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「人たらし」の経験知


結果を残す人たちの共通項

結局は「人」がやること

PPP/PFIや公共施設マネジメントの世界に身を置いて、いつの間にか四半世紀近くが経った(ヤバい、ジジイ化してしまう。。。)。

流山市役所での15年、日本PFI・PPP協会での5年、まちみらいを立ち上げてからの日々。その中で、数えきれないほどのプロジェクトと人に出会ってきた。100%とは言わないがある程度上手くいったプロジェクトもあれば、志半ばで頓挫したものもある(そちらの方が圧倒的に多い)。

サポートさせていただいた自治体でも、常総市・宮崎市のようにこちらの想像を圧倒的に超えた成果を上げた自治体もあれば、何年経っても同じところをグルグル回っているまちもある。

その違いは何なのか。財政力の差か。地理的条件か。首長のリーダーシップか。もちろん、それらも無関係ではない。しかし、長年この世界を見てきて確信していることがある。結果を残せるプロジェクト、結果を残せるまちには、必ず「人たらし」がいる。これは筆者の専門分野であるPPP/PFIや公共施設マネジメントに限った話ではないだろう。おそらく、あらゆる分野において同じことが言えるはずである。

「人たらし」は悪いことか?

「人たらし」という言葉には、どこか胡散臭い響きがあるかもしれない。口がうまい人、調子のいい人、人当たりだけはいい人。そんなイメージを持つ人もいるだろう。しかし、私がここで言う「人たらし」は、そうした薄っぺらい存在ではない。

筆者が出会ってきた「人たらし」たちは、例外なく「経験知」の塊であった。彼らは、理屈・理論では説明しきれない・道理が通らない非合理的な世界の中で、クリエイティビティ、情熱、発想の転換、そして覚悟をもって、一つひとつの困難を突破してきた人間たちである。その過程で蓄積された「経験知」が、彼らの言葉に重みを与え、周囲の人間を惹きつける磁力となっている。
本稿では、なぜ「人たらし」が結果を残せるのか、そしてその「人たらし」の本質とは何なのかを、これまで出会ってきた魅力的な人たちの姿を通じて考察していきたい。

「一人だけ」では何もできないという現実

まず、当たり前だが重要な事実を確認しておきたい。
どんなに優秀な人間であっても、「一人だけ」で何かを成し遂げることは不可能である。これは行政であっても民間であっても変わらない。

行政内部

行政の世界を考えてみよう。どんなに小さなプロジェクトであっても、それを「オフィシャル」に進めるためには決裁が必要になる。担当者が起案し、係長がチェックし、課長が決裁する。場合によっては部長や首長の判断を仰ぐこともある。どれだけ素晴らしい企画書を書いても、どれだけ緻密な計画を立てても、その決裁ルートのどこかでNOと言われれば、そのプロジェクトは進まない。
担当者レベルでは熱量を持って取り組んでいるプロジェクトが、上層部の「リスクを取りたくない」謎の「時期尚早である」という判断で凍結される。関係部署との調整がうまくいかず、表面的な「総論賛成・各論反対」の壁に阻まれて頓挫する。優秀な若手職員が夢を抱き孤軍奮闘したものの、上記のような「つまらない判断」の憂き目に遭い心が折れて異動願い・辞職願を出す。残念ながらあるあるネタでしかない。

議会対応

更に行政の場合は議会対応が必要になる場合も多い。どれだけ練り上げた事業計画も議会で関連予算等が否決されれば実現しない。議員からの(中には全く的を得ないものも含めた)質問に対して、説得力のある答弁ができなければ、事業そのものが政争の具にされてしまうこともある。担当者一人がいくら頑張っても、議会対策は組織全体で取り組まなければ乗り越えられない。そもそも自分もそうだったが、部長職以上でなければプロジェクトの担当者が議会というオフィシャルな場で提案理由を説明したり直接答弁することすらできない。

市民との関係

アスカ「最後だから聞いとく。私がアンタを殴ろうとしたわけ、分かった?」
シンジ「アスカが3号機に乗ってた時、僕が何も決めなかっから…助けることも、殺すことも。自分で責任、負いたくなかったから…」

シン・エヴァンゲリオン劇場版

市民との関係もそうだ。公共施設の再編・統廃合・新規整備等にあたって、本来は地方自治法で考えれば「長の総合調整権」でできるのだが、庁内や議会から「市民の声は聞いたのか」と決まり文句のように問われる。
物事を決められない自治体では、ダメダメシンジ君のように自分で判断することを放棄し、プロとして表面的なリスクヘッジをしてしまう。
現実的には無駄・不毛な努力・プロセスだと分かりながらも消費者としての市民と粘り強く対話を重ねていくしかない。その作業は、担当者一人の力では到底できるものではないし、地域や議会のドンなどは「担当ではなく責任者の話しか聞かん」と、上層部に協力を仰がなければいけない場面も多数でてくる。

