物語は、ひとりの内側では終わらない
はじめに
前回の記事では、「わかった。」の5文字が、なぜ物語になってしまうのかを見ました。
蜜丸経の戯論(papañca/パパンチャ)の道筋と、バーヒヤ経「見たもののなかに、見たものだけを」を手がかりに、誤解の起点を自分の経験で確かめなおすことを紹介しました。
一人の内側で起きているこの流れは、じつは内側だけに留まりません。
今回は、同じ構造が、社会の風景のなかにどう現れているかを見ていきたいと思います。
テキストには続きがある
先ほどの『蜜丸経』の一節には、実は続きがあります。その連鎖の行き着く先について、テキストはこう語ります。
その妄想から、さまざまな思いと思いとが、 人をとらえて広がっていく。
そこから、論争が生まれる。 言葉の争い、非難、口論が生まれる。
人は棒を取り、武器を取り、憎しみあう。
一人の内面で起きていた微細な流れが、やがて人と人との争いにまで至る、と言うのです。
最初はただの一瞬の感触だったものが、考えとなり、物語となり、そして物語は他人との対立を生み出していく。
二千数百年前のテキストが、これほど現代人の手元から起きている状況を見通していることに、わたしは少し驚いてしまいます。
SNSのタイムラインで
現代の風景に戻して考えてみます。
・STEP1
SNSで、ある投稿を見る。
・STEP2
その瞬間、わずかな不快の感触が生まれる。
・STEP3
「嫌な感じだ」と思い浮かべる。
・STEP4
「この人はこういう考えの持ち主なのだ」と考える。
・STEP5
「こういう人たちが社会を悪くしている」という物語に膨らんでいく。
こうして、気づけば、反論のコメントを書いている。あるいは、同じ方向の怒りを発信している別の誰かに共感し、リポストしている。
最初にあったのは、ほんの一瞬の感触でした。しかし、そこから連鎖が動き出し、最後には「こちら側」と「あちら側」という対立の構図にまで膨らんでいっています。
しかも、この連鎖はわたし一人のなかで完結しません。わたしの反応を見た誰かが、似た連鎖を起動させ、別の誰かがさらに反応する。
一人の内面で起きていた流れが、何千、何万という規模で、社会全体に広がっていきます。
これはSNSが悪いという文脈ではありません。人は自身ひとりの中で、このような妄想を膨らませていく性質を元から備えているということです。
内側と外側は、同じ構造
政治的な議論の単純化、敵味方の決めつけ。
些細なきっかけから燃え広がる炎上。
異なる立場にある人をひとまとめにして断罪してしまう傾向。
これらはすべて、連鎖の社会的な姿なのだと思います。
一人ひとりは、ただ感じ、考え、反応しているだけです。悪意があるわけでもありません。しかし、連鎖が重なりあうと、対立の構造が作られていく。
ここで見えてくるのは、「個人の内面の問題」と「社会の問題」が、別々のものではない、ということです。両者は、同じ構造の、異なる規模の現れにすぎません。
内側で止まらない流れは、外側でも止まらない。内側で見失われた始まりは、外側でも見失われたままになる。これが人間の性質というものです。
では、どうすればよいのでしょうか。
ここで言いたいのは、意志の力で反応を抑え込もう、という話ではありません。また、SNSを断とう、情報を減らそう、という生活改善の話でもありません。
それらも時には有効ですが、もっと根本的なところに、別の可能性がある気がします。
バーヒヤ経をもう一度見直してみましょう。
気づきとは何か
気づきとは、刺激を消すことでも、心地よく整えることでもありません。
接触から感受へ、認識へ、思考へ、そして膨らんでいく妄想へと流れていく過程を、その場で見失わないこと。ただ、それだけです。
流れを止めようとするのではなく、止まらないことを知ること。
反応しないようにするのではなく、反応が立ち上がる瞬間を見定めること。
抑え込むのでも、正しく導くのでもなく、何が起きているかを取り違えないこころ掛けに着目するということです。
これはテクニックではありません。修行でもありません。
ひとつの見方です。
世界のなかで、自分のなかで、何が起きているかを、取り違えないで見るという、それだけの態度なのです。
わたしたちができること
この連鎖を止められるのは、社会ではなく個人です。
誰かの発言が画面に届く。
何かがこころでざわつきはじめる。
それに対して感情が湧き上がる。
発言の背景を思い描く。
連想が連想を呼び、証拠が動員されていく。
それが考えになり、物語になっていくこと。
それらを、押しとどめるのでも、正しく導くのでもなく、ただ見失わないことだけです。
そうしてみると、不思議なことに、流れの勢いが少しだけ変わることがあります。
変えようとしたのではなく、見ていただけなのに。そしてその変化は、自分の内側だけに留まりません。
内側で見失われなかったものは、外側でも見失われにくくなっていきます。
誰かの投稿に反応しようとするとき、反応そのものの立ち上がりが見えていると、言葉の選び方が変わるように、膨らみかけた物語に、少しだけ距離が取れるようになってくるのです。
まとめ
パパンチャ(戯論)が動き始めるとき、人はある意味、思考停止といえるような状況に陥っています。
これは、言い換えれば、考えの始まりに気づかなくなっているのです。
そして気づきとは、考えを止めることではなく、その始まりに立ち会うことなのだと思います。
気づこうとするきっけかは、SNS疲れ程度かもしれないし、少しどっぷり入り込んでしまっていたならば「苦しみ」という場合もあるでしょう。
そのひとりのこころ掛けに、やがては社会の風景が変わってしまう可能性が潜んでいるとは、誰も想像できないものです。
パパンチャが始まる瞬間に気づくこと。
その小さな気づきは、やがて自分自身を変え、その積み重ねが社会の空気を少しずつ変えていく力にもなります。
