「わかった」の向こう側
はじめに
これまで、言葉というものについて、少し角度を変えて見てきました。
一つの言葉のなかに、誰にとっても同じ確かな中身があって、それがはじめから収まっている。
わたしたちはついそう考えてしまいますが、どうやら、そうではないようなのです。
言葉の意味は、その言葉が交わされる暮らしの形のなかで、そのつどかたちづくられていく。同じ一語であっても、育った環境が違えば、世代がわずかにずれただけで、まるで別の意味を持つことがあります。
それでもなお、わたしたちは、言葉に一つの確かな意味を求めずにいられません。
それは、言葉を使って生活しているからです。
ここには、一つの本質を探し当てようとしてやまない習性がある。それが、これから覗いてみたい出来事の、出発点になります。
言葉のまわり
例えば、こんな経験はありませんか。
短い返信が一つ届きます。「わかった。」それだけです。句点が一つ。前後には、何もありません。
受け取った瞬間、自分の内側で、何かが動きはじめます。
わかった + 。
とは、どういう「わかった。」だろう。
納得したのか、呆れたのか、もう話したくないのか。
相手の顔は見えないためわかりません。声の調子も聞こえない。手がかりは、画面の上の「。」で終わる5文字だけ。
手がかりがないと、こころは放っておけなくなります。一つの解釈が浮かぶと、それが次の思いを呼び寄せていくのです。
そういえば先週も返事がそっけなかったな……。
あのとき少し冷たかったような気もする……。
もしかすると前から自分のことを……。
連想が連想を呼び、過去のやりとりが次々とあたかも証拠として動員され、そのときの相手の人物像が、みるみる固まっていきます。
数分後には、たった5文字から、一つの完結した物語ができあがっています。
相手はいま自分に苛立っている、と。
ここで思い返してみましょう。自分で作り上げた物語のうち、どれだけが、実際に画面の上に表示されていたのでしょうか。
書かれていたのは、5文字だけ、「わかった。」でした。残りはすべて、自分で作り出したものです。
むき出しの空白
誤解の話をするとき、わたしたちはつい、言葉が足りなかったせいだと考えます。
もっと丁寧に書いてくれれば、もっと説明してくれれば、こんなすれ違いは起きなかったのに、と。
けれども、順序は、おそらく逆なのでしょう。
言葉が足りないから誤解が生まれるのではなく、言葉が足りないからこそ、こころがその空白を、自分で埋めにいく。そして、実際に自動的に埋めてしまうのです。
顔を合わせたやりとりでは、空白はたえず塞がれています。相手の表情が、声の高さが、ふとした間が、足りない部分をそのつど補ってくれる。「わかった。」の一言も、柔らかな笑みとともにあれば、わたしたちは迷いません。
ところが、表情も身振りも声も削ぎ落とされ、文字だけが残る場所では、その空白がむき出しになります。
むき出しの空白を前にして、こころは黙っていられず、手近な材料、たいていは不安や、自分についての物語で、そこを埋めてしまいます。
そして、埋める材料は、人によって違います。同じ「わかった。」という言葉も、それが各自の内側で持つ重みは、一つではありません。
育った環境が、世代が、これまで交わしてきた言葉の歴史が、わずかに違うだけで、その材料は変わっていく。ある人にとっての軽い相槌が、別の人には、突き放しに聞こえるのです。
実際、現代社会のSNSをはじめ情報空間の世界では、似たような出来事が数限りないほど広がっています。
言葉そのものの奥に、誰にとっても同じ「本当の意味」が眠っていて、それさえ正しく取り出せれば誤解は消えるのではないか。
そう思いこんでいるうちは、すれ違いの原因は、いつも相手か自分の、どちらかの落ち度になってしまいます。
けれども意味は、言葉という器に、あらかじめ盛られているわけではなかったのでした。
ブッダが指していた一点
とすると、あの胸のざわつきは、いったいどこから来たのでしょう。
