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インドネシアにおける客家(はっか)の歴史

インドネシアにおける華人の歴史と影響力を改めて調べているところですが、全体の記事をアップする前に客家について切り出して書こうと思います。

客家というのは非常に興味深い存在で、もともとは中国の中原(黄河流域)に住んでいた人たちが、流浪の民として南へ南へと移っていった歴史を持ちます。
普通であれば、その過程で地元に根付き民族としてのアイデンティティーを失うのに、客家は彼らの言葉、風習を維持したまま今日に至るのです。
それゆえ、客家語は古代中国の言語体系や発音を残していると言われています。

中国の中のユダヤ人と言われるゆえんです。ユダヤと同じように、客家で活躍している人物はかなり多いです。
例えば、シンガポールのリー・クアンユー、台湾の李登輝、馬英九、タイのタクシンなど、移民から外国のトップにまで登り詰める客家がいるのです。中国本土でさえ、朱徳、鄧小平、胡耀邦がいますし、古くは孫文も客家出身なのです。
根無し草の民というハンディを考えると、とんでもないレベルですよね。


1.客家の流浪の歴史

客家の集団移動は何回にも分かれて発生しています。

移動すると、先に根付いている民族と土地や水争いが生じますから、トラブルになりがちなんです。
そんな背景から、彼らの家は襲撃を受ける前提で要塞化しています。
土楼と呼ばれている円形の巨大な集合住宅に住み、外側は土と石の壁におおわれ、窓は壁の内側にあり、中庭でくつろぐスタイルの家です。

https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E7%A6%8F%E5%BB%BA%E5%9C%9F%E6%A5%BC#/media/File%3AJiQingLouWide.jpg
 

そもそも客家という字自体が、よそ者感あふれています。「よそから来た客人の家」ですから。彼らは常に外部の人々という扱いを受けてきたのです。

現在客家が多く住むエリアは、広東省東部、福建省西部、江西省南部などです。特に広東省の梅州は「客家の故郷」と呼ばれます。

2.インドネシアにいつ客家が来たのか

客家は地元民から敵対視されるリスクがあり、もともと流浪の民ですから、中国本土を捨て海外に活路を見出すマインドを初めから持っていたとも言えます。
東南アジア全域に彼らは進出しています。

マレー半島、タイ、ベトナム、インドネシア(カリマンタン、スマトラ、ジャワ)です。

最も古い移住者として伝承があるのは、1279年です。
中国史上屈指の忠臣と称えられる南宋の文天祥(彼も客家)が、ついに元に敗れ南宋が滅亡すると、客家の志願兵100名を率いて周東という人物がカリマンタン島に渡ったという言い伝えがあります。

明の時代になり、鄭和の航海の際には、数万人の中国人がインドネシアに来航し、築かれた砦に住み着いたと言われ、その中に相当数の客家がいたと言われています。
他には、客家か潮州人か諸説ある張連が、農民反乱を起こし敗れたあとパレンバンに逃げたという伝承もあります。

記録上でもっとも明確に残されているのは、1772年に広東省嘉応州(現在の梅州周辺)から、100人以上の親族・友人を率いてボルネオへ渡航した羅芳伯です。
羅芳伯は西カリマンタンでLanfang Republic(蘭芳公司・蘭芳共和国)を建設しました。

3.西カリマンタンの金鉱開発

羅芳伯のLanfang Republic(蘭芳公司)に見られるように、客家は鉱山開発で活躍しました。しかもただの肉体労働者の集団ではなく、組織化されていたのです。

ここが貿易や物流といった商業活動のみで活躍した華人集団との違いです。

当時のボルネオ島西部では金鉱が発見され、中国南部から大量の客家鉱夫が流入しました。
鉱山共同体を組織し、自ら自治組織を形成し、蘭芳公司(Lanfang Kongsi)、和順公司、三条溝公司などが有名です。

公司とは共同出資組合のようなもので、鉱山経営だけでなく、治安維持、裁判、税徴収、外交、首長選挙、合議体まで担いました。ここまでくるともう自治体を超えた国家です。

中でもLanfang Republic(蘭芳公司)は際立っていて、1777年頃に成立し、オランダ植民地政府につぶされるまで西カリマンタンで100年以上存続しました。「世界初の華人共和国」とも呼ばれており、梅州から数万人単位の客家を呼び寄せたと言われています。