民間の場合

民間の世界も本質的には同じである。どれだけ画期的なサービスを思いついても、どれだけ革新的なプロダクトを企画しても、それが社内的に認められなければ世の中に出ることもないし、届ける相手がいなければ意味がない。販路の開拓、営業活動、マーケティング。つまり「認めてもらう」「買ってもらう」「使ってもらう」行為がなければ、どんなに優れたものも社会に届かない。
さらに言えば、プロダクトやサービスを生み出す過程においても「一人だけ」では限界がある。資金を調達する人、技術を持つ人、デザインを担う人、法務をチェックする人、現場を回す人、営業して契約をとってくる人、在庫や売上管理をする人。複数の専門性を持つ人間が協働・連携して初めて、ひとつの価値が生まれる。

PPP/PFIの世界

PPP/PFIの世界では、この「他者との協働」がさらに複雑な様相を呈する。行政と民間がそれぞれの持つリソースを出し合い、それらを足し算・掛け算して試行錯誤しながらプロジェクトを構築していくしかない。
これらすべてのステークホルダーが、それぞれの利害を抱えながらひとつのプロジェクトに関わっている。
この複雑な利害関係を調整し、関係者が納得できる形でプロジェクトを前に進めていく。それができる人間こそが「人たらし」であり、それができないプロジェクトは、どこかで必ず躓くことになる。

結局のところ、何かを形にするためには必ず「他者」の存在が必要である。そして、その「他者」を巻き込み・動かし・ともに歩んでいく力こそが「人たらし」の本質に他ならない。

「人たらし」の共通項

有機的なネットワーク

物事を形にできる人たちには、ある共通の特徴がある。それは、有機的なネットワークを構築していることだ。ここで言う「有機的」とは、単なる名刺交換の数や、SNSのフォロワー数ではない。必要なときに声をかければ動いてくれる人、困ったときに相談できる人、新しいプロジェクトを立ち上げるときに一緒に汗をかいてくれる人、なぜかそこに興味でジョインする人。そうした「生きた」つながりのことである。

「数」による無機質のネットワーク

昭和100年の世界では名刺の数が勝負だった。いまだに賀詞交換会や異業種交流会が各地で行われているが、できるだけ多くの人と名刺を交換し、それを「人脈」と呼んでいた時代。しかし、そうして集めた名刺の99%は、二度と連絡を取ることのない紙切れでしかない。本当に困ったとき、その名刺の相手に電話できるだろうか。向こうは自分のことを覚えているだろうか。そもそも、その名詞の人の顔・性格・スキルを把握しているのだろうか。
SNSのフォロワー数も同様である。何万人ものフォロワーがいても、その中で3次元の世界で実際に一緒に仕事ができる人は何人いるだろうか。数字は大きく見えても、中身は希薄なことが多い。

自然発生的なネットワーク

筆者がこれまで出会ってきた結果を残す人たちは、例外なく「有機的な」ネットワークを持っている。そのネットワークは意図的に構築したというよりも、その「人」によって自然と形成されたものであることが多いように感じる。一緒にプロジェクトをやり遂げた仲間、困難を共に乗り越えた同志、本音で議論を戦わせた相手。そうした経験の積み重ねが、「生きた」ネットワークを形成していく。
さらに興味深いのは、「人たらし」の周辺にいる関係者もまた、人間的な魅力を持った人たちであることだ。類は友を呼ぶのとおり、魅力的な人の周りには、やはり魅力的な人が集まってくる。そしてその集団全体が、ひとつの生態系のように機能し、新しい価値を生み出していく。

短絡的な外注

逆に言えば結果を残せないプロジェクトや組織には、この有機的なネットワークが欠如していることが多い。短絡的にコンサルへ(最悪な場合は一般競争入札で)丸投げ委託し、形式的な可能性調査・アドバイザリー業務等の契約は結んでいるが、「契約だけ」の関係でしかない。表面的な連携はあっても、困ったときに助け合う関係性がないし、そこにそれぞれの個人のアイデンティティなどは存在しない。
筆者がこれまで見てきたコケる・つまらない事業の多くは、このネットワークの欠如に起因している。

PPPはPublic Private Partnershipであるが、このPartnershipは単なる契約関係や業務委託ではなく、真の意味での「パートナー」となることが必要であり、そのためには人と人との信頼関係が不可欠である。
契約書に書かれていないことが起きたときにどうするか。想定外のリスクが顕在化したときに誰が責任を取るか。そうした局面で「契約書にはこう書いてあるから」「リスク分担表ではそちらのものだから」と主張し合うのではなく、「一緒にこの困難を乗り越えよう」と手を取り合えるかどうか。それが真のパートナーシップである。

そうした関係性を築ける人間こそが「人たらし」だ。

非合理的な世界で求められるもの

非合理的な社会だからこそ

世の中は、合理的にできているわけではない。教科書通りに物事が進むことは稀であり、むしろ非合理的な要素に満ちている。人間の感情、組織の慣性、政治的な力学、予測不能な外部環境の変化。これらが複雑に絡み合い、論理だけでは解決できない問題が次々と発生する。特に行政では、民間と異なり「利益」という統一した判断軸を持たないことから、それぞれの個人の「感覚」が判断基準になってしまうことも多い。

PPP/PFIの世界も例外ではないし、時にはこの非合理性が特に色濃く表れる場所かもしれない。行政と民間という文化も言語も異なる二つの世界が交わる場所であり、民間のビジネスと議会という政治的な場、市民という多様な面を持つファクター。これらすべてを考慮しながらプロジェクトを進めていくことは、決して合理的な計算だけでは成し遂げられない。

