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四国遍路の『お接待』とは何か|カワウソ日記08

 最近ジリジリと暑くなり、高知は日照りの日が続いている。そんな中、道ゆくお遍路さんを見かけない日は無いくらいで、白装束をはためかせて通り過ぎてゆくバイクツーリングの人も多い。
 その場合、菅笠すげがさを被るのは荷物の方だったりする。

 そう言えば男性の歩き遍路は連れ合いが居ることが少なくない。ご夫婦や友人・同僚などの関係だけでなく、歩いているうちに話すようになったソロ同士もいるだろうか。
 宿だってシングルよりもツインで泊まる方が割安だったりもするから、気心が知れたなら、それもまた良さそうだ。

 一方で若い女性の独り歩きお遍路さんを見かけると、純粋に格好良いなと思ってしまう。エネルギッシュだったり、歩く姿勢が良かったり、それぞれのスタイルで彼女ら自身と向き合う姿を目の当たりにする訳だ。
 歩く姿というのは自覚する以上にその人の状態(体調だけでなく、心理面)をも露呈するもので、ダラダラと歩くと実に格好悪い。信仰と修行の道を歩むお遍路さんなら尚更、無駄な動きせず淡々と歩く姿が清々しい。
 自身の体調を敏感に察知するのもれっきとした一つの能力なのだから、違和感の時点でしっかり休息を取り、歩くときはしゃっきりとした姿でいるメリハリの良さが格好いいのである。


四国で暮らす人たちが見守る光景

 過酷な道や悪天候の場合や体調不良といった状況下では地元の人が車で助けることもあるそうだ。四国遍路の『お接待』は好意であり、大師さん(空海)や同行二人の修行の人へ寄付や支援であるため、断らないことが礼儀とされる。
 それゆえに「あの人らは歩くことに意味を見出しちゅうがやき、下手に(車で)積んでっちゃろうか、なんて言われんね」なんて世間話で話題になるくらい、遍路道沿いの土地の人たちは道ゆくお遍路さんをそれなりに見守っている。

 それは単純に「頑張っちゅうね」と応援する気持ちからでもあるし、お遍路さんが現れると共に『大師さん(空海)が来てくれた』とたっとぶことでもある。
 だから、例えばダラダラと歩く坊さんが目の前を通り過ぎてゆけば残念な心持ちになることは想像に難くないのと同じである。

 注文を終えたところで、隣席に座っていた壮年の男性が立ち上がった。
「同行二人」
 そう記された白装束の背中がその志を物語っている。この地では珍しくない装いながら、道を歩く姿ではなくお店の中で見かけたことについては新鮮だった。
 満足感のある朝食をとって、また巡礼の一日が始まるのだろう。

田んぼとログハウス・モーニング|カワウソ日記10

 何なら大きめの荷物を背負って歩いていた私も、「お遍路さんかね?」と家の前にたまたま出てきていた人に声をかけられたことがある。
「いえいえ、すぐそこのビニルハウスでシシトウの収穫をしておりまして(ややこしくてごめんなさい)」

 まぁそういう訳だから、若い女性の独りお遍路さんだからと興味本位でカメラを向けたり、下心満載で話しかけたりすると、お天道様は元より土地の人たちもじぃーっとその行いを見ている、ということでもある。
 何よりその道中は大師さんと同行二人どうぎょうににんなのだから、バチ当たりもいいところだという考え方もあるかも知れない。

四国遍路とは何か

 これはあくまで個人的かつ客観的な解釈と感想ではあるけれど、「歩き遍路」とそれ以外の方法で巡る八十八ケ所巡りでは根本的に違うに感じる。

 白装束と菅笠を身につけて四国の寺を巡る人たちは皆、「お遍路さん」なのかもしれない。
 ただ、文化としての「お遍路」とは、弘法大師の足跡を辿ることであり、その途方もない距離を辿る最中さなか自身と向き合い続けることにある。それを通して、目に映るものの解像度が高まり内面への理解が深まることに大きな意味があると思うのだ。

 そういう意味では、自家用車や二輪車、バスツアーなどで八十八ケ所を巡ること自体を目的としたものは、あくまで観光の一形態の域を出ないように思う。なぜなら山中も歩く「歩き遍路」のルートと文明の利器を使用したルートは別物であるし、その速度では見落とすものが多すぎる。
 自らの足で漕ぐ自転車遍路を志す強者もいるようだけれど、やはり「歩き遍路」で得られるものには遠く及ばないだろう。

 苦労することよりも、むしろ時間をかけることに意義があるように思う。

少なくとも撮りたくなる景色には数えきれないほど出会う

ウォーキング・フィロソフィー

 そんな風に考えるようになったのは、あの冬、あのゲストハウスで何人かのお遍路さんを迎え見送ったからだと思う。皆が皆、歩き遍路だった。

 お遍路についてさほど知りもしなかった私は、まさにお遍路さんから学んだのだ。そのゲストハウス滞在の最終日、自分の父親くらいの年齢の日本人男性がやってきた。
 入ってきた時にお遍路の金剛杖に付けられた鈴の音がしたのが印象的だった。玄関に立てかけられた杖には綺麗な布も付いていて、聞くと「徳島の一番札所で売ってるんですよ。白装束と笠も」と教えてくれた。

 この杖について興味が湧いて後で調べてみたところ、弘法大師(空海)の分身、つまり「同行二人どうぎょうににん」の相棒と位置付けられる大切な道具だ。それはお遍路の道半ばで倒れた際に、卒塔婆の代わりになるものだったらしい。
 し、知らんかった……!