今でもポンティアナックの北にあるシンカワンは客家が人口のマジョリティーを占める珍しい都市で、市長も客家から選ばれています。

4.その他のエリアの客家

他のエリアでも客家は活躍しています。

(1)バンカ・ブリトゥン
錫が取れることで有名で、古くは三国志の呉の孫権がバンカ島に使節を派遣した記録が残っています。シュリーウィジャヤ王国は呉に朝貢する関係でした。
時代は変わりパレンバン王朝時代には、錫工夫として大量の中国人を連れてきて労働させ、そのうち過半数は客家だったと言われています。
今でもバンカ島には多くの客家が暮らしており、華人のマジョリティーを占めています。

(2)バタビア(今のジャカルタ)
客家は少数派で、福建華僑が中心となるエリアです。
バタビアはオランダ植民地政府が開発した都市で、それまではバンテン王国が商業の中心でした。のちに華僑初のカピタンとなる蘇鳴崗(Souw Beng Kong)が、多くの華人を引き連れバタビアへ移ったことで、商業活動の中心が移ります。
Souw Beng Kongは、バンテンで胡椒取引を管理していた有力華人商人で、VOC高官ヤン・ピーテルスゾーン・クーンと知り合いでした。クーンが1619年にジャヤカルタを征服してバタヴィアを建設する際、彼は多くの華人をバンテンから新都市へ移住させ、商業活動の基盤を築いたと言われています。
グロドック地区の中華街を整備したのも彼です。

クーンとは親友だっといわれるほど信頼され、銅貨鋳造権、船舶保持権、バタビアでの営業許可、カジノ運営権も与えられていました。それだけでなく、政治的中立の立場から、オランダとイギリスの間に立って調停をしたり、台湾とバタビアの間の通商関係を構築したりしています。

蘇鳴崗については、当たり前のように福建人と言われていたのですが、近年の研究で蘇一族のルーツの解明が進み、実は客家だったのではないかと言われています。ジャカルタの客家博物館でも客家出身の偉人のコーナーにありました。

5.迫害期

1945年の独立後、華人社会は大きな転換期を迎えます。客家人も例外ではありませんでした。
1965年のスカルノ失脚のきっかけとなった9.30事件では、共産党の粛清とともに、中国共産党とのつながりから多くの中国人が殺害されたり牢獄に入れられました。
1998年のジャカルタ暴動でも、中国人排斥運動が起き、多くの中国人が殺されています。

9.30事件以降、中国文化への規制が強化され、華人学校の閉鎖や中国語使用の制限が進み、多くの客家人はインドネシア語中心の生活へ移行しました。
もともとシンカワンでは多くの住民が中国語教育を受け、客家語を話せ、漢字を書けたのに、できなくなってしまいました。

6.現在とまとめ

1998年のジャカルタ暴動、アジア通貨危機でスハルトが失脚すると、民主化が進み、同時に中国文化への規制は大幅に緩和されました。

客家団体も再建され、客家語教育、文化保存活動、祖籍地交流が活発化します。現在ではWorld Hakka Conferenceなどを通じて、中国本土、台湾、マレーシア、シンガポールの客家社会との交流も進んでいます。

インドネシア華人社会はしばしば福建系財閥(サリム、シナルマスなど)の存在が注目されますが、客家系もまた鉱山開発者、開拓者、企業家としてインドネシア形成に大きな役割を果たしました。

まとめると、インドネシアの客家とは「海上商人として来た華人」ではなく、「鉱山と開拓のフロンティアに進出し、自ら自治共同体を築きながら定着した華人」の歴史であり、その点が福建人や潮州人の歴史との最大の違いと言えるでしょう。

ジャカルタにお住まいの方で、客家にご興味のある方が居られれば、是非タマンミニのインドネシア客家ミュージアムに行ってみて下さい。

横にはいまいちですが、鄭和記念館もあります。

おわり

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