変容する故郷、生駒谷の記憶と憂慮
海の無い街で生まれた。
今、窓から見えるのは犇めく家々と年々削られてゆく丘陵、そして私が生まれた山に風穴を開けて造られた車のための有料道路だ。
杜の中に居ても常に大小の車両の走行音がする。
この煩さはかつて当たり前のものではなかったはずなのに。
木々がうっすらとでも生えていれば、こちらに騒音が届かないと思っているらしい。有料道路の防音壁は、途中で諦めたように唐突に途切れている。
アチラからこちらの様子は見えないのだろう。けれども、こちらからは道路を行き交う車の群れが丸見えだ。人が立ち入らぬはずの杜の中には車の走行音が響く。
これは野生動物ではなく、この地に棲まう人間の視点である。
自分が生まれ育った町の開発が進み、当たり前にあったはずの風物が失われてゆくのを、幼少期から目の当たりにしてきた。
世界を広く見渡す方法を探しに
だからとにかく広い視野で物事を見渡す方法を学びたいと思った。
というのは後から当時を振り返って思い至った「こじつけ」なのかもしれない。
実際、10代の自分には目の当たりにする現実がどのようにして作られているのか想像が及ばなかったし、自分が感じる「違和感」と向き合うために何を学べば良いか、まるで見当も付かなかった。
自分の故郷で起こっている変化は、単純な原因と結果ではなく、個々人の気持ちの届かない複雑な仕組みの中で起こっているように感じていたのだろう。もちろん当時はそんな風に言語化できなかった訳だけれど。
紆余曲折などないまま、私の進路はほとんど一直線に決まった。
そうして山に囲まれた井戸みたいな奈良から、かつて坂本龍馬が眺めた太平洋と脱藩のために乗り越えた険しい山脈に囲まれた陸の孤島・南国土佐の地へ渡り、弘法大師が御厨人窟で悟りを開いた時に目にした海と空の元で七年を過ごした。
そうして再びこの町に戻ってきた。
その後は様々に紆余曲折し、社会のありのままの姿を知る中、良くも悪くも諦めがついた。時を経てようやく自分ができることをやろう、やる他道はないと悟るに至った。
ここではそうした人生を歩む以前の故郷の姿について書いておこうと思う。私がまだ井の中の蛙だった1990年代〜2000年初頭の話である。
当時は北朝鮮からテポドンが発射されたり、ノストラダムスの偉大なる予言「1999年7の月、空から恐怖の大王が降りてくる」とか、西暦2000年を迎えるとコンピュータが誤作動するとか、如何にも世紀末らしい話題が世間の関心事だった。
ある意味でそれは、本当に大事なことから目を逸らされていたのかもしれない。
生駒山麓のとある里にて
生駒山麓の生駒谷十七郷と呼ばれる郷村群のうち、私は南部のとある里村で生まれ育った。
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