見出し画像

短編小説|6F

【前回までのあらすじ】
パソコン音楽家の冷沢ひやさわは、三年間曲を書けていない。
そんなとき、三年前まで暮らしていたマンションの10階の部屋に、『drum set』を残置している事を思い出した。
その音を聴く事ができたら、また曲が書ける気がした彼はマンションの中へ入った。しかしそこは不条理が支配する世界だった。
冷沢は上階へ上がりながら、小学校時代の友達から赤いランドセルを、妻からはポプリを、先輩たちから集合写真とゲームウォッチをそれぞれもらった。

(⚠️3000文字くらいあります)

事務の仕事は嫌いじゃなかった。
マネージャーともウマが合っていたし、居心地も悪くなかった。
でも、ただそれだけだった。

6階は整地作業だけが終わった、なにかの建設予定地のような、だだっ広い空き地だった。
そこから、冷沢ひやさわの頭がにょきっと出てきた。
そして順番に、胸、腹、下半身が出てきて、彼は地面に立った。
すぐそばに現場作業員の休憩場所のような、二階建てのユニットハウスがぽつんと設置されている。冷沢はその二階部分へ続く外階段を登って行く。
徐々に気分が悪くなって来た。
忌わしい思い出。

背水の陣のつもりで、冷沢は仕事を辞めた。
睡眠と食事と散歩の時間以外は、全て音楽作りに費やした。あと、トイレと風呂の時間も。そういうときでも彼は、ルーチンを崩すことはしなかった。
プレハブニ階のアルミサッシの引戸を開けると、中から紫色の瘴気がもくもくと足元に纏わりつき、それが次第に拡がって、ついには視界が全て紫色になった。
鳩尾みぞおちに黒いものが蠢いた。
「これもやらないといけないのか」と独りごちた。
右側のドアを開けると、一番奥にぬらりとした、人を値踏みするような目つきの男が座っていた。
瘴気はこの男から発せられていて、この部屋は一際濃い紫色が天井まで満たされている。
冷沢が最も生理的に嫌悪した男で、宮嵜みやざきと言う名前だった。
「うーん。それはルール違反でしょう」
出し抜けに彼はそう言った。
何のルールが定められているのかさえ、冷沢には理解できなかった。
「あなたはこの一週間でこの成果物を作成した。そういう理解で良い?」
当たり前の事を言っているだけだが、気色が悪くて背筋がずずずっ、とした。
宮嵜の言っている内容は、いつも的を射ていた。ただその粘着質な言葉遣いや仕草に、吐き気がした。
従って、感覚的な冷沢には眠っていてもらい、論理的な冷沢が極力窓口に立った。
だが、仕事の打ち合わせは感覚的な冷沢がやらざるを得ないため、悪寒が止まらなかった。
宮嵜は毎回、成果物を二種類用意させた。
そして、自信のある方を「A案」として提出するように求めた。
だが、採用されるのは必ず「B案」だった。

あるとき、我慢できずに冷沢は言った。
「今回は特にA案を推したい」
「その根拠は?」
「本能である」
「その説明で上司に上がれますか?提案なら検討しますけど根拠のない提案は提案とは言えません。案を受け取ってから、検討して、報告するまでが私の仕事です。提案までなら受け付けます。こういうことを今更言われるような齢でもないよね」
冷沢はこの人が大切にするものは何なのだろうと思った。音楽ではない事だけは明白だった。
その割には知識が豊富で、それがまた薄気味の悪さを助長していた。

宮嵜は常に自分の持ち物に名前を書いていた。
昼食のおにぎりやデスクの上に転がっているボールペンにまで名前を書いていた。
誰も聞いていないのに「学校で、持ち物には名前を書きましょうと習ったからね」と言っていた。
冷沢はその記名行為すら気分が悪かった。もう何をしても薄気味悪さしか感じなくなっていた。
冷沢は宮嵜の事を意識から外したかった。だが気にしない、とはどうすれば良いかも分からなくなっていた。
そうしている内に、常に「気にしない」について考えるようになってしまった。
四六時中冷沢の脳裏は、ぬらりとした宮嵜の目つきに支配された。集中して仕事に着手できる環境ではなかった。
ぬらぬらして食事も喉を通らなくなった。そうするとますます思考力は低下し、目先の課題を除去しようと躍起になるだけで、完全な悪循環に陥った。
ついに、冷沢は宮嵜を殺害しようと考え始めていた。

