「onecafe 学生哲学カフェ」に初めて参加しました(メチャクチャ面白かった!)
初めて参加した「onecafe」主催の哲学カフェ、メチャクチャ面白かったです!
2025年4月19日(土)に行われた「onecafe」主催の哲学カフェに参加してきました。「哲学カフェ」というフォーマットに興味を持ち、色々調べている中で見つけた団体です。学生団体なのですが社会人もOKとのことで、初めて参加してみました、この記事は、そのレポート的なものです。
ちなみに、私は単なるいち参加者で、運営側の人間とかでは全然ないので、「たぶんこうだろう」という想像で書いている部分もありますし、また、議論のまとめに関してはかなり主観的な内容になっていると思います。その点、ご容赦下さい。また、ここに記載した情報は、2025年4月19日現在のものなので、その後の変更等には対応していません。その点もご承知おき下さい。
あと、私が「哲学カフェ」に興味を持つようになったきっかけについては、以下にリンクした記事にざっくりまとめてあります。興味がある方は読んでみて下さい。
申し込みから集合まで
初めて参加するという方は、先にリンクしたHPから参加希望の申し込みをしましょう。毎週何らかのテーマで開催しているようで、日程・テーマが決まったものがHP上に掲載されています。ちなみに、2度以上参加した人は公式LINEに招待してもらえるそうです。そうなったら恐らく、公式LINEから案内が来ると思うので、そこで申し込みする形になるのでしょう。
公式HPから申し込みを済ませると、開催日の少し前(私は前日でした)に、集合時間・場所などの案内が登録したメールに届きます。持ち物などは特に指定されませんが、メモなど取りたい場合はメモ帳・ペン、あるいはノートPCなんかを持っていくと良いでしょう。
場所は毎回固定というわけではなく、予約の取れた貸し会議室で行う形だと思います。今回の貸し会議室は「飲酒・喫煙は不可」となっていました。飲み物などは自分で買って持って行くといいでしょう。ちなみに、今回は哲学対話をしている間誰もトイレに行かなかったので、会議室内にトイレがあったのか私は確認していませんが、もしかしたら念の為トイレも済ませておいた方が良かったりするかもしれません。
ちなみにまったくどうでもいい話ですが、この日は田町駅での線路切り替え工事があり、そのせいで山手線・京浜東北線の一部が運休していて、新宿駅もなんだか凄まじい混みようでした。あと、メールの案内文に「運営はダッフィー(熊)のぬいぐるみを持っています」と書かれていたのですが、運営の方が当日忘れてしまったそうです。で、集合場所に「ダッフィー」と書いた画用紙を手に持って待っていた方がいたので、恐る恐る近づきつつ「onecafeの方ですか?」と聞いてみました(笑)。運営は毎回2名参加で、概ね何らかのぬいぐるみを目印に集合場所に立っているそうです。
集合から哲学対話開始まで
今回の参加者は、運営の方を含めて9名。恐らく、私以外はほぼ全員学生でした。「恐らく」と書いたのは、1人ちゃんとは確認出来ていない人がいるからで、「ほぼ」と書いたのは3月に大学を卒業したという方がいたからです。待っている間に「今回どうして参加したんですか?」と、まるで運営側のような質問をしてみましたが、「大学の授業で『哲学カフェ』なるものの存在を知って調べた」「日々あまりにも人と喋っていないので、さすがに人と喋らないとマズいと思った」「自分がいる大学でも『哲学カフェ』的なサークルに入っていて、その流れで」などなど色んな話が聞けました。今回、「one cafe」の哲学カフェに初参加だったのは私を含めて4名だったと思います(これも、1人未確認の方がいるので「思います」にしておきます)。
ちなみに、終了後に運営の方に聞いたところ、「普段は社会人の方が多いかも」みたいに言っていました。今回のような「ほぼ学生」みたいな回は、もしかしたら珍しいのかもしれません。
新宿駅の改札前集合でしたが、そこから貸し会議室までは徒歩5~10分ぐらいだったでしょうか(途中、別のビルに入ってしまうハプニングもありつつ 笑)。マンションの1室で、机とホワイトボードだけのシンプルな部屋でした。それぞれなんとなく着席し、それからちょっとした自己紹介タイムに入ります。答えたのは、「今日呼ばれたい名前」と「暑さを凌ぐ方法」の2つ。「今日呼ばれたい名前」は本名でなくても大丈夫みたいです(私は本名を言いましたが)。ホワイトボードの隅に座席順と名前を書いておいてくれました。また「暑さを凌ぐ方法」はアイスブレイクとしての話題で、その時その時で変わるでしょう。この日は4月にも拘らず夏日も記録するような暑さだったので、こういう話題になったのだと思います。
