水彩画と御城印で巡る 日本の名城 55 戦国関東の攻防を伝える城 ― 箕輪城、金山城、鉢形城

大国がせめぎ合った戦国関東 ― 箕輪城、金山城、鉢形城をあるいてみた

戦国時代の関東は、一人の英雄によって統一された土地ではなかった。
 
関東管領を名乗り、越後からたびたび軍を進めた上杉謙信。
甲斐から西上野へ勢力を伸ばした武田信玄。
小田原城を中心に関東制覇を目指した後北条氏。
 
さらに、その間には、長野氏、由良氏、佐竹氏、宇都宮氏など、
地域に根を張った多くの領主がいた。
 
彼らは大勢力の間で同盟を結び、ときに離反し、
昨日の味方を今日の敵としながら、自らの城と領地を守ろうとした。
 
今回、上野から北武蔵にかけて残る 箕輪城、金山城、鉢形城を訪ねる。
 
**長野氏が **武田信玄に抗った **箕輪城。
**由良氏が幾度もの攻撃を退けた **金山城。
**北条氏邦が北関東支配の拠点とした **鉢形城。
 
三城を結んで歩くと、上杉・武田・後北条が激しくせめぎ合って、
やがて豊臣秀吉の天下統一へ組み込まれていった、
戦国関東の姿が浮かび上がってくる。
 

 箕輪城 ― 長野業正が数回の武田信玄の侵攻を退けた城

箕輪城 関東管領・山内上杉氏に仕えた長野氏が守り抜いた西上野の要衝(群馬県高崎市)

箕輪城は、榛名山の東南麓に延びる丘陵を利用した平山城である。
本丸をはじめとする多くの曲輪が、巨大な堀によって区切られている。
本丸周囲の堀は、東国を代表する「土の城」の迫力を今に伝えている。
 
築城は1500年前後とされ、**箕輪長野氏が四代にわたって本拠とした。
 
なかでも広く知られるのが、**長野業正である。
 
業正の時代、**武田信玄は信濃から西上野へ進出し、
箕輪城を中心とする長野氏の勢力と対峙した。
箕輪城は幾度もの攻撃を防いだ難攻不落の城として語り継がれている。
 
戦国期の上野は、**越後の上杉氏、**甲斐の武田氏、**相模の後北条氏が
勢力を競う境目の地であった。
 
その中で長野氏は、大大名ではなかった。
 
しかし、箕輪城の堅固な縄張りと在地武士たちの結束を背景に、
西上野で独自の勢力を保っていた。
 
城の周囲に巡らされた大堀切は、単に敵兵の侵入を防ぐだけでなく、
曲輪を分断し、攻め手を迷わせる役割を果たしていた。
 
城跡を歩くと、天守や高石垣がなくても、
城がいかに強固であったかが実感できる。
 
堀底へ下りれば、左右にそびえる土の壁が視界を遮る。
曲輪へ上がれば、また次の堀が現れる。
 
まさに大地そのものを削り、積み上げて造った要塞である。
 
長野業正の死後も長野氏は抵抗を続けたが、
1566年、箕輪城はついに **武田信玄の攻撃によって落城した。
 
しかし、城の歴史はそこで終わらない。
 
その後、箕輪城は武田氏、織田氏、後北条氏、徳川氏へと支配者を替え、
それぞれの有力家臣が配置された。
 
1590年の徳川家康の関東入国後には **井伊直政が十二万石で入り、
城の整備を進めた。
1598年、直政が高崎へ本拠を移すと、箕輪城は役割を終えて廃城となった。
 
長野氏が守る中、戦国関東の覇者たちが次々と攻めた城――
ここは **箕輪城である。
 
2022年12月4日 
日本100名城 No.16 箕輪城公式スタンプ取得

御城印は箕輪城ふれあい市にて拝受

金山城 ― 関東地方には珍しい本格的な石垣造りの山城

金山城 上杉氏、武田氏、北条氏などの大軍をしのいだ難攻不落の山城(群馬県太田市)

金山山頂を中心に、四方へ延びる尾根上に曲輪を配置した大規模な山城で、
「**新田金山城」とも呼ばれる。
 
金山城は1469年、新田一族の **岩松家純によって築かれた。
のちに家臣の **横瀬氏が実権を握り、
横瀬氏が由良氏を名乗るようになると、
**由良成繁、**国繁父子の時代にその本拠として最盛期を迎えた。
 