求められるもの

こうした非合理的な世界で、一つずつ何かを成し遂げていくためには、様々なものが求められる。
まず、クリエイティビティ。既存の枠組みにとらわれない発想、前例のない解決策を生み出す力。「こうあるべき」という固定観念を打ち破り、新しい可能性を切り拓いていく創造性。
次に、情熱。論理だけでは人は動かない。「なぜこのプロジェクトをやるのか」「なぜ自分がやらなければならないのか」という根幹的な問いに対する揺るぎない答え。それがなければ、困難に直面したときに踏ん張ることができない。
そして発想の転換。行き詰まったときに、まったく違う角度から問題を見直す力。敵だと思っていた相手が実は味方になりうることに気づく洞察力。ピンチをチャンスに変える柔軟性。
さらに、覚悟。最終的には自分が責任を取るという腹の括り方。失敗したときに逃げ出さず、矢面に立ち続ける胆力。他人に責任を転嫁しない潔さ。

現場でしか学べないこと

これらは、昭和100年のコモディティ化した社員・公務員を量産する研修で学べるものではない。教科書に書いてあるものでもない。実際に現場で困難に直面し、それを乗り越えていく中でしか身につかないものである。
コモディティ化した思考回路、標準化された行動原理。そうしたものを持つ人たちには、非合理的な世界を突破することは難しい。なぜなら、非合理的な問題に対して、合理的な解決策を当てはめようとしても、理論的な説明をしてもうまくいかないからだ。

マニュアルに書いてある通りにやってもうまくいかない。先進事例を真似てもうまくいかない。コンサルタントの提案通りに進めてもうまくいかない。そうした経験を、多くの自治体職員が持っているのではないだろうか。
うまくいかないのは当然である。なぜなら、マニュアルも先進事例もコンサルタントの提案も、すべて「合理的な」解決策だからだ。しかし、目の前にある問題の根幹は非合理的なことが多い。合理と非合理のミスマッチ。これが、多くのプロジェクトが頓挫する根本原因である。

では、非合理的な問題に対処するためには何が必要か。それは、あの手この手を駆使して、泥臭く・粘り強く・時に無理矢理にでも突破していく力である。正解のない世界で自分なりの解・突破口を見つけ出し、それを実行に移していく力である。

そうした力は、理屈ではなく、3次元の世界で実際に物事を形にしていく中でしか獲得できない。企画書の中では完璧に見える計画も、(思わぬところも含めて)現実の世界に落とし込んだ途端に様々な問題が噴出する。その問題を一つずつ解決していく中で「経験知」が蓄積されていく。

そして、その「経験知」こそが、その人のアイデンティティとなり、周囲の人を惹きつける「人たらし」の源泉となっていく。

私に影響を与えてくれた「人たらし」たち

ここで、私自身に大きな影響を与えてくれた「人たらし」たちについて触れておきたい。彼らの経歴やアイデンティティはそれぞれまったく異なる。しかし、共通して圧倒的に魅力的である。そして、その魅力の源泉は、彼らが積み重ねてきた「経験知」にある。

池澤さん

元佐倉市の職員で、筆者の師匠にあたる池澤龍三さん。高知県出身なこともあり、自分を坂本龍馬の生まれ変わりだと(多分ガチで)思っている。
公務員時代に公共施設マネジメントやFMの世界へ筆者をブチ込み、戻れない体にしてしまった人w

・残念だけど気づいちゃった人の責任。役所の中で誰かがやってくれると思ってもそれは絶対ないから。気づいた人がやるしかない。
・(同世代で嫉妬してくる同僚に対して)あいつら、俺みたいなただの建築職に嫉妬してるんだよ。それってすごいと思わない?
・目の前にできることいっぱいあるじゃん。

池澤さんがよく仰っていたこと

佐倉市の公共施設マネジメントのページを見ると、いまだに池澤さんがやっていたことが中心になっている(←それもどうかと思うがw)。

とにかく明るいし前向き。公務員時代に悩みがあると(現在のようにmessengerとかがなかったので、)何時だろうがお構いなく電話をかけると、こちらが何を悩んでいたのか・相談していたのかわからないくらい一方的に話しまくり、最後は何を相談していたのかすら覚えておらず「きっとどうでも良いことだったんだろう」と思わせてくれる人だった。

そんな超ウルトラ饒舌な池澤さんに公務員時代、「自分の部下をつけてもらえると総務部長に約束してもらっていたのに、人事異動の内示を見ると誰一人つけてもらえなかった」ことを相談したことがある。
いつものようにバーっと喋りまくると思ったら、この時だけは「あ、そう。一人なんだ。でも一人ってことは自由にやっていいってことだよね、徹底的にやっちゃいなよ」ガチャン。。。と電話を切られた。

流石に「この人、人がこんなに悩んでいるのに聞いてたのかな?」と一瞬思ったけれど、そんなことで悩んでいることがいかに無駄か「徹底的にやっちゃいなよ」のたった一言は何にも勝る言葉だった。

