水彩画と御城印で巡る 日本の名城 56 東関東の名族が守った城 ― 宇都宮城、笠間城、唐沢山城

北関東に根を張った武士たちの城 ― 宇都宮城、笠間城、唐沢山城をあるいてみた

戦国時代の関東では、**上杉謙信、**武田信玄、**後北条氏といった大勢力が、領土をめぐって激しく争っていた。
 
しかし、その土地を実際に治めていたのは、
古くから地域に根を張ってきた武士たちである。
 
**下野の宇都宮氏、**常陸の笠間氏、**下野南部の佐野氏。
 
彼らはいずれも長い歴史を持つ名族であり、
それぞれの本拠を守りながら戦国の世を生き抜こうとした。
 
今回は、**宇都宮城、**笠間城、**唐沢山城を巡る。
 
三城の歴史から見えてくるのは、強大な戦国大名の陰に隠れがちな、東関東の名族たちの誇りと苦悩である。

宇都宮城 ― 下野を代表する名族、宇都宮氏の本拠で関東七名城の一つ

宇都宮城 宇都宮氏が鎌倉時代以前から勢力を誇示した城(栃木県宇都宮市)

築城の時期については諸説あるが、
**宇都宮氏は鎌倉時代以前からこの地に勢力を持ち、
約五百年にわたって下野を代表する武士として栄えた。
 
宇都宮は、東北へ向かう街道と関東各地を結ぶ交通の要衝である。
**宇都宮氏はこの地を本拠として、
鎌倉幕府や室町幕府のもとで勢力を保ってきた。
 
戦国時代になると、宇都宮氏は新たな難局に直面する。
 
北からは **那須氏、南からは **後北条氏、
西からは **壬生氏などの圧力を受け、
さらに一族や家臣の対立にも悩まされた。
 
大勢力のはざまで領国を守るため、
宇都宮氏は **上杉氏や **佐竹氏と結び、後北条氏に対抗した。
戦国末期の当主 **宇都宮国綱は、**豊臣秀吉の **小田原攻めに参加し、
所領を認められた。
 
小田原城が開城した後、秀吉は宇都宮に入り、
関東や東北の大名の領地を決定する「**宇都宮仕置」を行った。
宇都宮は、天下統一を進める秀吉にとっても重要な場所だったのである。
 
宇都宮氏は、1597年に突然改易される。
 
改易の理由については、後継者問題や検地をめぐる事情など諸説があるが、詳細は不明である。

長く下野を治めてきた宇都宮氏は、こうして歴史の表舞台から姿を消した。
宇都宮市も、宇都宮氏が約五百年間この地を支配した後、
豊臣政権下でその支配を終えたと説明している。
 
江戸時代に入ると、宇都宮城には譜代大名が置かれた。
 
なかでも本多正純は城と城下町を大きく改修した。
宇都宮城は、将軍が日光東照宮へ参詣する際の宿泊地となり、
本丸には将軍を迎える御成御殿も設けられた。
 
現在の宇都宮城址公園には、
土塁や清明台、富士見櫓などが復元されている。
 
戦国時代の宇都宮氏の城と、江戸時代の将軍を迎えた城の
二つの歴史が重なった城――
ここは **宇都宮城である。
 
2022年7月4日 
名城指定ではないため公式スタンプなし

御城印は清明館にて拝受

笠間城 ― 本家から自立した宇都宮一族の「桂城」とも呼ばれた山城

笠間城 関東地方では珍しく石垣を多用した本格的な山城(茨城県笠間市)

佐白山に築かれた笠間城は、宇都宮氏の一族である笠間氏の本拠であった。

関東地方では珍しく、石垣を多用した本格的な山城として知られ、
自然地形を生かした防御性の高い城であった。
別名「**桂城(けいじょう)」とも呼ばれる。
 
笠間氏の祖とされる **笠間時朝は、鎌倉時代前期の武将である。
時朝が佐白山周辺を支配し、笠間城の基礎を築いたと伝えられている。
 
ただし、最初から現在見られるような山城が完成していたわけではない。
笠間氏は山麓に居館を構え、
時代が下るにつれて佐白山の城を整備していったと考えられている。
史料上では、南北朝時代の1337年に「笠間城」の名が確認できる。
 
