【短編小説】第二話「受け継ぐ者」 アニエス・ソレルの追憶(全三話)
シャルル七世が、その剣を初めて手にしたのは、北部巡幸の折だった。
三年前――コンピエーニュに、王の帰還を祝う歓声が満ちていた。かつて争乱に苦しんだ町は、今では花で道を飾り、鐘を鳴り響かせて王を迎えていた。その光景は十四年前、ランスで戴冠したあの日を思わせた。
けれどシャルルの胸は晴れなかった。ここは、かつてジャンヌが捕らえられた町だった。人々を守るために戦った少女は、この町の門の前で敵の手に落ちた。
コンピエーニュでの巡幸を終え、町を発とうとした時だった。領主が王を呼び止めた。
「陛下。どうか、御覧いただきたいものがございます」
領主は、丁寧に包みを差し出した。
シャルルは静かに布を解く。
現れたのは、刃も鍔もない、一本の木刀だった。
「これは……?」
「聖女様がお作りになったものです」
シャルルは目を見開いた。
「自分で?」
「はい。旗の柄を折り、ご自身で削られたと伝え聞いております」
王は言葉を失った。
領主は木刀へ目を落とした。
「陛下は、聖女様が旗を掲げておられた姿をご存じでしょう。ですが、あの方が戦場で手にされたのは、旗だけではございません」
シャルルは領主の言葉に耳を傾けた。
「聖女様は、この木刀を手に敵陣へ入られました。――敵を殺さぬためです。」
シャルルは息を呑んだ。
「戦場で……人を殺さぬために?」
短い沈黙が流れた。
「敵兵の武器だけを落とし、降伏した者は決して斬らず、味方が興奮して剣を振り上げれば、その剣さえ止められました」
領主は木刀へ目を落とす。
「兵たちは皆、『聖女の剣』と呼んでおりました」
シャルルは震える手で木刀を持ち上げる。一本の木刀とは思えぬ重みを感じた。
「最後の日も……」
領主が口を開いた。
「聖女様は、門の中へ兵たちを先に入れられました」
シャルルは顔を上げる。
「ご自身は最後まで門の外に残られ、一人でも多くの命を逃がすため戦われました」
二人の間に静寂が落ちた。王は木刀を見つめたまま動かなかった。
傷だらけだった。刃を受けた跡。石へ擦れた跡。何度も握り直したのであろう、磨かれた柄。
それは、人を殺めるための武器ではなかった。ただ人を守るために、何度も振るわれた剣だった。
「……これを、私に譲っていただけないだろうか」
シャルルは木刀を両手に抱いたまま、静かに頭を下げた。
「これは、この町を守り抜いた証だ。本来ならば、コンピエーニュの宝として残されるべきものだろう」
「陛下」
領主は深く頭を垂れた。
「この木刀は、聖女様が捕らえられたあの日から、十年にわたり、この町でお預かりしてまいりました」
シャルルは顔を上げた。
「いつの日か、陛下へお渡しするために」
「私に……?」
「聖女様が王冠をお授けになった、フランスの王へ」
領主は木刀を見つめた。
「ですが、この地は長く争いの中にありました。陛下をこの町へお迎えできる日が来るまで、守り続けるほかなかったのです」
二人の間に、短い沈黙が流れた。
シャルルは改めて木刀へ目を落とす。ジェハンヌが守った町が、今度はこの木刀を守っていた。その歳月の重さが、静かに両腕へ伝わってくる。
シャルルは木刀を胸の前へ抱いた。
「……この剣を、受け継ごう。」
領主は、ゆっくりと頷いた。
「そのお言葉を、お待ちしておりました」
そして、深く一礼する。
「ようやく、お渡しできます」
◇
現在――。木刀は、王の執務室の壁に静かに掛けられていた。
その下で、シャルル七世は次々と届く書簡へ目を通し、迷いなく署名を重ねていた。
「ノルマンディーの復興を急ぎたい。資金工面の状況は?」
「ジャック・クールが奔走しております。ただ、そのために国税を担保にしたいと言っておりますが……」
シャルルは一瞬だけ考え込んだ。しかし、すぐに頷く。
「……許可する。あの男は無謀だが、無謀を形にする力がある」
「かしこまりました。ジャック殿にお伝えいたします」
「傷病兵への補償はどうなっている」
「各地の施療所へ十分な物資と資金を送っております。修道女たちが看護に当たっております」
シャルルは静かに頷いた。
「不足があれば、すぐに知らせよ。命を救う者を、国が見捨ててはならない」
「かしこまりました。」
書記官は一礼し、慌ただしく執務室を後にした。
アニエスは書簡を一通胸に抱えたまま、その様子を静かに見つめていた。本来なら別件で声を掛けるつもりだった。けれど、次々と届く報告を淀みなく裁く王の姿を見ているうちに、その機会を失ってしまった。
ようやく人払いが済む。
「お待たせしたね、アニエス」
疲れた顔だった。それでも、その瞳には、もう迷いはない。
「陛下」
アニエスは微笑んだ。
「最近は、特にお忙しくなられましたね」
「私はフランスを統べる王だからね」
シャルルは穏やかに笑った。そして、その笑みを静かに収めると、壁へ掛けられた木刀へ視線を向けた。
「最近になって、ようやくその重みを理解できた気がする」
アニエスも、その視線を追う。
「大切なお品なのですね」
シャルルは木刀を見つめたまま、小さく頷いた。
