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歴史から学ぶ ~カリスマ達のマネジメント~""武田のドラッカーvs上杉の君主論"" どうする家康【日本の行く末】シリーズ番外編 特大号

※ご覧いただきます皆様に注意※
途中、辛辣な言葉を使用しております。
分かりやすく解説する為の表現となりますが
気分を害したくないという方はご遠慮ねがいます。

<※特大号の為、すべて読むのに約10分程度のお時間を要します。>


お疲れ様です!

いつもご覧いただき、ありがとうございます。
皆さんからの何某の反応が励みです。

#しゃかせんにて取り上げられました。

ありがとうございます。

君主論を読み返したところ、家康が天下を取る
およそ100年前に書かれた

【君主論】を実行して天下を取っていたのでした!!

※史実と記述両方を照らし合わせて解説します。

今回はシリーズ番外編となります。


▽まえがき

正直、どうする家康 に
乗っちゃいました💦

私の性格的には
徳川家康のスタイルは好きではありません😂

だけど、天下を取る人のスタイルは

『徳川家康』の様な人なんだろう

という事だけは理解しました。

自分の好きな人物像と
人生を駆け上がるうえで真似すべきスタイルは別物という事で

今回に限り、私のエゴをここで出させてください。


上杉謙信シリーズ、1回目↓




どうする家康【日本の行く末】
歴史から学ぶ ~カリスマ達のマネジメント~
""武田<ドラッカー>vs上杉<君主論>""
シリーズ番外編特大号

シリーズ特別編


ここから、本編

武田<ドラッカー>合議制 VS 上杉<君主論>独裁制

ボトムアップ型 サーバントマネジメント VS トップダウン型 独裁型リーダーシップ




優秀なチーム なら 合議制 を 

弱小、バカなスタッフ ばかりなら 独裁制 を取るべし



【序章 】     漢なら、やっぱり上杉

最近ではあまり聞くことは少なくなりましたが

『友情』『義理』『信義』

国力が落ちていく中で、
巷では強盗など、お金に関する

きな臭い話がおおくなりました。

コロナ禍になった3年前から、
正直、予見できていた事です。

3年前にスタッフに宛てて書いた

資料に

『経済が悪くなると凶悪な事件も多くなる』

と私は書いておりました。

これは、必然的な物で驚くこともないです。

なぜなら、貧困国に行けば犯罪率は上がります。

稼ぐ手立てとして、

そうした方が早い

生きる為だ

という、

背中を押させる口実理由が

揃う為です。

経済の問題、格差の問題は
日夜、学者と呼ばれる先生方や専門家と呼ばれる先生方によって
議論されております。

解決する手立ては誰も解らないのが
正解であろうと思いますが

唯一有るとすれば、

国民の末端の単位から

改めて国をどうして行くべきか。

どうすれば自分達の将来、

日本、世界

が良くなるであろうか。


もっと大枠から
考え直さねばならないであろうと思います。

大事な事ではありますが、

目先の増税がどうのこうの、少子化対策への補助金どうの、という

小さな所に視点と議論が集まっている間は

明るい未来はやってはこないであろうと思われます。


なお、日本が苦しかったのは
今始まったわけでなく、

日本建国から2683年

幾多の苦難があり、現在があります。

その先人達の知恵を
今こそ活かすべき時だと感じます。

全て私個人の主観に基づく見解で他意や
何かを揶揄する目的はございません。

あくまで歴史から何を教訓として学びどのように活かせるのか

という事をテーマとして書かせて頂いております。

さて、

能書きはこの辺にして
お話しに入らせていただきます。


1.戦後一の家臣団の結束
無敵の武田軍の合議制とは

この方法を採用するのは現代における、あの会社


▽武田信玄が用いた会議(軍議)の方法

合議制

武田軍がいかに強かったかがわかるエピソード

徳川家康が クソを漏らすほど恐怖 した

三方原の合戦

 いわゆる“西上作戦”の過程で行われた
三方原の合戦で、信玄率いる武田軍は徳川家康軍を
一気に撃破しました。

野戦で無敵を誇った家康の唯一の敗戦は、
この信玄との合戦でした

家康は自らの敗将姿を絵に描かせて残し、
生涯の戒めとしたそうです。

一方で信玄の戦略を徹底研究し、
武田氏滅亡後は武田家の家臣たちを積極的に召し抱え、登用したのです。
※この戦であまりの恐怖から、敗戦の際に家康はクソを漏らしたと文献で記載されてます。
ダイヤモンドオンライン

▽武田信玄の強さ、合議性とは

武田信玄の本拠地であった
甲州地方というのは
豪族の集まりでした。

今で言う所の

暴走族の集合体『○○連合』

みたいなイメージでしょうか。

それをまとめあげていたのが、

甲斐の虎【武田信玄】でした。

つまり暴走族の総長が武田信玄です。

(わかりやすいでしょ?)

