金鐘寺 〜東大寺の前身・幻の古代寺院?〜
九條です。
先日、奈良市内で開かれたとある勉強会にて、東大寺の前身寺院と伝えらている金鐘寺(こんしゅうじ/こんじゅじ/きんしゅうじ)について、詳しく話を伺いました。
金鐘寺は、728(神亀5)年に聖武天皇が基親王の病気平癒を願い、177躯の観世音菩薩像を造像しこれを(本尊として?)安置するために建立した寺だと伝えられています。
基親王はその前年すなわち727(神亀4)年9月に誕生しています[01]。繰り返しますが、聖武天皇が金鐘寺を建立したのが728(神亀5)年8月[02]です。しかしその翌月すなわち728(神亀5)年9月には基親王は亡くなっています[03]。
基親王の死後、聖武天皇は智努王[04]を長官として「山房」を造らせて僧を住まわせています[05]。
この「山房」とは、上記の金鐘寺の建立事業を継続したものであるとも考えられています[06]。
そして金鐘寺(山房)が現在の東大寺法華堂として継承されたものではないかと…。
その他、詳しく調べると金鐘寺から東大寺に至るまでには(福壽寺など[07])相当複雑な経緯があったようです。
しかし、文献で分かっている範囲でその概略を簡単に述べれば、
金鐘寺→(山房)→東大寺法華堂
という風に遷移し、その後天平年間に至って現・法華堂(すなわち金鐘寺址?)の西麓に(現・法華堂の寺域を含めて)総国分寺としての官寺・東大寺が建立されたということのようです(金鐘寺の時代は官寺ではなく聖武天皇または天皇家の氏寺であったとも考えられます)。
法華堂の現在の本尊が不空羂索観音[08]であることも、その経緯と何らかの関連があるのかも知れません。
ただ、個人的に疑問を(違和感を)抱くのは、聖武天皇は基親王の病気平癒のためになぜ観世音菩薩を選んだのか、なぜ薬師如来ではなかったのか、という点です。
奈良時代においては、法華信仰も薬師信仰も、両者ともに国家のレベルにおいても個人のレベルにおいても滅罪の法として重用されましたが(法華悔過と薬師悔過。ただし平安期になると密教の要素が加わり法華懺法の一辺倒になるが)、その中においてもどちらかと言えば、法華信仰(法華経)は後生善処。薬師信仰(薬師経)は、心身の病気平癒を祈る法でした。
もしや、聖武天皇は金鐘寺(山房)建立発願の時点で、すでに基親王の回復は諦め、後生善処を祈っていたのではないだろうか?
聴講していて、ふと、そのような思いが私の心の中を過ぎりました。
そう考えると、とても悲しく、切なくなってきます。
金鐘寺については分かっていないことが多く、今後の資料(史料)調査とともに考古学における成果も期待されますね。
【註】
[01]「閏九月丁卯 皇子誕生焉」『続日本紀』神亀四年閏九月丁卯条
[02]「皇太子寝病 経日不愈」『続日本紀』神亀五年八月甲申条
[03]「皇太子薨」『続日本紀』神亀五九月丙午条
[04]天武天皇の孫。長親王の子。文室浄三。
[05]「以従四位下智努王 為造山房司長官」『続日本紀』神亀五年十一月乙未条
[06]家永三郎『上代佛教思想史研究』法蔵館 1989年
[07]栄原永遠男「福寿寺大般若経について」『日本歴史』(450) 吉川弘文館 1985年
[08]天平5(733)年、本尊(『東大寺要録』)
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