【短編小説】最終話「その花の名は」 アニエス・ソレルの追憶(全三話)
夕暮れの鐘が、王宮へ静かに響いていた。
窓辺に立つアニエスは、庭へ視線を落としたまま、小さく息をついた。昨日から、心が落ち着かなかった。施療所で出会った一人の修道女。兵士の血を浴びながら、それでも穏やかに微笑んでいた姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
王宮では、誰もが美しくあろうと装う。華やかな衣装をまとい、宝石を飾り、香油を薫らせ、化粧を施す。それは宮廷に生きる者として、ごく自然なことだった。けれど、昨日見た修道女は、そのどれ一つ身につけてはいなかった。それなのに、アニエスの目には、どんな女性よりも美しく映った。
あの時、胸の奥で何かが重なった気がした。そして、ある一人の女性を思い出した。
アニエスは静かに目を閉じた。
「……確かめたい」
◇
施療所は、昨日と変わらぬ静けさに包まれていた。
足を踏み入れると、ほのかな薬草の香りが鼻をくすぐる。修道女たちは忙しく働いているはずなのに、不思議と慌ただしさは感じられない。交わされる言葉は穏やかで、誰もが相手を思いやるように声を落としていた。その空気に身を置くと、自然と肩の力が抜けていく。
修道女に案内されて庭へ回ると、ベアトリスは白い洗濯物を取り込んでいた。アニエスに気づくと手を止め、柔らかな笑みを向ける。
「ようこそ、お越しくださいました」
その穏やかな声に、アニエスは丁寧に頭を下げた。
「昨日は……大変失礼いたしました。突然お邪魔したうえ、ろくにご挨拶もできずに帰ってしまって……」
ベアトリスは小さく首を振る。
「いいえ。お気になさらないでください。王宮の方が施療所へお越しになることは、めったにございません。お会いできただけでも嬉しく思っております」
その言葉に、アニエスの強張っていた肩から、少しだけ力が抜けた。
昨日から胸に抱え続けてきた想いは、まだ言葉にならない。それでも、今日は逃げずに伝えたい。
迷うアニエスを急かすことなく、ベアトリスはただ穏やかに見守っていた。その眼差しにそっと背中を押されるように、アニエスは小さく息を吸い、ゆっくりと口を開いた。
「……シスター・ベアトリス。お尋ねしても、よろしいでしょうか」
「もちろんです」
短い返事に頷き、アニエスは言葉を選ぶように続けた。
「昨日、兵士の血を浴びたまま立っているあなたを見た時、私は……美しいと思いました」
ベアトリスは何も言わず、耳を傾けている。
「でも、なぜそう感じたのか、自分でも分からないのです」
そこで一度言葉を切り、息を整える。
「ただ、ある方とお姿が重なったのです。十四年前、ランスで一度だけお会いした……ラ・ピュセル――ジェハンヌ・ド・アルクです」
その名が響いた瞬間、ベアトリスの表情がかすかに揺れた。
ジェハンヌ――。
胸の奥へ大切にしまい続けてきた名前だった。思い返さない日はなかった。それでも、自分から誰かに語ることはなかった。
その名が今、目の前の若い女性の口から紡がれたことに、ベアトリスは静かな驚きを覚えた。
改めてアニエスを見つめる。あの日、白い花束を抱え、無邪気な笑顔でジェハンヌを見上げていた幼い少女。その面影は今も残っていた。ただ、その瞳には、あの頃にはなかった静かな意志が宿っている。
「……シスター・ベアトリス」
アニエスは、おそるおそる尋ねた。
「あなたは……ジェハンヌ様をご存じなのですか」
ベアトリスはすぐには答えなかった。
目を閉じると、短く切った黒髪、日に焼けた笑顔、泥にまみれた鎧、そして誰よりも真っ直ぐ前を見つめていた瞳が、昨日のことのようによみがえった。
『ありがとう、ベアトリス』
懐かしい声が、胸の奥に響く。
ゆっくりと目を開き、小さく頷いた。
「……はい」
一呼吸置いて、静かに続ける。
「私は……あの方に、お仕えしておりました」
その一言だけで十分だった。
アニエスの胸の中で、昨日から抱き続けていた違和感が、一つにつながっていく。
「……やはり」
小さく息を吐いた。
「昨日、あなたを見ていた時、なぜかジェハンヌ様と同じものを感じたのです。お二人はまるで違うのに、どうしてそう思ったのか、自分でも分からなくて……」