その、各暴走族の頭に意見を一人一人述べさせます。
この時、良いも悪いもありません

各個人の意見です。

その出て来た意見をまとめ上げ、最終決定を総長である
武田信玄が決定をしました。

実際の話↓

合議が行われる際に、
信玄は出席した家臣全員に意見を述べるように
促したとされます。

そして、家臣の意見を取り入れることにより
戦いで勝てたり、
内政などの問題の解決に至った時、
信玄は家臣の功績を第一とし褒め称え、
しっかりとした報酬などで報いました。

武田家臣団と言えば、
江戸時代の講談などで
特に評価が高い
武将の総称「武田二十四将」が有名です。

しかし、こうした信玄の姿に、
二十四将だけでなく多くの家臣たちはますます奮い立ったことでしょう。

さらに、武田家という組織の運営に、
自分たちが主体的に参加しているという意識

ともに、主君信玄に対する
信頼感や連帯感が強まったのは
いうまでもないことでした。

ジャパンマガジン


・現代に置き換えるとサイバーエージェントがこれを実践


以下に
どの様に行うのか、またどのような仕組みでメリットがあるのか
書いてあるサイトのリンクを貼っておきます。


社内エンゲージメント・組織帰属意識・自発的

これを導きたいという経営の場合は有効的です。

▽デメリット・落とし穴

私も実際に実践して感じた事。
※独自の見解

スタッフが知識量が乏しい、思い込みが強い、

はっきり言えば バカばっかり だと

・言いたいことを言って決まるものが決まらない
・議題がそれる
・逆に忠誠心、規律が乱れる
・戦略が実行できずに終わる
・無意味な時間の経過 ←これが一番大きい

逆ねじ(やりたいことと逆方向に)になって、
そんなはずでは。。。
という状態に落ちります。

もっと言うと、結果どうしたいのか?よく分からない状態がまん延。

しまいに、会議に出席しないものが現れるなど踏んだり蹴ったりを起こしました。


・そもそも論

スタッフがこの様なやり取りを実現するためには、
スタッフが経営陣と同じくらい、考えられる、視点を俯瞰的に見れる
など、数多くの問題があります。

そもそもやる段階で、
ある程度の大学を卒業してきたメンバーが揃っている
など必要条件を満たさない限り行うべきではないと考えます。

特に中小零細で、
現場中心に物事が動くような飲食業などは
大手企業の様な人選者で選ばれて店長を張っている様な組織でないと
組織崩壊を招くであろうとおもいます。

・実際に武田軍は

武将一人とっても、攻撃力が凄まじい武将ばかりでした。

分かりやすく言えば、アメリカ軍の特殊部隊ネイビーシールズです。

一人一人の戦闘力は勿論、実戦経験や組織運営に関する事は
各人が世襲の豪族であったゆえ、優れていたと思われます。

しかし、信玄亡き後の武田勝頼に代替りすると、
盤石であった、統率に乱れが生じ始めます。

これは武田信玄という絶対的なカリスマをなくしたこともそうですが
古参の支えてきたメンバー(木曾義昌)など裏切りが出ます

これも一説には、武田勝頼は信玄よりも優秀だったと言われますが、

勝頼の組織運営や出自(正統な後継者)による派閥の力学などで

信玄の時代の様な一体感を生み出すことが出来なかった故でもあると思われます。

それほどに、合議制は難しいマネジメント方法であると考えられます。


▽サーバントリーダーシップマネジメント

実際にスタッフの能力が高くないと機能しないと書かれてます。




2.軍神 上杉謙信は説明下手だった

独裁制でもカリスマ性と実力で導く


中小零細などは経営者がワンマンの方が統率がしやすい?



▽上杉謙信が行った独裁制

いわゆる一つのあれです。

トップダウン・ワンマン経営です


軍神 謙信の閃きによる戦い

そこに、強靭なメンタルとカリスマ性

向かうところ敵なしのエピソードを紹介します

エピソード1〈3万を13騎で制圧〉

謙信は軍神ともたたえられたほどに、戦場において輝きを放っていたと聞きます。

加来:謙信はわずか数十人で北条氏の3万ともいわれる大軍勢の前を、
威風堂々と駒を進め、味方の城に入ったことがあります。
敵は誰も謙信に手を出せませんでした。
謙信は走っているわけでもなく、
北条勢は仰ぎ見るように見守っていたとされます。


 謙信は生きているときから神様で、仏神が乗り移ったようなオーラがありました。謙信の心の支えは御仏であり、弱い自分自身を隠している部分でもありました。ひらめきの人であり、神仏がそう言っているのだ、と素直に言える感性の人でした。