「……ああ」
それ以上は語らない。代わりに、静かに口を開く。
「アニエス」
「はい」
「一つ、頼みがある」
シャルルは木刀から視線を外し、アニエスを見た。
「施療所へ行ってもらえないか」
「施療所……ですか」
「そこで働く、一人の修道女に会ってほしい」
その言葉に、アニエスの胸へ一人の女性の姿が浮かんだ。王宮の廊下で見かけた、質素な修道服の女性。
「……その方は、シスター・ベアトリスですか」
シャルルはわずかに目を見開いた。
「ほう……会ったことがあるのか」
「いえ。少しお見かけしただけですが……」
アニエスは静かに首を振る。
「一度、お会いしたいと思っておりました」
シャルルは小さく笑った。
「それなら話は早い」
そして穏やかな口調で続ける。
「話を聞く必要はない。ただ、会ってくれればいい」
「……会うだけで?」
「ああ」
シャルルは静かに頷いた。
アニエスは理由を尋ねようと口を開きかけた。だが、その穏やかな眼差しを見て、それ以上は何も聞かなかった。
シャルルは再び木刀へ視線を戻す。その口元には、ごくわずかな笑みが浮かんでいた。
◇
シャルルに促され、アニエスは王宮を後にした。
石畳の回廊を抜け、中庭を横切る。花々が風に揺れ、その向こうに、質素な石造りの建物が佇んでいた。豪奢な王宮とは対照的に、飾りらしい飾りは何もない。
施療所だった。
王宮を行き来するたび、何度も横目にしてきた建物だった。けれど、足を踏み入れるのは今日が初めてだった。
扉を開けると、乾かした薬草の香りが静かに漂ってきた。そこには王宮とは違う静けさがあった。
誰もが声を潜め、足音さえ控えめだった。眠る者を起こすまいとする気遣いが、建物全体を包んでいる。
修道女たちは忙しなく行き交っている。それでも、不思議と慌ただしさは感じられなかった。
一人の修道女がアニエスへ気づき、足を止める。
「アニエス様。どうされましたか」
「ベアトリス様にお目にかかりたいのですが」
修道女は一瞬ためらった。
「今は……兵士の方へ付き添っておられます」
「では、お邪魔にならないところで、少し待たせていただいても?」
修道女は安堵したように小さく頷いた。
「もちろんでございます。こちらへどうぞ」
アニエスは静かにその後を歩いた。
小さな病室だった。若い兵士が横たわっている。胸元は血で赤く染まり、浅い呼吸を繰り返していた。
その傍らに、ベアトリスが膝をついている。
兵士は苦しそうに目を開いた。
「……シスター」
「はい」
「私は……人を殺しました」
ベアトリスは何も言わない。ただ、その手を静かに握る。
「神は……赦してくださるでしょうか」
しばらく沈黙が続いた。ベアトリスは兵士の瞳を見つめ、穏やかな声で答える。
「神は、あなたの罪も、苦しみも、ご存じです」
兵士の肩が小さく震えた。
「それでも神は、あなたをお見捨てにはなりません」
ベアトリスは、その手をそっと包んだ。
「すべて赦されました」
涙が一筋、兵士の頬を伝う。
「どうか安心して、主の御許へ還りなさい」
兵士は目を閉じた。苦しそうだった呼吸が、少しだけ穏やかになる。
やがて、別の寝台から掠れた声が聞こえた。
「……怖い」
年老いた兵士だった。
「一人で死ぬのが……怖い」
ベアトリスは静かに歩み寄ると、寝台の傍らに腰を下ろした。力なく横たわる老人の手を取り、冷えた指先まで包み込むように、両手でそっと握る。
「あなたは一人ではありません」
その声は母親のように優しかった。
「私が、ずっと手を握っています」
老人はゆっくり目を開いた。
「……本当に?」
「ええ」
ベアトリスは微笑み、包んだ手にわずかに力を込めた。
「聖母様も、あなたを待っておられます」
老人は安心したように目を閉じた。その表情から、ゆっくりと恐怖が消えていった。
さらに奥から弱々しい声がする。
「俺は……何のために戦ったんだ」
若い兵士だった。
「仲間は皆死んだ。故郷も焼かれた」
「俺の戦いに……意味はあったのか」
ベアトリスは少しの間、その兵士の目を見つめた。
「ありました」
兵士が顔を上げる。
「そして、あなたの戦いは今日で終わりました」
一呼吸置く。
「よく守り、よく戦いました」
兵士の目から涙が溢れる。
「もう、我が家へ帰りましょう」
その言葉を最後に、兵士の身体から力が抜けた。血が喉から込み上げる。
ゴフッ――
真っ赤な飛沫が、ベアトリスの頬へ飛んだ。
アニエスは思わず息を呑む。
けれどベアトリスは拭わない。兵士の額へ静かに十字を切る。
「主よ。この者を、どうか安らかにお迎えください」
病室には、祈りだけが残った。
しばらくして、ベアトリスは静かに立ち上がる。そして入口へ視線を向け、穏やかに微笑んだ。
「お待たせしてしまいましたね」
その頬には、まだ乾ききらない血が残っていた。
アニエスは言葉を失う。
目の前の修道女は、頬に血を受けたまま静かに立っているだけだった。本来なら、目を背けたくなるような姿だったはずだ。
それなのに、アニエスには、その姿がどんな衣装で着飾った女性よりも、美しく見えた。
第二話 了