ベアトリスは黙って耳を傾けていた。
「だから知りたいのです」
アニエスは真っ直ぐにベアトリスを見つめる。
「ジェハンヌ様は、どのようなお方だったのか」
その瞳には、飾ることのない真摯な願いがあった。ただ知りたい。ただ、あの少女を理解したい。その一心だけが宿っている。
ベアトリスはしばらく何も言わなかった。
十四年間、誰にも語ることなく守り続けてきた記憶が、静かに揺れた。そのすべてを受け止めようとしてくれる人が、今、自分の目の前にいる。
ベアトリスは穏やかに微笑んだ。
「……分かりました」
一度だけ空を見上げる。青く澄んだ空は、あの日と変わらず、静かに広がっていた。
「お話しいたしましょう」
再びアニエスへ視線を戻し、ゆっくりと口を開く。
「私が出会った、一人の少女のお話を」
◇
ベアトリスは、ジェハンヌと出会った日のことから語り始めた。
神学者たちに囲まれても臆することなく、自らの信じるものを真っ直ぐに語った少女。
戦場では誰よりも前へ出ながら、それでも命を奪うことを拒み続けたこと。傷つき、迷い、時には涙を流しながらも、守るべきもののために何度でも立ち上がったこと。
人々が聖女と呼んだ姿の裏で、彼女は年相応によく笑い、遠い故郷を懐かしんでいた。一緒に洗濯をしながら、他愛のない話をしたこともあった。
二人で試行錯誤して作った軍の携帯食が採用された日には、互いに右手を掲げて打ち鳴らす不思議な挨拶を教えられた。戸惑いながら手を合わせると、乾いた音が部屋に響き、二人で顔を見合わせて笑ったこともあった。
けれど、ベアトリスが最も長く語ったのは、戦いや奇跡についてではなかった。
誰かが傷つけば真っ先に駆け寄ったこと。兵士にも農民にも分け隔てなく声をかけたこと。どれほど苦しい時でも、自分より先に誰かの身を案じたこと。
ベアトリスの口から語られるのは、世の人々が知らない、一人の少女の姿だった。
アニエスは一言も挟まず、静かに耳を傾けていた。
やがて、ベアトリスの声が途切れた。庭を渡る風が、干された白い布を柔らかく揺らす。
「コンピエーニュに赴いたあの日。私は、あの方を置いて逃げました」
穏やかな声だった。けれど、その言葉は長い歳月を越えて、なお重く響いた。
アニエスは息を呑んだ。だが、何も言わなかった。
「生き延びた私に何ができるのか、ずっと考えてまいりました。傷ついた方を助けるたび、苦しむ方の手を取るたびに、自分へ問いかけてきたのです」
ベアトリスは胸の前で、そっと両手を重ねた。視線はアニエスではなく、遠い記憶の中へ向けられているようだった。
「私は今、あの子に恥じない生き方ができているでしょうか。あの子が命を懸けて守ろうとしたものを、少しでも守ることができているでしょうか、と」
答えを求める言葉ではなかった。それは十四年もの間、誰にも聞かせることなく繰り返してきた、祈りにも似た独白だった。
アニエスはしばらく何も言わなかった。やがて胸元へ手を伸ばし、外套の内側から小さな木箱を取り出す。
「これを、見ていただけますか」
掌に収まるほどの、古びた箱だった。アニエスが蓋を開くと、中には色褪せた白い花が一輪、形を残したまま大切に納められていた。
「ランスで、ジェハンヌ様へお渡しした花です。あの日、花束からこぼれ落ちた一輪を拾いました」
ベアトリスは息を呑み、その花を見つめた。
「何という名の花なのか、私は知りません。ただ、あの日からずっと、これを大切にしてきました」
アニエスは指先で、箱の縁をそっとなぞる。
「王の傍らに立つ者として、恥じない振る舞いをしなければならない時、私はこの箱を開きます。心が揺らいだ時も、誰かの言葉に屈しそうになった時も、この花を見て、あの日のジェハンヌ様を思い出すのです」
花から目を上げ、ベアトリスを見つめた。
「どうしてあの方を美しいと思ったのか、十四年間、分からないままでした。鎧をまとっていたからでも、奇跡を起こしたからでもありません。ただ、幼い私の目には、誰よりも美しく見えたのです」
アニエスの瞳に、もはや迷いはなかった。
「昨日、あなたを見て、ようやく分かりました」
「……私を?」
