【私小説】男たちに、情報共有されていた、私の匂いと味
はじめに
人は、
触れられるよりも先に、
匂いや気配で、
自分の輪郭が崩れてしまうことがあるのだと知りました。
それは、
キスでもなく、
言葉でもなく、
ただ、男性から、
近くで息を吸われることが増えた。
それだけの出来事でした。
子どもが生まれる前には、
一度も経験のなかったこと。
「あなたの匂いが好き」
そう言われることに、
戸惑いながらも、
身体がじんわり火照る感覚を、
私は覚えてしまいました。
私はずっと、
清楚で、奥手で、
踏み込まれない場所に立つことに慣れてきました。
それが自分だと、疑ったこともありませんでした。
でも、あるとき。
その清楚が、
静かに溢れてしまう感覚を、
私は知ってしまったのです。
知らなかったはずのもの。
経験してこなかったはずの感覚。
それは、
思っていたよりも深く、
身体と心に残ってしまいました。
一度知ってしまったものは、
なかったことにはできません。
同時に、
元に戻るべき場所――
キスもないまま続いている夫婦の関係に、
私は初めて疑問を持ってしまいました。
穏やかで、壊れてはいない。
でも、満たされてもいない。
その事実と、
知ってしまった感覚のあいだで、
私は揺れています。
どうすればいいのか、
まだ答えは出ていません。
ただ、
このまま何も考えずに過ごしてしまうと、
自分が自分でなくなってしまいそうで。
だから、
心を整理するために、
小説という形で書くことにしました。
これは、
自分の中で起きてしまった変化を、
言葉にして確かめるための記録で、
本来は、人に読んでもらうつもりのない
私小説でした。
でも、こうして投稿し、
数名の方に購入していただいたことで、
また別の形で
「匂いを嗅がれている」ような感覚を覚えています。
最初の恥ずかしさとは違う、
説明のつかない感情に、
いまは戸惑っています。
もし、
この先のことを知りたいと
思ってくれる人がいるなら、
そっと、覗いてもらえたらと思っています。
【お知らせ】
書く前に【描いた】原画は、コチラで限定公開しています。AIに整えてもらう前の、私の震えと、体温が乗った手描きのイラストです。
まどか
【私小説】
共有されていた私の匂いと味
「.....匂い、好きです」と言われて〈第一話〉
「……匂い、好きです」
そう言われた瞬間、
私は、自分の呼吸が乱れたことに気づきました。
触れられたわけでも、
抱き寄せられたわけでもありません。
ほんの少し距離が縮まって、
その人が、
静かに息を吸っただけです。
それなのに、
胸の奥が、
じっとしていられなくなりました。
私は、もともと奥手なほうでした。
清楚でいることは、
努力というより、
身についてしまった癖のようなものです。
踏み込まれる前に下がる。
距離を測る。
期待されない場所に立つ。
それが、
当たり前でした。
結婚して、
子どもが生まれて、
生活は落ち着きました。
妻として、母として、
毎日は忙しく、
穏やかでした。
変わったのは、
そのあとです。
なぜか、以前よりも、
人にやさしくされるようになりました。
特別なことをしているわけでもないのに、
年上の男性が、
必要以上に丁寧に話しかけてくることが増えました。
最初は、
気のせいだと思っていました。
でも、
何度か重なるうちに、
自分のほうが戸惑うようになりました。
声の低さ。
距離の取り方。
そして、近づいたときにふっと混じる、
その人の匂い。
香水ではありません。
でも、無臭でもない。
清潔で、
やわらかくて、
体温を含んだような匂いでした。
その匂いが、
私の中にあるものを、
静かに呼び起こす感じがしました。
昔なら、
一歩、後ろに下がっていたと思います。
でも、その日は、
足が動きませんでした。
胸の奥が、
静かに湿るような感覚があって、
それを、どう扱えばいいのか分からなかったのです。
その人は、
私の反応に気づいたのか、
ほんの少しだけ笑って、
こう言いました。
「……せっけんと、
あと、たぶん、体温の匂い」
そんなふうに言われたのは、
初めてでした。
それからも、
似たようなことが、何度かありました。
「近くにいると、落ち着く」
「深呼吸したくなる」
「さっき通ったあと、分かった」
どれも、
触れられていないのに、
触れられたみたいな言葉でした。
私は、
香水をつけていません。
それなのに、
男の人たちは、
私の匂いの話をします。
それが、
少し怖くて、
でも、完全には拒めない。
同時に、
私のほうも、
男の人の匂いに、
敏感になっていることに気づきました。
ネクタイの奥。
シャツの首元。
コートを脱いだ瞬間に、
ふっと立ち上がる、その人の匂い。
若い頃には、
「知らない匂い」だと思っていたものが、
今は、
「守られてきた時間の匂い」みたいに感じられます。
私は、
妻で、
母で、
清楚な人間でいたはずなのに。

