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もし明日、自分の結婚が「多数決」で決められるとしたら。

もし明日、自分の結婚が「多数決」で決められるとしたら。

どう感じるだろうか。

「LGBTQ+を認められない人のことも、認めるべきじゃないの?」

ネットの海を漂っていると、そんな言葉によく出くわす。

あるいは、メディアやSNSで当たり前のように繰り返される、

「同性婚、賛成?反対?」という多数決。

多様性を謳うのなら、反対派の意見も尊重するのが筋だろう、というわけだ。

一見すると公平な正論のように聞こえるかもしれない。

けれど、その言葉を投げかけられるたび、わたしの心はなんとも言えない「やりきれなさ」でいっぱいになる。

自分の存在が、誰かの判断材料にされているような感覚。

そもそも、もう存在している者に対して「認める・認めない」とはどういうことなのだろう。

まるで、わたしたちの存在に誰かの「許可」が必要であるかのような、その傲慢な響きに、立ちすくんでしまう。

わたしの存在に、許可はいらない

まず、はっきりさせておきたいことがある。

誰に認めてもらわなくても、わたしはここに存在しているし、当たり前の毎日を重ねている。

「認めない」という言葉が、もし「個人的に受け入れがたい」という感情を指すのであれば、それは個人の自由かもしれない。

誰の心の中も縛ることはできない。

でも、社会における「認めない」という態度は、単なる個人の好みの問題では終わらない。

それは、わたしたちが家を借りるのを拒み、病室での面会を阻み、家族として暮らす権利を奪うことへと直結しているから。

誰かの「認めない自由」によって、誰かの「生きる権利」が踏みにじられる。

それを「多様な意見のひとつ」として同列に扱うのは、あまりにも残酷すぎる。

「多様性を認めないのも多様性」

この言葉は、マイノリティを社会から排除しようとするとき、決まった免罪符としてよく使われる。

でも、人の存在や尊厳は、誰かがテーブルを囲んで「認めるか、認めないか」を議論するような性質のものではないはずだ。

そもそも多様性は認める・認めないではなく、もう隣にあるものだから。

「好きな人と、家族になりたい」

たったそれだけの、当たり前のこと。なのに今の日本では、まだそれが実現できていない。

正直、なんでここまで何度も、何年も声を上げ続けなきゃいけないんだろうって、悔しくてたまらなくなる。心が折れそうになる夜だってある。

でも、やっぱりここで諦めたくない。

誰もが、愛する人と法的に守られて、安心して暮らせる社会にしたいから。

ついに、同性婚訴訟(結婚の自由をすべての人に訴訟)は最高裁を迎える。

最高裁判事の背中をぐっと押すための署名が立ち上がりました。

どうか力を貸してください。 拡散・署名お願いします!

締め切り2026年6月7日まで。

👇署名はこちらから

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