あと、対話の前に「3つの約束事」についても説明がありました。ちゃんとは覚えていないですが、
●人の話を遮らない
●配慮した発言をする
●分かりやすい言葉を使う(専門用語を使う場合は説明を入れる)
の3つだったと思います。この辺りは、細かな差異はあるでしょうが、「哲学カフェ」「哲学対話」と名がつく場では概ね共通しているはずです。
というわけで、ここから本題に入っていきます。
(追記)「性的同意」をテーマにした回の記事も書いたので、興味があれば読んでみて下さい。
「性の属性の消費と責任」というテーマを元にした哲学対話
さて、議論の内容についてざっくり書いていこうと思いますが、私は結局一切メモを取らなかったので(議論と思考に集中したかったのが理由です)、書記の人がホワイトボードに書いてくれたメモと自分の記憶だけが頼りです。今回の対話は、運営の方が「いつもよりかなり色んな方向に話が広がった」と言っていたように、議論が結構あちこちに動いたので、対話をしている最中にも焦点を見失うことは度々あったし、だから思い出せない部分も多々あると思います。なので、「あくまでもこの文章を書いている時点で私の頭の中に残っていた記憶をベースにしている」と理解して下さい。
ちなみに、この「性の属性の消費と責任」というテーマは、運営側ではない参加者が提示したもののようです。これも終了後に運営の方から聞いた話ですが、「テーマは誰が決めてもいい」らしく、さらに「毎回運営側が考えるのだと大変」とも言っていました。「むしろ参加者の人にテーマを出してもらえる方がありがたい」みたいな感じなのでしょうす。どういうやり取りの末にテーマが決まるのかはまだちょっとよく分かりませんが、私は今後も参加するつもりでいるので、いずれ「テーマを提案する」みたいなこともやってみたいと思います。
というわけで、まずはこのテーマを提案した方から、「どうしてそういうテーマに興味を持ったのか?」みたいな話が語られました。ちゃんとは覚えていませんが、分かりやすいところで言えば、「『アイドルの活動に対するファンの行動』が『消費による加害』にならないか』という問題提起や、あるいは、外国人との関わりも多い方のようで、自身が経験した「『日本人』という属性で価値観や言動を決めつけられること」に対する不快、みたいな話が提示された記憶があります。
そしてそこから、色んな人が様々な話を展開していくわけですが、今回の議論は、運営の方も途中で言っていたように「『消費』の定義」がなかなか定まらず、そのため議論が色んな方向に展開したなと感じました。私はしばらくの間、「アイドルとファンの関係」みたいなものを強く念頭において議論を聞いていた気がします。つまり、私の中で「消費」とは「お金を使う(あるいはそれに類する)行為」というイメージだったのです。集合場所・時間を伝えるメールには、テーマをより深堀りした「リード文」も掲載されているのですが、その文章を読んでいた時も「お金を使う行為」が想定されているのだろうと思っていました。
ただ対話の中で次第に、「『消費』とは『相手をそのように見ること』である」という風に議論がまとまっていきます。「そのように見る」というのはざっくり言うと、「相手を属性で捉える」みたいな感じになるでしょうか。「『女性/男性/LGBTQである』『日本人/外国人である』みたいな捉え方で相手を見ていることを『消費』と解釈する」みたいに話がまとまっていったと思います。
ただ、それはそれとして、「でも、『相手を属性で見ない』なんてこと、ホントに出来る?」みたいな疑問も出てきました。つまりこれは、「『相手を属性で見る=消費』だとして、誰だって何らかの形で相手を『属性』で捉えているわけで、だから、『他者と関わる行為すべて』が『消費』になってしまわないか?」みたいな問題提起だったのだと思います。確かにそれはその通りです。そういう話になってしまえば、「全員のすべての行動が『消費』なんだから、何を言っても仕方なくない?」という身も蓋もない結論になってしまったりもするでしょう。
というわけでここからの議論は、「『相手をそのように見ることが消費である』として、じゃあ『加害になる消費』とは何なのか?」みたいなフェーズに入っていったように思います。いや、違うか。そうまとめるのは正しくないでしょう。というのも対話の後半で、「『消費されている』と感じたとしても、その中には不快なものとそうでないものがある」という話が出てきて、その話に私は個人的にかなりの驚きを感じたからです。
つまりその話が出てくるまで私は、「消費される側にとって、『消費されること』は常に『不快』である」と受け取っていたことになります。そう考えると議論の流れは、「『相手をそのように見ること』が『消費(=加害)』になるケースはどのような場合なのか?」みたいになっていったと表現するのが正しいでしょうか。
