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短編小説|3F

3F

着信音。
冷沢ひやさわ史上最高のヒット曲である。
誰もが聞いた事のある、電子打楽器を使用した着信音シリーズは、冷沢の作品である。
それらが今、ずーーっと廊下内で鳴っている。
「急かしつつも柔らかく、若干の不快感も与える。この塩梅が我ながら絶妙だ」と悦に入った。
それと同時に、あの報酬を一括受領したことを後悔した。印税収入にしていれば、今こんな訳の分からない建物で、苦労する必要などなかったのだ、などと未だにぐずぐず考えているのである。

廊下の突き当たりに、『高校受験学習倶楽部』という看板が出ている。
冷沢の心はぞわぞわとした。爽やかな制汗剤と隠しきれない女の匂い。シャンプーの匂いもしてくる。ぞわぞわ。冷沢はぞわぞわ。
彼は中学3年のとき塾に通っていた。もちろん本人の意志ではない。彼の人生は既にパソコン音楽に染まり、他の人生などあり得なかった。
それにしても女の匂いがキツイ。中3男子の脳内などほぼ性欲であり、冷沢も例外ではなかった。
どういう訳かこの塾の女子率は高く、しかもほぼ例外なく運動系の部活帰りで、制汗剤やシャンプーなどの匂いに充満していた。
イヤイヤとは言え、冷沢も多少は学習するつもりで塾に来ているのだが、毎回官能的な気分になるだけで、学習に取り組む気持ちは行く度に萎えてしまっていた。
特に前の席に座っている女などは、匂いが本体で、オブジェクトは付帯物、みたいな女だった。冷沢を悩ませる匂いの発生源は、殆どこの女だった。
青焼き複製の学習プリントが配布される。
前の女の髪が揺れ、制汗剤、シャンプー、女の匂いがそれぞれ、35、45、20という割合で次々と襲って来た。冷沢はステータス異常状態の中で青焼複製学習プリントを受け取り、後ろに回す。後ろも女。溜まった吐息をまともに受け、またもステータス異常。脳はピンク色に染まった。ぞわぞわ。
前の女たちは「匂い消しゴム」の匂いを嗅ぎ合っている。冷沢は、お前らの匂いの方が強烈なのに、よく嗅ぎ分けられるものだ、と思った。
前の女たちが振り返る。
「ちょっと。この匂い何か分かる?」
「ちょっと、などという名ではない。私は冷沢だ」
「ヒヤザラくん。これ嗅いでみて」
冷沢は嗅ぐ前から、コレは嗅ぎ分けられない、と直感的に分かっていた。もうこの時点で至近距離に3人の女がこちらを向いているため、先程列挙した匂いの方が強烈なのだ。
くんくん。
「分からないな」
「ヒヤザラくん。ちゃんと嗅いで」
「私はヒヤザラなどではない。ヒヤサワだ。それとキミたちの匂いが強すぎて、消しゴムの匂いなど嗅ぎ分けられない」
「ヒラガナくん」
「カタカナでヒラガナと言うな」
あーごめん。平皿くん。私たちの匂いって強い?」
「強いな」
「何の匂い?」
「制汗剤、シャンプー、女の匂いがそれぞれ、35、45、20という割合だ」
「あっそう。正解はパイン味だよ」
「味?」
「そう。味」
「嗅覚なのでそれは、パイン臭、ではないのか?」
「でも消しゴムにパイン味、って書いてあるよ」
「そうか」
そんな会話をした。
確かに過去、そんなやり取りした。思い出した。
そんなことがあって以来、冷沢はますます学習に取り組めなくなったのだ。味、が気になり始めたのである。つまり味わってみたい、と思うようになったのだ。食べたい。
冷沢はもういい加減、学習がしたい、とすら思うようになっていた。逆説的にではあるが、学習意欲が向上したのである。
そこで冷沢の取った行動はかなり飛躍したものだった。
「おい。真ん中のキミ。特にキミの匂いで学習に集中出来ない。だから付き合ってくれ。何なら結婚でも構わない」
冷沢にとっては懐かしい思い出だが、今考えても冷沢自身特におかしな点はないと思っている。その彼女が現在の冷沢の妻である。
ただ、冷沢は今となっては後悔。収入が途絶えて3年になるのだ。こうして今、drum setを取りに行く羽目になったのも家族を支えるため。その側面が大きい。
「別に良いけど」と彼女は言った。
実は、妻は妻で冷沢と話すキッカケを掴むために匂い消しゴムを使った訳であり、いとも簡単に冷沢と交際できたため、面食らった、と言うのがその実であった。
「冷沢くん。ありがとう。冷沢くんの作る曲私好きだよ」
妻からは、一度もこんな事を言われた事のない冷沢だったが、同時にこれは妻の本心である事も理解した。
「妻。私は音楽が人生と思っている者だが、どういう訳だか、いつの間にか家族の生計の維持が私の人生、というエラーに陥っていたようだ。
それは逃げだ。音楽に対しても家族に対しても逃げであった。私は純粋なパソコン音楽家であるという地点に今、戻れたようである。礼を言う」
「礼を言うなら頭も下げろ」
冷沢はゆっくりとだが、5度だけ頭を下げた。
「オマエは匂いに弱いだろうからこのポプリをやる。講師室にエレベータがあるから、そこから上の階に行けるよ」
「ポプリがあれば気が散らないな。有り難く頂いておく」
冷沢は赤いランドセルにポプリの袋を結びつけ、講師室のエレベータに向かった。

講師室に入ると、気怠いローファイチルが部屋を包んでいた。無臭だった。
部屋の真ん中にエレベータがあり、それをとり囲むように講師たちが授業の準備をしていた。エレベータをよく見ると、扉に合格者数一覧が貼られていて、全ての高校に1000人ずつ合格していた。
冷沢が「△」ボタンを押すと、エレベータの扉が左右に開き、そのポスターはビッと一瞬高い音を立てて裂けた。

4Fにつづく

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