岡崎さん

岡崎正信さんも筆者が非常に影響を受けた一人。
紫波町のオガールプロジェクトやノウルプロジェクト、更には南城市のノウルプロジェクトなど、数々のプロジェクトを自らリスクを負って実施されている。
岡崎さんの魅力は、その「経験知」に基づく言動だと思う。
かつて「日本一高い雪捨て場」と揶揄された駅前の公有地を1,000千人/年が訪れるエリアに変貌させる。これまでの公共資産活用のプロジェクトでは全く想定されていなかった「逆算方式・テナント先付け」という本来は当たり前の方法論を自らエージェントとして実践されてきた経験知。

本当にいつお会いしても背筋がビシッと伸びる、ものすごいオーラを持っているが、誰とでも話を合わせることができる懐の深さ、飲み会でも常に話題の中心にいてキャッキャはしゃぐ姿。
気づくといつの間にか岡崎さんの子分になりたいと思ってしまう。

公務員時代に熊本県庁のセミナーでご一緒したとき、懇親会で講師であった岡崎さんと筆者にだけ超絶イイ馬刺しを特別に用意してもらったことがある。筆者は「ありがとうございます!いただきます!」と真っ先に食べてしまったが、岡崎さんは「これ、すげーいいやつなんだろ、みんなで食おうよ」と大人の対応。。。あ、食べちゃったw

noteでもわかるように人間力がハンパない。
「俺の欠点は面白すぎること」、全く言い過ぎじゃない。

木下さん

木下斉さんも影響を受けた一人。高校在学中から商店街での多様なビジネスを展開し、「IT革命」で新語・流行語大賞を受賞している。現在は一般社団法人エリア・イノベーション・アライアンス代表理事として都市経営プロフェッショナルスクールなどでも活動している。

木下さんの凄みは、高校生の頃から四半世紀にわたって「現場」に立ち続けていることにある。『まちづくり幻想』『稼ぐまちが地方を変える』『凡人のための地域再生入門』といった著書はいずれもベストセラーになっており、筆者にとっても愛読書になっている。
これらに書かれていることは机上の理論ではなく、熊本、福岡、北九州をはじめとする全国各地で自らリスクを取って事業を推進してきた経験や関係者との有機的なネットワークから得られた「本物の言葉」に基づいている。

木下さんは「狂犬」と称され、言葉は時に辛辣であるように感じる人もいるようだが、冷静に聞いてみれば当たり前のことを余計な修飾語を挟まずに表現しているだけだ。その言葉に重みがあるから・核心を突かれて困るから・思い当たる節があるから狼狽えるのであり、直接話してみれば何も恐ろしいことはないはずだ。

とは言いつつも、筆者も初めて木下さん(と岡崎さん)にお会いしたのは、公務員時代にアーツ千代田3331で開催されたオガールに関するシンポジウムであった。

アウガやアルネを墓標として切り捨て、そのカウンターパートとしての逆算・テナント先付け方式によるオガールの意義を説いていく姿は本当に衝撃的で、いつもなら終了後に名刺交換をして少しでも+αの話をしにいくが、このときばかりは「もしかしたらあの人たち、危ない人かもしれない」と尻尾を巻いて逃げ帰ってしまった。

木下さんの活動で特筆すべきは、人材育成への取り組みだ。2015年から都市経営プロフェッショナルスクールを開校し(岡崎さんをはじめ超一流講師陣が集い)、これまでに550名を超える卒業生を輩出している。単にノウハウを教えるのではなく、考え方を切り替え、全国に仲間を作り、事業と向き合い続けられる場を作っている。
ただ吠えているだけではなく、厳しい言葉を浴びせながらもこれだけの人が集うことからわかるように、木下さんも圧倒的な「人たらし」である。

植田さん

日本PFI・PPP協会会長兼理事長の植田和男さん。伊藤忠商事、モルガン・グレンフェル・ジャパン、プライスウォーターハウス青山監査法人等の輝かしい経歴を持ちながら、1999年にPFI法施行と同時に日本PFI協会を設立した。

植田さんの経歴で特筆すべきは、PFI発祥の地であるイギリスでの駐在経験があることだ。伊藤忠商事時代にロンドンで、民間資金を活用した公共事業のあり方を目の当たりにし、それを日本に広めたい・当時の日本でプロジェクトファイナンスに精通した人間がいないからと自ら協会を設立し、これまで全国を精力的に駆け巡り、PFIの啓発活動を続けている。

筆者も公務員を辞めた後、5年間一緒に協会で仕事をさせていただいたが、(お互いに出張が多く会う機会は限られていたが)とにかく明るくて好奇心が強い、そして非常に楽観的な思考回路・行動原理を持つ方であった。

サウンディングが広まりはじめてきたときには「全国でサウンディングセミナーやろう!」、IRが話題になりはじめたときには「IRの研究会をやろう!」、AIやRPAが芽吹きはじめたときには「シンギュラリティ研究会を作ろう!」と次々とPFI法どころかPPPにも拘らず、とにかく興味があることについて、専門性を持った一流の人たちから学び、同時にそれを普及していくことを続けている。

5年間在籍していたなかでは一度も喧嘩したことがなく、自由にいろんなことをさせてくれる、そして学ぶ姿勢が圧倒的に強い方である。毎日のように行政・民間問わず、植田さんに多くの方が相談に訪れるのは、やはりこれも「人たらし」であることの証左であろう。

