昔々、あるところに。第三章 想い
門は、ゆっくりと開いていった。
重く鈍い音が海の底へ響き、長い眠りから目を覚ますように石扉が左右へ動く。
その隙間から、一筋の光が差し込んだ。
太一郎は思わず息を呑む。
門の向こうには、一つの都が広がっていた。
いや――。
都という言葉だけでは足りない。
そこには、人々が確かに生きていた時間そのものが残っていた。
石畳の道。
瓦屋根の家々。
崩れた石橋。
海藻に覆われた鳥居。
軒先には風鈴のような貝殻が吊るされ、波に揺られて静かな音を奏でている。
誰もいない。
それなのに、不思議と寂しくはなかった。
魚たちが家々の間を泳ぎ、小さな海老が石垣を歩く。
まるで、この都そのものが呼吸を続けているようだった。
「……綺麗だ。」
その一言しか出てこなかった。
天は少し嬉しそうに笑う。
「ありがとうございます。」
「俺に礼を言うことじゃない。」
「故郷を褒められると、嬉しいものです。」
太一郎はゆっくり石畳を歩き始めた。
一歩。
また一歩。
踏みしめるたびに、小さな砂が舞い上がる。
道端には石灯籠が並び、その上には色鮮やかな珊瑚が花のように咲いていた。
崩れた井戸。
朽ちた茶屋。
誰も座らなくなった縁台。
どれも時間だけが止まってしまったようだった。
「ここに、本当に人が暮らしていたんだな。」
太一郎は誰に言うでもなく呟く。
天は静かに頷いた。
「笑い声が絶えない都でした。」
その声には、懐かしさが滲んでいた。
太一郎はそれ以上聞かなかった。
聞けば、この都が失ったものまで見えてしまう気がした。
やがて二人は、大きな広場へ辿り着く。
都の中心だったのだろう。
広場の真ん中には、一本の桜が立っていた。
海の中とは思えないほど鮮やかな薄紅色。
枝いっぱいに咲いた花は、一枚、また一枚と散っていく。
けれど花びらは地面へ落ちることなく、水の流れに乗って枝の周りを巡り続けていた。
終わることのない春。
太一郎は桜へそっと手を伸ばす。
幹は温かかった。
「生きてる……。」
「竜宮桜です。」
天も桜を見上げる。
「この都の人々が、一番大切にしていた木です。」
太一郎はしばらく動けなかった。
この景色を、ずっと見ていたい。
そんな気持ちになる。
その時だった。
花びらが一斉に舞い上がる。
まるで誰かが歩いてきたことを知らせるように。
桜の向こう。
長い石段が続いている。
その先には、青い瓦屋根を持つ大きな城が静かに佇んでいた。
都のどこよりも美しく。
どこよりも気高く。
何百年もの時が流れたとは思えない姿で。
「……あれが。」
「竜宮城です。」
太一郎は知らず知らずのうちに歩き出していた。
一段。
また一段。
石段を上るたび、胸の鼓動が速くなる。
城門の前まで来た時。
――リン。
鈴の音が響いた。
風もない。
波も穏やかだ。
それでも澄んだ音色だけが、城中へ広がっていく。
太一郎はゆっくり顔を上げた。
門の奥。
桜が舞う中に、一人の女性が立っていた。
白い着物。
長く艶やかな黒髪。
透き通るような白い肌。
その姿は、海の底に咲く一輪の花のようだった。
女性は何も言わない。
ただ静かに太一郎を見つめている。
その瞳は、どこか懐かしく。
どこか悲しかった。
初めて会ったはずなのに。
昔から知っていたような気がする。
そんな不思議な感覚だけが胸へ残る。
やがて女性は、小さく微笑んだ。
その笑顔は嬉しそうではなかった。
どこか覚悟を決めた者だけが浮かべる、儚い微笑みだった。
隣にいた天が深く頭を下げる。
「乙姫様。」
太一郎は、その名を心の中で繰り返した。
乙姫。
一寸法師の伝説に語られる、年を取らない姫。
まさか、本当に存在していたなんて。
乙姫は静かに口を開く。
「ようこそ。」
その優しい声は、何百年もの孤独を包み隠すように穏やかだった。
「竜宮城へ。」
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