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昔々、あるところに。第二章 導き



 太一郎は、しばらく言葉を失っていた。

 朝日に照らされた海は、昨日までと何ひとつ変わらない。

 穏やかな波。

 どこまでも続く水平線。

 その海の底に、都がある。

 信じ続けてきた夢が、突然現実になろうとしていた。

「本当に……あるのか。」

 思わず漏れた声に、天は静かに頷く。

「あります。」

 迷いのない返事だった。

「私が育った場所です。」

 太一郎は海を見つめた。

 胸が高鳴る。

 今すぐ飛び込みたい気持ちと、本当に行ってしまっていいのかという迷いが入り混じっていた。

「行ってみますか。」

 その一言で、迷いは消えた。

「……行く。」

 天はゆっくりと海へ向き直る。

「私の甲羅へ乗ってください。」

 太一郎は苦笑した。

「亀に乗るなんて、生まれて初めてだ。」

「私も、人を乗せるのは初めてです。」

 二人は顔を見合わせて笑う。

 その笑いが、不思議と緊張をほどいてくれた。

 太一郎は天の甲羅へそっと手を置く。

 岩のように硬い。

 けれど海水に磨かれたその甲羅は、どこか温もりを感じさせた。

「しっかり掴まってください。」

「分かった。」

 天はゆっくりと沖へ泳ぎ始めた。

 波を切る音だけが耳に届く。

 浜辺は少しずつ遠ざかり、村の屋根もやがて小さな点になっていく。

 太一郎は一度だけ振り返った。

 生まれ育った村。

 毎日見ていた浜辺。

 そこには、いつもと変わらない朝が流れていた。

 この先へ進めば、もう昨日までの自分には戻れない。

 そんな気がした。

 海は次第に深い青へ変わっていく。

 底は見えない。

 どこまでも続く青だけが広がっていた。

「この辺りです。」

 天が静かに言う。

「潜ります。」

「えっ、ちょっ――」

 言い終わるより早く、天は海へ身を沈めた。

 冷たい水が全身を包む。

 太一郎は思わず目を閉じ、息を止めた。

 苦しくなる。

 ……はずだった。

「……あれ。」

 恐る恐る目を開く。

 水の中だった。

 それなのに息ができる。

 口を開いても水は入ってこない。

 太一郎は何度も深呼吸を繰り返した。

「どういうことだ……。」

 自分の声まで、はっきり聞こえる。

 天がゆっくり振り返る。

「竜宮城へ招かれた者だけに許される海です。」

 太一郎は返事を忘れていた。

 目の前に広がる景色へ、心を奪われていたからだ。

 朝の光が海面から幾筋も差し込み、青い世界を照らしている。

 色鮮やかな魚の群れ。

 花畑のように広がる珊瑚。

 ゆらゆらと揺れる水草。

 小さな海の生き物たちが、まるで踊るように泳いでいく。

 こんな世界が海の下にあったのか。

 太一郎は子どものように辺りを見回した。

「綺麗だ……。」

 その声は自然と漏れていた。

 天は嬉しそうに笑う。

「私も初めて空を見た時は、同じ気持ちになるのでしょうか。」

 太一郎は頷いた。

「きっとなる。」

 しばらく進むと、遠くに黒い影が見えた。

 岩だろうか。

 いや、違う。

 近づくにつれて、その姿は少しずつ形を現していく。

 石畳。

 崩れた橋。

 瓦屋根。

 鳥居。

 海藻に覆われながらも、それらは確かに人の手で造られたものだった。

 太一郎は思わず天の甲羅を強く握る。

「……都。」

 何百年も前に沈んだ都。

 誰も信じなかった伝説。

 そのすべてが、今、目の前にあった。

 天はゆっくりと泳ぎながら微笑む。

「ようこそ。」

 その先には、巨大な石造りの門が静かに佇んでいた。

 門には長い年月を物語る傷跡が刻まれ、それでもなお都を守り続けているようだった。

 太一郎が門を見上げた、その時。

 ゴゴゴ……。

 低い音を響かせながら、巨大な門がゆっくりと開き始める。

 まるで、何百年も待ち続けた客人を迎え入れるかのように。


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