なのに、
匂いに反応してしまう自分を、
否定しきれないのです。
私が男性に匂いを嗅がれている時〈第二話〉
その日は、
家にいても気持ちが落ち着かなくて、
夕方、図書館に行きました。
静かで、
余計な刺激がなくて、
自分の呼吸に戻れる場所だからです。
閉館が近く、
館内はもう人が少なくなっていました。
帰ろうとして、
入口のほうへ向かったとき、
同じタイミングで外に出る年上の男性がいました。
顔は、
見覚えがあります。
よく知っている人ではありません。
たしか、市役所の関係で、
時々見かける人だったと思います。
外に出て、
並んで歩く形になったとき、
私は、少し緊張しました。
距離が、
思ったより近かったからです。
そのとき、
ふっと、息を吸う音が聞こえました。
私は、
反射的に、
その人の鼻元を見てしまいました。
鼻が、
ほんのわずかに、
膨らんだのが分かりました。
以前、
「匂い」の話をされてから、
私は、
男の人の鼻を見るようになってしまいました。
今、
この人は、
普通に呼吸しているのか。
それとも、
私の匂いを、吸っているのか。
その人は、
何も言いませんでした。
ただ、
同じ速さで歩きながら、
静かに、何度か息を吸っていました。
コートの内側にこもった、
せっけんの残り香と、
自分の体温。
それを、
吸われている気がしました。
嫌悪感は、ありませんでした。
それが、
いちばん、戸惑うところです。

夫は優しいけど....〈第三話〉
子どもが生まれてから、
家の中で、私は二人分の世話をしているような感覚になることがありました。
子どもと、夫。
夫は悪い人ではありません。
むしろ、とてもやさしい人です。
でも、私が疲れている理由を、
うまく想像できないまま、
そのやさしさを差し出してくることがありました。
産後で、身体も気持ちも余裕がなかった頃。
ある夜、
「今日は無理」と言ってしまったことがあります。
強い言い方ではありませんでした。
ただ、それだけでした。
それから、
夫は私にキスをしなくなりました。
拒まれたと思ったのか、
それとも、
私を気遣って距離を取ってくれたのか。
今となっては、分かりません。
ただ、
触れられなくなったことで、
私の中の何かが、
静かに乾いていったのは確かです。
そんなときに、図書館で
ある歳上の男性に出会いました。

彼の、
何も求めずに、そこにいる、
という感覚が
私には新鮮でした。
図書館に行く理由を探す〈第四話〉
その人は、
最初から特別な存在だったわけではありません。
派手でもなく、
目立つタイプでもなく、
むしろ、気づけばそこにいる、という人でした。
話しかけられたのは、
ほんの些細なことがきっかけです。
私が手に取っていた本について、
「それ、いいですよね」と
静かに声をかけられました。
声は低めで、
でも押しつけがましくなくて、
言葉の選び方が、少しだけ丁寧でした。
歳上だということは、
すぐに分かりました。
言葉の端々に、
急がない感じがあって、
私の反応を待つ余裕がありました。
会話は、
本当に短いものでした。
おすすめの章の話をして、
最近はあまり読めていない、という私の言葉に、
「それでも、ここに来てるのは好きだからでしょう」と
笑っただけです。
それだけでした。
連絡先を聞かれることもなく、
次の約束があるわけでもなく、
名乗られた名前さえ、
そのときは覚えませんでした。
なのに。
別れたあと、
私は、少しだけ立ち止まっていました。
理由は、
はっきりしています。
その人が近くにいたとき、
私は、
呼吸が楽だったのです。
気を張らなくていい。
愛想よく振る舞わなくていい。
何かを期待されていない。
ただ、
「ここにいる私」を、
そのまま受け止められていたような感覚。
それが、
思っていた以上に、
身体に残りました。
帰り道、
風に混じって、
その人の匂いを探している自分に気づいて、
私は、少し怖くなりました。
でも、
あのとき確かに感じた、
落ち着いた、体温のある匂い。
思い出そうとしなくても、
鼻の奥に、
残っていました。
「求められていないのに、
こんなふうに意識してしまうなんて」
そう思う一方で、
胸の奥では、
小さく、違う声もしていました。
(妻であり、母でしょ)
何も求めてこないからこそ、
安心してしまった。
何も奪おうとしないからこそ、
近づいてしまった。
この感情に、
まだ名前をつけられないまま。
それから私は、
図書館へ行く理由を、
無意識に探し始めるようになっていきました。

つづく
ここまで読んでくださって、
本当にありがとうございます。
正直に言うと、
ここまで書くだけでも、
私にはかなり勇気がいりました。
読まれていると思うと、
少し落ち着かない気持ちになります。
私は、
結婚するまで、
夫しか男性を知りませんでした。
それが当たり前で、
それ以外の生き方を、
想像したこともありませんでした。
子どもを産んでから、
何かが変わってしまったことに、
いちばん戸惑っているのは、
たぶん、私自身です。
清楚で、
奥手で、
そういう自分のままでいるつもりでした。
それなのに、
自分でも説明できない感覚が、
身体の奥に残るようになりました。
ここまで書いて、
少しだけ、
胸の中のもやもやが動きました。
同時に、
書いている自分を
どこかで意識してしまって、
少し変な気分にもなっています。
ここで終わり、ではありません。
これから先には、
私自身が
「一線を越えてしまった」と
感じている出来事もあります。
簡単には書けませんが、
それも含めて、
続きを書いていくつもりです。
恥ずかしさもありますし、
怖さもあります。
でも、
購入してまで読んでくださった
優しい方にだけは、
正直に書こうと思っています。
この先は、
ここでしか書けないことを、
ここでしか読めない形で、
少しずつ足していきます。
ここまでの感想を、
一言だけでも残してもらえたら、
それが、
続きを書く勇気につながります。
読んでくれた人に、
ちゃんと得をしてもらえるように。
そして、
私自身も、
逃げずに書き続けられるように。
恥ずかしい気持ちのまま、
この先も、
続けていきます。
まどか
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まどかの匂いがする部屋の鍵
家では母であり妻の私。真面目に静かに暮らす日常の中にいても、時には、言葉にならない感覚や体温の揺れが、心と体に疼いてしまうこともあります。…
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