 現代においてお遍路を達成できるか否かは、ほとんど時間とお金の問題なのではないか。
 道半ばで行き倒れるようなことをしたらば、ニュースで言い広められ、終いには非難までされそうなものだ。けれども、かつては行き倒れも覚悟の上で歩く信仰上の行為そのものだったに違いない。

 その方は百名山を歩き終え、今度は何をしようかと考えている時に、奥さんから「四国八十八ヶ所巡りはどうか」と提案されたのだそうだ。それで車で回るなら一緒に行ってもいいと言われて一度目を巡るうちに、「こりゃあ歩いてみなきゃだなあ」と思ったらしい。
 実にワクワクとした嬉しそうな顔で、そう話してくれた。

 だよねえ。
 それはそれは思い立ってからずっとソワソワしてたんだろうなあ。
 勝手な想像が膨らんでニヤニヤしてしまう。

 ついでに以前から気になっていたことを聞いてみた。
「アスファルトの道って、歩くのがしんどくないですか?」
 里にある寺もあれば山の上にある寺もあり、歩きお遍路では山道と人工舗装路を横断的に歩くことになる。

 そのおじさんは「おっ」という顔をした。たぶん。
「そうそう、山の中を歩く方がずっと楽」
「やっぱそうですよね。山の道はふかふかしていて衝撃が身体に跳ね返ってこない。けれど、アスファルトの道は自分の体重も荷物の重さも、全部カウンターパンチとして喰らうような感じがします」

 これに関しては二人してウンウンと頷き合った。

 何を隠そう、私自身がお遍路に興味を抱きつつも尻込みしているのは、アスファルトの上を延々と歩かねばならないからだ。山道の心地よさを知っていると、アスファルトの道を歩く時に感じる身体への負担は実に生々しい。

 だからこそオンロードを駆けるマラソンランナーは自身の体重を削って、その負担を軽減しているという側面もあるのだろうと想像する。
 現実的にアルファルト道は時間や費用を遥かに凌ぐ大問題である。

 だから「道」だけを見れば、志半ばで行き倒れる可能性もあった時代の方がすんなり歩く決意をしたかもしれない、とさえ思う。

 これは普段、車で10分の道を歩かない人、歩いたとしても整備された歩道や遊歩道しか歩かない人には理解し難い話かもしれない。
 それは世で「体験格差」と呼ばれるものの一種だろう。

 平坦な人工舗装路を歩くよりも、山の柔らかい斜面を歩く方が身体をのびのびと柔軟に使えて本当に快適なのだ。多少の荷物を背負って歩き比べてみれば、尚のこと実感できるはずだ。

 複雑な足元を歩くことに慣れると、自らバランスを生み出す感覚も身に付く。それは身体的なことだけでなく、様々なことに直面した時の物事の見方や精神的なことにまで作用する効果を秘めているのではないか。

 なんて、ここ10年くらい密やかに考えてきた。
 もちろん、ゲストハウスでシシトウのヘタをもぎ取りながら、そんな話をすることになるなんて思いもしなかったけれど。

『お接待』の在り処

「いやアンタ、歩き遍路どころか、八十八ケ所巡りもしてないやん」
 その通りだが、この『カワウソ日記』は半土着の目線で書いている

 四国に住む者にとって、「お遍路」とはあくまで修行中の来訪者であり、「地元やけど、やったことないわ〜」というようなものではない気がするのだ。(もちろん「いつか自分も」と志を立てることはあろう)
 あくまでお遍路さんを陰ながら応援する、目に見えねどもお遍路さんと一緒に巡ってくる弘法大師(空海)の来訪をたっとぶことが四国に住む者目線の文化であろう。

 そういう感覚でいるから、風を切って一瞬で通り過ぎてゆく八十八ケ所巡りの人たちを見かけると、自然と「楽しそうだな〜」「この時期は気持ち良いだろうなぁ」と観光客を眺めている自分にふと気づく。そしてその感情もまた、一瞬で通り過ぎてゆく。
 一方で、歩き遍路の人たちを見かけると、「この時間でここらを通るなら、次の札所も今日中に辿り着けそうやね」とか「ご無理のないように」「道中、ご安全に」とか、こちらの内側にも作用してくるものなのだ。

 だから『お接待』とは本来、後者の感性から生まれるものではないか。

高知は「修行」と位置付けられるが、そう辛いばかりでもないと思う

 お遍路の彼らにはこれも何かの縁だと思って、それぞれにキットカットを渡した。お遍路宿のあるじ的な『お接待』の真似事だ。
 そうして上海ボーイを見送り、続いてオーストラリア人ご夫妻も見送った。そんな風に朝が巡ってきて、私はシシトウを採りにゆく。
 ……(中略)……
 日々、皆それぞれの道へと散ってゆく。
 これがお遍路道のほとりの日常だ。

お遍路さんから聞いたはなし|カワウソ日記03


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