相手の「わかった。」から、ではありません。意味の定まらない空白を、こちらのこころが、よりにもよってネガティブな物語で埋めにいったところから始まっています。
この、こころが空白をふくらませていく道筋を、ずいぶん昔に、ひとつずつ辿ってみせた人がいました。ブッダです。
中部(Majjhima Nikāya)第18経「蜜丸経(Madhupiṇḍika-sutta)」という短い経のなかで、その道筋は、簡潔なブッダの言葉を弟子のマハーカッチャーナがほどく、というかたちで語られています。
この経では眼とかたちを例にとっていますが、耳でも、こころでも、道筋は同じです。
何かに触れ、
そこに意識が生じ、
三つが出会うところに
「接触」が起こる。
接触を条件にして
「感受」が生まれ、
感受したものを「知覚」し、
知覚したものを「考え」、
考えたものを、
さらに「ふくらませて」いく。
そしてふくらませたものを源として、
想いと観念が、その人自身に、
次々と襲いかかってくる、と。
この、こころがものごとを際限なくふくらませていく働きに、彼らは戯論(けろん・papañca-パパンチャ)という名を与えていました。
順序を、先ほどの「わかった。」に重ねてみます。
5文字が画面に届く(接触)。
何かがざわつく(感受)。
それを「。」を含めて「そっけない」と受け取る(知覚)。
先週の返事を思い出す(考え)。
連想が連想を呼び、証拠が動員されていく(戯論)。
そして数分後、「相手はいま自分に苛立っている」という完結した物語が、こちらに襲いかかってくる。
経が言うのは、その戯論が、
過去にも未来にも現在にも伸びていく、
ということでした。
過去のやりとりが証拠として引き出され、未来のすれ違いが先取りされる。二千数百年前の言葉が指していたのは、まさに、「わかった。」から数十秒の出来事だったのです。
見たもののなかに、見たものだけを
では、この道筋の、どこで止まれるのでしょう。
同じ人が、バーヒヤという求道者に、たったひとことで読み解いたことが残されています。
自説経(Udāna)第1章第10経「バーヒヤ経」という、これも短い場面です。
見たもののなかには、
見たものだけを。
聞いたもののなかには、
聞いたものだけを。
そこにあなたを付け加えなければ、
あなたはもう、そこにいない、と。
これを同じように「わかった」の例に置き換えてわかりやすく言うと、
5文字のなかに、5文字だけを。
それ以上を足さなければ、
苛立つ相手も、傷つく自分も、
そこには現れない、
といっているのです。
痛みも、そこから来ていました。傷つけたのは相手の言葉ではなく、誰に断ったわけでもない空白を埋めにいった、自分のほうだったのです。
これは、どこかの誰かの「教え」を信じて受け入れる、という種類の話ではありません。自分で確かめられる話です。
次に短い返信が届いて胸がざわついたとき、解釈が連想を呼び、物語が立ち上がっていく数十秒を、ただ眺めていればいい。
物語が組み上がっていく、その手前に、まだ何も決まっていないこころの空白があります。その一瞬を観ることができたなら、それでこの物語は、完成しないのです。
ブッダがしたことは、崇めるべき教えを打ち立てることではありませんでした。
誰でも自分の経験で確かめられる、
その一点を、ただ指し示しただけなのです。受け取るのに、特別な信仰も、込み入った理屈もいりません。
必要なのは、自分が言葉を補い、物語を構成しはじめる、その湧き上がる瞬間を見極めること。それだけです。
まとめ
言葉に確かなものを求める習性そのものは、責められるべきものではありません。
わたしたちは意味の手がかりを探さずにいられませんし、それは生きていくうえで欠かせない働きなのです。
ただ、次にはじまる短い一言の前で、すこしの時間を感じ取ることができるか。そこから自分で始めていく物語を、創り始めるその瞬間に、止まることができるかどうか。
生き方と呼ぶには、あまりに小さなその一点に、たぶん、いちばん難しくも深い確かなものがあります。