「はい。ご自分の信じる道を、誇りを持って歩いておられたからです。ジェハンヌ様も、きっとそうだった。だから私は、あの方を美しいと思ったのです」
ベアトリスは何も言えなかった。
「私も、そうありたいのです。王の傍らにいる者として、宮廷で何を言われようとも、自分が正しいと信じるものを見失わずにいたい。私は今、ようやく目指すべき姿が見えた気がいたします」
真っ直ぐに前を見据えるアニエスの瞳に、ベアトリスは遠い日の少女を見た。
『制するために、戦う。でも人は殺さない』
戦場へ向かう前、揺るぎない信念を語った時と同じ目だった。
アニエスにとって、宮廷こそが戦場なのだろう。笑顔の裏に思惑が潜み、言葉一つで人の運命が変わる場所。誰かを蹴落とし、時には王の心さえ利用しようとする者たちの中で、彼女は自分の信念を貫こうとしている。
その姿を見つめているうちに、ベアトリスの目頭が熱くなった。
「……ベアトリス様。どうされました?」
アニエスは戸惑い、慌てて言葉を継いだ。
「私、何か失礼なことを――」
「いえ……わたくしは、嬉しいのです」
ベアトリスは涙を浮かべたまま、穏やかに微笑んだ。
彼女はただ、自らの信じる道を歩いてきた。その歩みの中に、目の前の少女はジェハンヌを見つけてくれた。あの日、自分を照らしてくれた光が、いつしか自分を通して誰かを照らしていた。
そして、あの子が残したものが、今、目の前の女性の中にも確かに息づいている。十四年間、胸の奥に背負い続けてきたものが、ほんの少しだけ軽くなった。
ベアトリスは小箱の中の花を見つめ、懐かしむように目を細めた。
「その花の名前は……『デイジー』です。希望、平和、そして……美しい人という意味があります」
「デイジー……美しい人」
アニエスは、自分の宝物に名前を付けてもらったような気持ちになった。
その響きをゆっくりと心に刻むように、そっと小箱を閉じた。
雲の切れ間から差し込んだ柔らかな光が、二人を静かに包んだ。白い洗濯物が風に揺れ、その向こうでは、小さな花々が光を受けて咲いていた。
◇
数日後、王宮の広間では、いつものように貴族たちが華やかな衣装に身を包み、談笑を交わしていた。
話題がかつての戦へ移った時、一人の貴婦人が扇の陰から笑う。
「ジェハンヌ・ド・アルクといっても、所詮は田舎育ちの娘だったのでしょう? 宮廷の作法など、何一つ知らなかったとか」
周囲から、同調するような小さな笑いが漏れた。
「神の声を聞いたという話も、どこまで本当なのかしら。無知な娘だからこそ、恐れを知らなかっただけではなくて?」
以前のアニエスなら、何も言わずに聞き流していただろう。宮廷では、正しさよりも沈黙の方が賢明なことも多い。まして、王の寵愛を受ける自分の言葉は、どのような形で利用されるか分からない。
それでも今は、黙っていることが賢明だとは思わなかった。
「ええ。田舎で育った方です」
アニエスは静かに顔を上げた。
「読み書きも、宮廷の作法も、私たちほどにはご存じなかったでしょう」
貴婦人が満足げに口元を緩める。だが、アニエスは微笑んだまま、その目を真っ直ぐに見つめ返した。
「けれど、だから何だというのでしょう」
広間の空気が変わった。
「王宮の作法を知ることが、人の気高さを決めるのですか。高価な宝石を身につけることが、その人の美しさを証明するのでしょうか」
誰も答えなかった。
「私は、あの方に一度しかお会いしておりません。それでも、はっきりと覚えています。ジェハンヌ様は、自分の信じるものに誇りを持ち、誰よりも真っ直ぐに立っておられました」
アニエスの声には、もう迷いがなかった。
「美しさとは、身にまとうものではありません。何を信じ、どう生きるか。その人が歩む姿に宿るものです」
扇の陰から漏れていた笑い声は、いつしか完全に消えていた。
「その意味で申し上げるなら――」
アニエスは、居並ぶ人々を静かに見渡した。
「私は、ジェハンヌ・ド・アルクほど美しい方を、ほかに知りません」
その懐には、掌に収まるほどの小さな木箱がしまわれていた。
十四年の時を経て、名前を得た一輪の花が、誰にも知られることなく静かに眠っていた。
第三話 了
『アニエス・ソレルの追憶』完