経歴・スタンス・メンタリティは全く異なるけど

これらの人たちに共通するのは、それぞれが違う年代で全く異なる道を歩み、メンタリティや発する言葉も異なるが、圧倒的に魅力的であることだ。そしてその魅力の源泉は、彼らが蓄積してきた「経験知」にある。

「知識」と「経験知」の違い

知識

「知識」とは書籍や講義、研修などを通じて獲得できる普遍的な情報のことである。ザ・PFIで言えば「PFI法の条文、VFMの計算方法、リスク分担の原則、契約書のひな形」といったものがこれにあたる。これらは学べば誰でも同じものを習得できる。法律や国のガイドライン・資料に書いてあることであり、コンサルや有識者が講演で話すテンプレート化された内容である。

「知識」が重要であることは間違いない。前述の「人たらし」の方々も圧倒的な知識を有しているし、それを日々ブラッシュアップしていることは間違いない。
基礎的な知識がなければ法律も読みこなせないし、どのように契約書を締結すれば良いかも理解できない。財務の基礎がなければ事業採算性を評価することができない。知識はどのような世界であっても、活動するための土台・基礎となる。
しかし「知識」は知識でしかない。
「知識」は普遍的であるがゆえに、非合理的な部分も含む実際の現場において「知識だけ」では個別具体的な状況に対応できない。

経験知

一方で「経験知」とは、実際にその場を経験した人でなければ得られない、個別具体的な知恵のことである。地域住民との対話で反発を受けたとき、どのように粘り強く向き合ったのか。テナントが撤退する危機に直面したとき、どのような判断を下したのか。議会で議員から厳しい追及を受けたとき、どのように答弁したのか。
「知識」は共有可能だが、「経験知」はエピソードとしては共有できても類似のシチュエーションでは「そのまま」共有することができない。
「経験知」を言語化することはできるが、それを聞いた人が同じ「経験知」を持つことにはならない。なぜなら、「経験知」はその人固有の文脈、その人固有の感情、その人固有の身体感覚と不可分だからだ。

個別具体の「経験知」の重み

だからこそ「経験知」を持つ人の言葉には重みがある。プレゼンテーションで聴衆を引き込むことができる。「経験知」に基づく人のプレゼンはあっという間に時が過ぎるが、「知識」だけの人のプレゼンは精神と時の部屋状態の苦行でしかない。
多くの「経験知」を持っている人は、膨大な「知識」を持っていなくても、決定的な場面で適切な判断ができる。それは、類似の状況を何度も経験してきたことで「知識」を超えた直感が働くからだ。

筆者自身の経験を振り返っても、流山市役所で15年間働く中で獲得した「経験知」は、PPP入門講座等でエピソードとして話したり、拙著で紹介してはいるが、それらも個別具体の話でしかない。
日本PFI・PPP協会、そしてまちみらいを立ち上げてからの「経験知」も、その多くはハンズオンの形で自治体・民家事業者をサポートしていくものであり、公務員時代とはまた質の異なるものである。
筆者が業務で「字を一文字も書かない」のかは、様々な場面から得た得た「経験知」の賜物であり、他の一般的なコンサルタントとは一線を画すものである。

「経験知」の再現性のなさ

「経験知」には再現性がない

「経験知」は、その人が、その場所で、その時代に、その関係者たちと、その状況、そのプロジェクトの中で獲得したものである。すべての条件が異なる別の場所で、同じ「経験知」がそのまま通用することはない。
これは「経験知」の限界であると同時に「経験知」の価値でもある。

限界という意味では、「経験知」をマニュアル化して横展開することはできない。国・コンサル・有識者は安易に「横展開」を持ち出すが、先行事例をパッケージ化して全国に売り込んでも、同じ成果は得られない。なぜなら、プロジェクトは全てオーダーメイド型であり、土地の特性、関わるプレーヤーのアイデンティティ、その時代の社会経済状況、関係者たちの化学反応、すべてが絡み合った結果だからだ。

「経験知」を持つ人ができること

「経験知」を持つ人は、同じ問題に対しても他の人とは違うアプローチができる。その人が経験してきたことに基づいて、「経験知」の膨大な要素を分解してその場の問題に対して「応用」していくことができる。標準化された解法ではなく、合理性・理論だけに基づくものでもない。その人オリジナルの解法であり、それが困難な問題を突破する力になっていく。

コモディティ化した思考回路・行動原理・知識しか持たない人は、標準化された解法しか持っていない。だから、標準的な問題には対処できても、非合理的な形で現実に発生している問題には対処できない。
「経験知」を持つ人は、非標準的な問題に対してあの手この手を駆使して、試行錯誤しながら突破していく。そして、新しい問題を乗り越えるたびに、新しい「経験知」が更に蓄積されていく。その蓄積が、その人のアイデンティティをさらに強化し、その人の「人たらし」としての魅力をさらに高めていく。

「経験知」が「人たらし」を創る

「人たらし」は、一朝一夕に生まれるものではない。長い時間をかけて、数多くの困難を乗り越え、その過程で「経験知」を蓄積してきた結果として、「人たらし」になるのである。