笠間氏は宇都宮氏の一族でありながら、
次第に独立した領主として行動するようになった。
 
戦国時代には、**佐竹氏や **江戸氏、
そして本家にあたる **宇都宮氏との関係が複雑に変化する。
 
同じ一族だからといって、常に味方であるとは限らない。
 
領地を守り、一族を存続させるためには、
ときに本家とも争わなければならなかった。
それが戦国時代の厳しい現実だった。
 
1590年、豊臣秀吉の小田原攻めによって関東の情勢が大きく変わると、
笠間氏も没落した。
鎌倉時代から続いた笠間氏の支配は、約四百年で終わりを迎えた。
 
しかし、笠間城そのものは廃城にならなかった。
 
**関ヶ原の戦いの前後には **蒲生氏の家臣が入り、
山頂部や登城路が整備された。
 
江戸時代にも笠間藩の城として使用され、天守曲輪には石垣が築かれた。
 
笠間城は、中世の山城でありながら、近世城郭の石垣も残す城である。
 
**宇都宮城が平地に築かれた政治の中心であるのに対し、
笠間城は険しい山を利用した守りの城であった。
 
宇都宮氏から分かれた一族が、独自の道を歩み、を守り続けた山城――
ここは **笠間城である。
 
2022年12月10日 
続日本100名城 No.112 笠間城公式スタンプ取得

御城印はかさま歴史交流館 井筒屋にて拝受

唐沢山城 ― 上杉と北条の間で戦った佐野氏の堅城

唐沢山城 自然地形を巧みに利用した関東屈指の防御構造を持った城(栃木県佐野市)

唐沢山城は、関東平野を一望できる唐沢山に築かれた山城で、
*佐野氏の本拠として知られている。
 
佐野氏は、
平安時代の武将・藤原秀郷の流れをくむと伝えられる下野の名族である。
宇都宮氏や笠間氏と同じく、古くから地域に根を張ってきた武士だった。
 
戦国時代、唐沢山城の名を高めたのが **佐野昌綱である。
 
北関東では、越後の **上杉謙信と相模の **後北条氏が激しく争っていた。

佐野氏の領地は、その二大勢力がぶつかる境目に位置していた。
 
上杉謙信が関東へ出兵すると、佐野氏は上杉方に従う。
しかし、謙信が越後へ戻ると、後北条氏の圧力が強まる。
 
佐野氏は一方の勢力に従い続けるのではなく、
その時々の情勢を見ながら生き残る道を探した。
そのため唐沢山城周辺では、上杉軍との戦いが何度も繰り返された。
 
佐野市の資料によれば、
昌綱の時代には唐沢山城をめぐる上杉氏との攻防が十回ほどあり、
後北条氏にも本丸近くまで攻め込まれたことが記録に残されている。
 
唐沢山城は、「**上杉謙信でも容易に落とせなかった城」と紹介される。
 
謙信の攻撃によって一時的に上杉氏の管理下に置かれたこともあった。
大切なのは、単純に「一度も落ちなかった城」と考えるのではなく、
佐野氏が上杉氏と後北条氏の間で従属と離反を繰り返しながら、
本拠を守ろうとしたことである。
 
城内には、関東の山城としては見応えのある高石垣が残る。
 
ただし、この石垣の多くは戦国末期以降に整備されたと考えられており、
唐沢山城が長い期間にわたって改修されたことを示している。
 
関東平野を見下ろす立地と堅固な城郭を持ちながら、
佐野氏は武力だけで生き残ったのではない。
 
上杉氏と後北条氏のどちらにつくのか。いつ従い、いつ離れるのか。
 
戦国の小領主に求められた、難しい決断の連続だった城――
ここは **唐沢山城である。
 
2022年11月6日 
続日本100名城 No.114 唐沢山城公式スタンプ取得

御城印は唐沢山神社 社務所にて拝受

戦国の終わりを迎えた名族の三つの城を巡って

宇都宮城・笠間城・唐沢山城。
 
三城を本拠とした宇都宮氏、笠間氏、佐野氏は、
いずれも戦国時代に突然現れた大名ではない。
 
鎌倉時代、あるいはそれ以前から東関東に根を張ってきた武士たちである。
 
しかし、古い家柄だけで戦国時代を生き残ることはできなかった。
 
**宇都宮氏は佐竹氏と結び、後北条氏に対抗した。
**笠間氏は宇都宮氏から自立し、自らの領地を守ろうとした。
**佐野氏は上杉氏と後北条氏の間で、進むべき道を何度も選び直した。
 
それぞれの選択は異なっていたが、
1590年前後の豊臣秀吉による天下統一は、三氏の運命を大きく変えた。
 
笠間氏は没落し、宇都宮氏もほどなく改易された。
佐野氏は豊臣政権下で所領を保ったものの、
のちに改易され、唐沢山城も役割を終えた。
 
長い歴史を持つ名族であっても、
時代の大きな変化を避けることはできなかったのである。
 
三つの城を巡ると、戦国時代とは、
有名な英雄だけが活躍した時代ではなかったことに気づく。
 
故郷を守ろうとした領主がいた。
家を残そうと苦悩した当主がいた。
強国の間で、決断を迫られ続けた人々がいた。
 
宇都宮城、笠間城、唐沢山城は、
東関東に生きた名族たちの栄光だけでなく、
戦国の世を生き抜くことの難しさを、今に伝えているのである。





いいなと思ったら応援しよう!