかな布が垂らされ、道には花がまかれている。大人たちは見知らぬ者同士で抱き合い、泣きながら新しい王の名を叫んでいた。

 フランスに真の王が生まれる――そう人々は言った。けれど幼いアニエスには、その意味は分からない。ただ、今日は特別な日であり、自分には大切な役目があるということだけは理解していた。

「粗相のないようにね」

 母は何度目か分からない注意を繰り返した。

「お花をお渡ししたら、きちんとお辞儀をするのですよ」

アニエスは両腕に白い花束を抱えたまま、母を見上げた。

「王様に?」

「いいえ。聖女様に」

「聖女様?」

「オルレアンを救い、王太子殿下をここまで導かれたお方です」

 聖女――その言葉だけで胸が高鳴った。きっと教会の絵に描かれた天使のような女性なのだろう。

 黄金の髪。汚れ一つない白い衣。足元には光る花が咲き、頭上には天から差し込む光の輪。そんな姿を思い浮かべながら、祝宴の広間へ入った。

 人の多さに圧倒され、思わず母の衣をつかむ。

 貴族たちは豪奢な衣装をまとい、兵士たちは大声で酒を酌み交わしている。誰もが興奮し、笑い、互いの言葉を聞こうともせず叫んでいた。

 やがて母が広間の一角を指した。

「あちらにおられます」

 アニエスは背伸びをした。人々の肩の隙間に見えたのは、想像していた聖女とはまるで違う少女だった。

 髪は男のように短く切られ、日に焼けた顔には疲れがにじみ、頬には薄い傷が残っている。華やかな貴婦人たちに囲まれているのに、ひとりだけ場違いな場所へ迷い込んだように見えた。それは聖女というより、戦場から戻ったばかりの少年のようだった。

「あの方が……?」

「そうですよ」

 母に促されても、アニエスはすぐに歩き出せなかった。少女から目が離れなかった。

――美しい。

 理由は説明できなかった。顔立ちの整った女性なら母の知人にも大勢いる。衣装なら周囲の貴婦人たちの方がずっと華やかだ。髪も肌も、アニエスが教えられてきた美しさとはかけ離れている。

 それなのに、誰よりも美しく見えた。

 少女は笑っていた。貴族に声をかけられれば頷き、兵士から杯を掲げられれば微笑み返す。

 今日は誰もが幸福なはずだった。新しい王が生まれ、長い戦に希望が見えた。その中心にいる少女が、いちばん幸福でなければならない。

 けれどアニエスには、彼女がひどく寂しそうに見えた。笑っているのに、その瞳の奥に誰も触れられない暗い場所がある。大勢の人々に囲まれているのに、たったひとりで、遠い場所に立っている。

 幼いアニエスには、その感覚を表す言葉がなかった。ただ胸が苦しくなった。

「アニエス」

 母に背を押され、我に返る。少女の前まで歩み出ると、膝が震えた。白い花束を両手で差し出す。

『Pour vous, Jehanne.』

 聖女がこちらを見た。一瞬だけ、驚いたように目を見開く。

「あ……ありがとう」

 アニエスの知らない言葉だった。聖職者が訳した声は、ほとんど耳に入らなかった。

 聖女は両手で花束を受け取った。その指には、小さな傷がいくつもあった。剣を握り、馬の手綱を引き、泥の中を進んできた手なのだろう。

 白い花へ目を落とした聖女の表情が、ほんのわずかにやわらいだ。けれどその目は、花ではなく、そこにはいない誰かを見ているようだった。懐かしく、恋しく、けれど二度と会えないかもしれない人を思い出すように。

 やがて聖女はアニエスへ顔を戻した。

「……可愛い子」

 意味は分からない。それでも、自分へ向けられた優しい言葉だと分かった。胸の奥が温かくなる。

 その時、花束の中から一輪の白い花が足元へこぼれ落ちた。誰も気づいていない。アニエスはそっと身をかがめ、小さな花を拾い上げる。

 返さなければ――そう思った。けれど、なぜかその花を手放したくなかった。

 母に呼ばれ、慌ててお辞儀をする。大勢の人の間を抜けて戻りながら、何度も振り返った。

 聖女はすでに別の貴族と言葉を交わしていた。若い公爵らしき男が熱を帯びた様子で何かを語っている。

 やがて男が「パリ」という言葉を口にした瞬間、聖女の顔が変わった。それまで薄く曇っていた瞳に、突然、強い光が宿った。喜びとは違う。暗い水の中でもがいていた者が、ようやくつかまるものを見つけたような、切実な光だった。

