昔々、あるところに。第四章 願い
城門をくぐると、潮の香りがふっと消えた。
代わりに花の香りが漂う。
海の底とは思えないほど柔らかな空気が、城の中を満たしていた。
磨き上げられた長い廊下。
水面の揺らぎが天井へ映り、青い光が静かに踊っている。
太一郎は歩きながら、何度も立ち止まった。
見るものすべてが初めてだった。
「こちらへ。」
乙姫の声に導かれ、広間へ案内される。
机いっぱいに料理が並んでいた。
見たこともない魚料理。
透き通った貝。
色鮮やかな果実。
透き通るような菓子。
太一郎は思わず目を丸くした。
「すごい……。」
「冷めないうちにどうぞ。」
遠慮がちに箸を伸ばす。
一口食べた瞬間、思わず笑みがこぼれた。
「おいしい。」
その一言だけだった。
次の料理へ手を伸ばす。
また驚く。
また笑う。
その姿を見て、乙姫は思わず吹き出した。
「そんなに急がなくても、お料理は逃げませんよ。」
太一郎は照れくさそうに頭をかいた。
「こんなご馳走、初めてだから。」
乙姫は笑った。
心から笑った。
何百年ぶりだっただろう。
こんなに自然に笑えたのは。
◇
それから数日。
乙姫は太一郎へ都を案内した。
崩れた神社。
誰もいなくなった市場。
石橋。
茶屋。
どこへ行っても太一郎は目を輝かせた。
財宝には見向きもしない。
美しい景色を見て感動し。
魚を見て笑い。
古い石碑を見つければ、そこに刻まれた文字を指でなぞる。
そんな人間を、乙姫は初めて見た。
◇
夕暮れ。
二人は神社の石段へ腰を下ろしていた。
海の中なのに、夕焼けのような赤い光が水面を染めている。
静かな時間だった。
「太一郎様。」
乙姫は海を見つめたまま口を開く。
「もし、大切な人を守るために、一人を犠牲にしなければならないとしたら。」
太一郎はすぐには答えなかった。
しばらく考え、小さく息を吐く。
「俺には、できない。」
乙姫は俯く。
「たとえ、その一人が自分でも?」
太一郎は少し笑った。
「自分なら迷うかもしれない。」
「でも。」
神社の鳥居を見つめる。
「誰かを騙してまで守った命は、きっと一生後悔する。」
その言葉は、乙姫の胸へ深く突き刺さった。
返す言葉が見つからない。
ただ静かに目を閉じることしかできなかった。
◇
夜。
太一郎は自室で眠っていた。
障子が音もなく開く。
乙姫だった。
静かな寝息が聞こえる。
太一郎は子どものような穏やかな顔で眠っていた。
その寝顔を見つめるだけで、胸が締めつけられる。
「……ごめんなさい。」
小さな声だった。
「あなたを騙してしまって。」
乙姫はそっと拳を握る。
「こんなにも優しい方だったなんて……。」
涙が頬を伝う。
その時だった。
「乙姫。」
低い声が部屋の外から響く。
乙姫の表情が凍りつく。
◇
竜宮城の最も奥。
誰も立ち入ることのない広間。
青白い光だけが静かに揺れていた。
闇の中から、一体の鬼が姿を現す。
黄金色の瞳だけが暗闇に浮かび上がっていた。
「決めたか。」
乙姫は俯いたまま動かない。
「……まだです。」
「約束の日は近い。」
鬼は静かに歩み寄る。
「我らは契りを守った。」
「竜宮城を滅ぼさぬ代わり、人間を捧げる。」
「次は、お前の番だ。」
乙姫は唇を噛み締めた。
太一郎の笑顔が浮かぶ。
都を見て目を輝かせる姿。
夢を語る姿。
料理を頬張る姿。
そのすべてが胸を締めつける。
「……できません。」
鬼は怒らなかった。
静かに乙姫を見下ろす。
「情が移ったか。」
乙姫はゆっくり顔を上げる。
「……あの方だけは。」
震える声だった。
「守りたいのです。」
鬼は静かに背を向ける。
「ならば契りを破るがよい。」
一歩。
また一歩。
闇へ歩いていく。
「だが忘れるな。」
鬼は振り返らない。
「契りを破れば、次に沈むのは竜宮城。」
「そして、お前が守ろうとした人間も、生きては帰れぬ。」
鬼の姿は闇へ溶けるように消えていった。
◇
一人残された乙姫は、その場へ崩れ落ちる。
震える両手を胸の前で強く握り締めた。
「どうして……。」
小さな涙が静かに海へ溶けていく。
「どうして、あなたなのですか。」
その頃。
何も知らない太一郎は、竜宮桜の下で夜空を見上げていた。
舞い続ける桜を眺めながら、小さく笑う。
「明日も楽しみだな。」
その何気ない一言が、乙姫の心をさらに苦しめていた。
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