「経験知」なき言葉が響かない理由

コモディティ化した公務員を量産

昭和100年を迎えたこの国には、「経験知」なき言葉があふれている。
たとえば「コモディティ化した公務員を量産する」研修。地方自治法の条文を読み上げ、他自治体の事例をスライドで紹介し、グループワークで意見を出し合い、「こうあったらいいな」を最後に発表する。
この手の研修を何度受けても現場で使える力は身につかない。なぜなら、そこには現場での実践に基づく「経験知」がないからだ。講師は現場を知らず、参加者は受け身で座っているだけだからだ。そこで交わされる言葉は、どこかで聞いたことのあるフレーズの羅列に過ぎないし、「会議室は現場ではない」。何度も繰り返すが「そんな理論どおりに物事が進むなら誰も苦労していない」。

研修で「先進事例」として紹介されるプロジェクトも、そもそも講師がそこに関わったわけでもないから表面的な要因しか語られない・語ることができない。「住民との合意形成が重要」「民間のノウハウを活用」「長期的な視点で計画」。そんな一般論を聞いても、明日からの仕事に活かすことはできないし、そんな話は後に残らない。
「なぜ」そうなったのか、「誰がどうしたのか」、つまり「経験知」が語られていないからだ。

ノーリアリティのオママゴトシミュレーション

ノーリアリティの「オママゴトシミュレーション」による研修も、様々な分野で流行っている。仮想のまちや公共施設を設定し、仮想の課題を設定し、仮想の解決策を架空の立場で議論する。
それで謎の高揚感を感じる人たちも多いようだし、アンケート結果も良好かもしれないし、「次はぜひうちのまちでも!」と流れができやすいかもしれない。
現実のまちで起きる問題の複雑さ、泥臭さ、理不尽さは、シミュレーションでは再現できない。住民の感情、議員の思惑、職員の事情、業者の都合。これらが複雑に絡み合う現実、複雑な「大人の思惑」の前で、シミュレーションで培った「知識」は何の力も持たない。

ザ・PPP/PFI事業

コンサルタントによる先行事例の「劣化コピーしたザ・PPP/PFI」。先進事例を調査し、それをテンプレート化し、ほぼ仕様発注の形でクライアントである自治体に提案する。しかし、そのコンサルタントは自ら事業者としてリスクを取った経験があるのか。サウンディングで民間事業者と本音の対話をした経験があるのか。プロジェクトが頓挫しかけたときに、矢面に立って対処した経験があるのか。
答えがNOであれば、その提案は「経験知」を欠いた空虚なものでしかない。成功事例の表層をなぞっただけのオリジナリティのない「劣化コピー」である。先進事例の「形」は真似できても、その「魂」は真似できない。なぜなら、「魂」は「経験知」から生まれるものだからだ。

学識経験者の机上の理想論

現場をやらない学識経験者の「机上の理想論」も同様である。公共施設マネジメントやPPP/PFI関連でも多数の論文が学会で発表されている。こうした有識者は、国や自治体の委員会にも名を連ねていく。しかし、その理論が現場でどのように機能するのか自ら検証した経験があるのか。理想論を語ることは誰にでもできるし、そんなことは優秀な公務員であれば十分に理解できる。しかし、理想と現実の狭間で様々なものを削ぎとしながら実現していく作業は、現場にいる人間にしかできない。

学術論文に書かれている「べき論」は、往々にして現場では通用しない。なぜなら、学術論文は理想的な条件を前提にしているからだ。しかし、現場には理想的な条件など存在しない。人員・予算・時間や関係者の理解不足。あらゆる制約の中で、成果を出していかなければならないのが現実である。

「経験知」が根底にないから響かない

筆者がこれらの「経験知」なき言葉に対して感じる違和感は、おそらく多くの現場の人間が共有しているものだろう。なぜその言葉が響かないのか。なぜその提案に心が動かないのか。なぜその理論が実践に結びつかないのか。答えは明白である。そこに「実体験がないから」だ。

人は、実体験に基づいた言葉に心を動かされる。その人が本当に経験したこと、本当に感じたこと、本当に悩んだこと。そうした言葉には、重みがあるし、その人でしかなければわからない・経験したことがないことだからだ。一方、どこかから借りてきた言葉、教科書から引用した言葉、他人の受け売りの言葉には、重みがない。
これは、聞く側が無意識のうちに感じ取っている。この人は本当に経験してきた人なのか、それとも知識だけを振りかざしている人なのか。その違いを、人は敏感に察知する。だから、「経験知」を持つ人の言葉は響き、「経験知」を持たない人の言葉は響かない。

「経験知」がまちの個性を生む

「経験知」は個別解でしかないが、「経験知」から学ぶことは無数にある。なぜそこに至ったか、誰が何をどんな場面で行ったか、そのときに周囲に何が発生したのか。
これらの「経験知」は、他のまちでも目の前にあるプロジェクトを推進するにあたり、(コンサルや有識者等に丸投げせずに)自分自身の文脈で咀嚼し、自分自身の「経験知」へと昇華させていくための糧となる。そして、そのプロセスを経て生まれたプロジェクトは単なる劣化コピーではなく、そこでのオリジナルとなる。それぞれのまちの、それぞれの人の「経験知」に基づいた、個別の輝きを放つプロジェクトとなる。

