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昔々、あるところに。第一章 伝承

夜空を焦がす炎は、海の果てからでも見えたとう。

鬼が現れた。

その知らせは都を駆け巡り、人々は我先にと逃げ惑った。

崩れ落ちる門。

燃え上がる屋敷。

泣き叫ぶ子どもたち。

絶望だけが都を包み込む中、一人の小さな少年が鬼の前へ歩み出た。

身の丈は、わずか一寸。

手にした武器は、一本の縫い針。

鬼は笑った。

あまりにも小さなその姿が滑稽だったからだ。

けれど少年は退かなかった。

針の切っ先を鬼へ向け、ただ静かに言った。

「この都は、渡さない。」

その名を、人々は叫ぶ。

一寸法師。

――その夜、都は海へ沈んだ。

一寸法師は鬼を退けたとも、小槌を奪ったとも語られる。

真実を知る者は、もう誰もいない。

ただ、一つだけ語り継がれていることがあった。

一寸法師は小槌の力で人並みの身体となり、一人の人間として生涯を終えたこと。

そして、都の姫だけは年を取ることも死ぬことも許されず、海の底で生き続けたこと。

人々は、その姫をいつしかこう呼ぶようになった。

乙姫、と。

「――というのが、一寸法師と海の都の伝説だ。」

 老人が絵巻物を閉じると、子どもたちは一斉に立ち上がった。

「鬼って本当にいたの?」

「竜宮城って海の底なの?」

「一寸法師って最後どうなったの?」

 思い思いに騒ぎながら、子どもたちは夕暮れの村へ駆けていく。

 最後までその場に残っていたのは、一人の青年だった。

「また聞きに来たのか、太一郎。」

 老人は苦笑する。

 青年――太一郎は照れくさそうに笑った。

「何度聞いても飽きないんだ。」

「物好きだな。」

「本当に海の底に都があったら、見てみたいじゃない。」

 老人は太一郎の顔をしばらく見つめ、小さく頷いた。

「夢を見るのは悪くない。」

「だが、夢に命を預けるな。」

 その言葉だけを残し、老人は絵巻物を抱えて帰っていった。

 太一郎は一人、浜辺へ向かう。

 潮風が心地よかった。

 波は穏やかで、夕日は海を黄金色に染めている。

 この景色は毎日見ている。

 それでも、水平線の向こうを眺めるたび胸が高鳴った。

 あの下に、本当に都は眠っているのだろうか。

 本当はもう一つ夢がある。

 一寸法師のように、誰かのために立ち上がれる人間になりたい。

 けれど、それだけは誰にも話せなかった。

 笑われると分かっていたから。

「また海を見てるぞ。」

 背後から笑い声が聞こえる。

 漁を終えた若者たちだった。

「今日は都でも見つかったか?」

「見つかったら教えてくれよ。」

 太一郎は笑い返すだけだった。

 言い返すより、その方が楽だった。

 笑われることには慣れている。

 それでも夢まで捨てる気にはなれなかった。

 その時だった。

 波打ち際から子どもたちの騒ぐ声が聞こえた。

「逃がすな!」

「こっちだ!」

 駆け寄ると、大きな亀が砂浜で棒を向けられていた。

 甲羅には新しい傷がついている。

「やめろ。」

 静かな一言だった。

 子どもたちは互いに顔を見合わせる。

「太一郎だ。」

「また変なの助けてる。」

 笑いながら走り去っていった。

 太一郎はしゃがみ込み、亀の甲羅をそっと撫でた。

「もう大丈夫。」

 抱え上げると、見た目以上に重い。

 ゆっくり波打ち際まで運び、海へ返した。

「帰れ。」

 亀は海へ泳ぎ出る。

 だが、すぐに引き返してきた。

 口には、小さな布袋をくわえている。

 太一郎の前へ置くと、小さく頭を下げた。

「俺に?」

 袋を開く。

 中に入っていたのは、小さな種だった。

「何の種だろう。」

「分かりません。」

 穏やかな声だった。

 太一郎の動きが止まる。

 ゆっくりと辺りを見回す。

 誰もいない。

 視線は自然と亀へ戻った。

「……今、喋った?」

「はい。」

 太一郎はしばらく黙っていた。

 やがて堪えきれず吹き出す。

「驚いた。」

「申し訳ありません。」

「いや。」

 太一郎は首を振る。

「驚いたけど、嫌じゃない。」

 亀は少し安心したようだった。

「この種、大切なものなのか。」

「母から預かりました。」

「なら受け取れない。」

「助けていただいた、お礼です。」

 しばらく迷った末、太一郎は袋を懐へしまった。

「じゃあ、預かる。」

 亀は深く頭を下げる。

「ありがとうございます。」

「名前は?」

「天と申します。」

 太一郎は思わず笑った。

「いい名前だ。」



 日が沈み、浜辺に焚き火が灯る。

 焼けた魚の香りが潮風に混じって漂っていた。

 天はぎこちなく焼き魚を口に運び、熱さに首を引っ込める。

 その様子がおかしくて、太一郎は笑った。

 天もつられて笑う。

 不思議な夜だった。

 出会ったばかりなのに、昔から知っている相手のような安心感があった。

「太一郎さん。」

 焚き火を見つめたまま、天が尋ねる。

「夢がありますか。」

 太一郎は火の粉が夜空へ昇る様子を眺めた。

 少しだけ考える。

「笑わないか。」

「笑いません。」

 その返事に嘘はなかった。

「本当は、一寸法師みたいな人になりたい。」

 照れくさそうに笑う。

「でも、それは誰にも言えない。」

 少し間を置き、海へ目を向けた。

「だから今の夢は一つ。」

「海に沈んだ都を、この目で見てみたい。」

 天は静かに頷いた。

「素敵な夢です。」

 その一言が嬉しかった。

 初めて夢を笑われなかった。

「天は?」

「私は……空を飛んでみたいです。」

 太一郎は目を丸くする。

「空?」

「海の上から、この世界を見てみたい。」

 太一郎は笑った。

「いい夢だ。」

「きっと叶う。」

 二人は焚き火を囲みながら、夜更けまで夢を語り続けた。

 波の音で目が覚めた。

 焚き火は灰になり、朝日が海を照らしている。

 太一郎はゆっくり身体を起こした。

「……夢、か。」

 昨夜のことを思い返す。

 喋る亀。

 夢を語った夜。

 全部、夢だったのだろう。

 苦笑しながら立ち上がろうとした、その時。

「夢ではありませんよ。」

「うわっ!」

 飛び上がる太一郎の前には、昨日と同じ亀がいた。

「やっぱり喋るのか……。」

「昨日も喋りました。」

 額に手を当て、太一郎は笑う。

「そうだった。」

 大きく伸びをする。

「じゃあ、現実の方が面白そうだ。」

 天は嬉しそうに目を細めた。

「昨日お話しされていた、海に沈んだ都ですが。」

 太一郎の表情が変わる。

「うん。」

「それは、おそらく。」

 天は朝日に輝く海を見つめた。

「竜宮城のことですね。」

 太一郎は息を呑む。

「……知ってるのか。」

 天は静かに振り返った。

「はい。」

 穏やかに微笑む。

「私の故郷です。」


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