 人々は聖女を讃え、次々とその周囲へ集まっていく。やがて短い髪も、白い花束も、人の波の向こうへ見えなくなった。

 アニエスは拾った花を両手でそっと包み込むと、誰にも見えないよう胸元へ引き寄せた。

「お母様」

「何です?」

「あの方は、幸せなの?」

 母は驚いたように娘を見た。

「もちろんでしょう。王を戴冠へ導かれたのですよ。今日ほど誉れ高い日はありません」

「でも……」

 泣きそうだった。そう言いかけて、アニエスは口を閉じた。周囲の誰もが笑っている。自分が何かを見間違えたのだと思った。

 それでも、白い花束を抱いて微笑んだ聖女の寂しそうな瞳は、その後も長く、少女の心から消えなかった。

「アニエス様?」

 侍女の声に呼び戻される。アニエスは小さく瞬きをした。鏡には、再び豪奢な部屋と、美しく装った自分の姿が映っていた。

「どうかなさいましたか」

「いいえ」

 アニエスは花を木箱へ戻し、静かに蓋を閉じた。

「耳飾りは真珠にしましょう」

「かしこまりました」

 侍女が耳飾りを手に取った時、廊下の向こうが俄かに騒がしくなった。誰かが声を荒らげている。

「傷ついた兵たちへ、このような食事をお出しになるおつもりですか」

 女の声だった。穏やかな調子でありながら、よく通る。

「ですが、厨房から届けられたのは、これだけでして……」

「王の食卓には、余るほどの肉やパンが並んでいるでしょう。すべてを民へ回せとは申しません。せめて、戦で傷ついた兵士や子供たちへお出しする分くらいは、ご用意できるはずです」

 若い使用人が困ったように俯いた。

「ですが……勝手に献立を変えれば、厨房長より咎められます」

 しばらく沈黙が流れる。修道女は相手を責めることなく、小さく息をついた。

「そうですね。あなたは決められた務めを果たしているだけです」

 その一言に、使用人は顔を上げた。だが、修道女は静かに続ける。

「それでも、献立は変えましょう」

「しかし――」

「もし咎める方がおりましたら、私の名を出しなさい。」

 穏やかな声だった。けれど、その言葉には少しも迷いがなかった。

「責めは、すべて私が負います」

 若い使用人は言葉を失う。

「……シスター・ベアトリス」

 その名に、アニエスは振り返った。

「どうかお願いします」

 その声には命令する響きはなかった。ただ、傷ついた者を思う真っ直ぐな願いだけがあった。

 使用人は深く頭を下げた。

「……承知いたしました」

 開いた扉の向こうを、一人の修道女が通り過ぎようとしていた。年の頃は、アニエスよりひと回りほど上だろうか。黒と白の質素な修道服をまとい、両腕には布や薬草の入った籠を抱えている。

 豪華な王宮の中では、ひどく地味な姿だった。それでも、廊下にいた者たちは皆、自然と道を譲っていた。

 修道女は立ち止まり、使用人へ静かに何事かを言い添えた。使用人は深く頷き、修道女は小さく微笑んだ。

 その横顔を見た瞬間、アニエスの胸に微かな違和感が生まれた。どこかで見たことがある――そんな気がした。

「今の方は?」

 アニエスが尋ねる。

「王妃様に長くお仕えしている修道女です。宮廷の施療所や孤児たちの世話も取り仕切っておられます」

「ベアトリス、と呼ばれていたわね」

「はい。少々厳しいところはございますけれど、誰からも頼りにされている方です」

 アニエスは、修道女が消えた廊下を見つめた。質素な衣服。化粧気のない横顔。働き続けて荒れた手。なのに、不思議と目を引かれた。先ほどまで眺めていた白い花が、なぜか胸に浮かんだ。

「アニエス様、こちらを」

 侍女が真珠の耳飾りを差し出す。アニエスは鏡へ向き直った。そこには、フランスで最も美しいと称えられる女が座っている。けれど鏡の端には、去っていった修道女の姿が、まだ残っているような気がした。

 あの人は、誰なのだろう。そしてなぜ、あの瞳を見た瞬間、遠いランスの夏を思い出したのだろう。アニエスは答えを見つけられないまま、窓の外へ目を向けた。

第一話 了


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