それで、この点について参加者の色んな経験や価値観が入り混じった様々な意見が出て、議論があっちこっちに飛んだような印象があります。どういう話が出てきたのか正直思い出せないことの方が多いですが、少し触れておきましょう。
まず大前提の話ですが、恐らく参加者全員の中で、「『相手をそのように見ること』がその人の内側に留まっている限り、何の問題もない」という点は共通していたと思います。いわゆる「内心の自由」というやつだと思いますが、例えば異性を性的な存在として捉えていたとしても、それが言動には反映されず相手に一切伝わらないのであれば、それは「加害」にはなり得ない、というわけです。
また、これは自分で出した話題なので覚えているのですが、「アイドル」と「ビーチバレーや水泳などのスポーツ選手」との比較の話をしました。「アイドル」は「アイドルとしての自分を見て知ってほしい」と思っているわけで、なのでもちろん限度はありますが、望まない形で写真を撮られたりSNSで言及されたりすることは「消費(=加害)」にはならないケースが多いと言えるかもしれません。しかし、ビーチバレーや水泳など露出の多い競技の選手が、本人の望まない形で写真に撮られたりSNSで言及されたりするケースは「消費(=加害)」になるはずです。
さらに、「偏見」に関する話題も出ました。私たちは様々な形で「偏見」を持ってしまい、その上で相手と接する可能性があるわけですが、その際に「相手を『変化し得る存在』と捉えるかどうか」で「消費(=加害)になるかどうか」が変わるのではないかという話です。例えば、その相手が「画面の向こう側の人」(直接会う機会がないだろう人)の場合、「その人と直接関わることによって印象が変わる」みたいな経験をすることはないので「偏見」も変化しないままでしょう。そしてそういう「偏見」を持ったまま、例えばSNSなどで何か言及をすれば、それは「消費(=加害)」になり得ます。
ただ、相手と直接会う機会があるのなら、たとえ最初は「偏見」を持っていたとしても、「直接会う」という経験によって「偏見」も変化する可能性があるでしょう。そしてそうなれば、「消費(=加害)」に繋がる可能性も低くなるのではないか、みたいな話だったと思います。
そしてこのような流れから、「結局のところ、消費される側が『消費された』と感じたらそれは『加害』である」という話になっていったはずです。ずっと「加害」についての話をしていたこともあり、初めは「消費する側の行動」によって「消費(=加害)」かどうか判定するという雰囲気があったように思うのですが、次第に、「いややっぱり、消費される側の受け取り方次第だよなぁ」という話に傾いていった気がします。まあこの感覚は、セクハラ・パワハラなどの話でもかなり一般化されていると思うので、当たり前と言えば当たり前の結論かもしれませんが。ただ、先程も言及した通り、この後で、「『消費された』と感じても、不快でないものなら『加害』ではない」なんて話が出てきたりして、分かりやすく決着したりはしませんでした。
また、このような「消費」の話とはまた少し別軸の議論として、「相手から押し付けられる属性」ではなく、「『自分はこう見られたい』という属性」の話にもなったと思います。「消費」の観点からはどうしても「相手から押し付けられる属性」の話が主眼になりますが、そこから少し離れ、「『見られたい自分』として見てもらう」みたいな話もちょいちょい出てきました。「トランスジェンダー」などを起点にしながら、「加害」とは少し違う話として、「『相手が見られたいと思っている属性』で捉えないこと」の是非(「是非」という言い方は正確ではないかもしれませんが)みたいな話も展開されたと思います。
そして、そういう話を踏まえた上で、私はある場面で、「『消費する側の行為』は『見られたいと思っている属性の提示』でもある」という話題を出したりしました。分かりやすいところで言うと、「SNS上で相手の属性を踏まえつつ何か批判を展開している人が、『正義を追求する人』と見られたいと思っている」みたいなケースはよくあるんじゃないかと思います。そしてさらに、「見られたいと思っている属性」を提示しているということは、逆に言えば、「『消費する側』もある意味では『消費される側』として俎上に乗っている」とも言えるはずです。
「消費される側/消費する側」と単純に区分するのはなかなか難しく、そのことも「消費の加害性」に何か関係しているのではないか。そんな意見を提示したつもりです。