世の中には数多くのクリエイティブなプロジェクトがある。それぞれが異なるアプローチで、それぞれの地域課題に向き合っている。その多様性こそが、日本のまちを豊かにしている。
今の世の中、今のまちに求められているのは、まさに「経験知」である。
補助金のメニューに従って、全国どこでも同じようなハコモノをコンサルに委託して仕様発注で作る時代は終わった。人口が減少し、財政が逼迫する中で、それぞれのまちが自分たちの強みを活かし、自分たちの個性を発揮していかなければ生き残れない。

その「個性」の源泉こそが「経験知」である。他のまちにはない、そのまちだけの「経験知」。他の人にはない、その人だけの「経験知」。それが積み重なり、絡み合い、発酵していくことで、まちの個性が形成されていく。
標準化された「知識」をいくら積み上げても個性は生まれない。金太郎飴のようなまちが量産されるだけである。どこに行っても同じような道の駅、同じようなイルミネーション、同じようなゆるキャラ。それでは、わざわざそのまちを訪れる理由がない。

「人たらし」は結果論

「人たらし」になるには?

ここまで、「人たらし」の重要性と「経験知」の価値について述べてきた。では、どうすれば「人たらし」になれるのか。
残念ながら、その問い自体が間違っているように思う。なぜなら「人たらし」は結果論でしかないからだ。

「人たらしになろう」と思ってなれるものではない。人脈作りのテクニックを学び、コミュニケーションスキルを磨き、ネットワーキングイベントに足繁く通う。それで「人たらし」になれないだろう。
なぜなら、そうした行為には「下心」が透けて見えるからだ。自分の利益のために人脈を作ろうとしている。自分のプロジェクトのために人を巻き込もうとしている。その「下心」を人は敏感に察知する。
表面的には付き合ってくれるかもしれないが、本当に困ったときに助けてくれる関係性にはならない。

「人たらし」のスキルを身につけようとする書籍やセミナーもあるだろう。しかし、そうしたテクニックで身につけた「人たらし力」は、薄っぺらいものでしかない。メッキはすぐに剥がれる。本当に困難な局面に直面したとき、「経験知」に基づかない表面上のテクニックで築いた関係性は脆くも崩れ去る。

本稿で列記した人たちが「人たらし」であるのは、「人たらしになろう」としたからではない。自分の信じる道を真剣に歩み、数々の困難を乗り越え、その過程で多くの人と深い関係を築いてきた結果として、周囲から見れば「人たらし」に見えるのだろう。
彼らは自分のためだけに動いているわけではない。まちのため、地域のため、公共のため、何らかの目的を持って本気で取り組んでいる。その姿勢が周囲の人を惹きつける。この人と一緒に仕事がしたい、この人の力になりたい、この人についていきたい。そう思わせる何かがある。

生き方そのもの

「人たらし」はスキルではなく生き方そのものである。テクニックで身につくものではなく、生き方そのものから滲み出てくるものである。

「人たらし」に憧れるのであれば、逆説的だが「人たらしになろうとしない」ことが大切なのかもしれない。目の前のやるべきことに真剣に向き合う。困っている人がいれば手を差し伸べる。自分の信じる価値観に従って行動する。その積み重ねが、結果として「人たらし」という評価につながる。

「人たらし」を目指した瞬間に、その人は「人たらし」ではなく薄っぺらい社交術を身につけた小手先の人間になってしまう。

「経験知」を積み重ねるために

「人たらし」が結果論であるならば、自分たちにできることは「経験知」を積み重ねることだろう。
現場に立つこと。リスクを取ること。失敗を恐れないこと。泥にまみれること。修羅場を潜り抜けること。その一つひとつの経験が、「経験知」として蓄積されていく。
現場に出ると、教科書には書いていないことばかりが起きる。理論通りにいかないことばかりだ。そのギャップに戸惑い、悩み、試行錯誤する。その過程で「知識」では対処できない問題に直面し、自分なりの解を見つけ出していく。それが「経験知」である。

大切なのは、コケることを恐れないことだ。失敗を恐れるとリスクを取らなくなる。リスクを取らないと、新しい経験ができない。新しい経験ができないと「経験知」が蓄積されない。もちろん無謀なリスクを取れと言っているわけではないが、適切なリスクを取りチャレンジし、時にコケることを恐れてはいけない。「コケることすら放棄する」のが最大の失敗である。

そして、コケたときに逃げないこと。矢面に立ち、責任を取り、そこから何かを学び取ること。その覚悟があれば、どんなコケ方も「経験知」に変えることができる。

「経験知」を自ら得ていくこと

PPP/PFIや公共施設マネジメントの世界は、大きな転換点を迎えている。人口減少と財政逼迫が進む中で、従来のやり方では立ち行かなくなっているまちが増えている。総務省が「10年後には自治体が回らなくなる」と警鐘を鳴らしているのは、決して大げさな話ではない。

こうした時代に求められているのは、「コモディティ化した公務員」ではなく、「経験知」を持った人材である。教科書通りの答えを出すのではなく、目の前の現実に即した解を導き出せる人間である。
そうした人材であっても、一人ではまちを取り巻く多様・複雑・膨大な課題を解決することはできない。「人たらし」として、周囲を巻き込み、有機的なネットワークを構築し、チームとしてプロジェクトを推進していく力が必要である。

あの手この手を駆使しながら、コモディティ化した思考回路・行動原理の人たちでは難しかったことを、理屈・理論ではなく3次元の世界で突破し、形にしていく。その「経験知」が蓄積され、その人のアイデンティティとなり、それが「人たらし」になっていく。

