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短編小説|5F

【前回までのあらすじ】
パソコン音楽家の冷沢ひやさわは、三年間曲を書けていない。
そんなとき、三年前まで暮らしていたマンションの10階の部屋に、『drum set』を残置している事を思い出した。
その音を聴く事ができたら、また曲が書ける気がした彼はマンションの中へ入った。しかしそこは不条理が支配する世界だった。
冷沢は上階へ上がりながら、赤いランドセルやポプリ、集合写真をそれぞれもらった。

部室の腰高窓を開けると確かにベランダがあった。
冷沢ひやさわは窓を乗り越え、ベランダに出た。
晴れた穏やかな日だった。
電卓機能付チープカシオの腕時計を見ると、午前9時17分だった。
辺りを見回すと、三年前に住んでいた頃の景色と変わらなかった。変わらなかったと言うより、同じだった。
マンションの一階が薬局になっている建物や、同じくコンビニ、同じく不動産屋。観葉植物をベランダに出している家、陸橋と工事の看板。その看板をいくら凝視しても、ぼやけて文字が読めない。あえて解像度を下げて、ぼやかしているのだ。
懐かしい街の、雑踏の匂いがした。
冷沢は赤いランドセルを降ろし、ポプリの袋を鼻に近づけた。
彼は匂いの刺激を受けやすい。ポプリはそれを知る妻ならではの支援物資だった。
非常ハシゴが風に揺れて、がちゃがちゃ言っている。彼は、その末端に付いているカラビナを地面に固定されたU字金具に引っ掛けた。
白のセットアップに赤いランドセルを背負った冷沢が、非常ハシゴを登って行く。
その姿は、どう見ても幼女用下着泥棒の出立ちと行動である。

5F


5階に上がると、足場がまるで生き物のように張り巡らされていた。
壁を見ると、太ゴシック体で一文字ずつ『楽』『し』『い』『人』『生』と掲示され、注意喚起の役割を果たしていた。
その他にも元素記号の周期表だとか、ポケモンタイプ別相性表などの世界的に有名な一覧表ばかり掲示されていた。だがやはり、『楽しい人生』が一際目立っていた。
どこを見回しても工事現場然としていた。壁が壊され、柱や梁も剥き出しで、これはスケルトン状態、とでもいうのだろうか。
コンクリート剥き出しの床をカツンカツンと歩いていると、「これコピー取って来て」と声を掛けられた。
会社員時代のマネージャーだった。
この人のものの言い方は直接的過ぎて、周りの人から距離を取られていた。
だが、冷沢は悪く思わなかった。冷沢のものの言い方には彼と似たところがある。そこにシンパシーを感じていたのかもしれない。
しかし、この資料はコピー禁止である。だがコピーさえ取ってしまえば、仕事は格段にやり易くなる。マネージャーはそういう事を自分の手を汚さずやらせるから、嫌われるのだと感じた。
とは言え、上司がそう指示するのならば別に良いのだろうと判断した。

「冷沢。そういうときこそ堂々とやるんだよ」
確かに彼は周囲を警戒しながらコピーを取っていた。
その様子をわざわざ見に来てダメ出しをするマネージャーの神経が分からなかった。
実は、冷沢はコピー禁止の資料を取った後に、ついでに恥ずかしい感じの曲だとか、冷沢が主人公でマンションを登っていく小説なども複製していた。それでもバレそうな感じがしなかったため、ランドセルを開けて火薬を複製していた。そのため、こそこそしていたのだった。
冷沢は資料のコピーをマネージャーに手渡した。
「コピー禁止だから、最小限の枚数だけ取ってくると思ったけど、自分の分も取るんだな」
「私も便利な方が良いです」
「なぜコピー取ったらダメなのかを知ってるなら、取っても良いんだよ。そんなもん。冷沢は分かるだろ?」
「外部に漏れた場合に損害を受けるからです」
「そのとおりだよ。それを見失うヤツらが多すぎるんだよこの会社は。それで仕方なく、『とにかく禁止』って言い始めるんだよ」
冷沢は大学卒業後、すぐにパソコン音楽家として活動を始めた。しかしそれだけでは生活が成り立たず、ここで仕事をしていた。
案外事務仕事に適性があり、続けるうちにこちらがメインとなりつつあった。
最近は余裕が出てきて、仕事中に仕事以外のことをしてスリルを味わっているくらいだった。

「冷沢さ。何でこの仕事やってるの?」
「生活のためです」
「冷沢の生活って何よ?」
「衣食住です」
「違うんじゃね。お前の生活って音楽なんだろ」
「そうかもしれませんね」
「それが分からないお前じゃないだろ。早いとこ生活しろよ」
「そういうものですか」
「そりゃそうだろ」
足場を張り巡らされた5階。至る所に『楽しい生活』の看板が掲示されている。
「生活、を見失っちゃダメだよ。俺みたいな齢になったら、取り返しがつかないんだから。足場を上がるだけだろ」
「そうですね」
「これ知ってる?」
白黒液晶のゲーム機。「ゲームウォッチ」だ。
「これSCUBAっていうんだけど、ただ海に潜るだけ。息が続く限り海底のお宝を取りまくるってやつなんだけど」
マネージャーは冷沢にSCUBAを手渡した。
「これ、音が良いんだよ」
確かに中のキャラクタを動かす度に、なんともチープで間抜けな音が鳴る。それが心地良い。
「冷沢の好きそうな音だなと思って。それやるよ」
「あ。もらいます」
「オマエ、仕事中ふざけてただろ。でもスリルがないと、いい仕事はできないよな」

足場を構成している鉄パイプの一部をよく見ると、ナナフシが擬態していた。
冷沢はその上を遠慮なく歩く。
ナナフシはバレていないと思っていて、必死に鉄パイプの演技をしていた。ナナフシたちをさらに踏んづけながら、彼は上階に上がって行った。
ナナフシにはナナフシの人生がある。
いや。虫生だろうか?

6Fにつづく

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