この時の史実(相手は3万の軍勢にたった13騎)
天正2年(1574年)、北条氏政が3万の大兵で佐野氏の唐沢山城を取りまいた。
佐野氏は当時上杉方に属しており、謙信は8千を率いて越後から援軍におもむいたが、いまにも城は落ちそうだった。
このとき謙信は「まず我は、城に駆け入りて力を備えん」と言うや、
甲冑も身につけずに黒木綿の胴服を羽織り、わずか13騎の供を連れたきりで北条軍の前を堂々と横切って城へ入ったのである。

敵兵はこれを目にして「夜叉羅刹とは、是なるべし」と畏怖し、
謙信本人だと知りつつも、その犯し難い威厳に圧され、
全く手だしができなかった。

謙信の入城で城方の士気は大いに上がり、
これを見た北条氏政は唐沢山城の攻略をあきらめ、包囲を解いて撤退したという。
日経ビジネス

エピソード2〈戦場の常識謙信の常識にあらず〉

大将が強ければ、兵もまた強し
合戦においても謙信は、常に先頭に立って敵陣へ飛びこんでいった。

大将が討たれたら合戦は負け。
だから大将は後方から全軍を指揮し、その周囲には屈強な旗本が敵襲に備えているのが常である。

そういった常識を、謙信は一切無視した。
自分は軍神であり、絶対に死なないと信じていたからだろう。

信念はある意味、魔術である。事実、謙信は戦場で果てなかったし、生涯幾多の闘いに臨んでも傷ひとつ負わなかった。

 こうした大将の勇姿を目の当たりにして家臣たちも奮い立ち、結果として上杉軍は無敵といわれるようになったのである。

ようは強烈なリーダーシップが組織を強固にしたわけで、まさに上杉謙信は、いまでいえばカリスマ型リーダーだろう。
日経BP

エピソード3<鉄砲が当たらない>

永禄4年(1561年)3月、謙信は越後から関東平野へ乱入し、10万の大軍で北条氏康の小田原城を包囲した。
ただ、城は非常に堅固だったので攻めあぐね、味方の士気はみるみる低下していった。
すると謙信は、城門のすぐそばの蓮池まで馬を乗りつけ、馬から下りると、池の端に座って平然と弁当を食べはじめたのである。

 これを見た城兵は、いまが好機とばかりに激しく鉄砲を撃ちかけたが、

一弾も命中しない。

この間、謙信は平然と飯を平らげ、茶を3杯も喫した後、悠々と引き揚げていったという。

「城兵之を見て其猛勇を誉めざる者なかりけり」(『名将言行録』)とあるように、小田原城兵たちもその勇気を誉めたたえた。
日経BP

いかがでしたでしょうか。

上杉謙信のエピソードには他にも多数の神がかり的な
エピソードが残されており、

最強で義侠心にあつい漢


これ以上に

男として魅せられる人はいないです。

▽上杉謙信の独裁制とは

以下の記事でもご紹介しました。


戦が決まると、お堂に籠って出てこなかったそうです。

軍議もせず、

家臣団(足軽まで)に大名が食べるご馳走を振る舞い

その食事で家臣が ”戦があることはじめて知る” という

社員ならたまったもんじゃないな

となりそうですが、謙信の向かうところ敵なし。

戦争に対して『まじかぁー』となるのはいなかったと思われます。

前回ご紹介できませんでしたので当時の足軽の食事を紹介します。

当時は自身で持参してくるのが普通だったようです。


これ
一方、足軽の食事は、3日で済む合戦の場合は自前で弁当を持参し、それ以上の長い戦いになると、戦国大名が食料を準備していました。 足軽の弁当は「腰弁当」と呼ばれ、干飯や炒米、焼き味噌や 芋茎(ずいき)、梅干しなどが中心でした。
刀剣ワールド


皆さんにご紹介した、謙信の食事が如何に豪華であったかご理解いただけたとおもいます。



見逃した!!という方の為に再度↓




・現代に置き換えると、アパホテルなんかはいい例?