お知らせ

2025年度PPP入門講座記録集

過去最高の544名(入門講座終了時点)のお申し込みをいただいた2025年度のPPP入門講座。せっかくなので音声データを文字に起こして文章として読める状態に整理し、AmazonのKindle版・ペーパーバック版として販売(2025.12.21発売)をしています。
全18コマ=60分×3コマ×6日のうち、ゲスト講師分の1コマを除いた全17コマの議事録を取りまとめた記録集です。
公共施設を取り巻く本当の背景から、教科書型のザ・公共施設マネジメントやザ・PPP/PFIではなぜ立ち行かないのか、指定管理者制度が実は非常に柔軟な方法論であること、随意契約保証型の民間提案制度の可能性、今後のPPP/PFIの主流になるであろう事業パートナー方式、更にはいくつかの自治体で見えてきたNext PPP/PFIの世界。
PFI法とは何か?事業手法比較表やVFMの算定といったこととは一線を画す、合同会社まちみらいの社是である「現場重視・実践至上主義」に基づく内容となっています。
延べ約410,000字に及ぶ膨大なボリュームとなっています。
2025年現在のPPP/PFIの立ち位置と様々な自治体・民間事業者の生き方が見える一冊となっています。

PPP/PFI実践コラム集:デッドストック編

こちらもAmazonのKindle版・ペーパーバック版PPP/PFIや公共施設マネジメントの実務・実践に特化したコラム集。
本著は、まちみらいの社是である「現場重視・実践至上主義」の考え方と豊富な実践経験に基づいたコラム集であり、VFM、事業手法比較表等の教科書的な話は一切排除し、「どのように非合理的な行政を取り巻く社会」でプロジェクトを構築・実践していくのか、理念や理想論ではなく、経験知に基づいたヒント集である。
まちみらい公式noteや各種執筆等で記した内容も、2025年現在にリライトするとともに、そこでは書ききれなかった多様な想いを散りばめたデッドストック集。
「覚悟・決断・行動」、求められているのは決してテクニカルなことではありません。
プロとしてどう生きていくのか、行政職員はもとより、民間事業者の皆さまや、自分のまちで何かしたい市民の皆さまにもオススメです。

2026年度見積受付中

現在、2026年度のまちみらいとしてのアドバイザー業務・個別案件等の見積を受付中です。
受託できる数には物理的な制約がありますので
・既契約のところ
・早くお問い合わせをいただいたところ
・モリモリパックで検討いただけるところ
・やる気のあるところ
から順に対応させていただきます。

ぜひお気軽にお問い合わせを。

2025年度PPP入門講座

約10年間にわたって毎年定期的に実施してきたPPP入門講座。
本年度も2025年6月27日まで全6回、会場・オンライン合わせて過去最高の533名(終了時)にご参加いただき大変ご好評をいただきました。
全6回(各回_60分×3コマ)にわたって、弊社の基本理念である「現場重視・実践至上主義」に基づいた生々しいリアルな姿を事例を通じて学んでいくものですが、教科書的な「PFI法に基づくPFIとは」「VFMの算定方法」「事業手法比較表」等の話は一切ありません。
最近、類似の「PPP入門編」のセミナー・勉強会があちこちで開かれているようですが、それらとは一線を画す超オリジナリティ溢れたものになっています。
今回は更に内容をブラッシュアップして、能登地震・八潮市の道路陥没事故・Next PPP/PFIや事業パートナー方式なども交えながらPPP/PFIを解説しています。
来年度の開催時まではアーカイブ配信をご覧いただけますので、今からでもぜひお申し込みください。

※詳細はリンク「まちみらい公式HP」をご覧ください。

noteプレミアムへの移行

2025年1月からまちみらい公式noteは「noteプレミアム」に移行しました。(単純に今まで知らなかっただけ。。。)
noteにコメントも受け付けています。双方向型になっていけるようコメントにはレスを入れていきます。記事の「いいね!」も積極的にお願いします。
また、最下段にあるように「投げ銭」は絶賛募集中ですw

実践!PPP/PFIを成功させる本

2023年11月17日に2冊目の単著「実践!PPP/PFIを成功させる本」が出版されました。「実践に特化した内容・コラム形式・読み切れるボリューム」の書籍となっています。ぜひご購入ください。

PPP/PFIに取り組むときに最初に読む本

2021年に発売した初の単著。2025年5月現在7刷となっており、多くの方に読んでいただいています。「実践!PPP/PFIを成功させる本」と合わせて読んでいただくとより理解が深まります。

まちみらい案内

まちみらいでは現場重視・実践至上主義を掲げ自治体の公共施設マネジメント、PPP/PFI、自治体経営、まちづくりのサポートや民間事業者のプロジェクト構築支援などを行っています。
現在、2026年度以降の業務の見積依頼受付中です。

投げ銭募集中

まちみらい公式note、世の中の流れに乗ってサブスク型や単発の有料化も選択肢となりますが、せっかく多くの方にご覧いただき、様々な反応もいただいてますので、無料をできる限り継続していきたいと思います。
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そんななかで「投げ銭」については大歓迎ですので、「いいね」と感じていただいたら積極的に「投げ銭」をお願いします。

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