宮嵜は、冷沢がそんな状況に陥る所まで想定していた。あまつさえ単純な奴、と小馬鹿にさえしていた。

「じゃ、B案で」
ある小説の映画化に伴う、挿入歌の仕事だった。
宮嵜はいつも通り淡々と成果物を選んだ。
悔しさの中で、冷沢はある事に気が付いた。
不注意で「A案」と「B案」が入れ替わっていたのだ。
宮嵜は習慣で、大して聴きもせず「B案」を採用したのだった。
そのB案が当たった。

それが、『曙美の玉潰し』である。

冷沢は宮嵜の事を思い浮かべながら、呪詛のようにこのフレーズを叫んだ。
「B案」はその素材に、安っぽいDelayをガンガンにかけて仕上げたものだった。
宮嵜の会社は莫大な利益を上げ、宮嵜は昇進した。

今、宮嵜と冷沢はデスクを隔てて向かい合っている。
「昇進おめでとう」
「キミに言われても何も感じない」
冷沢は数秒間だけ逡巡したものの、赤いランドセルに満載された火薬を取り出して、宮嵜のデスクに載せた。

「宮嵜の玉潰し。さよなら」

着火具で火を点けた瞬間、冷沢の視界は紫から白に変わり、表皮が剥がれて顔面の筋肉が丸見えになった。
それと同時に左の鼻の穴から白い鼻ちょうちんがぷくーーっとまろび出て、そこに目鼻口耳が浮かび上がった。鼻ちょうちんから見下ろした冷沢の姿は全身真っ赤で、血が吹き出していた。宮嵜は爆発の衝撃で首の骨が折れ、頭ごと背中側に倒れていた。
鼻ちょうちんはそのままゆらゆらと浮かび上がり、更に上へ上へと昇って行った。小さなきのこ雲がもくもくと膨らんだ。
それは、小規模な核爆発だった。
ユニットハウスは完全に消失し、更地になった。

冷沢の新しいボディが、かつてユニットハウスがあった場所で点滅している。
鼻ちょうちんはそれを見つけると、右鼻の穴に滑り込んだ。
首が後ろに折れた宮嵜の思念が彷徨いている。
冷沢はランドセルからゲームウォッチ『scuba』を取り出して、宮嵜の思念をそこに入れた。宮嵜は絶対に死なないタイプの生き物だった。それは悲しい事だと思った。
初めて冷沢は宮嵜に同情した。

紫色の瘴気は依然として濃かった。
人間とは、つまり自己実現だ。そこに他者の介在する余地など元々なかった。
躓きの入口はいつも曖昧で、他者の介在余地があるものと誤認する所から始まる。"宮嵜"とはその隙間に入り込む単なるバグだった。
冷沢は、「意味のない出会い」というのもあるのだと思った。その瞬間、冷沢は新冷沢になった。ただし、見た目は特に変わらなかった。

新冷沢(以下、「冷沢」という。)の目の前に一辺五十センチ程の三角形が現れた。その三つの頂点はそれぞれR、G、Bと記載されていた。その三角形を指先でなぞると、瘴気の色は、目まぐるしく変わった。
最後に三角形の重心部分を指し示すと、🪑←このタイプの椅子が現れた。冷沢は椅子に座った。すると、その四隅から綱が現れ、その他端は気球に繋がっていた。
冷沢の頭頂部から出る熱がスターリングエンジンの熱源となり気球は浮いた。瘴気を寄せ付けない気球は更に浮かび上がり、天井をすり抜けた。

7F


すり抜けた先は、冷沢が少年時代に虫取りをした懐かしい空き地で、その中央部だけ草が綺麗に刈り取られていた。
冷沢はそこに着地した。

つづく

いいなと思ったら応援しよう!