(オーナー企業と呼ばれる会社は未だに多いかと)

アパホテルは、『私が社長です』


この人

は、奥様で、本当の経営者は会長の方です

アパホテルでは 会長は【総裁】と呼ばれているそうで

御年、90近いはず?と思いますが

東京・金沢・大阪

GTRを置いていて自分で運転してゲストを迎えに来る。
と、

以前取引していた私の先輩から話を伺いました。

かなり、イケイケで誰も意見できない。

右寄り(愛国者)で、『アパホテルに南京大虐殺はなかった』という

自前の執筆本をだしていて、
アパホテルの各部屋の机に入れていたのを

中国の旅行会社が見つけて、中国ではアパホテルは使わない

と、結構政治的なニュースに発展しました。

それを見つけたのが私の付き合いのある
中国から富裕層をアテンドしてくる中国の会社でした。※事実
※その会社は温家宝さんが、日本に来られた時もその会社が【ファントム(ロールスロイス)】を出したりしてます。

アパホテルの創業からのエピソードも拝見しましたが
かなりご苦労されて、今に至るようです。

ご自宅は金沢の武家屋敷を改築したご自宅だそうで、
とにかく、現代の上杉謙信のような方です。


・独裁制による弊害

もう、これは書く必要性も何もないとおもいますが

最近はSNSの発達もあり、

すぐに『ブラックだ』『ろうき(労働基準局)に駆け込む』

また、それに近い印象操作『上司がパワハラ』等

の内容も多数散見します。


▽私個人の見解

スタートアップからシリーズA(投資の基準の段階)に
行けるようなメンバーなら別ですが

そうでない、スタートアップや中小零細の会社は
基本的には経営者による経営のワンマンが

結果的に組織の求心力を高め、組織帰属意識まで高める

と、感じています。

これは実務においても、私自身が経験して思う事です。

当然、それに伴う経営者の実力はなくてはなりません。


ここにあげました内容は全て個人の主観や体験を基に記した内容です。

全てのひとや組織にフィットするとは思いませんし、

正解はないと普段から申し上げている通りです。

しかし、
多くの中小零細企業が私と同様の悩みや
人材不足に悩むところがほとんどであろうと考えられるため

最近のマネジメント法

という、
なんともそれらしい言葉に惑わされないようにいただきたいと思います。

旧式でも素晴らしい部分がたくさんあり、
日本人にあった形があると思いますので

皆さんにとって『やっぱこれだな』と感じるものが正解ではなかろうかと思います。

歴史の偉人たちが教えてくれている物は

私たち多くの人間が現在も経験していることそのものであるとすれば

多くの武人や文官が伝えていることが可能性を高めるはずです。


個人的には 上杉謙信の人としての姿 が私の理想です。


▽最後は上杉謙信のエピソードでお別れ


上杉謙信と言えば、

いろんなドラマや映画などで
前立て兜を着用した謙信の姿を見たことがあるかもしれません。

上杉神社に保存されている
「重文本小札色々縅腹巻(ほんこざねいろいろおどしはらまき)
〔附〕黒漆塗具足(くろうるしぬりぐそく)」である。


上杉神社に保存されている「重文本小札色々縅腹巻(ほんこざねいろいろおどしはらまき)

ただ、
実際には合戦で使われたことがないと見られている。

というのも

実践用の防具につきものの「使用痕」がほとんどなく、
太刀掛韋も付していないことから、儀礼用である可能性が高いそうです。


出陣式や社参の場で「祭りなら、俺の中にある」とばかりに、着用したと考えられます。

•実際は甲冑はつけずに戦に出陣、義の為だけに戦った。

『義の為に戦う』が口だけではない理由

なぜなら

永禄3~4(1560~1561)年の
越山(戦いに向かう)で関東全土の諸士が味方となってます。

このとき謙信は関東の

大名に「依怙(えこ)による弓箭(ゆみや)は取らず、ただ筋目をもってどこだろうと合力していく」と豪語しており(永禄3[1560]年4月28日付佐竹義昭宛書状)、義戦であることを強調しております。

意味は

『私利私欲では戦わない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す』


これが口先だけのものならば、
気骨ある関東武士が謙信のもとに集まろうはずがないわけで

越山当時、
関東の僧侶も謙信は信心深いので期待できるという世評を書き残しております。

以下の記事より参照



冒頭と矛盾しますが、

国が瀕している時は

【強いリーダーが国民を引っ張らないと行けません】

その良いお手本と言えます。

※国民が最下層から自分達の未来を良くしようと学び考えなければならないのは必然です。そうでなければリーダー選びも間違えます。


▽家康も歴史から学んだ


歴史というのは統計学です。

時代は変わっても人は変わりません。
※ビジネスの方法はまた別

人を統率する、懐柔する、

こう言う事をすれば確率を上げると言うだけです。

むしろ、現代の様に情報過多で
※1自己の都合で調べられる時代には

益々、思い込みが強くなり

この方法論が活かせる可能性が高くなると考えます。

※1.確証性バイアス=自己にとって都合の良い情報だけを集めてしまうという思い込みの一つで、脳の機能です。
Twitterでは数多く見られます、ワクチン接種に関する有無などコロナに関連する情報を飛ばしている方はこの傾向が強いと私個人の見解です。





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