この城で最も目を引くのは、随所に用いられた石垣と石敷きである。
 
関東の戦国山城といえば、
土塁や空堀を中心とする「土の城」という印象が強い。

ところが金山城は、大手虎口へ続く石敷きの通路や石垣が確認され、
城内へ進むと、石垣で固められた大手虎口が現れる。
 攻め手は周囲の曲輪から攻撃を受ける。

城門や建物が失われた現在でも、その通路を歩けば、
城を守るための工夫が身体で感じられる。
 
さらに山上には「**日ノ池」と「**月ノ池」と呼ばれる二つの池がある。
籠城時の水の確保に関わるだけでなく、
儀礼的な意味も持っていた可能性が考えられている。
 
険しい山城の中に、石垣と水の空間が広がる光景は、
ほかの関東の城とは異なる独特の印象を与える。
 
金山城主の由良氏は、周囲の強大な勢力の間で巧みに生きようとした。
 
1574年には上杉謙信が金山城へ迫り、周辺で戦いが行われた。
さらに武田勝頼らの攻撃も受けたが、
城は一度も攻め落とされなかったと伝えられている。
 
だが、由良氏は後北条氏から圧力を受け、
1580年代半ばには金山城を明け渡した。
以後、城は後北条氏の支配拠点となり、
城内には北条方の武将が配置された。
 
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めが始まると、
金山城は前田利家らの軍によって接収され、
後北条氏の滅亡とともに廃城となった。
 
金山城は、合戦では落ちなかった。
それでも、より大きな政治の流れの中で城主を替え、
やがて役割を終えた。
 
城の運命は、城壁の強さだけでは決まらない。
この事実もまた、戦国時代の厳しさを物語っている。
 
激しい攻防を経験した山城でありながら、
水と石がつくる不思議な静けさがある城――
ここは **金山城である。
 
2022年11月6日 
日本100名城 No.17 金山城公式スタンプ取得

御城印は史跡金山城跡 ガイダンス施設にて拝受

鉢形城 ― 北条氏邦が守った北武蔵の大城郭

鉢形城 豊臣軍の猛攻により城兵の助命を条件に降伏・開城した城(埼玉県寄居町)

鉢形城は、荒川と深沢川が合流する断崖絶壁の上に築かれた天然の要害で、

戦国時代には後北条氏の北関東支配の最前線基地として
上野や信濃方面へ通じる交通の要衝を押さえた、
北武蔵を代表する城でもあった。
 
築城は1476年、山内上杉氏の家臣であった長尾景春によると伝えられる。
 
**長尾景春は主家に反旗を翻し、この鉢形城を拠点にして戦ったが、
**太田道灌らの活躍によって鎮圧され、城は**山内上杉氏の直轄となった。
 
1546年(天文15年)の「河越夜戦(河越城の戦い)」で
**北条氏康が山内上杉氏らを破ると、鉢形城は後北条氏の支配下に入った。

1568年(永禄11年)頃に北条氏康の四男である **北条氏邦が入城し、
大規模な拡張・整備が行われた。
 
城は後北条氏の北関東支配の拠点となり、
**甲斐の信玄や **信濃の謙信からの侵攻を度々退けた。
また**上野国**下野国方面への最前線軍事基地として大きく発展させた。
 
後北条氏は、本家の小田原城を支えながら各地に有力な一族を配置し、
支城同士を結ぶネットワークによって関東を治めたが、
 鉢形城は、その支城網の北方を支える要であった。
 
城跡は広大で、堀や土塁によって
本曲輪、二の曲輪、三の曲輪などが区画されている。
 
三の曲輪には石積み土塁、四脚門、池などが復元されている。
荒々しい山城というよりも、軍事拠点であると同時に、
城主が領国を治めるための政治的空間を備えた城であったことがわかる。
 
1590年、**豊臣秀吉は後北条氏を討つため、小田原攻めを開始した。
 
周囲の北条方支城が落ち、大軍に包囲される中で、
鉢形城は、一か月余りにわたって籠城したが、
氏邦は城兵の助命を条件に開城を決断した。
1590年6月14日、鉢形城は豊臣方へ明け渡された。
 
現在の鉢形城跡を歩くと、断崖下を流れる荒川の姿に目を奪われる。
 城は二つの川に守られた巨大な台地そのもののように見える。
 
後北条氏の北方支配を支え、戦国関東の終わりを見届けた城――
ここは **鉢形城である。
 
2022年11月6日 
日本100名城 No.18 鉢形城公式スタンプ取得

御城印は鉢形城歴史館にて拝受

城主を替えた境目の三つの城を巡って

箕輪城、金山城、鉢形城。
 
三城に共通するのは、
いずれも関東の「境目」に築かれた城であったことである。

**箕輪城は、西上野を守り、甲斐から進出する武田氏を迎えた。

**金山城は、上野東部の交通を押さえ、
上杉・武田・後北条の圧力にさらされた。

**鉢形城は、北武蔵から上野・信濃へ通じる道を押さえ、
後北条氏の北方支配を支えた。
 
三城はいずれも強固だった。
 
しかし、城を守る勢力は変わり続けた。
 
**箕輪城は長野氏から武田氏、織田氏、後北条氏、徳川氏へ渡った。
 
**金山城は岩松氏から横瀬・由良氏、そして後北条氏へ移った。
 
**鉢形城は長尾景春の城として始まり、やがて北条氏邦の大城郭となった。
 
城は動かないが、その城を取り巻く政治と人間関係は、絶えず変化する。
 
戦国関東の城を歩くと、
城郭の堅さだけでは領国を守れなかったことがわかる。
 
深い堀の底を歩き、石敷きの道を上り、川沿いの断崖に立つとき、
私たちは戦国関東を生きた人々の選択と息遣いに、
静かに触れることができる。

 


 

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