このように、「相手をそのように見ること」を「消費」と捉えた上で、その「消費」の何が「加害」をもたらすのかという話をしてきたわけですが、何となくざっくり大枠の議論は出尽くしたかなという感じになりました。そしてそのタイミングである参加者から、「『推し』について話をしたい」という議題が出されます。これは、今回の対話の流れを踏まえれば「最初の段階に戻った」みたいな捉え方でいいでしょう。「『消費』の定義」が何となく定まるまでは、「アイドルを推す」といった「金銭的な消費行動を含む行為」も議論されていたわけですが、「『消費』の定義」が「相手をそのように見ること」に収束していく過程で零れ落ちていったというわけです。
さて、その人は「推し」に関して、「人間関係の変遷」という観点から話をしました。「推し」という概念は、アニメやアイドルの文脈から一般的になっていったはずですが、そういう「推し」という発想が定着するまでは、「他者との関係性」は「相手との直接的な関わりによって成り立つ」という捉え方が普通だったはずです。しかし「推し」という考えが出てきたことで、「『相手との直接的な関わり』が基本的には存在しない関係性」が当たり前のものとして認知されるようになりました。
で、その「推し」という感覚は元々、「アニメのキャラクター」や「アイドル」など「そもそも手が届くはずのない存在」に対して向けられていたのだと思います。というか、「手が届くはずがない」からこそ、「直接的な関わりがなくてもいい存在」として「推し」という発想が生まれ得るわけです。しかし現代では、「クラスメート」のような「直接的な関わりを持ち得る存在」に対しても「推し」という感覚を持つ人が出てくるようになりました。そして「それは『責任の回避』がもたらす感覚ではないか」と主張していたんだったと思います。「責任の回避」というか、「傷つかないための選択」という方が正確でしょうか。そしてこの点についても、「『責任の回避』というだけではない気がする」「『推し』に対しても『直接的な関わり』を求める感覚もある」など、色んな意見が出ました。
この話は「消費」や「加害」といった今回のテーマとは直接的には関係しませんが、「『相手を属性で捉える』というオタク文化発の振る舞いによる副産物」という感じもあり、個人的にはなかなか興味深かったです。
というわけで、議論の全体像を正確に掴めているか自信はないし、私自身が把握できた話を中心に載せているだけなので、参加者の中には「こういう話も出たじゃん!」みたいな意見を持つ人もいるかもしれません。ただとりあえず、ざっくりこんな感じで対話のまとめを終わろうと思います。
対話終了から2次会
対話終了予定時刻の10分前ぐらいに議論は切り上げ、最後に1人1人今日の感想を言うみたいな流れになりました。そして退出時間ギリギリに貸し会議室を飛び出します。
マンションの入り口付近で再度集合し、ここで参加費の500円をお支払い(金額は貸し会議室代と参加人数次第でしょう)。さらに一本締めで終了となります。その後、「2次会があるので、行ける人は是非~」とのことだったので参加させていただきました(毎回2次会が設定されているのかは分かりません)。
土曜日の新宿はどこも激混みで、私はただフラフラついて行っただけですが、運営の方を中心に何人かでお店探しを頑張ってくれて「コメダ珈琲」に落ち着きます。「最大で4人掛けのテーブルしかないので」ということで2手に分かれ、今日の対話のことだったり、それぞれの個人的な話だったり、色々ワイワイ喋りました。2次会の時間は特に決めていないようで、運営の方から「そろそろ帰ります?」みたいな感じで、確か22:30頃に解散したような気がします。途中で帰った人もいたので、その辺りも自由な感じです。
さて、具体的には書きませんが、この2次会で聞いた「劣化コピー」の話が実に興味深かったなと思います。その話は、今回の哲学対話のテーマとも若干関係するものだったりして面白かったです。「劣化コピー」の話に限らず、「Chim↑Pom」などアート絡みの話も出来たりと、2次会もとにかく楽しく過ごさせてもらいました。本当にありがとうございます!
というわけでこの長い長いレポートは以上です。
最後に
この記事の冒頭でリンクを貼った「私は『考えることが好きな人』と繋がりたい」という記事の中で書いた通りですが、普段から何かを考えていたり、ちょっと違った価値観を持っていたりする人との会話はとにかく面白く、私としては本当に参加して良かったなと思えました。私の存在も、今回の参加者にとってそんな風に感じてもらえていたら嬉しいですが、さてどうでしょうか。
というわけで、毎回こんな長々としたレポートを書くかどうかは別として(笑)、必ずまた参加させていただこうと思います!
